教皇フランシスコ、2015年2月18日の一般謁見演説:家庭— 5.兄弟姉妹について

2月18日朝、教皇フランシスコは、サンピエトロ広場に集まった大勢の信者とともに、一般謁見を行いました。この謁見の中で教皇は、家庭に関する連続講話の7回目として、兄弟姉妹について語りました。以下はその全訳です。
謁見の終わりに、教皇はその3日前にリビアで殺されたエジプトのキリスト者のために祈るよう皆に呼びかけました。

家庭— 5.兄弟姉妹について

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。

 わたしたちは家庭に関する講話を続ける中で、母親と父親、子どもの役割について考えてきましたが、今日は兄弟姉妹について考えたいと思います。「兄弟」、「姉妹」ということばは、キリスト教において非常に愛されていることばです。さらに家庭生活のおかげで、このことばはどの文化や時代にも存在しています。

 兄弟姉妹のきずなは、神の民の歴史の中で特別な位置を占めています。神の民とは、人間としての体験の中心で神の啓示を受けた人々です。詩編作者は兄弟姉妹のきずなの素晴らしさを称えます。「見よ、兄弟がともに座っている。なんという恵み、なんという喜び」(詩編133・1)。そうです。兄弟愛は美しいものです。イエス・キリストもまた、兄弟姉妹になるという人間の体験を完成させました。イエスはこの体験を三位一体の愛のうちに抱きとめ、血族の結びつきよりもさらに強力なものにすると同時に、外部とのあらゆる障壁を乗り越えられるようにしました。

 ご存じのように、兄弟姉妹の間の関係が破たんし、失われると、争い、裏切り、憎しみという痛ましい体験がもたらされます。聖書の中のカインとアベルの一節は、こうした悪しき結末の一例です。カインがアベルを殺した後、神はカインに尋ねます。「お前の弟アベルはどこにいるのか」(創世記4・9)。主は、あらゆる世代の人々にこのように繰り返し問いかけ続けます。不幸なことに、どの世代においても、「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」(同)というカインの激しい返答がいつも繰り返されています。兄弟姉妹の関係の決裂は、人間にとって不快で有害なものです。家庭においても、ささいなことや相続財産のために、口をきかなくなったり、挨拶もしなくなったりすることがしばしばあります。これは悲惨なことです。すべての兄弟姉妹が同じ母の胎内に9カ月いた後に、そのからだから生まれたことを考えれば、兄弟姉妹の関係がいかに大切であるかが分かります。兄弟姉妹の関係を断ってはなりません。意見の食い違いのために兄弟姉妹が仲たがいしている家庭のことを考えましょう。もしかしたら、自分の家庭もそうかもしれません。そうした家庭において兄弟姉妹が仲直りし、家庭が再建されるよう主に願いましょう。兄弟姉妹の関係が壊れることがあってはなりません。もし壊れたら、カインとアベルのようなことが起こってしまいます。兄弟はどこにいるのかと主がカインに尋ねたとき、カインは「知りません。弟など、どうでもいいのです」と答えます。これは恐ろしいことです。非常に悲しいことです。仲たがいをしている兄弟姉妹のために、常に祈りましょう。

 子どもたちの兄弟姉妹のきずなが、他の人々を受け入れる教育的な家庭環境の中で培われるとき、その家庭は自由と平和のよき学びやになります。人間の共存、すなわち社会の中で生きていくすべは、家庭において兄弟姉妹の間で習得されます。世界に兄弟愛を伝えるのは家庭そのものです。わたしたちはまだ、そのことに気づいていないかもしれません。兄弟愛の実践は、兄弟愛の最初の体験に始まり、家庭における愛と教育にはぐくまれ、社会全体と諸民族間の関係の未来を約束するものとして広まります。

 神はイエス・キリストのうちにこの兄弟姉妹のきずなを祝福してくださいます。その祝福は想像もできない形で広がります。神は、そのきずなを国籍、言語、文化、宗教上のあらゆる相違を乗り越えられるものにしてくださいます。

 人々の間のきずなについて考えましょう。お互いがまったく違っていたとしても、人々が互いに「彼は本当に兄弟のようです」「彼女は本当に姉妹のようです」と言えるとしたら、それは素晴らしいことです。歴史が明らかにしているように、兄弟愛がなければ、自由と平等は、個人主義、体制順応主義、さらには利己主義に満ちたものになってしまいます。

 家族の兄弟愛は、もっとも弱く小さい兄弟姉妹、病気や障害を抱えた兄弟姉妹に対する配慮、忍耐、愛情のうちにとりわけ輝きます。世界にはそのような兄弟姉妹が数え切れないほどいます。わたしたちは彼らの心の広さを十分に認識できていないのかもしれません。今日、わたしは9人の子どものいる家族と謁見しました。多くの兄弟姉妹のいる家庭の中では、年長の兄弟姉妹が両親を助け、年少の兄弟姉妹の世話をします。このように兄弟姉妹が助け合うことは素晴らしことです。

 自分を愛してくれる兄弟姉妹を持つことは、かけがえのない貴重な奥深い体験です。キリスト教における兄弟愛も同様です。もっとも小さい人、もっとも弱い人、もっとも貧しい人が、わたしたちの心を和らげてくれます。彼らには、わたしたちの心と魂をつかむ「権利」があります。そうです。彼らはわたしたちの兄弟姉妹なのですから、わたしたちは彼らを愛し、彼らに心を配らなければなりません。貧しい人が家族のようになるとき、キリスト者としてのわたしたちの兄弟愛は、再び、生き生きとよみがえります。実際、キリスト者が貧しい人や弱い人のもとに行くのは、観念上の計画に従ったからではなく、わたしたちは皆、兄弟姉妹であることを主が模範によって示してくださったからです。これが、神の愛の原理であり、人々の間に現れるすべての正義の原理です。最後に、一つ、提案したいと思います。沈黙のうちに、自分の兄弟姉妹のことを考えましょう。そして、静かに彼らのために祈りましょう。

 この広場にいるわたしたちは今、すべての兄弟姉妹のために祈り、心から彼らのことを考え、彼らが祝福されるよう願います。

 高度な技術に囲まれ、官僚的な現代社会において、兄弟愛を中心に据え直すことが、これまで以上に必要になっています。そうすれば、自由と平等も均衡を保つことができるでしょう。したがって、息子や娘たちの美しい兄弟愛を、批判や恐れのために、家庭から軽率に奪わないようにしましょう。信仰はこうした体験から生まれ、神の祝福によって照らされているという確信を失わないようにしましょう。


謁見の終わりに、教皇はその3日前にリビアで殺されたエジプトのキリスト者のために祈るよう皆に呼びかけました。

「わたしは、3日前にリビアで殺されたエジプトの兄弟たちのために祈るよう、皆さんにもう一度、お願いしたいと思います。彼らはキリスト者であるというだけで殺されました。主が彼らをご自分の家に迎え入れ、遺族とその共同体を慰めてくださいますように。さらに中東と北アフリカの平和のために祈り、すべての犠牲者、負傷者、難民に思いを寄せましょう。国際社会がリビアにおける悲惨な状況に平和的な解決を見いだすことができますように。」

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