「カトリック情報ハンドブック2013」巻頭特集

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特集1 今、第二バチカン公会議を語る カトリック中央協議会出版部・編

 1959年1月25日、時の教皇ヨハネ二十三世は、ローマに住む17人の枢機卿とともに城壁外の聖パウロ大聖堂にてミサをささげた。ミサ後、枢機卿たちを前にして、教皇はメッセージを読み上げた。ここに突如、公会議の開催という計画が明らかにされたのである。枢機卿たちにそれは「晴天の霹靂ともいうべき衝撃」(小坂井澄『法王ヨハネ二十三世――怒濤の世紀とともに』)を与えたという。ヨハネ二十三世教皇就任後、わずか3か月目の出来事であった。
 公会議開催という発想について、後に教皇は「ほとんど思いがけなくわたしの心に浮かんできたこと」で、それが「そのまま単純に枢機卿各位の前で発表された」のであると述懐している(澤田和夫訳「第2バチカン公会議の開会演説」、南山大学監修『歴史に輝く教会』所収)。
 1962年10月11日、聖ペトロ大聖堂にて開会式が挙行され、ヨハネ二十三世による開会演説が行われた。これにより、現代カトリック教会にとってまさに画期的な分岐点となった第二バチカン公会議は始まるのである。
 会議は4期に分けて開かれた。第1会期は1962年10月11日から12月8日まで、翌年6月3日にヨハネ二十三世は他界したがパウロ六世がその後を継ぎ、第2会期は1963年9月29日から12月4日まで、第3会期は1964年9月14日から11月21日まで、第4会期は1965年9月14日から12月8日までで、この最終日に閉会ミサが行われ幕を閉じた。公文書として『典礼憲章』(Sacrosanctum Concilium)、『教会憲章』(Lumen Gentium)、『啓示憲章』(Dei Verbum)、『現代世界憲章』(Gaudium et Spes)という4つの憲章と、9つの教令、3つの宣言が発表された。これら文書に表された公会議の精神は歴代の教皇へと引き継がれ、教皇ヨハネ・パウロ二世は1983年1月に新しい教会法を公布した。同教会法についてヨハネ・パウロ二世は「第二バチカン公会議がもつ新しさ、とくに、教会論に関しての新しさは、この教会法がもっている新しさでもある」と述べている(使徒憲章『サクレ・ディシプリーネ・レージェス』)。
 「第二」というからには、当然ながら「第一」がある。第一バチカン公会議は第二から遡ることおよそ100年前の、1869年12月8日から1870年9月1日まで開催された。325年の第一ニケア公会議から数えて20回目にあたる、聖ペトロ大聖堂で開かれた最初の公会議である。この公会議では、教皇の首位権と不可謬性が宣言され、『カトリック信仰に関する教義憲章』(Dei Filius)と『キリストの教会に関する憲章』(Pastor Aeternus)という2つの文書が公布された。この両憲章には異端を排斥する条文が付加されている。
 このことからも理解されるが、過去の公会議というのは、多くの場合、危険であると判断された誤謬を排斥することを目的として開かれている。しかし、第二バチカン公会議は、それとはまったく性格を異にするものであるといってよい。教会の刷新を図って「現代化」(イタリア語でアジョルナメントaggiornamento)を進め、また今は分かれてしまっているキリスト教諸教会との一致を目指そうとするものであった。
 この歴史的な公会議開催から2012年で50年となった。公会議に参加した司教たちは公会議教父と呼ばれるが、日本の公会議教父は、土井辰雄枢機卿(東京大司教)、山口愛次郎大司教(長崎)、田口芳五郎司教(大阪)、深堀仙右衛門司教(福岡)、古屋義之司教(京都)、荒井勝三郎司教(横浜)、富沢孝彦司教(札幌)、小林有方司教(仙台)、里脇浅次郎司教(鹿児島)、長江恵司教(浦和)、野口由松司教(広島)、平田三郎司教(大分)、松岡孫四郎司教(名古屋)、伊藤庄治郎司教(新潟)、田中英吉司教(高松)の15名である(肩書、所属はいずれも当時。田中司教は第2会期途中より参加)。残念ながら、今では全員が他界している。
 本特集では、公会議開催中にローマに滞在していた4名の司祭にインタビューを行い、当時を振り返ってもらった。公会議の神学的意義の考察などを企図するものではないが、それぞれの司祭がさまざまに語る回想が、すでに日本語による対面ミサしか知らず、公会議は歴史上の一コマに過ぎない多くの世代にとって、関心の芽生えと理解の助けになればと考えている。

神林宏和師、和田幹男師(大阪教区)

7月24日、大阪教区本部事務局の一室を借り、両師に話をうかがった。
 「兄弟よりも長く付き合うとるわな」(神林師)というお二人は、生粋の大阪弁で、若き日の思い出や現在の考えを、笑いを交えつつ語ってくれた。
 両師は1962年10月、まさに第二バチカン公会議が開催されるとともにローマの教皇庁立プロパガンダ・フィデ神学校に留学し、教皇庁立ウルバノ大学神学部に入学した。後述するが、その後1966年にパウロ六世より司祭叙階を受けた。つまりローマにおける勉学の期間がまさに第二バチカン公会議全会期と一致している。
 公会議に出席する日本の司教団は羽田から特別機に搭乗しローマに向かったのであるが、留学する両師は船旅であった。9月22日にフランスの貨客船で横浜港を発ち、1か月を掛け10月22日にマルセイユに到着した。
 ローマに至ったのは10月25日ごろで、神学部の授業はすでに始まっていた。公会議後の世代には少なからず驚きを感じることだが、当時の神学部の授業はすべてラテン語で行われていた。最初に出席したヘブライ語の授業、和田師曰く「何を言っているか、さっぱり分からなかった」。聖書学者として多くの著作を持つ司祭の若き日の回想である。半世紀前の留学は、今とはかなり状況の違うものであったろう。
 神学部の授業がすべてラテン語なのだから、公会議も当然ながらすべてラテン語で行われる。配られる資料もまたすべてラテン語であり、その量は膨大である。容易に読み切ることはできない。神林師はある司教から、鉛筆を転がして、この面が出れば「賛成」、この面が出れば「反対」と決めていたという嘘のような話を聞いている。しかし、それでも聖霊の導きがあるのだから構わない、のだそうである。
 公会議はもともと秘密会議で、審議内容は外部に漏れないよう守られていた。しかし神学生は自教区司教との交流を通じ、討議の具体的な進展を逐次耳にしていたという。公会議が醸す空気を、ローマにあって肌で感じていたということだ。
 公会議を主宰した二人の教皇に対する両師の思いも、それゆえに特別である。「ヨハネ二十三世、パウロ六世という二人の教皇様の『人』を語ること抜きにしては、公会議を語ることはできない」と和田師は言う。両教皇は特別な牽引力をもった教皇であった。
 ヨハネ二十三世は、庶民的な教皇として、ローマ市民をはじめ多くの人から愛された。「歴代の教皇様の中で一番好きかもしれんなあ」と神林師は感慨を込めて語った。両師には、教皇が神学校を訪れた際の思い出がある。祭壇の前に置いた椅子に座り講話を行ったのだが、足置きを外して、床に届かない足を教皇はぶらぶらさせていたのだそうだ。「人に微笑みを招く教皇」だったと和田師も懐かしげに振り返った。
 そのような教皇が突如公会議開催を発表したのである。「思い付きやな」と神林師は独特の表現をしたが、特別なインスピレーションが働いたということだろう。和田師も「計算していたらできない」と語る。
 そのヨハネ二十三世の帰天後のパウロ六世就任についても、生き生きとした記憶を聞いた。
 教皇空位期間中というのはローマっ子にとって、とても寂しいものだそうだ。皆が新教皇の誕生を心待ちにしている。コンクラーベ(教皇選挙)が行われ、やがてシスティーナ礼拝堂の煙突から新教皇選出の知らせを告げる白い煙が上がる。ローマ市民は一斉に駆け寄り、30分後にはサンピエトロ広場がいっぱいになったそうである。二人も授業を放棄して駆けつけた。神林師は、市電すら止まってしまっていたことを記憶している。運転手の職場放棄である。
 パウロ六世は「目立たないけれども素晴らしい教皇」であったと和田師。ヨハネ二十三世は多くの可能性を風呂敷を広げるように展開したが、その整理を見事に成したのがパウロ六世であるとのことだ。
 公会議開催期間中のローマでは、幾人もの神学者による公開講座が行われていた。しかし神学生には、それらを聴講してはいけないとの通達があったという。最先端の神学、基礎もできていない者が聴くとかえって毒だというわけだ。しかし、それでも多くの神学生は出掛けていった。オランダ司教団の神学顧問でもあったスキレベークスの講演では、神学校の指導教授のカルロ・モラーリが質問をし、「切れ者どうしの」息詰まるようなやりとりがあったのだと、当時の興奮をそのままに和田師は語ってくれた。また、これからは公会議ではなく、シノドス(世界代表司教会議)の時代になるとのスキレベークスのことばが、神林師には強く印象に残っている。この予言は事実そのとおりとなった。
 「ウルバノ大学の典礼学の授業は、ほとんどが休講やったな」とは和田師。講師たちは公会議の協力に駆り出されていた。さらに二人には、どうせ改革されて変わってしまう古い典礼をなぜ学ばなければならないのか、という思いもあった。当然のことだろう。過渡期ならではのことである。
 この典礼改革について、両師が語ってくれたことが面白い。いずれも司祭叙階後のことである。
 まずは和田師。公会議の後には、これまで行うことのできなかった複数の司祭によるミサの共同司式ができるようになった。ある日虫歯で奥歯が激しく痛み、ことばを発することがろくにできなかったとき、共同司式の司式者としてミサに連なった。一人でミサを司式するなら、ことばが出なければ話にならない。しかし「共同司式ならミサしたことになるわな。ありがたい思うたわ」と、ユーモアたっぷりに語った。
 神林師は一つのエピソードを紹介してくれた。ミサが国語化された後のイタリアのある教会での話。司祭がミサの始まりに「主は皆さんとともに」と言う。すると一人のおばあさんが首をかしげ、近くの人に「今、何を言ったのか」と尋ねた。司祭が話したのはイタリア語でおばあさんは当然イタリア人、それなのにである。尋ねられた人は“Dominus vobiscum”だよと、公会議以前には当たり前であったラテン語を告げると、おばあさんは「ああ、そうか」と納得したという。長い年月を経て身に付いたものが変わる。良い悪いの問題ではなく、とくに高齢者にとっては、そこに多分の困難があったことだろう。
 さて、両師の叙階についてである。
 叙階式は当初12月23日に行われる予定であったが、その1週間ほど前、叙階準備の黙想中に、日程を翌年の1月6日に変更したうえで、第二バチカン公会議閉幕を記念して教皇が叙階式を行うとの連絡が神学生たちのもとに突如届いた。
 神林師によれば、東方教会のさまざまな人の発言が、このことに決定的な影響を与えたのだという。東方教会から教皇職について「教皇は教皇であると同時にローマ教区の司教であるはずだ。しかしその司教としての仕事が見えてこない」といった批判があったらしい。そこでバチカンは、司教の職務として司祭叙階をと考えた。しかし全世界のカトリック教会の長としての教皇職との調和を考慮して、それを宣教地の司祭の叙階にした。悪い意味ではなく、政治的な配慮があったのである。1月6日は主の公現の祭日であった。主イエスが全世界に示された日に、教皇によって宣教地の司祭の叙階式が行われる。それは象徴的なことであったと思うと神林師は語る。神林師は今でも毎年1月6日に、そのときの教皇の説教の録音を聴くという。「愛する子どもたちよ」という教皇の呼びかけが、やがて「兄弟たちよ」に変わるのだそうだ。「青春の一コマやな」。実に懐かしげに神林師は振り返った。
 和田師は「公会議の続きのように」とその叙階式を表現したが、閉幕からわずか1か月後のことなのである。両師の司祭としての一歩は、公会議による改革の始まりとともに踏み出された。その両師に、宣教地である日本において、公会議の精神はどれほど反映され実践されていると思うかを尋ねた。しかし、肯定的なことばを聞くことは残念ながらできなかった。
 和田師は語る。神学生になり、ヨハネ二十三世という新しい教皇を迎えた。そのころの教会は確かに硬直化していた。秋に1週間の黙想があり、それを終えると、ソ連の衛星スプートニク打ち上げ成功のニュースを聞いた。いっぺんに宇宙時代の、新しい時代の到来を実感した。そして公会議である。当然ながら希望を抱く。しかし、公会議後に希望がかなえられたとは言い難い。その精神の実現は難しく、失望により司祭を辞めた者も少なくない。典礼の改革にしても、公会議が目指したのはもっと内面的な改革であったはずなのに、未だ表面的なところにとどまっている。
 大阪教区に来ているアフリカの司祭たちは「何を今さら50年も前の公会議の話などしているんだ」と言うと神林師は語る。彼らには、すでにその先を歩んでいるのだという自負がある。しかし日本では、未だに公会議が何たるかすら正当に理解されていない。何でこんな「悲劇」になったのだろうか。この「悲劇」ということばは、強く印象に残った。
 では公会議の意義とは何であったのだろう。日本の司教の発言には注目されたものもあったが、大きな影響を与えたとまではいえない。しかし、宣教地の司教が、肌の色も異なる多くの地域の司教がそこにいたということ、そのこと自体には大きな意味があると神林師。ヨーロッパだけでなく、世界中の司教が参集しローマで会議を行った、それは長い教会の歴史の上で初めてのことなのである。和田師によれば、『教会憲章』のいくつかの草案の中には、チリの司教団によって作られたものもあった。
 現在においてもトラディショナルなキリスト教国と宣教国との間に、溝がないとはいえないだろう。しかし、希望は持てるはずである。それは、宣教国自身によって作り上げねばならない希望である。そのためにも、第二バチカン公会議の精神を、再度検証し理解しなければならない。

深水正勝師(東京教区)

 8月9日、暑い夏の最中に、師が主任司祭を務める高輪教会の事務室にて話をうかがった。神林、和田両師とは一転、深水師は生粋の江戸っ子である。Tシャツの袖からのぞく日焼けした真っ黒な両腕が印象的だったが、落ち着いた口調で、自らの経験を踏まえた考えを語ってくれた。
 深水師は1959年からの10年間をローマで過ごした。神林師や和田師とは同期であるが、両師が神学科からの留学であるのに対し、深水師は哲学科からローマに渡った。日本では上智大学で2年間学び、優秀な学生としてかの地に送られたわけだが、最初のラテン語の試験ではいきなり不合格とされ「これではお前、授業についていけないぞ」と言われてしまったのだそうだ。この自らの経験を踏まえ、師は、可能なかぎり早い時期、若いころから留学することの重要性を幾度か強調した。それは、言語の習得、習熟、そして豊かな国際感覚の体得に当然ながら多大な効果をもたらす。
 まずは、数センチもの厚さで綴じられた留学中の交信記録を見せていただいた。写真も多く含まれた貴重な記録である。今回のインタビューにあたって、ここに公会議が始まったことに触れた記述がないかと探してみたが、見つからないのだという。それはなぜか。当時日本の一神学生として、公会議とはどのようなものなのかの理解もなく、教会についての問題意識もさして持ってはいなかったからだろう、そう師は説明した。今回のインタビューでは、この問題意識ということばは一つの鍵となった。
 もちろん、公会議の進展に無関心であったわけではない。当初こそ、よく分からないではいたが、実際に会議が始まってからは、その内容に多々驚かされた。神学校は盛り上がっていたのだそうだ。カール・ラーナーの話を聴く機会があったが、保守的な「ローマ仕込みの」勉強をしていたところに耳にする斬新で革新的なラーナーの神学、これには大きな衝撃を受けた。
 深水師も司教たちから会議の進捗状況を聞いていたのだが、司教団の中では中心的な役割を担い理解も深かったであろう長江司教からは、その多忙さゆえに話を聞く機会は残念ながらほとんどなかったそうである。長江司教は、典礼の小委員会に携わっていた。
 「公会議はあの4年間で終わったわけじゃない」。そう語る師は、公会議の文書中『現代世界憲章』『教会憲章』『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』『信教の自由に関する宣言』の4つをもっとも大切な文書であると強調する。その神学は突然そこで生まれたわけではなく、ヨーロッパの歴史の中ですでに生じてきていたものであり、そしてそれは現在まで継承されてきている。しかしそれを、現代人の多くが今の現実に合わないと感じるようであれば「次の公会議があるかもしれない」。現代化というのは、当然ながらそこで完結するものではない。それは停滞するものではなく一つの流れであって、見直される必要はつねにあるのである。
 第二バチカン公会議は確かに世界の司教の参加するものではあったが「ヨーロッパの教会の歴史の中から生まれ、その問題意識が表明され議論された会議であった」というのが師の考えである。
 公会議は、その準備段階から保守派と進歩派との激しい争いを生じさせたのだが、保守にしろ進歩にしろ、それはヨーロッパの教会の歴史と理論の下でのことに過ぎない。そして、それぞれを支えた神学者もまたヨーロッパの人々である。たとえば南米では後に解放の神学の誕生へと繋がっていく諸問題はすでに生起していたのだが、それが直接的に公会議の議論に反映されることはなかった(ただし、その後の展開が公会議をきっかけとしていたことは事実である)。
 今回のインタビューの用意にあたって、わたしは当時のカトリック新聞の紙面に目を通していたのだが、たとえば典礼一つをとっても、式文はラテン語から母国語へ、司式者は背面から対面へと、大きな改革が行われたにもかかわらず、それに関する報道は、少々拍子抜けするほどにあっさりしている。これがなぜなのかよく分からないでいた。その疑問をそのままに深水師にぶつけてみたのだが、典礼にしても、あるいは教会と社会とのかかわりにしても、当時の日本の教会には「現代社会の中にあって教会はこうあらねばならないという、切実な問題意識がなかった」。ヨーロッパの教会が強く感じていた閉塞感や硬直化の意識を、日本の教会は有してはいなかった。問題意識を抱かないままに改革が訪れたとしても衝撃がないのは当然だろう。
 ここで師は一つのエピソードを紹介してくれた。公会議期間中に日本のある司教が記者から「世界で唯一の被爆国である日本、その司教として原爆の問題をどう考えるか」といった質問を投げかけられた。その司教の答えて曰く「それは政治の問題であって、わたしには答えられない」。今でこそ日本の司教団は原子力発電への反対など積極的な発言を行っているが、当時は、教会と社会とのかかわりがこの程度にしか理解されていなかったのである。
 こういったことを踏まえ師は、もう一度公会議が行われる必要もあるのではないかと語る。今や公会議の神学は世界的なものとなっている。そしてアジア、アフリカなどヨーロッパ以外の諸国においてカトリック教会は成長し活気づいている。したがって、西欧以外の国々の教会が抱く問題点を中心として新たな公会議を開く必要もあるのでは、というのが師の考えである。
 アジアシノドス(世界代表司教会議)が開かれても、その議題はアジア諸国自体から発題されたものではなく、ローマから与えられた議題が審議されたりする。それでは開かれた教会を目指す公会議の精神が反映しているとは言い難い。中国の教会との関係や、さまざまな宗教が混在しキリスト教は少数派である中で他宗教とどのように関係していくのかといったことなど、アジア固有の問題は多々あるのである。
 深水師は、濱尾文郎、白柳誠一両枢機卿と相馬信夫司教の名を具体的に挙げ、外に出て発言し大胆に行動することの大切さを訴えた。師は1990年にインドネシアのバンドンで行われたアジア司教協議会連盟(FABC)第5回総会に通訳として同行し、アジア自身の問題をこそ話し合おうとする濱尾司教(枢機卿)の力強いリーダーシップを目の当たりにしている。否と言える力を持つこともまた必要なのである。それは、現場の実情と問題とを中央に訴える力となる。そういった行動力、発言力をこの3名の司教は備え、さらにアジア諸国の司教との信頼に裏打ちされた繋がりも有していたと師は振り返る。現代社会の諸問題は、すでに一国の一司教の力だけでは対応しきれないほど深く複雑なのである。したがって、アジア各国の司教の連携は、重要であり欠くことはできない。
 司教はローマ教皇を支える。それは一人ひとりの司教としてではなく、共同体として、司教団あるいは司教会議として支える。これは第二バチカン公会議で取り上げられた大切な精神の一つである。しかし、アジアに限ったことではなく南米やヨーロッパにおいてすらも、この精神が現在十分に生かされているとはいえない。
 深水師は静かに淡々と語るのだが、その一語一語は重かった。それは単なる回顧ではなく、今に照らしての問題の在り処の指摘であった。そこで後半は、あえて思い出話のほうに水を向けてみた。
 神学生の頃、夏の休みは3か月あり、カステル・ガンドルフォの教皇公邸の隣の別荘で過ごしたのだそうだ。当時は教皇が海外に出向くことなどなかった。したがって、神学生たちの隣にはつねに教皇がいたのである。そして、毎年一度その期間の間に、教皇に招かれともに過ごす時間があり、毎週行われる一般謁見にも必ず出席した。なので、教皇とのつながりは非常に深く、親しいものとして実感できていた。「あれは掛け替えのない体験だったねえ」と、師は目を細めしみじみと語った。
 ヨハネ二十三世については、神林、和田両師からも聞いた、椅子の上で足をぶらぶらさせていたというエピソードを深水師もまた語った。神学生たちにとっては、よほど印象深かったのだろう。権威的ではない「自然な姿勢の人」というのが、師の持つヨハネ二十三世のイメージである。
 公会議開会の夜、無数の人でサンピエトロ広場は埋め尽くされた。バルコニーに現れたヨハネ二十三世の語ったことばは、この教皇の素朴な人柄を見事に表している。「さあ、こんやうちに帰ったら(子を持つ方がたは)ひとりひとりに接吻してやってください。ヨハネが和の接吻を送ったと言って、ね……」(本訳文は、犬養道子『和解への人――教皇ヨハネ二十三世小伝』による)。この教皇ならではの優しさに満ちたことばとして、深水師はこれを記憶している。
 神林師も和田師もそうであったが、深水師も、ヨハネ二十三世について語るとなると、実に感慨深げになる。溢れそうになるものを抑えつつ、という話しぶりである。その教皇が死の床にあったときには、毎晩広場に集まって祈りをささげたそうだ。
 さて叙階式についてである。神林、和田両師の話でも紹介したパウロ六世によるこの歴史記的な叙階式では、23か国、62人が司祭叙階の秘跡を受けた。半分以上はアフリカ大陸の人である。日本人は、深水師、神林師、和田師と、萩原劭師(長崎教区)、村上透磨師(京都教区)、それと後に司祭職を辞めた方の都合6名である。
 アルバムに貼られた写真を見せていただいた。聖ペトロ大聖堂の教皇祭壇で、教皇を起点に新司祭で輪が作られている。さらに、祭壇に登りきれない新司祭がそれを取り囲んでいる。小さく写った一人ひとりを指さしながら深水師は「これがカンバ(神林)、これが(和田)幹男ちゃん」などと説明してくれたのだが、驚いたことに当の深水師は、何と教皇の真横に立っている。序列の一番目だ。これは、留学時にローマに到着した順番によって決められたものなのだそうである。「福音を読むのもわたしでした」と、満面の笑顔で説明してくれた。
 叙階式は、もともとは布教聖省のアカジャニアン枢機卿が司式すると決まっていた。それが突然教皇の司式になったのだから、大変な驚きであったという。教皇が叙階式を司式するなど何百年もなかったこと、式を取り仕切った係りの司教の戸惑いもまた尋常ではなかった。
 ヨーロッパではこの叙階式がテレビ放映された。そのことからも、公会議があってこその歴史的な叙階式であったことは理解できる。また、日本でもその映像の一部がNHKで紹介された。まだ各戸にテレビなどなかった時代、深水師の実家では、その放送を観た近所の人が「あれは、あんたのところの息子じゃないか」と言いに来てくれたのだそうだ。
 「ぜひ観たほうがいい」と、師から公会議の記録映画のDVDを拝借した。動画を観るのは初めてのことだが、記録として当然ながら写真とは異なる説得力がある。何千人もの司教の荘重な入堂、輿に乗った教皇、衛兵の鎧兜、公会議後の世代としては、本質的なことではなく、かえってそんな俗なことに関心を覚えるのであるが、正直、時代がかっているとしか言いようがない。公会議の開幕から、そして深水師らの留学から、50年もの時が過ぎているのである。
 半世紀、時代は大きく変化した。しかし、日本人一般について考えるならば、真の豊かな国際感覚を備えているとはまだまだ言えないだろう。国際感覚を備えること、これが問題意識の芽生えにもなる。深水師が語ったことばをわたしなりに解釈するとそのようになる。10年間のローマ留学の経験は、深水師の中で、司祭として今を生きる大きな力となっているのである。そして、今を生きるわたしたちが、国際的な感覚を十分に養わないのであれば、日本で、そしてアジアで、今何が問題であるのかを理解し、またそれを中央へと発信できる力は身につかない。東方の島国で公会議の精神を生きるには、わたしたちもまた、十分な努力を払わなければならないのである。
(以上、構成・奴田原智明)

澤田和夫師(東京教区)

 7月31日、東京カテドラル関口教会聖マリア大聖堂に隣接するペトロの家にお邪魔し、澤田和夫師に話をうかがった。高齢ということもあり短時間の面会ではあったが、終始笑顔でインタビューにお付き合いいただいた。
 澤田師は長江恵司教(浦和教区・当時)の随員として公会議に参加した。当時は川口教会(埼玉県)において司牧にも当たっていたので、そこに公会議参加という重要かつ多忙な任務が加わり、苦労は並大抵ではなかったはずだ。しかし「難しい仕事をしたという印象はなかった」。もちろん謙遜のことばであろう。さらに続く。「わたしは長江司教様のカバン持ちで付き添っただけですよ」。長江司教の随員として、第1会期から第4会期まで、澤田師は全日程に参加した。
 日本の司教団が羽田空港よりローマに向かう特別機に、邦人司祭としてはただ一人澤田師も同乗したのだが、機内での司教たちに緊張の面持ちはなかったという。「わたしも海外旅行に付いていくぐらいの気持ちだった」。澤田師は、神学生時代と司祭叙階後の数年間をローマで過ごしたほか、幼少期にはワシントン、ニューヨーク、パリでの生活も経験している。「会期中にも休会の時があったので、その期間を利用して長江司教様と一緒にパリやジュネーブに行って、休暇の時を過ごしました」。そう懐かしげに語った。
 公会議では幾人かの日本の司教も意見を開陳している。その発言が会議に与えた影響を聞いてみたところ「あまりなかったと思う」と言いつつ、「実は、当時の記憶がほとんど残ってないんですよ」と話す。ただ、典礼、教会と社会、諸宗教とのかかわりなど多様な事柄が取り扱われ、教会の考え方や方向性に大きな変革をもたらした公会議の審議内容に、さしたる驚きは感じなかったということは覚えているという。
 「司祭と信徒の距離が近くなった。今では、司祭と信徒がともに歩むというのは当たり前なのだが、公会議前は、司祭団と信徒がずいぶん離れていたように思う」。信徒とのかかわりを何より大切にされている師は、公会議以前から今日の教会の姿を望んでいた。
 ミサに関していえば、司祭が会衆に背を向け司式していたのが対面になり、また、ラテン語のみゆるされた式文も自国語に訳して使用できるようになった。「信徒に背を向けてミサを行っていたので、信徒がミサ中にロザリオを唱えたりしても気にならなかったのだろう」。そう述べる澤田師自身も、学生の頃には「儀式はわれわれには関係がなく、司祭が行うものだと思っていた」。当時のほとんどの信徒に共通する意識なのだろう。「でも、それは信徒の問題ではなく、司祭が信徒を置いてきぼりにしてしまっていたからかもしれません」。そのような問題意識は、司牧者として公会議前から抱いていた。公会議は、「典礼が教会の活動の源である」ことを改めて確認し、会衆の「積極的参加」と「共同参加」の仕方を定めようとして、その必要条件として、簡素化と各国民に合った表現を求めた。結果、信者にとっては、ミサが分かりやすくなっただけでなく、ミサに対する積極的な意識を持つことができるようにもなった。「少なくとも今のような意識は司祭にも信徒にもなかったと思う。だから、典礼が変わったのはよかった」。
 また、公会議はキリスト教以外の他の宗教に対する教会の態度についても大きな変化をもたらした。しかし澤田師は、これにも驚きはなかったという。「わたしには、昔から他の宗教に対して尊重する気持ちがありました」。公会議は他の宗教について「教会が保持し、提示するものとは多くの点で異なっているが、すべての人を照らす真理の光線を示すこともまれではな」く、その信仰者に「見いだされる精神的、道徳的富および社会的、文化的価値を認め、保存し、さらに促進するよう勧告する」とまで表現した(『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』2)。「キリストが真理に至る唯一の道である」と信じ、福音宣教に従事してきた当時の司祭、修道者にとっては、大きな戸惑いを覚えるほうがむしろ自然なことだろう。言い方は不適切かもしれないが、福音宣教へと向かうモチベーションの低下をもたらしたとしても不思議ではない。にもかかわらず、当時司祭としてそのような考えを持っていたというのは、師の寛大さの表れであるといってよいと思う。「珍しいと言われればそうかもしれません。しかし、鳥居があってその奥には神様が祀られていたので、それは大事にしなければならないと思っていましたし、カトリックを知らない人であっても、神様を祀って信仰しているわけですから、それは大切にしないと」。当然ながら今もその気持ちに変わりはない。
 最後に、公会議の精神は今の日本の教会に生かされているかを尋ねた。すると、これまでずっと笑顔だった表情がやや曇り、次のような答えが返ってきた。「わたしがここ(ペトロの家)でのんびりさせていただいているので、生かすことができていないかもしれないね。申し訳ない」。ペトロの家には、東京教区の高齢司祭が生活している。しかし90歳を超えた澤田師は、小教区の司牧者としては一線を退いても、今でも黙想指導などで活躍している。「今でも時々、教会にお邪魔して主日ミサに参加させていただいているが、平素はそうではない。何よりも信徒とともにありたいと思っています」。師は以前、わたしの所属する教会で協力司祭として司牧に当たっていたことがあり、教会のすべてのミサに参加されていたことを憶えている。高齢にもかかわらず、主日やクリスマスミサなど、同日に複数のミサが行われる場合、あるいは深夜に行われる場合も、である。また、人の声が聞こえれば顔を出され、電話番や庭の落ち葉掃きすらなさる。師のそのような姿から学ばせてもらうことは多かった。ミサに対する姿勢、奉仕することの素晴らしさ、人とのかかわりにおいて見いだされるキリストの姿……。
 教会が「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長する」(エフェソ4・15)ためには、大きな変革をもたらした第二バチカン公会議を、今改めて学ぶことは必要であろう。とくに、公会議前の教会を知らず、今の教会の姿を自然のことのように受け止めている世代にとって、それは責任でもある。かくいうわたしもその世代の一人である。
(以上、構成・金田順一)

特集2 キリシタン史跡をめぐる―中国編 カトリック中央協議会出版部・編

 全国のキリシタン史跡を出版部員が実際に訪れ紹介する、連続企画の第7回目。今回は「中国編」として、岡山、広島、島根、山口各県の史跡を紹介する。訪問先については、教区から提出された教区内巡礼地一覧を参考にしつつ、各種資料を参照し選定した。
 (なお本文中、一部の文献、資料の引用にあたっては、旧字を新字に、旧かな遣いを現代かな遣いに、漢字をかなに、適宜改めた)

岡山・広島の史跡(1)

鶴島(7月17日)
   岡山駅からJR赤穂線に乗り、午後1時前に日生港に到着した。駅の改札を出ると、目の前はすぐに港である。四国へと渡るフェリーが停泊しており、その向こうには、国立公園である日生諸島の島々が見える。濃緑のこんもりとした姿が背後に入道雲を負い、夏の青空に映えている。
 海上タクシーを予約した際に、目の前の赤い屋根のある桟橋といわれていたが、その場所に行っても泊まっている船はない。汽船会社に電話をすると、相乗りする客がいるのいないのと電話口で盛んにもめている。わたしには理解しようのない話なのでひたすら聞き流し、とにかく待っていますからと告げて電話を切った。
 しばらくして、沖からやって来た船が桟橋に付けられた。海上タクシーまほろば号、定員9名の小さな船である。高らかなエンジン音とともに、船首をそらせ勢いよく出発。振り返ると、艫の先に伸びて飛沫を上げる白い航跡は、島影を映して青というより緑といったほうがふさわしい海面の色と、鮮やかなコントラストを成している。快晴の空の下、勢いある風が心地よい。
 日生諸島ではもっとも広くキャンプ施設などもある鹿久居島、そして島々の中で拠点的な役割を成し小学校もあるという頭島とを左舷に見て船は進む。20分ほどで目的の鶴島に到着した。桟橋らしき形状のものに船が付けられたので、舳先に回って飛び降りた。
 鶴島は、周囲が2.1㎞、面積が0.25キロ平米の小さな島である。20数年前までは島の所有者が民宿を営んでいたそうだが、火災により施設が全焼、それ以降は無人島となっている。

 鶴島の海岸に建つ廃屋

鶴島の海岸に建つ廃屋

 目の前に、海に突き出たような形で建つ廃屋がある。沖には釣り船が浮かび人影が見えるが、波音と蝉の声が聞こえるばかりである。目的のキリシタン墓地についてはおおよその方角が分かっている。ともかく廃屋の横の階段を上り始めた。
 岩の上にコンクリートの柱が立ち、6畳ほどの広さの小屋を支えている。その柱には「落下の恐れあり。この家の下を通らないでください」との注意書きが貼ってあった。玄関先を覗き込むと、2m程のアオダイショウが寝そべっている。小学生のころ、雑木林の中で追いかけたことがあるのだが、この蛇、図体こそ大きいが、ひどく臆病な生き物で逃げ足(?)は速い。2、3歩踏み出しカメラを向けると、やはりそそくさと茂みにまぎれていった。
 コンクリートでできた階段が続くのはわずかで、あとは下草の生い茂る小道である。そこここに蜘蛛の巣が張られているので、小枝を振り回しながら進む。しかし、踏み固められ道と認識できるものは続いている。

坂本真楽配流之地碑

坂本真楽配流之地碑

 農薬の臭いが漂う納屋のような廃屋の横を過ぎ笹のトンネルをくぐると、道が二股に分かれている。何の根拠もなく、ただ直観で左に進路を取った。しばらく歩くと「坂本真楽配流之地」という碑が建っている。だれのことなのかまったく分からなかったが、後から調べてみると、この人は幕末から明治にかけて生きた日蓮宗不受不施派の有力な信徒で、岡山藩主への直訴事件にかかわり2度入牢、その後明治新政府によって投獄され、明治3(1870)年10月から翌年9月まで、この鶴島に流されていたのだそうだ(前川満『日生を歩く』参照)。
 この碑のすぐ先には前田とみという人の顕彰碑も建っている。碑文によると、昭和20(1945)年に米軍飛行士の遺体がこの島に漂着したのをとみさんが見つけ、懇ろに葬り供養を続け遺骨の故国への帰還を祈っていたところ、その善行が朝日新聞に紹介され「明るい社会賞」が贈られた。そして、昭和40(1965)年にはアメリカ大使館から感謝状が贈られ、遺骨は故国に引き取られたのだそうだ。無人の島で雑草に覆われ、戦争の記憶はひっそりと今に伝えられている。

 前田とみ顕彰碑

前田とみ顕彰碑

 さらに少し進み、また草木のトンネルをくぐる。そばで草叢を揺する大きな音がし驚かされた。後で知ったのだが、この島には30頭ほどの鹿が生息しているのだそうだ。
 やがて道は下りになって視界が開け、海岸に出てしまった。ここには、先ほどわたしが上陸時に利用したものよりも、ややそれらしく整った桟橋がある。出発前、この島を実際に訪れた人の文章にいくつか目を通していたのだが、今、頭の中でそれらを整理してみると、その筆者たちはいずれもこの桟橋から上陸したのだと思われる。何かの都合で、現在はあの廃屋の前の桟橋に船が付くということになったのだろうか。
 とみさんの碑を見ることができたので、道を誤ったことは結果としてよかったのだが、とりあえず二股の地点まで逆戻りし、もう一方の道を進む。途中、バラのような棘をもったつる草で手を切ってしまったが、道は割合とはっきりしている。右手に広がる海は、強い日差しを浴びて碧く輝き、彼方の島影と相俟って、その美しさに思わず陶然としてしまう。ヤンマが飛び交い、ウグイスが盛んに鳴いている。
 やがて眼前にちょっとした空間が現れた。ここが、いわゆる浦上四番崩れによって配流され故郷への帰還を果たすことなく生を終えた人たちの墓地である。解説の板には「昭和57年1月21日 日生町指定文化財指定」とある。

 浦上キリシタン殉教者碑と墓地

浦上キリシタン殉教者碑と墓地

 墓といっても、そのままの自然石がさほど整然とではなしに並ぶばかりだ。プラスチック製の緑色の花差しが個々に差してあるが、そのいくつかは無造作に転がってしまっている。しかし、正面には海が広がっていて日当たりがよく、墓地特有のじめじめした感じとは無縁である。
 墓石群の後ろには白いマリア像が建っていて、手にはロザリオを持っている。その右後ろに1基、かなり風化し刻まれた文字の判読はできないが、形状から墓石とすぐに判断できるものがある。松田毅一氏の「鶴島のキリシタン」という随筆に「野口甚右衛門墓碑」とのキャプションが付された写真が掲載されているのだが、これがそれなのだろうか。
 向かって右手には「幸なるかな義のために迫害をしのぶ人/天国は彼等のものなればなり」との聖句が刻まれた顕彰碑が建つ。聖句の下には殉教者の名が刻まれている。前川満氏はその著『日生を歩く』の中で、この碑文に「納得できない」との率直な感想を述べている。「ここに眠るのは、近代国家を提唱する権力に迫害された犠牲者であり、その痛恨が迫ってくる」。キリスト者ではない人の感想として至極真っ当だと思う。わたしたちは、殉教者や迫害に耐えた人々の堅固な信仰を思い、彼らを褒めたたえ、顕彰する。それは当然なのであるが、しかし、そこで一つの事実を思い起こすことが疎かになってはいないだろうか。彼らは江戸幕府あるいは明治政府という、時の権力の「犠牲者」なのである。歴史から何かを学び取るためには、その当たり前の事実をしっかりと心に留めておく必要がある。そうでなければ、人間が同じ愚を繰り返すことを、黙って見過ごす、あるいは結果として許すことになってしまうことにもなりかねない。先人の貴重な犠牲の上に得ることのできた信教の自由を、確たる意志をもって守っていく義務をわたしたち一人ひとりは負っている。そして、その自由が脅かされる危険は、現代においてもつねに身近にあるのである。
 碑の裏側には「由来」と題された文章が記され、配流者たちの受けた苦しみが簡単に説明されている。
 岡山藩には117名が預けられた。彼らは最初、松壽寺と市内の牢獄との2箇所に収容された。このとき、過酷な飢餓に耐え得ず40名ほどの改心者(棄教者)が出ているが、彼らは直ちに帰還を許されたわけではなく、不改心者とともに鶴島に流され、開墾の労役に従事させられた。明治3(1870)年9月のことである。先ほど触れた坂本真楽の配流が同年10月のことであるから、彼は浦上キリシタンとともに鶴島で生活していたことになる。
 浦上に帰還した者からの聞き取りである浦川和三郎司教の『旅の話』には、配流者たちが味わった困苦が多々記されているが、岡山藩配流者の話においては、改心者の不改心者に対する冷酷な態度の描写が目につく。「おめおめと降服すると、今度は自分が一変して悪魔になる。親が改心すると子供を責める、子供が降服すると親を苦しめる。夫が棄教すると、妻を虐めて自分と同じ棄教の淵へ引っ張り込まんとする。/あんなにして置いては何時になっても改心する筈がない。こうして責めなさい、ああして責めなさい。/と役人に附智恵をして梅樹に吊るさせるとか、狭い淡暗い室に監禁させるとかしたものである」。「とにかく改心者と不改心者は不倶戴天の敵もただならぬのであった。改心者は各個に家を持ち、自由に出歩きもされる足でありながら、買物を頼んでも決して応じない。『買物をしてやると五貫の罰金たるべし』と互いに規約を結んでいる位であった。彼等はその魂を棄てたために良心が穏やかならぬので、全く自暴自棄になっている。役人が少しでも不改心者に優しくすると、彼等は直に談判を持ち掛けて、免職させてしまう」。
 この浦川司教のかなり手厳しい記述には少し偏りがあるのではないかと三俣俊二氏が指摘している(『姫路・岡山・鳥取に流された浦上キリシタン』)。これとは正反対といってもよい記述を、マルナスの『日本キリスト教復活史』に見ることができるのである。「棄教者は、あちらこちら、隣島にまでも行き、そこで買物をすることができた。彼らは、その機会を用いて、信仰を守りつづけ自由のない彼らの兄弟のために用をしてやった」(久野圭一郎訳)。
 浦川司教が取材し得た対象には限りがあるので、何らかの偏りが生じてしまうことも仕方のないことであろう。また司教という立場も、当然そこにかかわってくる。棄教者を安易に擁護したりすることは憚られたはずだ。具体的にどの程度改心者が不改心者を手助けしたのかははっきりしないにしろ、マルナスの記述のすべてを否定することはできないかと思う。
 棄教者は、苦しみに耐え信仰を守り続ける仲間に対して当然ながら深い負い目を抱いていたことだろう。そうした負い目は、仲間を庇い援助する行為、あるいは逆に迫害者に加担する行為、正負いずれにも現れ出る可能性がある。しかし、いずれにしろ、教えを棄てた人たちが、深い悲しみを抱いていなかったとはわたしには思えない。棄てたくて棄てた人など、一人もいなかったはずである。
 「由来」の一節に「改心を迫る拷問は絶句のはげしさ そのため半数以上が改心 しかし岩永マキ(浦上十字会創立者)のように強く信仰に生きた者も多数いた」とある。浦上十字会とは、貧者救済の社会福祉活動で有名なド・ロ神父の指導の下、孤児たちの世話をする小さな集まりから始まった組織であるが、それは後に、山口愛次郎、里脇浅次郎という二人の大司教の手を経て、お告げのマリア修道会へと発展していく。長崎への帰還後、ここに名の挙げられている岩永マキのほか、守山マツ、片岡ワイ、深堀ワサという4人の若き女性が、満足に食料も手に入らない中、また赤痢の猖獗によって苦しめられながらも、親を亡くした大勢の孤独な子どもたちを養い育て、そしてその活動が徐々に広がっていく様子は、小坂井澄氏の『お告げのマリア――長崎・女部屋の修道女たち』に詳しい。岩永マキは大変気丈な女性であったようだ。『旅の話』も、役人に食って掛かる彼女の様子を伝えている。
 「由来」の末尾には、なぜか三好達治の詩が添えられている。「沖の小島の流人墓地/をぐらき墓のむきむきに/ともしき花の紅は/たれが手向けし山つつじ」。昭和19(1944)年に刊行された第9詩集『花筐』に収められた一篇である。確かにこの地の雰囲気に見合う。しかし、この詩のモデルは、おそらく鶴島ではないだろう。全集の解題(石原八束)によれば、『花筐』は伊豆の谷津および伊東に滞在して書き上げられた。したがってモデルとして考えられるのは、伊豆七島の大島や神津島、式根島などではないだろうか。これらの島も流罪地としての歴史を持っている。
 桟橋まで戻ると、先ほど浮かんでいた釣り船も見えない。今わたしは、ここでまったくの一人である。その気安さから、下着一枚になって海に入った。潮溜まりには小さな魚が何匹もいる。岩を蟹が這っていく。沖に目を向けると、大きな魚が飛沫を上げて跳ねたりする(後で聞いたところによると、どうやらエイらしい。また、このあたりにはスナメリもいるとのことだ)。子どものころの夏休み最大の楽しみであった磯遊びを思い出し夢中になって生き物たちを追っかけていると、約束の時間よりもやや早く迎えの船がやって来た。慌ててジーンズを穿く。
 途中、船は頭島に寄った。よく日に焼けた若い医師が、3人の女性とともに乗り込んでくる。町立医院の医師だそうで、週2回、頭島に通っているとのことだ。
 船中で、鶴島にはマムシはいないという話を聞いた。鹿久居島にはいるそうである。しかし鹿久居島にはイノシシがいて、イノシシは雑食だからマムシを食べるのだそうだ。今回藪の中を歩き回ったわけだが、マムシ生息の有無という発想はまったく浮かんでこなかった。何ともうかつな話である。このマムシ、後日別の場所でお目にかかることになった。

 聖ディエゴ喜斎像(岡山教会)

聖ディエゴ喜斎像(岡山教会)

 岡山に戻り、岡山教会を訪れる。同教会の歴史は古く、1880年にまで遡ることができる。現在の聖堂は3代目、2001年に献堂された円形の近代的な建物である。聖堂がささげられている聖人は日本二十六聖人の一人、岡山出身のディエゴ喜斎。聖堂前には、白い石造りの、両手を合わせて背筋を伸ばし、すっくと立つ立派な像がある。教会創設100年を記念し、1980年に建てられたのだそうだ。
 明日は、この二十六聖人中最年長者の墓を訪れる。今日は無人島の藪の中を歩き回り、また移動距離も長かったので少々疲れている。夕暮れ迫る中、ホテルへと歩を進めた。


岡山・広島の史跡(2)

岡山・芳賀の里(7月18日)
 昨日同様快晴である。朝から蒸し暑い。駅前のバスターミナルで8時過ぎに中鉄バスに乗った。目的地にもっとも近いのは顕本寺前というバス停で、そこへ行くには、佐山団地・県営住宅前線の大窪経由という路線に乗らねばならない。しかしこの路線は1時間に1本しかなく、始発は8時36分である。待ってもよかったのだが、もう一つの楢津経由というのがじきに来る。路線図を見ると、上芳賀という停留所が二路線の交差する場所で、そこから顕本寺前までは停留所2つ分しかない。大窪経由を待つより、楢津経由に乗って上芳賀から歩こう。のどかな田園風景を期待し、そう決めた。
 途中多少の渋滞があったが、30分ほどで上芳賀に到着。バス停の前には大きな碑が建っていて「清水白桃発祥の地」とある。その説明の板に「この桃は、青い実の時より一つ一つ袋掛けをし、あたかもわが子を育てるように慈しみ白肌に仕上げます」とあったが、歩きながら桃畑を見ると、なるほど、一つ一つの果実が、実に丁寧に紙の袋に包まれている。少しでも傷がついてしまえば売り物にならない果物、生産者の苦労がしのばれる。
 10分ほどで顕本寺前停留所に着く。右手を見ると小高い丘の上に立派な屋根が見えるので、そちらへと向かう。桃やぶどうの畑を見ながら少し進むと「顕本寺0.3㎞」という標識が立っているので、それが指し示す方向ではなく左に道を取り、小川を左に見つつ進む。数分程度歩くと、左手に田を背にして「市川喜左衛門の墓0.4㎞」と記された標識が立っているので、その示す方角に伸びる細い坂道を上っていく。
 畑に囲まれた一本道、割合と傾斜はきついが、ウグイスの声が爽やかだ。目の前をハグロトンボが飛ぶ。この昆虫、別名ホソホソトンボともいう。その名のとおり真っ黒な翅と光沢ある緑色の細い胴が、目を奪うほど美しい。

 芳賀の里・聖ディエゴ喜斎の墓と祭壇

芳賀の里・聖ディエゴ喜斎の墓と祭壇

 坂道を上り切ったあたり、枝々が心地よい木陰を作り、数個の岩に囲まれるように「聖ディエゴ喜斎記念公園」がある。先端が鈍く尖った大きな自然石に「市川喜佐衛門墓」と彫られた墓碑を中心に、手前にはやはり自然石をそのままに利用して、飛鳥の石舞台古墳を思わせるかのごとく組み上げられた祭壇がしつらえてある。墓前には色とりどりの花が手向けられていた。
 先に少し触れたが、ディエゴ喜斎は二十六聖人中の最年長者で、殉教のときには64歳であった。結城了悟神父によると「喜斎」というのは斎名(諱)で、武家の者であると考えられている(『26聖人と長崎物語』)。彼は大阪で捕縛され、護送された浦上にてジョアン草庵とともに誓願を立て、イエズス会に入会した。そしてそのすぐ後に、西坂の丘を上り、東から数えて5番目の十字架に付けられ殉教した。
 昨日見た岡山教会にある喜斎の像が思い出される。しっかりと合わせられた厚くて大きな両手が印象的だった。
 来た道を戻り、また上芳賀のバス停まで、しきりに流れる汗を拭いつつ歩いた。わたしはこの取材では、可能なかぎり公共交通機関を用い、そして歩く、あるいは貸自転車を借りるなどして各史跡を回っている。もちろん個人の体力や年齢、そして気象条件などを十分に考慮した上でではあるが、わたしはこの《歩く》ということをぜひとも勧めたい。歩いてこそ、その土地というものが分かる。畑、田、雑木林、草原、それらはそれぞれ異なる匂いを放っている。そんな匂いを感じること、それがその地を知るということである。その地自体を知ろうとせず、ピンポイントで史跡だけを巡るというのは、意味がないとまではいわないが、少々さびしい。そして、自動車に乗っていては、そういったことはほとんど感じられない。とくに体力に自信のある若者には、ぜひとも歩いてもらいたい。教区等が企画する巡礼ウォークに参加するもよし、頭にさまざまな思いを巡らしつつ一人で歩くもよしである。

 広島キリシタン殉教之碑

広島キリシタン殉教之碑

広島(同日)
新幹線で広島駅まで行き、山陽本線に乗り換え2駅、西広島に降り立つ。駅から広島方面に線路沿いを進むこと数分、ノートルダム清心中・高等学校の入り口を示す看板が見えると、その手前右にキリシタン殉教之碑が建っている。1616年から1654年にかけての広島における殉教者を顕彰する碑である。そのうち、フランシスコ遠山甚太郎、マチアス庄原市左衛門、ヨアキム九郎右衛門は、188福者に名を連ねている。
上の3人のうち、遠山甚太郎の生涯については、比較的多くのことが分かっている。彼は浅野幸長の家臣の子として生まれた武士である。幸長の死後には弟の長晟が家督を継ぐが、長晟は福島正則の改易後に広島に加増移封され、甚太郎も主君に従い広島に移った。
長晟は当初キリスト教に対して寛容であったのだが、徳川家光の世となり、江戸にて大殉教が起きてからは、広島でも迫害が徐々に苛烈になっていく。そのような流れの中で甚太郎もまた殉教を遂げた。彼は武士として切腹を勧められたが、キリスト者としてそれを拒み、斬首された。パジェスは甚太郎が母に遺したことばを伝えている。「私がこれから死んで行くことを、一緒に悦んで下さい、聖下がお与え下さった限りもない御恵を聖下に御礼を言って下され、最後に、懈怠その他一切の罪をお許し下され、そして、あなたの掩祝をお与え下され」(吉田小五郎訳『日本切支丹宗門史』中巻)。24歳の若者の最期のことばである。

 西広島から広島方面に1駅戻り、横川から可部線という2両編成の単線に乗る。車窓から見える緑の稜線と、その向こうにそびえる入道雲、そして背景には、やや白みがかった、いかにも夏らしい青空が広がっている。
 終点の可部で下車、歩き始める。時間は午後1時過ぎ。目的地は高松山である。
 今回訪問地を決定するのに、広島県については最後まで迷った。この高松山を入れるか、それとも他の場所を訪れるかである。とくに聖トマス小崎ゆかりの地である三原には行きたかった。しかし、限られた日数の中で、両方を訪れる日程は組めない。教区が巡礼地として挙げている三原を優先するのが筋だったろうとは思う。しかし、どうしても高松山に登りたかった。高松山とは、188福者の一人、熊谷元直がその最後の城主となった、三入高松城の址である。1615年の徳川幕府による一国一城令によって破却され多くの遺構は失われているとのことだが、石垣など多少残るものもあるようなので、それをこの目で確かめたかった。
 可部駅から北に向かって、太田川の支流(根谷川)に並行して伸びる、まばらに商店の並ぶ通りを進んでいくと、10数分で大きな自動車道にぶつかる。右手に高松橋という橋が見えるので、それを渡りすぐに左折する。「高松山登山道入口200m先右」と書かれた大きな看板が立っている。
 川は、水量はやや少ないがきれいな流れだ。道の上からも川底がよく見える。老いた釣り人が一人、麦藁帽をかぶり竿を振っていた。

高松山

高松山

 登山道に入るとすぐに墓地があり、その横を抜けると鳥居が建っている。周辺の木々には大文字祭と書かれた短冊がいくつも結ばれている。京都のそれはつとに有名だが、この山でも毎年5月に大文字祭が行われるのだそうだ。左手には小さな滝のような流れがあり、涼しげな水音を響かせている。やがて道にはごつごつとした岩が増え歩きにくくなる。これらの岩が自然のものなのか、城の名残なのかの正確な判断はつきかねるが、人工的な一定の並びを示しているようではある。
 やがて明らかに石垣跡と判断できるものが見えてきた。苔むして崩れかけた乱積みの石が木の根に支えられ、その幹を締めつけ絡め取るかのように、ツル状の木がやや薄気味悪く枝を伸ばしている。遠近に倒木も見える。400年に及ぶ時間の堆積、それが確かなものとして感じられる。

 高松山に残る石垣

高松山に残る石垣

 石垣に目を凝らし、井戸のような形状の石積みなどを見つつ進むと、道が二股になった場所に出た。木に簡単な地図が括りつけてある。直進すれば高松神社そして山頂への近道なのだが、右に進路を取れば与助丸という郭など多くの遺構を見ることができるようである。迷うことなく右の道を選んだ。しかし、これが困難の始まりであった。
 石垣の脇を抜けると、すぐに極端な勾配となった。手をつかねば登れないほどである。木々は陰を作ってはいるが、汗はひっきりなしに流れ目に沁みる。巨石群がいくつか見られたが、これらはすでにどういった遺構なのか判断のしようがない。
 この山は不思議と鳥の声が聞かれない。耳にするのは葉擦れの音と蝉の声ばかりだ。蝉の声は暑さを倍に感じさせる。山頂に近づくにつれ、足元にはシダ類が多くなってきた。
 与助丸近辺には、大きな岩が崩れ落ちてきたようにいくつも残っている。日付や贔屓のプロ野球の球団名などを彫った落書きがあちこちに見られるのが悲しい。道をふさぐ倒木を跨いで進む。「可部→」とある方角へと下っていくと、堆積した落葉に足を取られ、あやうく崖下へと転落しそうになった。大したことのない規模の山で遭難したというニュースをたまに聞くことがあるが、いつも何でそんなことになるのかと不思議に思っていた。しかし、その意味が分かった。少し気を許すと山は怖い。
 その後も何度か滑落しそうになったのだが、やがて目の前に、張られた1本のロープが現れた。わたしがやって来た方角へは進んではいけないことを示すロープである。それをくぐると「高松神社まで約15分」との表示がぶら下げてある。どの地点かで、道を誤ったのであろう。正しい道を選択することができていたならば、さほどの困難には遭わなかったはずである。この時点で、登山道入り口から1時間15分ほどが経過している。

高松神社

高松神社

神社までの道はこれも勾配がかなり厳しく、小さな石が散らばっていて足を取られる。ふと見ると、目の前に立派なキノコが生えている。カサが開き過ぎてはいるが、この形状この色、どう見ても松茸だ。しかし、果たして今の時期に松茸が生えているだろうか。だが、周りを囲むのは確かにアカマツである。多少気持ちは動いたが、素人がキノコを安易に判断するのは危険だ。手を触れることなく先に進み、ようやく高松神社に到達した。小さな社だが、木々の緑と青空を背景にして、中々に美しい姿である。社の右横に二股に分かれた道が続いていて、左の道は「山頂近し約50米」となっている。
 二の丸跡との表示がある少し開けた場所を過ぎ、ようやく看板のようなものが見えてきた。山頂である。時刻は午後3時過ぎ、やや強めの風が心地よい。解説の板の一節を引用しよう。「標高339mの高松山はその急峻もさることながら四囲に対する眺望の良さも大きな利点のひとつであり、これから大きく飛躍しようとする熊谷氏が城を構えるには、まさに絶好の地であったと思われる」。毛利からの信頼厚く、数々の武勇によって周防や出雲にも領地を加増されていた熊谷氏にとって、この三入高松城築城の頃というのは、まさにさらなる飛躍をせんとする時期であったろう。しかしその後、安芸における14代当主熊谷元直は、地上の栄光以外のものに真の価値を見いだすこととなる。

高松山山頂

高松山山頂

 与助丸サイドからの頂上へのアタックは幾多の困難を極めたが、とりあえずは征服である。緩やかな稜線の低い山の連なりは緑が濃く、広島市内の街並みも見渡せる。晴れ渡る青空のもとに広がる雄大な眺望を褒美としてしばらく楽しんだ。戦国の世の、自然を巧みに利用した要害、これを自らの身体をもって実感することができたのは大きな収穫であった。
 さて、下山である。わたしは山も甘く見ていたが、己の方向感覚のなさもまた甘く見ていた。山の道というのはどうも見間違えてしまうもののようである。だから低い山でも遭難事故が起きたりするのだ。
 まずは、どこからこの山頂へと至ったのか、それがよく分からなくなった。幾度か道を間違える。さらに、登るに困難であった道は、下るに際しては一層困難である。すぐに足を取られる。
 ようやく行きに見たはずの沢まで出てきた。このまま沢沿いの道を下って行けばよかったのだが、何か先が道ではないように思えて、左手に登っていってしまった。これが最後の難関であった。足を掛けた岩が崩れ、手を掛けた枝は朽ちていて脆くも折れてしまい、落葉に足をすくわれ、さらには疲れから膝が笑う。間違いであると判断せざるを得なくなったとき、再び沢まで下りて行ったのだが、まともに歩ける傾斜ではない。滑落寸前を幾度か体験した。もし完全に滑ってしまっていたなら、沢まで一気にであったろう。
 16時10分、やっと登山口に戻れた。ここを出発したのが13時半だったので、2時間40分が経過している。山登りの経験はあまりないのでよくは分からないが、記録としては惨憺たるものであろう。
 この後広島に戻り、新幹線で山口まで向かったのだが、正直疲労困憊、翌日のために資料を読み返す気力など、まったくなかった。

山口・島根の史跡(1)

山口市内(7月19日)
  昨夜は山口駅近くの店で、焼酎のグラスを傾けながら、カウンターの中の若い男の子と話をした。彼は、県庁所在地である山口の街がなかなか発展してこないことを盛んに嘆く。確かに、観光地としては発着電車の本数があまりにも少ない。終電は10時台だ。こういう業種の人にとっては大きな問題である。店を出てホテルに戻るとき雨が降り出した。
 翌朝、降ってはいないが、どんよりと雨雲が空を覆っている。昨日山口に到着した際にはくっきりと見えたサビエル聖堂の彼方の山並みも、低い雲に覆われてしまっている。しかし、暑さは多少和らいだようだ。
 8時過ぎ、駅前の店で貸自転車を借りる。まずは隣の上山口駅近くにあるサビエル記念公園を目指す(なお、山口ではザビエルではなくサビエルに表記が統一されている。『広島教区 殉教地・巡礼地案内2007年版』によれば、1952年献堂の山口教会旧聖堂正面に「サビエル記念聖堂」と銘記してあることによるとのことである)。
 山口駅前の通りを北に向かって進む。時折日が射してくる。上山口駅までは1kmほどの距離なのだが、小さな小さな駅舎、最初は見過ごしてしまい、次の宮野駅近くまで行ってしまった。
 駅前の交差点を山口方面から来るなら左折すると日赤病院がある。その手前を右に入る。陸上自衛隊山口駐屯地に接するようにあるのがサビエル記念公園である。公園に入る前の道に柱状の碑が建っていて、正面には印象的な書体で「ザビエル公園」と彫ってある。そして側面には「日本最初の教會大道寺址」とある。

 サビエル公園内の聖ザビエル記念碑

サビエル公園内の聖ザビエル記念碑

ここにザビエルの顕彰碑が建てられたのは大正15(1926)年のことである。ザビエルの遺跡、つまり彼が大内義隆から与えられて住居とし伝道を行った寺院、その場所がこの近辺であるとして、地元有志と協力し土地を買い求めて顕彰碑建立に至るまで尽力したのは、パリ外国宣教会のヴィリオン神父である。師は1868年に来日、長崎、神戸、京都での司牧を経て、明治22(1889)年に山口に転任となった。殉教者の顕彰にも力を注いだ人である。
 師は顕彰碑が建てられたのと同年に「山口大道寺跡の発見と裁許状について」という論稿を発表している。そこにはザビエルが大内義隆より《大道寺》を与えられたと書かれ、古地図の発見により大道寺の位置を確かめることができたという経緯などが述べられている。
 しかしこの論には、どうも疑問点が多い。それは松田毅一氏によって細かく指摘されている(「大内義長の大道寺裁許状について」)。専門家ではないわたしが論争に深入りすることはしないが、読んでいてやはり納得できないところがある。まず、ヴィリオン師が発見したという古地図の出所が曖昧である。さらに「フランシスザビエーの布教及び大内義隆より大道寺の与えられた事は明治の初年大政官にて翻訳せられた日本西教史に詳しく説かれてある」とあるが、『日本西教史』のどこにそのような記述があるというのだろうか。ザビエルが都から戻り再び大内義隆と謁見し、居住地として与えられた地所については「居住のため寺院を建設すべき地所を添え、旧仏寺を耶蘇教徒に附与せり」との記述があるのみだと思う。ここに「大道寺」という呼称は見られない。
 ザビエルは山口を去る際、後をトルレスに託した。そのトルレスは、大内義隆を継いだ義長より「大道寺」を教会建設の地として与えられた。そのことを示すのが、日本における最古のキリシタン史料である「大道寺裁許状」である。これについてヴィリオン師は、裁許状が最初に与えられたのは義隆からザビエルに対してで「毛利元就の戦の時、前の裁許状は紛失せられ義長から再び与えられたものである」と説明している。これと同様に、義長からトルレスに与えられた裁許状は義隆がザビエルに与えられたものの再下付であるとする説は福尾猛市郎氏なども唱えているのだが(『人物叢書 大内義隆』)、どれも推測の域を出ていないと思う。いずれにしろヴィリオン師の論は、あまりにも説明が足りない。
 ザビエルが与えられた古寺とトルレスが義長から与えられた大道寺が同一のものであるか否かについては、松田毅一氏は「別のものであることは明白」と言い切っているが、種々の意見がある。しかし同一であるとの断定は少なくともできないだろう。山口県教育委員会が1998年に行った発掘調査の報告書においても「明らかではない」との表現が取られている。そして現在のサビエル公園が、ザビエルが与えられた地であるとも断言できない。いずれにしろ、ヴィリオン師の言説は、ザビエルの偉業を称え広く知らしめたいとの気持ちの強さ故に生じた勇み足だったといえるのではないだろうか。顕彰という行為には、人が訪れ集うことのできる《場》が大変重要なのである。なお筆者は、決して同師の偉業を貶める意図を持つ者ではないことは書き添えておく。師は歴史家ではなく、あくまでも司牧者として、また宣教の視点から、聖人や殉教者の生涯を広く伝えようと努力なさったのだと思う。

 ヴィリオン師の像

ヴィリオン師の像

 公園は想像していたよりも広く、きれいに整備されている。花壇には色とりどりの花が咲いている。背の高い青紫のアガパンサスが優美で、その根元に伸びる初雪カズラが可愛らしい。右手にはヴィリオン師の胸像がある。柔和で温厚な表情が、その人柄をそのままに表しているのだろうと感じる。
 正面の十字架形をした聖ザビエル記念碑は荘重さすら感じる立派さだ。日本にキリスト教を初めて伝えたこの偉大なる人物の名を知らぬ日本人はいないだろう。キリスト教の歴史にも日本史にも大きな足跡を残した偉人にふさわしい規模の記念碑だ。正面のその肖像は、神への信頼に満ちた一途な表情を湛える。裏面はザビエル家の紋章である。
 大道寺裁許状を嵌め込んだ碑

大道寺裁許状を嵌め込んだ碑

 向かって左には、銅板に写された大道寺裁許状が嵌め込まれた碑が建っている。裏に回るとスプレーの落書きがあった。湧き上るのは怒りではない、悲しみである。
 築山館跡を示す碑(八坂神社)

築山館跡を示す碑(八坂神社)

 築山館跡に向かうため自転車を漕ぎ出し、途中で地図を確認していると、同じく自転車を漕ぐ地元の男性から話しかけられた。親切に色々と教えてくれる。暑くなったら県庁で休めばいいという。涼しいし、レストランもあって安いのだそうだ。雨が降り出したら立ち寄ろうかと思う。
 築山館は、大内館に隣接して建てられた歴代当主の居館である。ザビエルはおそらくここにおいて義隆に謁見したと推定されている。現在は八坂神社の大鳥居の脇に、それを示す小さな碑が建つばかりである。
 そのすぐ先にある龍福寺、義隆の菩提寺であり、この地が大内館跡である。館跡は整備されていて自由に見学できるが、発掘調査は現在も進行している。
 大内義隆辞世の歌碑(龍福寺)

大内義隆辞世の歌碑(龍福寺)

 境内に入ると左手に義隆の供養塔があり、その向かいには辞世の句を刻んだ歌碑がある。「討つ人も 討たるる人も 諸ともに 如露亦如電応作如是観」。最後の一行は、露のように稲妻のようにはかないという無常観を詠っているのだが、少々気障、あるいは気取った強がりが感じられてならない。陶隆房の謀反に遭い義隆が自害を遂げたのは45歳のときである。
 この寺には小さな資料館があって、大内家関連の品が展示されているのだが、その入り口にはブロンズの騎馬武者像がある。表情を見るとちっとも武士らしくなく緊張感が見て取れないので、初めは義隆の像なのかと思ったが、その父である義興の像であった。
 大内義隆という人は、およそ武士らしくない人物で、武将としての才に著しく欠けていたといわざるをえない。
 『陰徳太平記』という文献がある。史書として全き信頼に足る書ではないかもしれないが、これによって義隆の人となりを知ることはできる。「是れ義隆、父義興には引替へて勇智共に劣りたる」「大内義隆は、純柔純弱なる大将にして、曾て将の器に非ず、将かかる柔弱なれば、其國必ず削らると見えたり」(早稲田大学編輯部編『通俗日本史』第13巻による。以下同)。こういった表現は随所に見られる。また、同じ中国の武将として毛利元就と比較され、散々にこき下ろされていたりもする。彼は、大内という家の持つ威光に頼って国を治めていたに過ぎない。
 ただ、文化、芸術、学問に対しての理解は深かった。しかしこれにしても、武将として成すべきことを忘れ現実を直視せず、公家文化にむやみに心惹かれ、ただ享楽に身を投じていただけのことである。『陰徳太平記』はこう断じる。「武の一字を忘れ空しく文字の學に耽り、眞學に至り給わぬぞ口惜しき」。さらには金銭感覚にも乏しく、人心に耳を傾けることもない。「倭漢祖師の筆蹟を求めて無数の金銀を費し……」「常に酒興に乗じ給ひ、醇酒池を爲し、嘉肴山の如く設け、晝(ひる)は終日飮暮らし、燭を秉(と)りて明に至る、国家の廢衰萬民の愁苦をも知り給はぬぞ口惜しき」。世は乱世である。糾弾は当然だろう。要するに勝手気ままで、バランス感覚を持ち得なかった人なのである。だから、陶隆房の謀反に気づくのがあまりにも遅く、家を滅ぼすことになった。
 ザビエルが山口で謁見したのがこの大内義隆であったこと、それは彼にとって果たして不幸なことであったのか、それとも有利に働くことであったのか。義隆とザビエルの会見の様子は、フロイスの『日本史』に読むことができる(松田毅一・川崎桃太訳『日本史6 豊後篇Ⅰ』)。
 ザビエルは最初に山口に入った際と、都に上り再び山口に戻ったときの都合2回、義隆に謁見している。最初の謁見では好奇心旺盛な義隆が海外のこと、あるいはキリスト教について興味を示しあれこれ質問したようだが、話が教義に及び「日本人が溺れている(種々の)誤りについて」述べる中で「ソドマ(の罪)」について「そのような忌むべきことをする人間は豚よりも汚らわしく、犬その他理性を備えない禽獣より下劣である」と強く説き語られると、義隆は激昂してしまう。「ソドマの罪」とは衆道、つまり男色のことである。『陰徳太平記』にも、義隆が美少年を寵愛する様は散見できる。結局この会見は不首尾といえる結果になり、布教活動もさしたる実を結ばなかった。
 その後ザビエルは、天皇との謁見など大いなる希望を抱き京に上るが、応仁の乱以降の戦乱により都は荒廃しており、何ら得るものなく山口に戻ってくる。山口での布教に期待を掛けたのである。
 そして2度目の義隆との謁見、ザビエルは周到な用意を行った。時計、鉄砲、ガラス、鏡、眼鏡などの品々に、インドの司教と総督からの書簡を添え義隆に贈った。義隆は大いに喜び、布教を全面的に許可して庇護を約束し「彼とその従者が居住できるように、一寺院を提供」したのである。
 この2度の会見を見るかぎり、ザビエルにとって義隆は、ある意味では困った存在ではあったろうが、単純で与しやすくもあったようである。結果、山口での2度目の布教は、ザビエルの日本における活動の中でもっとも顕著と言い得る成功を得た。
 龍福寺には、ザビエルがその傍らで説教を行っていたと伝えられる井戸の再現があると聞いていた。しかし見当たらない。庫裏の玄関にいた女性に聞いてみると――彼女は長年当寺で働いているというのだが――知らないという。仕方なく次の目的地に向かおうとして参道に出ると、その脇に、表示の板は半ば倒れ、木々に囲まれるように、石で切られた井戸があった。館跡のほうから境内に入ったので、最初はこの参道を通らなかった。それで分からなかったのである。

 ザビエル布教の井戸(再現)

ザビエル布教の井戸(再現)

やや丸みを帯びた4基の石により正方形が形作られている。内部は掘り下げてあるわけではない。何を根拠に再現だというのかは、よく分からない。しかし寺の門前に、あまり人に知られることもなく、こういったものがひっそりとあるというのは、何となくいい。周りを覆う苔の緑が美しかった。
 次に山口教会に向かう。街の中心の小高い場所に建つ2つの塔を備えた三角形の聖堂は、山口のシンボルのような建物である。当時大きく報道されたのでご存知のかたも多いと思うが、1952年に献堂された旧聖堂は、1991年9月に失火により焼失している。その後多々困難があったことと思うが、1998年に現聖堂が献堂された。
 辿ってきた道路の都合で、亀山公園側からの急勾配を立ち乗りで必死になって自転車を漕いだ。さすがに昨日の疲れがあるので足が重い。

 大内義長の裁許状碑

大内義長の裁許状碑

  この道は上りきると行き止まりになる。突き当たりには、背面に柳田國男の撰文が刻された国木田独歩の詩碑があり、右手に教会へと下る階段が続いている。その階段のそばには、大内義長の裁許状の碑が建っている。これはサビエル記念公園にあるものとは異なり、1574年ケルン版ラテン語『東洋イエズス会書簡集』に掲載されているそれの複製である。階段の下にはここに碑のあることを示す表示があったか否か、記憶が定かでない。教会を訪れる人にはこの階段を上ることを勧めておきたい。周りに丸く石が敷き詰められた、なかなかに凝った碑である。
階段を下り始めるとすぐ、白亜の聖堂が眼前に現れる。抜けるような青空が背景ならば一層美しいのであろうが、残念ながらこのときは灰色の雲に覆われていた。左右2本の塔がそびえているが、向かって右が鐘塔で、左は時計である。時計塔を備えるというのは、教会ではちょっと珍しいのではないだろうか。
聖堂にはスロープを上り2階から入る。青を基調としたステンドグラスが、静けさ漂う水中のような雰囲気を醸し出している。「光」「水」「テント(幕屋)」が建物全体のテーマなのだそうだ。背後のパイプオルガンも、聖堂の形に添い三角形の中に納まっている。向かって右手には、ザビエルの聖遺物(右手の指の骨の一部)が安置されている。
 階下は資料館である。キリスト教一般についての解説に始まり、ザビエル、日本の殉教者と教会、明治以降の教会の歩みなどが紹介されている。聖遺物やザビエルの書簡も展示されている。全体的に、キリスト教を知らない人にそれを知ってもらおうとする配慮が感じられる。観光地に建つ教会に付属する資料館なので、その姿勢はとても大切なことと思う。ただ、1点だけ気になることがあった。2008年版の本特集でも紹介した、チースリク神父が偽遺物と指摘するあの仏像が付いた金属製の十字架が、キリシタン関連のコーナーの片隅にあるのだ。説明は何もない。この十字架には、今までさまざまな場所で出会ってきた。おそらく多くの資料館は、怪しいと思いつつも処分に困り、捨てることもできないでいるのだろう。

 井戸端で説教するザビエルの像(山口教会)

井戸端で説教するザビエルの像(山口教会)

前庭と駐車場を挟み聖堂の向かいには、井戸端で説教するザビエルの像が建っている。左手に聖書を持ってロザリオを下げ、井戸の端に右手を掛けたブロンズ像である。
 井戸端でザビエルが説教していたというのは、ロドリゲスの『日本教会史』にある「福者パードレ(ザビエルのこと。引用者注)は、イルマン、ジョアン・フェルナンデスと共に毎日二回、殿の小路という通りに出かけ、そこにあった井戸の端に腰を掛けた。集まって来る民衆に向かい、その場所で、例の自分の書物(公教要理。同)を読んだり、読んだところを説明したりして布教した」(池上岑夫ほか訳『日本教会史』下)との記述によるものである。樋口彰一氏は「殿の小路(=大殿小路)」の井戸というのが果たしてどこにあったものであるのかの考察を試みている(『防長切支丹史話』)が、正確な位置は今なお不明である。

 福者琵琶法師ダミアン殉教之碑

福者琵琶法師ダミアン殉教之碑

 このザビエル像の隣には、福者ダミアンの殉教碑が建つ。188福者の一人、盲目の元琵琶法師で、大内家が没落し毛利の時代となって山口から宣教師がすべて去った後に、伝道士として活躍した人である。フロイスによれば「百里近い道を(たどり)わざわざ大村の修道院に来て」説教の方法を学んだのだという(同前『日本史12 西九州篇Ⅳ』)。グスマンの『東方傳道史』は比較的詳しくダミアンの活躍を伝えているが、相当気性の激しい人であったようだ。論争にもつねに勝ち、僧侶たちも一目置いていたようである。ある派の僧侶たちは彼を恐れその批判を行わないようにしていたが、一人の「博識の僧侶はダミアンを説伏したいと望んで度々論争したが、主の加護に依って反って論伏され、聖いばうちずも(洗礼。引用者注)した」(新井トシ訳『東方傳道史』下)といったようなこともあった。
 ダミアンの殉教についてはセルケイラ司教の報告書(H・チースリク訳、『熊谷豊前守元直――あるキリシタン武士の生涯と殉教』所収)に詳しい。それが起きたのは、後に触れる熊谷元直の死の3日後のことである。毛利輝元の命を受けダミアンのもとを訪れた2人の役人は、キリシタンたちが騒動を起こすことを恐れて夜を待ち、一切の事情を告げることなくダミアンを連行した。しかし彼は何が起きているのかをすべてわきまえていた。「盲人ではあるがこの道をよく覚えている。また私がキリシタンであるという理由で処刑されるために刑場に連れて行かれることをも知っている。私をだますな」とダミアンはいった。処刑の地で彼は祈りの時間を貰い、黙祷の後、自ら首を差し出した。役人たちは「何度も刀を彼の首に当てながら、もし信仰を棄てるならば殺さない」といったのだという。しかしダミアンは「早く首を切りなさい」とこたえ斬首された。
 殉教碑は赤茶に輝く大理石が切り出されたもので、十字架が彫り抜かれ「福者琵琶法師ダミアン殉教之碑」と刻まれている。188人の殉教者の列福決定を受け、2007年8月に建てられたものである。左には聖句を刻んだ同質の石が並ぶ。「心を騒がせるな。神を信じなさい」(ヨハネ14・1)。
 ここで触れておきたいのだが、山口の教会史にはもう一人盲人の名が刻まれている。ザビエルと出会って洗礼を受け、山口はもとより、東は京都、西は九州各地にまで伝道活動を行ったロレンソである。彼は日本人初のイエズス会士となった。
 ロレンソも元は琵琶法師であった。琵琶法師は、琵琶を弾きながら歴史を語る。そしてその多くは盲人であったから、語る内容については、文字に頼ることができない。つまり、人前で表現する確かな力と、卓越した記憶力とを備えているのである。その彼らがキリストの教えを伝える伝道士となったとき、それは教会にとって大きな力となったのだろう。
 八坂神社の近くで声を掛けてくれた男性のことばを思い出し、県庁で昼食をとった。当初の予定どおりならば、この後本圀寺に行けばよい。多少の時間が余るようでもあるので、国宝の五重塔を見物しに瑠璃光寺に行こうかと思ったが、止めることにした。たしか加藤宗哉氏が書いていたと記憶しているのだが、遠藤周作氏は、出版社などに連れられた取材旅行で関係のない観光地に案内されたとき、熱心に誘われても、自動車から降りることすらしなかったのだそうだ。この遠藤さんの生真面目さを見習おうと思った。何も遠藤周作と自分を並べる傲慢さを持つわけではないが、わたしだって仕事としてここにいるわけだ。今必要なのは、午後の訪問地でしっかりと歩くため、体を休めることである。
 やがて晴れ間が出てきたので、写真を撮りなおすために、再度山口教会を訪れた。青空を背景にまず満足できる写真撮影を終え坂道を下っていると、教会付属幼稚園の園児たちが帰るところに出くわした。坂の上り口、山口カトリックセンター横のマリア像の前で子どもたちは立ち止まる。先生の先唱に続いて「イエスさま、マリアさま、さようなら」という声が元気に響いた。

本圀寺

本圀寺

最後に立ち寄ったのは本圀寺である。山口駅からほど近く、中村女子高校の斜め向かいにある。『日本史』には「山口の我らの教会の正面に、釈迦を拝む本圀寺という法華宗の僧院がある」(同前『日本史11 西九州篇Ⅲ』)との記述があり、この近辺に教会があったことが推定される。『日本史』はさらに、この寺の僧侶とダミアンとの間に起きた論争を伝えている。内田シモンという老信徒が「元来怒りっぽい人」であるダミアンに対し、余計な苦労が生じぬよう「あの寺には行かないでくれ」と忠告していたのだが、僧侶たちが神を冒涜することばを吐いていると知るに及びダミアンは寺に押しかけ、説法する僧侶に論争を挑む。ダミアンは、死者の救いについて布施などにより差別をなす僧侶を、厳しく糾弾して遣り込める。最後にダミアンは「ここでデウス様の御教えやキリシタンに盾突く説教がなされるたびに某、ここに参り、(そのことで教えを)擁護し、説教師に反論いたすであろう」と高らかに宣言するのである。その後、僧侶たちは「キリシタンに抗う話をしなくなった」。
 現在本圀寺周辺に教会のあったことを確認できるようなものは何も残っていない。そして現本堂はかなり新しい建物である。とくによすがとするものもないのだが、境内でダミアンを思う。『日本史』の記述は当然ダミアン寄りで多少の誇張があろう。また、日蓮宗の僧侶は確信的にキリスト教を批判したのだから、かなりの論客であったことだろう。そして、その討論は迫真に満ちたものであったに違いない。  

山口・島根の史跡(2)

津和野(7月19日)
 午後1時過ぎ、山口からスーパーおき4号という2両編成の特急に乗った。50分ほどで津和野に到着する。
 乙女峠は観光スポットとしても広く知られ、その種のパンフレットにも、青葉あるいは白い雪を背景にした記念聖堂の写真がよく使われている。しかしここは、浦上四番崩れの配流地の中で、もっともといってもよい過酷さを信徒が味わわされた地なのである。

 吉見正頼公夫人の墓

吉見正頼公夫人の墓

 乙女峠の入り口は駅の裏手にあたるが、「乙女峠記念聖堂50m先」との表示が立つ横には光明寺という寺があり、大内義興の3女、義隆の姉である吉見正頼夫人大宮姫の墓がある。一族の墓所には、苔むした石塔が数基建っている。そばに植えられた白いムクゲがきれいだ。この花は寺院の境内によく似合う。
 峠への道を進むと空地のような場所に出る。ここから坂を上るのだが、通常のコースには縄が張られ迂回路が示してある。崖崩れか何かがあったのだろう。脇にはずいぶんと背の高くなったアジサイが、色を変えつつ咲いている。
 手すりの設置された坂道を進む。このあたりには落葉樹も多く、木々の緑が目に鮮やかだ。左手の小さな滝の連続のような清水の流れが、少しの涼を運んでくれる。
 乙女峠の記念聖堂

乙女峠の記念聖堂

 やがて右手に聖堂の屋根が見えてくる。十字架を頂いた尖塔は、葉叢に隠れてここからは見えない。
 この地は光琳寺という寺の跡である。この寺の「本堂を牢獄に当て、四方に竹矢来を繞らし」(『旅の話』)信徒を収容したのである。津和野には明治元(1868)年に、第一陣として高木仙右衛門、守山国太郎、守山甚三郎といった、浦上信徒の指導的立場にあった者を中心に28名が送られた。津和野藩最後の藩主である亀井茲監、そして福羽美静らの指導による国学に基づいた説諭での改心が期待されたのである。おそらく彼らは、それはたやすいことだと考えていたのだろう。しかし、信徒たちの強固な信仰は揺るがない。そこで過酷を極めた拷問が始まるのである。
 まずは畳が取り上げられ、寒中に薄い単衣一枚にされた。そして、極端に食事が減らされる。一日に「三合あるか無しか」の「粥のような麦飯」と、わずかの塩と水ばかりである。これにより8名の棄教者が出る。新しい服を与えられた彼らは、棄教したことを証明するために「鷲原八幡宮の前の川で禊」をさせられた。
 拷問の手段として三尺牢があった。説諭の場で頑強な態度を示したものを仕置きのために閉じ込めた、文字どおり三尺四方の牢である(1尺は30.303cm)。座って足を曲げなければ入ってはいられない大きさである。聖堂横にはこの牢が復元されてあるのだが、『旅の話』によるならばこのように角柱が組まれただけのものではなく「壁には一寸二分の厚い松板を打付けてあ」り、一方にのみ「二寸角の柱を一寸おきに打って」あった。この三尺牢の中で、和三郎や安太郎といった者が、飢えと寒さによって病を得、生命を落としている。それぞれ27歳、30歳の若者である。
 明治2(1869)年には、第一陣の家族を中心に125名が送られてきた。その中には、先に触れた岩永マキとともに、浦上帰還の後孤児救済に尽力することになる守山マツも含まれている。マツもマキ同様、強い女性だったようだ。紙に入れた十字架を体を抱えて無理やり踏ませようとした足軽の「頬をピシャリピシャリと二つ程続け様にぶん撲った」こともあったと『旅の話』は伝えている。

 乙女峠殉教顕彰碑(1968年)

乙女峠殉教顕彰碑(1968年)

 乙女峠殉教顕彰碑(1922年)

乙女峠殉教顕彰碑(1922年)

 敷地の奥には二つの殉教碑が建っている。ヴィリオン師により1922年に建てられた「信仰の光」と刻まれた小さな碑と、1968年に殉教100年を記念し建てられた「乙女峠の聖母とその殉教者」というブロンズレリーフの嵌め込まれた大きな碑である。後者には「神様のことを考えましょう」とのことばが上部に掲げられている。

 棄教者の墓

棄教者の墓

 わたしは乙女峠を訪れるのはこれで2回目なのであるが、この場所でもっとも心に残るのは、これらの碑の裏手、小高くなったとても日当たりのよい場所に建つ2基の墓石である。それぞれ「御預人改心 きん墓」「御預人改心 寅太郎墓」と彫られている。当地で生涯を終えた棄教者の墓なのである。これから千人塚、つまり拷問に屈することなく当地で亡くなった人々が葬られた地に向かうのだが、そこは木立が光を遮り、とてもじめじめとしている。まさにこの棄教者の墓とは対照的なのである。それをとても切なく感じる。この切なさとは、殉教者の身の上を悲しく思ってのことではない。
 だれだって、心から信じ愛したイエス・キリストとその教えを、棄てたくて棄てたわけではない。棄てることを宣言したときも、それから後の時間にも、彼らにはつねに深い悲しみが付きまとっていたに違いない。愛するものを棄てるのだから、それは当たり前のことだろう。その彼らは、死後「改心」と大きく刻まれた石の下に葬られたのである。そして150年近くが過ぎた今も、その文字はくっきりと読み取られ、その墓石には太陽の光が燦々と降り注いでいるのである。降り注ぐ陽の光を慰めと感じることもできるかもしれないが、そこまでわたしは素直にはなれない。皮肉を感じてしまう。
 敷地内の案内も解説の板も、この棄教者の墓については、確かな史跡であるはずなのに一言も触れていない。まさに黙殺である。それでいいのだろうか。浦川司教の筆は棄教者に実に厳しいが、今もってなお教会は、彼らの行為を汚れたもの、恥ずべきものとして抹殺し続けなければならないのだろうか。一度は改心を申し出て生き長らえ、その後教会に戻った人もいるのである。死者もまた、温かく迎えてやることはできないだろうか。一言でもいいから、彼らは棄てるという苦しみを味わわされた人たちなのだと、いってやることはできないだろうか。弱さといってしまえばそれまでなのだが、キリスト教は人間の弱さを否定する宗教ではない。そして、そういったことが殉教者の栄光を汚すことになるとは、わたしはまったく思わない。
 千人塚へと向かう。乙女峠との間をつなぐ杉木立のこの山道は、十字架の道行となっている。1留ごとに立ち止まり徐々に進んでいったのだが、写真を撮る際もメモを取る際も、とにかく藪蚊に悩まされた。払っても払っても、耳元で強烈な羽音を響かせる。
 13留を過ぎこの道の終わりとなるところで、杉の幹にこんな注意書きが括りつけてあった。「千人塚~乙女峠間 マムシ発生中!!歩行注意!!」。津和野町商工観光課によって掲げられた注意勧告なので、よく分かっていないのかもしれない。だれも十字架の道行を逆には辿らない。注意の喚起は出発地点で行ってほしい。

 至福の碑

至福の碑

千人塚碑

千人塚碑

 小川に架かる小さな橋を渡ると千人塚である。まず「南無地蔵大菩薩」と彫られた深く苔むした碑がある。千人塚はもともと飢饉による死者を供養した場所なのだが、乙女峠の殉教者たちもこの地に葬られた。なので、奥には記念碑(至福の碑)やキリスト磔刑像が建てられ、さらに道行の最後の14留となっている。記念碑は明治24(1891)年建立の古いもので、「為義而被害者乃真福」と刻まれている。「義のために迫害される人は幸い」である。その横の石には36名の殉教者の名と年齢が刻まれているのだが、一桁の年齢の者が何人もいる。当地で生まれて亡くなった子どももいるのである。
 街へと坂を下っていく。右手上には、森鴎外の墓があることで有名な永明寺という大きな寺がある。半ば開き半ば蕾のコアジサイを楽しみながら歩いていると、目の前で何かがガサゴソと動く。特徴的な縞模様、間違いなくマムシである。すぐに草叢へと消えていったのでどうということもなかったが、確かにいるのだ。とくに夏場は注意が必要だろう。

津和野教会

津和野教会

 次に津和野教会を訪れた。この聖堂は実に美しい。小京都と呼ばれる津和野の街の中心にあって、周囲の景観に見事に溶け込んでいる。外観は純然たる西洋風建築物であるのに、異物の感じをまったく受けない。そして中が畳敷きであるのがまたよい。祭壇もまた公会議以前の感じが残る年代物だが、これにも不思議に西洋的なものの押しつけを感じないのである。時の経過のなせるわざなのだろうか。建築されたのは1931年のことである。門の右脇には乙女峠の信徒の受難を紹介する小さなスペースがあり、ヴィリオン神父直筆の手紙も展示されている。
 夕刻、駅前から路線バスに乗り萩に向かう。終点の東萩駅まで、ついに乗客はわたし一人であった。運転手は女性。元バスガイドとのことで、歴史、民俗、県民性、地方政治など多岐にわたる話が最後まで続き、1時間40分ほどの行程、飽きることがなかった。 

山口・島根の史跡(3)

萩市内(7月20日)
  最終日である。日は射しているが雲も多く、時折ポツポツと雨の落ちてくる微妙な天気である。しかし蒸し暑い。8時過ぎに駅前で貸自転車を借り出発した。
 まずは萩キリシタン殉教者記念公園である。萩城の方角を目指せばよい。萩城址入口信号の一つ北に「あと200m」として右折を示す表示がある。

熊谷元直顕彰碑

熊谷元直顕彰碑

 この公園には熊谷元直の碑があり、萩に配流された浦上信徒の墓碑(記念碑)がある。浦上信徒のことから触れたい。
 萩には第一陣として66名が配流された。前同様『旅の話』によって見ていくが、最初「沖の小島」に送られた彼らは、その後清水屋敷という「古い大きな屋敷に繋がれた」。第二陣は234名。清水屋敷に程近い岩国屋敷に閉じ込められた。どうやらこのときから清水屋敷には棄教者が収容されたようだ。他地の記述同様、浦川司教は、この清水屋敷にいた棄教者たちが大きな躓きを生んだと厳しく記している。
 津和野の信徒同様、拷問を受けた者たちは飢えと寒さの極限状態を味わった。勘弁小屋に20日間も閉じ込められた喜代松の話は壮絶である。「秋風の身に沁みて冷々する頃」に衣服を剥がれ褌一つにされ、食事も与えられない。何度か、兄や善良な賄い方が握り飯を届けてくれたので餓死こそは免れたが、6日間は完全な絶食であったという。その後、役人は裸体のままの彼を寒風吹きすさび白い物も飛ぶ前庭に引き出し、庭石の上に座らせ改宗を迫った。しかし喜代松はこれに耐え、屋敷の中へと戻された。萩で用いられたこの拷問石は、現在長崎の浦上教会前に安置されている。
 ツルという名の女性の話もまた凄まじい。寒中の前庭に彼女は18日間毎日呼び出され、改宗を迫られた。ある日は「目も口も開かぬ程の大雪」であったが、彼女は責め苦に耐え続け、ついには「体は全く雪に埋もれて、ただ頭髪だけがわずかに黒く見えているのみ」といった姿になってしまう。その後助け出されたツルは、凍傷で体中が腫れ上がってしまう。しかし、このときから女性が過酷な拷問を受けることはなくなったので、仲間たちは涙を流して彼女に感謝した。ツルは帰郷後、岩永マキの十字会の一員となった。
 また「鉄砲責め」なるものがあったことも伝えられている。これは「両の手を肩と脇下とより背に廻し、母指と母指とをしかと括り、背と腕との間には木材や重箱を突込んで、堪え難い痛みを与える」そして「朝から晩までそのままにして石の上に坐らせておく」という残虐非道な拷問である。棄教者である宇之助という男が、役人にこの拷問の実行を使嗾したのだという。
 萩では43名が亡くなり、現在の東萩駅の北方、小島のような鶴江台という地に葬られた。その遺骨を掘り起し、彼らが囚われた屋敷のあった場所に程近い現在の公園の土地を手に入れ、埋葬し直したのはヴィリオン師である。師の手記によると、遺骨の「発掘は四、五日間続けられ、そうして二十近くもの墓を発見」したのだそうだ(『日本のために五十年』)。

 萩キリシタン殉教者記念碑と墓碑

萩キリシタン殉教者記念碑と墓碑

 大きく立派な自然石に「奉敬致死之信士於天主之尊前」と彫られた碑の四周を取り囲むように、亡くなった信徒の墓石が並んでいる。右手には、これは浦上信徒の墓ではないだろうが、祠の形をした墓石が並んでいて、その内部には合掌姿の半身像が収まっている。同様のものは山口教会の資料館にもキリシタン遺物として展示されていたが、津和野の光明寺のムクゲの根方にもあって、花が手向けられていた。
 次に熊谷元直の碑である。大きな元直の碑と、それを取り囲むように都合4基の萩の殉教者の碑や墓が並んでいる。そのうちの1基は、元直といのちを共にした、婿養子の天野元信のそれである。
 毛利の家臣であった元直がキリスト教と出会ったのは、秀吉による九州戦役に毛利軍として加わったときのことで、その仲介役を担ったのは黒田孝高であった。受洗から間もなかった孝高は仲間への布教を熱心に行っており、その一人として元直がいた。洗礼は1587年、中津においてである。当時豊後には一人の司祭もいなかったので、山口からペトロ・ゴメス神父が呼ばれた。しかし、朝鮮出兵も含め相次ぐ戦役の中で「受洗後信仰のことは何も知ることができなかったのでまったく冷えてしまった」(家入敏光訳「1596年度イエズス会年報」)のだが、その後、京において蒲生氏郷の家来である2人のキリシタン武士に出会い、改めて信仰の世界に生きるようになる。
 1600年の関ヶ原の合戦後、西軍として敗北した毛利輝元は多くの領地を失い、やがて安芸・備後は福島正則が拝領し、輝元は萩に移ることになる。このとき、元直は福島に付くか毛利に従い萩に向かうかの岐路に立たされ、結局後者を選ぶことになる。イエズス会の報告は元直自身のことばとして次のように伝えている。「過ぐる戦さの後、日本の数人の領主たちが自分に四万俵の扶持をもって召しかかえようと言ってくれたが、それは自分の本来の主君に尽くすべき忠義に反することになるので、私は受け入れようとしなかった」(岡村多希子訳「1603、1604年の日本の諸事」)。打算の上の実利を取るのではなく、武士としてあくまで主君への忠誠を貫く、それが元直という人である。しかし、その主君が神の教えと対立するのであれば……。この後元直はその厳しい選択を迫られるのだが、迷いが生じることはなかった。
 元直の殉教への経緯は少々複雑である。徳川による禁教令が各地に広がり、もともとキリスト教に好意的ではなかった輝元は弾圧を進める。そこでまずは信徒たちの中心的存在であった元直に棄教を迫るのである。彼は当然そんな説得には応じなかったが、同時に自分の死が遠くはないとも感じていた。こんな中で、萩城築城工事において事件が起きる。
 1605年、ほぼ完成を迎えていた萩城建設の普請奉行に、熊谷元直は益田元祥とともに任命される。そして井原元以と元直の娘婿の天野元信とが海側の石垣工事の監督に任ぜられる。ここで起きたのが五郎太石盗難事件である。五郎太石とは石垣の大きな石の間を埋める割りぐり石のことであるが、ある日、天野が工事を監督する現場でこの石の盗難が発生、犯人は益田側の人間であることが明らかになる。この事件は双方の主張の対立を生み、訴訟にまで発展する。そしてこの訴訟が原因で、毛利輝元は新将軍秀忠就任祝賀のための上洛の日取りを遅らせることになってしまう。結局訴訟を保留状態にして京に上るのだが、輝元が萩に戻るまで築城工事は中断してしまうのである。
 チースリク師は『熊谷豊前守元直――あるキリシタン武士の生涯と殉教』において、この経緯や背後の動きを詳しく検証しているのだが、残る史料がほとんどないために不明な点も多い。もともとの当事者は天野なのだが、それが元直へとスライドしていく根拠も過程もよく分からない。だが、この事件がきっかけとなり、最終的には反逆者の汚名を着せられ、元直は処刑されることとなるのである。
 毛利の手下に切腹を迫られた元直はこれを拒否する。そして、自分の手を彼らが持っている紐で縛るように告げる。そして「部屋に入って、別の上等の着物に着替え、頸に聖遺物入をかけ、聖画像の前に跪坐し、そこで、祈祷中に斬首された」(岡村多希子訳「1605年の日本の諸事」)。毛利は、キリシタンであるがゆえに元直を処刑したのだとは明確にはいっていない。表向きは政治的な抗争に端を発した粛清の形を取っている。しかし、五郎太石事件がことの発端であるならば、元直側だけが責を負わされるというのは不自然なことである。セルケイラ司教もその報告書において、5つの理由を挙げて元直の死が殉教であることを説いている。
 熊谷元直の碑はとても大きい。そして、刻まれた文字は凛としている。武士として信徒として、まっすぐに生きた彼の姿がそこに重なる。
 じきに晴れ間が出てきた。自転車を飛ばし萩城へと向かう。一部は復元だが、海側の石垣を見た。石と石との間に挟み込まれた砕石が、確かにあることを確認した。

 熊谷元直像(萩教会)

熊谷元直像(萩教会)

 次に萩教会を訪れる。聖堂隣のカトリックセンターの入り口には、右手に十字架を左手には縄を携えた小さな熊谷元直像がある。聖堂の写真を撮影するために立ち寄ったのだが、偶然イエズス会の恩地誠神父とお会いした。萩を訪れた理由を告げると、突然の来訪であったにもかかわらず、元直や浦上配流者そしてヴィリオン神父について色々と教えてくださった。なお、萩では毎年巡礼ウォークを9月に行っているとのことである。教会に実行委員会が設置され参加者を募っている。恩地師から、その巡礼ウォークのコースに組まれている高札場と報恩寺という寺を教えていただいたのでそちらに向かった。
 教会の前に国道を挟んで萩東中学があり、さらに並んで萩光塩学院高校がある。その二つの学校のグランドの横を通って進むと交差点にぶつかる。ここが高札場のあった地である。禁教の札もまたここに掲げられた。現在は往時の復元がなされている。2010年に完成したものだそうだ。よく見ると、なぜか高札の形で「萩市民憲章」が掲げられている。意味が分からないし趣味のいいことでもないと思う。
 この高札場近くを起点として、博物館の方角に向かってアーケードが伸びている。これを進み、アーケードが尽きたところを右折、左手に幼稚園があるのでその角を曲がると、右手にあるのが報恩寺である。2010年の春に開かれた萩市内の宗教者懇話会で、恩地師が難波俊明住職から、本堂正面の須弥壇下に秘密の地下空間とトンネルが見つかったと教えられたことで、萩教会と同寺との交流が始まり、同年から巡礼ウォークのコースにも組み入れられた。同寺には、この地下空間でオラショを唱えるキリシタンを庇うために住職が本堂で経を唱え、声が外部に漏れないよう協力していたとの言い伝えが残っている(「カトリック新聞」2010年7月18日号参照。なお、2011年に上梓された恩地師の著作『出会いは宝』にもこの経緯が綴られている)。今回は突然のことだったのでその地下空間を見ることはできなかったが、機会があればぜひ一度拝見させていただきたいと思っている。

下関(同日)

 当初の予定では、萩では、浦上信徒が最初に葬られた鶴江台に今も建つという十字架も見に行くつもりであった。しかし時間がなくなってしまった。山陰線、美祢線、山陽線と乗り継ぎ、2時間半近くを掛けて、最後の目的地である下関に着く。
 飛行機の出発時間まで余裕がない。大慌てで、まずは駅から徒歩数分の細江教会に向かい聖堂を写真に収める。
 さて、向かうのはザビエル下関上陸記念碑である。急いでいるので教会そばからバスに乗ろうかとも考えたが、待つよりも歩こうと決めた。しかし、汗を流しながら早足で歩を進めていると、本数が多いのだ、何台も目的地を通るバスが追い抜いていく。さすがに後悔した。
 しものせき水族館の前を過ぎると、下関グランドホテルの並びにカモンワーフという飲食店や土産物店の入っている建物があり、碑はその横にある。

 聖フランシスコ・ザビエル下関上陸の地碑

聖フランシスコ・ザビエル下関上陸の地碑

 海に向かって建つ、3基の石で三角形を形作る美しい碑である。正面には祈るザビエルのレリーフとザビエル家の紋章が嵌め込まれ、向かって右にはザビエル城の石が置かれてある。その石の下には「たとえ、全世界を手にいれても 自分の魂を失ったならば なんの益になろうか」(マタイ16・26)の聖句が刻まれている。
 この地は堂崎の渡し場のあったところで、ザビエルの碑の横には、それを伝える碑も建てられている。その説明にも書かれているのだが、京、大阪で捕縛された二十六聖人も、ここを渡って西坂へと向かわされた。そして四番崩れの浦上信徒たちは、逆にここから各配流地へと送られたのである。一人ザビエルのみならず、さまざまなキリスト教の歴史が刻まれた場所である。しかし、それらはすべて、ザビエルから始まったのだ。
 向かいは関門海峡。やや雲が多くなったが、門司の街並みは間近く、よく見える。九州から本州へ、本州から九州へ、多くの人が、ある者は希望を、ある者は夢を、ある者は悲しみを、ある者は苦しみを、それぞれに抱きここを渡った。旅の最後に訪れるにはふさわしい場所である。
 一つの場所で、ただぼんやりと考えるのが好きなわたしではあるが、ぼんやり考えるにはザビエルはあまりにも偉大過ぎる。ただ、聖者が生涯の最後に綴った書簡の一節が心に浮かぶ。「今までもっと生きていたいと思っていたその時はすでに過ぎ去ってしまいましたけれど、もしも神の聖旨であるなら、私は死なないでしょう」(河野純徳訳、『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』)。命を懸けて日本へとやって来た、聖者の行いは偉大である。しかし行いが偉大だから聖者なのではない。自分のすべてをゆだねた人、それを完全にし得た人だから聖者なのである。
 黒く濃い海を見つめて風を感じ、わずかな時を過ごした。海風が、汗まみれのシャツを少しだけ乾かしてくれる。ふと我に返り、時計を見た。そして、やや小走りで、空港行リムジンバス乗り場へと向かった。

(奴田原智明)

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