「カトリック情報ハンドブック2014」巻頭特集

「カトリック情報ハンドブック2014」 に掲載された巻頭特集の全文をお読みいただけます。 ※最新号はこちらから 特集1 外国人司祭が語る、宣教、日本、そして信仰 カトリック中央協議会出版部・編  2013年2月、教皇ベネ […]


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特集1 外国人司祭が語る、宣教、日本、そして信仰 カトリック中央協議会出版部・編

 2013年2月、教皇ベネディクト十六世が自ら退位を突然表明した。その後を継いだ第266代教皇フランシスコは、教皇として南米出身であることもイエズス会士であることも史上初、修道会会員としては2世紀ぶり、欧州以外の国からは1300年ぶりの選出という異例ずくめで耳目を引いた。が、日本人にとってとりわけ注目されたのは、「若い頃、日本に宣教師として渡りたかった」という本人の述懐であろう。振り返るに、日本にキリスト教がもたらされたのは、現代ほど渡航技術にも機会にも恵まれていなかった時代、苦難を物ともしない情熱を胸に、使命感に駆られ海を渡った宣教師たちの存在あってのことであった。
 この特集では、我が国に活動拠点を置く外国人宣教師に着目し、どのような志を抱いて故国を離れ船出したのか、また、宣教活動を通して感じた日本の姿など、その体験を伺った。今回は新教皇にちなみ、イエズス会から4名、フランシスコ会から3名の司祭に協力をいただいた。記して感謝を表したい。なお、各人の年齢は取材当時(13年7月)のものである。
 外国人の視点から浮かび上がる日本や、宣教への熱意を語ることばを通じ、本企画が信仰を見つめ直す機会の一助となれば幸いである。

イエズス会S.J.
イグナチオ・デ・ロヨラ(1491~1556)によって創立された男子修道会。学校を開設し学問研究に貢献するなど、多くの宣教師が世界中で活躍した。1549年に日本キリスト教史の幕開けをもたらしたフランシスコ・ザビエル(1506~1552)は、その代表的存在である。会員の霊的成長と人々への救いの促進に重点を置く。

フランシスコ会(小さき兄弟会)O.F.M.
アッシジのフランシスコ(1182~1226)創立の修道会(托鉢修道会)。キリストに従い福音宣教を目指す使徒的生活の共同体で、清貧・説教・回心が特徴。フランシスコの生き方を規範に、貧者や病人の世話を熱心に行う。

ジョン・クラークスン師 CLARKSON,John F, S.J.(90歳)

 1922年、アメリカ・セントルイスに生まれたクラークスン師。司祭になりたいと思い始めたのは、子どもの頃に遊んだいとことのミサごっこがきっかけがあったが、家庭内につねにあったイエズス会の宣教、とくにインドや中国に注目する雰囲気の中で育ったことも大きいという。「幼少期に父が38歳で病死したので、姉と自分は母に育てられました。高校教師だった母はイエズス会の教育の高さを尊敬していたし、母方の大叔父には、19世紀末のゴールドラッシュでカナダへと渡った移民のためにイエズス会士として宣教に赴き、病気や貧困にあえぐ人々のために病院を作った経歴がありました。さらに、プロテスタント牧師として中国に渡った母の友人からは、体験を綴った手紙がしばしば届いたりしました。そうした影響もあって、高校卒業後の生き方としてイエズス会員を望むようになりました」。ただ、その年は入会に至らなかった。同居していた叔母と祖母の死や姉の結婚などがあり、急に母親を一人にはできないと思ったからである。しかし2年間の大学生活を経た19歳の8月、望みを果たす。
 海外宣教が夢となった背景には、イグナチオ・デ・ロヨラの『霊操』がかかわる。高校1年の時、「キリストの国」についての黙想(第二週)を学んだ。ロヨラが「イエス自身は人々に、自分自身を神に与え、全世界で神の大きな希望を実現するため働くようにと呼び掛けた。そのためにイエズス会の召し出しはある」と説いたと聞き、己を犠牲にして全世界へ行くという姿勢を自分自身も心掛け、外国に行きキリストの教えを伝えたい、と考えるようになった。入会によってその想いには一歩近づいたが、しかし当初から日本行きを考えていたわけではなかった。上長は本人の事を考えて一番良い場所へ送るだろうから、それにゆだねればよい、と思っていたのである。
 哲学科在籍中に、一人のドイツ人司祭が修道院を訪れた。彼は日本に派遣された宣教師で、そこで働くイエズス会士の責任者でもあった。「原爆を投下された広島に、宣教のため大きく立派な教会を建てたい。その経費を今、アメリカで集めている」と語ったフーゴ・ラサール神父(1898~1990)は、自身も被爆しながら広島の犠牲者慰霊と平和のために尽力し、後に帰化して愛宮真備と名乗った人物であった。太平洋戦争中、日本はアメリカの敵だった。しかし戦後、アメリカの教会は敗戦で夢を見失っていた日本人が希望を取り戻すために何かしたいとラサール神父に申し入れていたのである。この印象的な話を聞いて、一年上の親しい友人は「すぐにでも日本に行きたい」と総長に申し出て、哲学科終了後に渡日する。それは、感銘を受けつつもすぐには動かずにいたクラークスン師とは対照的な行動だった。「自分には時期尚早」という思いが躊躇させていた。しかし、望みは抱き続ける。翌年、熟考の末自分が所属する管区の長に「日本に宣教師として行きたい」という手紙をエアメールで送った。すると「返事は船便で来ました。そこには『よい事です、ありがとうございます』とあるも、『すぐに来てください』とは書かれておらず、『今の勉強をよく続けてください』とだけあって、望みは通じなかったと思いました」。しかしその後、日本管区長のアルペ師(1907~1991)から「おめでとうございます! 総長様はあなたを日本へ送ることにしました」と記された手紙が届き、「とても嬉しかった」という。
 戦時中の日本の様子は、開戦当初から毎日流れていたニュースで知っていた。原爆のことも聞いており、「酷いことだ、原爆は必要ではなかった」と思った。そうした中で、自分も日本のためにイエズス会士として宣教で携わっていきたい、との意を固める。
 1949年、27歳で来日。船では、共に渡航したスペイン人神父と日本のことについて「いつもは静かな自分が沢山」話をした。横浜で日本の土を踏み、横須賀市田浦の日本語学校で2年間勉強した。その一方で、夏にはイエズス会に司牧が委任されている広島地区を訪れ、勉強のかたわら教会の手伝いをするという生活を続けた。
最初の夏。当時和風の聖堂だった翠町教会に滞在した折、丁寧な日本語を話す女性と出会った。「神父様はお元気でいらっしゃいますか?」と呼び掛けられるも、分からない。何度も聞き返していると、傍にいたその女性の娘が「母は、『お元気ですか?』と言っています」と説明してくれた。まだ敬語を理解していなかった頃の思い出である。翌年の夏からは、幟町教会に通った。
 1945年8月6日に投下された原子爆弾によって、広島市中心部は廃墟と化した。原爆ドームを見れば、原爆の威力がどれ程のものか、よく分かった。来日間もなくに目の当たりにした広島の街は、小さな仮設の店こそいくつかあるが教会を含む建築物はまだ無く、焼け野原が広がっている状態であった。それでも、定期的に広島に通うたびに新しく建物が建ち、電車も良くなり、だんだんと街らしくなっていった。その中で、ラサール師が建築に尽力した世界平和記念聖堂(幟町教会、1954年献堂)は、広島復興の一つのシンボルであった。駅から出るとまず聖堂が目に飛び込んでくるのが印象的だった。が、徐々に他の建物が増え、目立たなくなってしまった。鐘のメロディーが美しかったことも、よく覚えている。来日したばかりの頃、キリスト教の話を聞く人はかなりいた。しかし、人は集まるが、洗礼に結びついたのがその中でどれ程だったか、よくは覚えていない。
 その後、第三修練の終わりにアルペ師と話した際「神学校に関心がある」と伝えると、ローマでの勉学を勧められた。それを機に3年間渡欧、再び日本に戻ってからは、上石神井のイエズス会神学院で7年間教え、学院長も務めた。しかし、学生運動が日本でも始まると、上智大学もあおりを受ける。神学院への影響は大きくはなかったが、それでも教えにくい雰囲気になった。このことを契機に、東京カトリック神学院の運営をイエズス会から日本の司教団へと引き渡すことにした。その後クラークスン師は東京を離れ、山口教会の主任を経て長崎に移り、黙想の家を担当した。
 90年の人生のうち、日本では約60年を過ごした。振り返ると、一言では言い尽くせないほどの思い出がある。宣教活動において、「日本人はキリスト教を受け入れる良さを知りつつも、自分の生き方として受け入れるのは遅い。ゆっくり見てよく確かめて、それでよろしいでしょう、となると受け入れる」と思わせるような体験がしばしばあった。そこからは、外から何かを受容する時、良し悪しを見極め、選び取るという日本人の姿勢を感じている。アメリカの神学校時代に親しかった上海出身の中国人とは、日本と中国についてよく話したものだった。来日前は、アジア人の見た目はほぼ同じでみな中国人に見えたが、いざ日本へ来てみると、彼から受けた印象との比較で両国の違いがよく分かった。日本人は自分の内心を表に出さないが、よく知ってみると感情は深い、ということも理解するようになった。
 師が現在暮らす長崎は、日本国内でもっとも宣教に成功した土地といえるだろう。「それが何故なのか。調べてみると面白いかもしれない」と考えているという。 (於・長崎二十六聖人修道院)

マヌエル・ディアス師 DIAZ,Manuel, S.J.(82歳)

 1930年、スペイン・ダラナダで8人兄弟の長子として生まれたディアス師は、熱心な信者だった両親の影響を大いに受けて育った。イエズス会の高校を卒業した直後、修道会への入会が決まっていた。両親はその前晩、同行の司祭でもあり、師が第二の父と慕う校長を招き夕食を共にした。父親は校長を前に語り始めた。「結婚する前からわたしと妻は、『最初の子は男の子、そして神父になるように』と祈っていました」。そして生まれたのがディアス師だったと明かした。この話を初めて聞かされた本人も、食卓を囲んだ皆も、大変感激したという。今も、「自分が司祭になったのは父と母のおかげ」と感謝する。
 日本のことは、中学校で習慣や歴史を学んでいた。殊に印象深かったのは、モイセス・ドメンザイン神父(1900~1970)が語った生活様式の違いであった。ドメインザイン師は日本での宣教活動に尽力し、山口に教会を建てる費用を母国で募っていた。その彼が学校を訪問し、襖や畳などの写真を見せながら語ってくれた話は、子どもながらに興味をそそられる内容で、自国との違いに驚かされた。
 入会したのは第二次世界大戦終戦の年だった。その頃、貧困に苦しむ日本にキリスト教を伝えるため「全世界で日本に行きたい神学生、若い司祭は知らせてください」というローマの総長からの通達があった。そこでローマに手紙を書いたところ、認められた。3年を経た哲学科修了後の1952年、22歳の時に、日本へと渡った。
 船で1か月以上かかる旅だった。同じ管区からは3人、別便も含めればその年はスペインからだけで18人が日本に渡った。殉教者にはイエズス会員が多いと学んだこともあり、日本にあこがれていた。船はまず呉に到着し、汽車で広島へと向かった。それから3人は長束修練院へ連れられ、食事をとった。もちろん和食である。当時修練長だったアルペ師は、からかうつもりで「日本では礼儀が大切、あなたたちから食事を始めなければなりません」と告げた。だが、初めて見る箸の使い方が分からない。想像できず思いつくまま、両手で一本ずつ持ち掬い上げるようにして食べた。当然うまく取れず、その様子を見た皆が大笑いをした。初めて口にする味噌汁や沢庵も苦手で、食事が辛かったことを今でも覚えている。
 当時の広島は、原爆による惨禍で何も無かった。建物の残骸やプレハブとも言えない何かが道の両側に建っていて、さらに歩くと路面電車が焼けたまま放置されていた。「広島では、外国人司祭が教会の復興だけでなくさまざまに人々を助けた」と聞いている。広島滞在中に宿泊した長束修練院も、その場の一つであった。若い頃医学部で学んだ経歴のあるアルペ師は、修練院を被災者に開放した。廊下でも構わず畳を敷き、一枚の上に数人を横たえ、薬の入手もままならない状況で世話をした、という。
 3日間の広島滞在後、田舎から野菜などを運ぶ人たちと共に汽車に揺られて横浜へ向かい、その後田浦の日本語学校で2年間学ぶ。毎日6時間、子ども扱いされながらの授業であった。1954年、再び広島へ赴き修練院でラテン語を教え、その後の4年間は上智大学で神学を学ぶ。同学年には18人おり、そのうち4人は日本人だった。イグナチオ教会で叙階された後、神戸の六甲学院中学高等学校で30年間教壇に立った。英語に加え、放課後には仲間と宗教(当時は倫理)を教えたが、中1から高3までの生徒たちが熱心に誘い合わせて毎日20人ほど集まった。聖書や祈り、秘跡などキリスト教について学んだ希望者に洗礼を授けたが、その数は毎年30人にも上り、その中から司祭も誕生した。その恵みの働きの偉大さを仲間と共に賛美したことも懐かしい。また、毎週日曜日に家庭訪問をすることによって、その家族が受洗することも多かった。さらに夏休みには黙想を指導し、その功績が買われて、後に東京や長崎の「黙想の家」を任せられるようになる。
 戦後、日本には多数の宣教師が派遣され、受洗者は増えた。「苦しむ者は神を求める」と強く実感するのは、自身の原体験に基づいている。子どもの頃、スペインは内戦中で、毎日のように空襲があった。落下してくる爆弾が見え、それが近辺に落ちる音が聞こえ、爆撃でできた穴が沢山ある道を、母と一緒に地に伏せては逃れる苦しみの下にいた。それでも、日曜日になれば教会へ通い、一生懸命に祈ったものであった。司祭や教会は、苦しみの中にいる人々に祈りを教え、世話をしながら導く。ゆえにキリスト教の愛の精神は響く。戦争で皆が苦労をしたが、それでも互いに支えた。信者が誘い合うことは信仰の深まりにとって大切であり、教会を開くことも必要とされる。今では、スペインでも召命はおろか教会に行く人さえ少なくなったが、同様に日本でも熱心さが欠けてきたと感じずにはいられない、と師は述べる。かつてあった熱心さが薄れたのは、何が足りないからなのだろうか? そう尋ねると、師は、「いや、今はむしろ『余っている』時代です。生活が楽になったことが、求める熱心さを希薄にしたのではないか」と指摘した。
 キリストの身近さは、信仰を与えるためにある。多くの霊的指導では、一人ひとりに対し自分の子どものように祈りで温かく迎えることを心掛けてきた。驚きの連続だった来日当初、日本女性の控え目だが丁寧な微笑みが印象的だった。信仰を伝えるため、微笑みをもって親切に接することが大切、と師は考えている。
(於・長崎黙想の家)

ファン・ホセ・アギラール師 AGUILAR,Juan Jose, S.J.(85歳)

 メキシコ・グアダラハ出身のアギラール師は、1927年に生まれた。12人兄弟の6番目(3男)である。マリスト会の学校に1年通ったが、父親の考えでイエズス会の学校に転校したのが、会との最初のかかわりであった。産後の肥立ちが悪く亡くなった母親に代わり子どもたちを養育した父は、大変教育熱心で、わが子に対する愛情の深い人だった。父は自身の教育において、将来の道は中学卒業後に自分の意志で決めるべき、と考えていた。
 サッカーに夢中で歌うことも好き、将来は医者になろうと考えていた師が司祭を目指すようになったのは、高校の終わり頃。それまで周囲から多くの誘いがあったが、あくまで自分の意思を大切にしたいと考え、信頼するアドバイザーに相談すると、「そのとおり、神があなたを呼ぶなら、もっとはっきりさせるだろう」と言われた。17歳のときには「修練院の2年間で色々と試みてはどうか」と助言され、イエズス会に入会し医師として奉仕しようと考えた。しかし、その希望を父親に知らせるのは辛かった。「イエズス会は厳しいと知っているのか?」と問い返した父は、入会後、家のことや心配ごと、自分の考えを達筆な手紙にしたためては、毎月のように送ってきた。親として、わが子が家を出て傍から離れることは耐え難く、子供を取られるように感じたのかもしれない、と師は思いを馳せる。
 イエズス会の魅力は、創立者イグナチオ・デ・ロヨラの「全世界に動くことができる修道会を作りたい」という国際的・地球儀的視野にあると感じていたので、自分もイエズス会士として、貧困と発展途上にある国に行きたいと望んでいた。そのため当初、希望の派遣先から日本は外れていた。
 哲学科最終学年の時。アルペ師とラサール師は世界へと呼び掛けた。それは、戦後の日本人の心情を汲み取り、宗教への関心を感じ取ったもので、日本に新しい時期が来たことを訴えていた。「日本全土に運動を起こすため必要なのは宣教師である」という手紙を教皇ピオ12世(1939~1958在位)に送り、派遣を促した。実際、大勢の宣教師――イエズス会だけでも毎年20~30人――が日本へ渡り、多くの若者に洗礼を授けた。敗戦による精神的打撃は日本人のアイデンティティに影響を及ぼし、国にも未来にも自分たちの力だけではなく、超自然的な力が働くことを日本人自身が意識した時期であった。
 そのような中、アギラール師にも本人の意思とは裏腹の、しつこい誘いがあった。アドバイザーに本心をぶつけると彼は、「今わたしに述べたことをローマの総長にラテン語で書いて送りなさい。向こうに任せればよい」と言った。そのとおりにし、日本行きは無くなるだろうと期待した。しかし2、3か月後に聞かされたのは、自分を日本に送るため調査が進んでいるという話であった。予想外の展開に、衝撃を受けた。しかし不思議なことに、その瞬間、渡日への拒絶感は消えてしまった。今では、これも神からの召し出しだったと捉えている。
 1953年に神学生として来日、1960年に東京で叙階した直後渡米し、心理学を学ぶ。再来日したのは、1962年の夏であった。
 荷ほどきも済まないうちに、電話を受けた。声の主は上智大学学長だった。「今すぐ、長崎に行ってください」。この年、西坂で殉教した二十六聖人にちなむ教会や記念館の開館、記念碑の建立が予定されていた。二十六聖人の中にはメキシコ人のフェリペ・デ・ヘススも含まれていることから、母国で日本はよく紹介され、人気も高かった。そのため、これらの建設を多くのメキシコ人が援助し、開館式にも信徒が600人ほど訪れることになっていた。しかし、当時の長崎はまだ復興途上にあり、大多数の外国人の訪問には慣れていなかった。当然、外国人のための宿泊施設は皆無で設備も不十分、観光協会が把握していない事がらも多くあり、町はパニックを起こしているという。そこで、同国人であるアギラール師に白羽の矢が立ち、観光客への対応をお願いしたい、という内容であった。師はこの要請を受諾し、外国人観光客が落ち着いて満足な旅ができるための対応と、日本の紹介を行う役割を担うこととなった。
 3日間の案内の終盤。自治体とイエズス会挙げての歓迎会があった。日本語・英語・スペイン語ができるアギラール師は、司会を頼まれた。メキシコ人神父がギターを奏で、成り行きで師も歌うことになり、翌日帰国する彼らのためにセンチメンタルな曲調の歌を歌った。その晩、当時管区長であったアルペ師が言った。「初め整然と構えていた(山口愛次郎)大司教様が、あなたが歌い始めたら前のめりになり、私の肩に手を置き『あの神父様はこちらの学生のために暫く置いておいてくださいませんか』と言いました」。この一言で、長崎在留が決まった。大学生への教育を任されることになり、アメリカで心理学を勉強した経歴が買われ長崎大学に採用が決まり、英語を教えることになった。担当は医学部、文学部、教育学部にまたがり、約20年間多忙な生活を送る。
 同時に、学生指導のための合宿場が必要と考え、大学の近隣に「永井学生センター」を創立。カトリック精神に基づいた学生らしい生活ができる場を1965年から2009年まで提供し、セミナーや結婚式なども行った。施設の命名は、同じく長崎大で教鞭を執った尊敬する永井隆博士を記念したものである。教え子だった博士の娘も活動に協力してくれ、息子とは良い友人になるなど、永井博士自身とは直接会ったことはないが、縁が深まったと思っている。もちろん、共感する彼の本は多くを読んだ。妻となる女性の影響で信徒になり、彼女をどれ程愛しているかを書いた永井からは、日本人の愛に対する向き合い方について、おのずと考えさせられる。こういう経験があった。若い頃ミサで説教をしていると、中央に座る老人が渋い顔をして首を振っている。後で「わたしの日本語がまずかったですか?」と尋ねると、「いや、そうではない。あなたのいう愛には、わたしはエロティックなものしか感じない」と言われた。「愛」を男女間の性愛とみて、神の愛としては捉えてもらえなかったのである。多くの日本人にとって、「愛する」行為は難しいようであると感じる。しかし、キリスト教が主眼に置く「賜物である愛」とは、すなわち「大切にする」ことを意味する。誤解を恐れることはない。
 人間の信念とは、どこから生まれ、何に向かって進んでいるのか。人間はなぜ生まれてきたのか。人間の根幹をなすこの問いに対する答えは、「神があなたを愛している」に見いだすことができる。このようなキリストの教えは、人間とともにあるべきである。「キリスト教は若者のための宗教でもあります。だから、キリストの光は若者を支えるエネルギーとして必要とされるのです」と師は語る。宗教は、もっとも深い体験に根ざすもので、頭や知恵で計れるものではない。しかし、日本人の信徒は、頭では理解していても行動に移せない傾向がある。まず第一に、自分たちの宗教を「体験」する必要があるだろう。そして、その実感を大切にすべきだろう。信徒自身が「自分もそのような体験をしたい」と思えるモデル的存在を見つけ、それに倣うように宣教するのが望ましい。学生センターでは、そのような考えに則り活動してきた。何のための学びか。それが分かれば、体験はより深いものになる。よく働き勉強する日本人は、世界の中でも素晴らしい素地を持つ国民だ。あとは水――超自然的体験を注ぐだけである。
 「若者はホープ」と語るアギラール師。「日本の未来を創る」という気持ちで教育に向き合ってきた。今後も、若者のグループを作って何か新しいことをしたい。それが今の夢である。 (於・長崎二十六聖人修道院)

デ・ルカ・レンゾ師 DE LUCA,Renzo, S.J.(49歳)

 1963年、アルゼンチン・ラロケに生まれたデ・ルカ師は、5人兄弟の2番目(次男)として育った。物心ついた頃から司祭になりたいとあこがれたのは、ミッションスクールに通っていたことや、小さいとはいえ宗教的雰囲気が漂う村の影響による。とくにイエズス会への入会を希望したのには、高校時代のイエズス会士との出会いが大きく、また、『霊操』の霊性にも惹かれたので、卒業後に入会する。司祭になったら教区司祭として働くのが望ましいと考えていた両親は、反対こそしなかったが、宣教師になって息子が村から離れる寂しさや戸惑いを多少なりとも感じていたようである。しかし自身はこれも、出会いがあったからこその人生だと捉えている。
 修練院を経て、サン・ミゲル神学校に入学。後に「教皇フランシスコ」を名乗るホルヘ・マリオ・ベルゴリオ神父が神学院長を務めていた。第一印象を尋ねると、「同じ修道会に所属していますから、修練院時代から式典や行事などでベルゴリオ師との出会いは果たしていました。でも正直に言えば、印象についてはあまり覚えていません。教皇様になるとは、まったく思っていませんでした。当時の写真は一枚もなく、知っていれば撮っておいたのに」と少し悔しそうに微笑んだ。
 しかし、神学校では濃密な時間を過ごす。院長として接する彼は厳しかった。司祭として、会員としての方向性が決まるこの養成期間に学生が何を勉強するか、それを決定する神学院長の方針は重要である。当時のイエズス会には、第31総会(1965年。アルペ師をイエズス会総長に選出)の方針が根底にあり、さらに「より貧しい人々の所に行く」「できるだけ質素な生活をする」という第二バチカン公会議を背景としたモットーが意識されていたが、ベルゴリオ師はそれらを殊に強調した。こうした修道会の教えは、故郷での雰囲気とは異なったものだった。彼のおかげで身に着いたものは大きい、そう感じている。
 イエズス会は、「世界のために派遣される」を合言葉に、会員であればだれでも、「宣教に赴きたい」という夢を持つ。ただ、長い間アルゼンチン管区は人手不足で、宣教修道会でありながら実際は30年ほどもの間、一人の宣教師も出せずにいた。しかし、「自分たちの頃から再度宣教師を出そうという動きが出てきました。それは、管区全体としては意味があることですが、一方で、当時の責任者たちにとっては重い決断であったと思います」と師が語る背景には、人材養成という観点が含まれる。つまり、修道者の養成に必要な者は管区内に残さねばならない。そうした状況下で若者の何人かを宣教地へ送るということは、少なからず負担が生じることになる。しかし、修道会本来の方針――管区の必要性にこたえながら、世界の教会のための修道会という役割を果たすという選択――を優先したのである。
 神学校で2年経った20歳の頃、日本管区から宣教師派遣を望む声が上がった。当時すでに海外へ行くことを決めていた師はこれに応じ、派遣される2人のうちの一人に選ばれた。決定を下すのは管区長だが、顧問会のメンバーでもあったベルゴリオ師は院長として派遣者を推薦する立場であったことを考えると、彼が自分たちの後ろ盾となったといっても過言ではないという。
 管区は方針として、派遣先を日本に限定していた。世界各地から同様の依頼があっただろうに何故日本だけだったのか、理由は定かでない。「推測ですが、日本管区長も務めたアルペ総長の影響は大きいと思います。彼は『日本には宣教師が必要』と繰り返し述べていましたし、以前に管区長を務めたベルゴリオ師は、総長と面会したり手紙をやりとりする機会も多かったはずです、それなりの働きかけがあったでしょう。ベルゴリオ師自身にも依頼があれば、昔のアルペ師との思い出が脳裏をかすめた可能性はあるでしょう」。現在の教皇が、若い頃日本への派遣を望んでいたという話を、当時はまったく聞いていない、むしろ本を読んで知ったほどだ、とデ・ルカ師は語る。しかし、日本からの依頼に対し自分たちの派遣をもって応えたのには、管区としての方針のみならず、胸中にある想い――ベルゴリオ師はアルペ師に日本への派遣を希望する旨の手紙を書いたが、健康問題から厳しいという返事が来た、と語っている――も少なからず影響したのでは、と見る。
 1985年に来日、上智大学の日本語学校で2年間学んだ。日本の印象は「思ったより西洋と変わらない」だった。往々にして、伝統的で古めかしいものをイメージとして抱くことがあるように、来日前はもっと日本的な家が立ち並んでいるのかと思っていたが、想像した程ではなく、人々の服装も西洋とは変わらない。しかし他方で難儀したのは言葉で、「その壁は厚かった」という。なかなか分かりにくく、ある程度やれば先が見えてくるヨーロッパ言語と比べ、習得には苦しんだ。どう学べば良いか悩み、精神的負担は大きく、正直辞めたいとさえ思ったが、どうにか乗り越えた。
 叙階の翌年である1996年、日本二十六聖人記念館へと派遣される。そこで結城了悟(パチェコ・ディエゴ、1922~2008)師に出会い、多くを学んだ。
 記念館建設を提案し、展示品の寄贈を世界のイエズス会員や関係者に向け訴えたアルペ師は、長崎でも重要な役回りを果たしたが、その意向を受け、世界を巡って資金と資料を集めた結城師の苦労と努力、活躍も計り知れない。時には、かくれキリシタンの家に寄贈を願い出ることもあった。予想以上に貴重な文化財の収集がかなったのは、当時はまだキリシタン関係の資料館が他にはなく、専門知識が必要とされる研究の場も不十分な時代ゆえのことでもあった。研究への理解が深まり現地で収集保管される今なら、きっとここまで集まることはなかったであろう。キリシタン研究の先駆けの中心に結城師はおり、その熱意によって所蔵者から思いを託されるに至ったのである。多数の業績を持つ結城師はもちろん研究者としても著名だが、同時に宣教師としての心が強い人物でもあった。400年前の出来事を見たかのように熱心に語ることができたのは、資料を沢山読み込むことで歴史上の人物たちに親しみを感じ、伝えたいストーリーが彼の中で醸成された結果であろう。資料を博捜したペトロ岐部と187人殉教者の調査が列福に繋がったことも、その研究の恩恵である。
 傍にいて学んだことの一つは、資料の探し方、勉強の仕方である。その人がどのような人物であったか、その感覚や状況を知った上で探していくと、資料の価値の優劣がおのずと見えてくる。歴史的事実に加え、福音宣教の視点からは「あかし」について見つめることが大切で、それは資料を通じてのその時代を生きた人々との対話となる。また、日本人には見えていないことが外国人だからこそ見えている可能性もある。気づいた利点欠点を文化の文脈で読み解くことは、外国人の我々ができる点であり、すべきことと認識する、と師は語る。
 現在、結城師から引き継ぎ、二十六聖人記念館の館長を務めるデ・ルカ師。若者や信者でない人に対し記念館が難しいと感じる所は、「一発勝負」である点。限られた時間内で伝えていくとき、大切なのは第一印象である。さまざまな場所を巡り多くを見た旅行者の中に、何を残せるか。そのためにはまず、実感を持ってもらう必要がある。幸いにも、舟越保武氏(1912~2002)が制作したブロンズ像は、恐怖感を与える歴史上のできごとでさえも、平和的な表現によって「苦しみを超えた何かが信仰にはある」ということを見事に伝えている。ゆえに、来館者には二十六聖人記念碑の前で説明をするよう心掛けている。
 宣教の中心を担ってきた長崎で、イエズス会の歴史とつながる記念館に携わることには何らかの縁を感じずにはいられない。先輩たちが命をささげたこの場所の重さ、原爆で破壊された町が復興する過程において史跡として整備された土地に記念館が建設されたという不思議。この特別な場にイエズス会が戻り、歴史のパイプをつなぐ務めを果たすことは意義深い。長崎という街から発信できる何かが、確かにある。キリシタンの発信力について、昨今ようやく行政も文化的価値を認めるようになってきた。教会内においては祈りの場でなくなることへの懸念が生じる一方、これをチャンスとして生かすことも必要だと師は考える。キリシタン文化への人々の関心に対し上手にアプローチすることで、福音宣教の場が提供されうるからである。両者のバランスを崩さないよう、生じる現実問題と向き合いながら対処していくことが今後の課題であろう。
 欧州とアジアとを比較して大して変わらないと思うのは、世俗化や若者の教会離れである。日本における問題は欧州の問題であるという意識に立ち、世界で同時に考えねばなるまい。息が合わなくても表立っては衝突しないという日本特有の慎ましさは、良さと同時に弱さであるとも感じる。また、宗教に対して興味を抱きつつも内側へと入ってこないという反応も見受けられる。宗教について本気の対話が進まず、相手を尊重するあまり個々の意見に終始する傾向も否めない。その点、欧州や南米ならもっとはっきりとものを言い、解決策も見いだす。
 今はアジア、とりわけ日本人が宣教師として海外に出る時代で、教会の動きもだいぶ変わった。イエズス会が視野にとらえるアジアも、30年前に比べ狭くなった。社会が必要とするものを宣教の道具として生かしていく上で、日本では教育を重視してきた。学校のみならず、この記念館も教育の一環として位置付けられる。専門に特化していた以前に比べ、昨今は、世界の問題に対して総合的な意識が向けられるようになった。すべてが世界に繋がるのだから、対応も全体で行うべきという発想だ。その上で、ミッションはイエスから教会に与えられている共通のものと認識され、信者は相互にかかわることが求められている。キリスト教を好意的にみる日本人が多い一方で、具体的に勉強しようと踏み込む人は少ない。霊的な助けとなる工夫を施し、きっかけを作る必要があろう。
 今後は、結城師が収集に尽力した資料の価値の周知を図り、福音宣教に活かしたいと考えている。翻訳や出版はもとより、講演会や市内のガイド「さるく」、研究会など、キリシタン文化と接することができる機会は増え、機は熟している。記念館自体も、現代の感覚に則り近年リニューアルし、タッチパネル方式での解説や展示品紹介を導入した。それでも、市内にさえも来館したことがない人は多い。PRに際しては、キリスト教関連のネットワークの活用も視野に入れ、市内のカトリックセンターや巡礼センターにとどまらず、県内に点在する関係施設との連携を強化し、協力体制を総合的かつ効果的に構築し、教区レベルでのかかわりを発展させたい。
 自身が果たせなかった日本宣教の夢を、教え子が今、立派に担っている――フランシスコ教皇がこの場に立ったとしたら何を感じるだろうか。そうした夢想も決して非現実的でないことを、デ・ルカ師は示唆する。現在準備が進む「信徒発見150年記念事業」、「長崎の教会群世界遺産登録」、そして「高山右近列福」の推進運動が目標とする2015年頃は、教皇来日の機会にふさわしいだろう、と。
 信仰のために命を懸けた人々がいた、という歴史を背負う日本は、世界から注目されている。この視線に応えるため、われわれ日本人自身がまず自覚を強めるべきかもしれない。 (於・日本二十六聖人記念館)

ルイジ・ブファリーニ師 BUFALINI,Fulgenzio Luigi, O.F.M.(96歳)

 1917年イタリア・バーテリカ出身のブファリーニ師は、7人兄弟の5番目(次男)。危険な状態で誕生したため、急きょ母が洗礼を授けた。通学したフランシスコ会の学校での霊的な生活に導く教育や、信仰に篤い家庭の雰囲気に影響され、小学校卒業前に司祭になりたいと考え始めた師は12歳で入会、故郷を離れローマで生活する。司祭職を希望しながら断念した兄弟もいることから、召し出しはそれぞれだと思う。だが自身が今あるのは、神が種を蒔いてくださったからだ、と振り返る。
 叙階は1941年。当時ローマ管区は、中国の太原に多くの司祭を派遣していた。それもあって小神学校の頃から中国に行きたいと望むようになる。中国では莫大な人数が迫害され、殊に1900年には数千単位で信者が殉教し、後に列福された者もいる。もちろんローマ管区の宣教師も迫害を受け、面識のある司祭が1930年代に殉教した。そのことに感化され、「宣教師は殉教覚悟で行くもの、行くならば神の為に殺されたらよい」と思ったほどである。9人の同期のうち、宣教師になったのは自分一人。司牧か宣教かを総長に志願するのだが、自身は後者を選び、第二次世界大戦後の1946年に中国へ渡った。現地で1年ほど中国語を勉強してから、本格的に宣教活動を開始。中国での体験は大変過酷ではあったが、「今でも心は中国にある」と懐かしむ。
 中国人は明るく楽しい人たちで、素朴な信仰を持っていた。だが、生活にはまだ未開発な側面があった。中国と日本では、宣教の方法が異なる。日本では、都市部で教会を建て併設した幼稚園を通じ宣教を行った。しかし中国には、小さな村でもチャペルはあるが、学校は無い。そのため小さい学校を作って教えたり、救急医療を行った。宣教師とは、宗教的なことだけでなく家庭的な役割も担う存在であると考え、田舎のチャペルを拠点にさまざまなことを行った。漢字が分かるのはブファリーニ師ともう一人だけであった。師はイタリアで2年間宣教師向けの看護を学んだ経験があったので、さまざまな治療に従事した。伝染病が流行した時には、300人に投薬した。3日間熱が出るが、高熱ならば心肺停止の危険性も高く、何かあれば責任を取らなければならないと緊張したものである。それでも、当時は医者不足の上、自身も若くて懸命だった。
 しかしその頃台頭してきた共産党は、「でこぼこの道を平らにしたがる感じ」で迫害を進め、現地で貢献する人も次々に投獄された。51年8月、当時4、5人で共同生活する中で責任者だったこともあり、ブファリーニ師は出先で捕らえられた。他の多くの司祭も逮捕されたが、何故捕まったのか、責められたのか、いまだに分からない。連行時は2人だったが、もう一人は別の地へ、師は北京へと送られた。牢の一部屋には20人ほどが押し込められ、就寝時は司祭同士を一緒にはせず、もしそうせざるを得ない時は会話ができないよう異なる国籍の者で組み合わされた。中国語の会話しか許されず、母国語は使えなかった。後日談になるが、釈放された香港ではイタリア紙を取り寄せたにもかかわらず、中国語しか理解できない状態になっていた。
 毎日毎日、眠らせずに行われる尋問、さらに朝から晩まで共産党教育が強制された。本当に恐ろしいムードで、精神的に乗り切るには神と対話するしかなかった。しかし公然とはできない。心の中で祈り続けたある日。思わず口が動いてしまった時、すかさず「祈っているのか!」と咎められた。「唇が動いてはいけないの?」と辛うじてシラを切ったが、信じていても神を忘れてしまうほど、それは尋常ならざる苦しい期間であった。信者はこの厳しさの中で信仰が揺らぐのではないか、と感じた。信仰を揺るがされるこのような体験は、だれも望まない。信仰は心の問題だが、その心を奪おうとする迫害の歴史を知らなければならない。
 拘留は31か月にも及んだ。54年3月、下された判決は「中国国民の激しい敵として最高の罰による一生涯の追放」という内容であった。釈放され、手錠のまま天津に行き、警察で自由の身になった。持ち物は何もなかった。その後、当時イギリス領だった香港へ船で運ばれ、ローマへと戻る。
 ローマでは、20万人の中国人信者がいるフィリピンに行くか、あるいはローマ管区に委託されていた富山に行くか、迷っていた。かつて世話になったシスターにあいさつに行った際、どうするのかと尋ねられ、「日本語を改めて勉強しなければならないのは大変」と答えた。その言葉に、「あなたはそんなに馬鹿ではない。日本に行きなさい」と諭され決意、55年8月に来日する。六本木の日本語学校で勉強したのは40歳になろうかという時で、辛くもあったが、漢字を知っていたので、日本語習得は割に早かった。
 56年に高岡に赴任。当時は教会がなかったので、農地1200坪を買って新築した。10人前後だった信者が、教会完成後は100人以上に膨れ、信者でない人も沢山訪れるようになった。60年に東京への異動が決まると、見送りに何百もの人が来てくれて嬉しかったことを覚えている。赴任先の三軒茶屋では、大きい教会と修道院を作ることになり、信者がバザーで資金集めに協力した。そこでは、信者ではなくとも、礼儀作法を身に着けるために集まった多くのボーイスカウトの若者たちが熱心にミサに与る姿も、印象的であった。72年、富山教会への異動で再び北陸へ。それから41年、一昨年まで主任司祭と幼稚園長を務めた。今や「家に帰る」という言葉には、日本が思い浮かぶ。
 北陸での暮らしには、寒さより言葉、つまり方言に壁を感じる。話せないことは大変だが、表情で見分け対応している、という。
 日本人の特質で感じるのは、礼儀正しくはあるが、討論が活発ではなく、問題が発生しても自分の意見を出さないために、何を考えているのか分かりにくい、ということである。たとえ討論になっても物事の本質より人間関係の問題になり、何でも言える状況にならないところに難しい側面を見る。不服があってもその時には言わず、10年以上経ってから「あの時は」と率直な考えを話された経験もある。腹を割った話し合いによって解決することが大切ではあるまいか。日本社会には思いやりが足りない側面があるが、もちろん良い点も多くある。高岡へ初めて来た時、大雪の後、教会にだれも来ないと思っていたら小さなスコップで道をきれいにする人がいたのを見て感心した。信仰を持つ者の熱意を感じた。また、遠方にもかかわらず教会を訪れる人が多く、尊敬する。そこに神がいなければ、来ることはないだろう。
 いつも神様の事を考えるように心掛けてきた。ゆえに幼稚園の運営にあたっても、キリスト教の雰囲気を大切にした。立派な大人に成長したかつての園児が、町でばったり会ったときなどに「園長先生!」と声を掛けてくることがあって驚く。園長という職務はそれほどの影響力がある、と自覚する。「幼い頃からの習慣は容易には否定できないものです。信仰は、杭で基礎を打つことと似ています。柔らかい土はもっと深い所まで行くものです」と語るブファリーニ師。受洗に導くことに主眼を置くのではなく、キリストの精神という種を蒔く「宣教の間接」を大切にしたい、と考えている。神の事を考えると無駄なものは何もない、その種がいつ実るか、それは神に任せれば良いのだ、と。 (於・富山教会)

レオ・バッシ師 BASSI,Leo Silvio, O.F.M.(89歳)

 1923年の降誕祭前夜にイタリア・ジェノバで生まれたバッシ師は、3人兄弟の2番目として育った。司祭になりたいと思ったのは、不思議な縁による。3歳の時。おばが父親の誕生日に贈った本のうち、白に金箔、好きな色のダークブルーという表紙の1冊が気に入った。大変高価な本だったが「欲しい」と頼むと父は譲ってくれたので、家庭祭壇に置いて大切にした。その頃はまだ文字が読めずただ挿絵を眺めるだけだったが、一生懸命に文字を学び読めるようになると、それは古いイタリア語で書かれたものだった。『聖フランシスコの小さき花』、この本との出会いはその後の人生を決定づける。
 父親は造船設計士として会社を経営していたため、兄を後継者にと考えていた。しかし兄は大学で工学部から物理学に進路変更し、学者になってしまった。ショックを受けた父は望みをレオ師にかけた。師は船の設計士養成の高等専門学校に入学したが、シュバイツァー博士に関する本を読んで医師への道に心が傾いたため、卒業後は大学の医学部に進んだ。しかし、次第により霊的な生活を望むようになり、学業を終える頃、フランシスコ会の司祭になりたいと父に手紙を出す。フランシスコ会を選んだのは、幼少期のあの本の影響であった。父は妹に婿を取って跡を継がせようと考えたが、彼女は修道女になってコンソラータ会の副総長になり、ケニアで25年間働いた。
 1947年に入会し52年に叙階、フランシスコの逸話の中でもとくに印象的な「ハンセン病患者との出会い」の影響で、彼らの世話をしたいと思い、翌年から1年間アメリカで勉強する。アフリカに派遣されると思っていたが、当時やはりハンセン病者が多かった日本を希望することにした。しかし当時の日本にはフランシスコ会の管区はいくつか存在していたが、自らが所属するトリノ管区はなかったので、ローマに願い出て、日本への派遣がかなうこととなった。
 1954年に来日、六本木で半年間日本語を学んだ後、福岡での任務を経て、56年、熊本で120人の若くて活発なシスターたちと一緒に病院で活動を始める。当時ハンセン病患者の世話をする人がいない中、1700人と向き合った。それは司祭としての赴任だったが、師に医学の知識があったことは都合が良かった。まもなく効果の高い治療薬が投薬されるようになり患者たちは治癒したが、感染しないにもかかわらず外見などから差別されたことで躊躇し、彼らは社会に出ることを恐れた。そこで彼らを引き続き老人ホームで世話することにした。熊本には4年半とどまり、その後1年間の中目黒修道院滞在を経て、60年に北陸へ派遣され、おもに富山と魚津を行き来しながら小教区の仕事を手伝ったり、長岡教会の建設にも力を貸した。そして63年から柏崎教会に移り、現在に至っている。
 設計士として身に着けた図面を引く技術は、教会・信者宅・墓地・幼稚園の設計にも大いに役に立ち、魚津教会をはじめ多数を手掛けた。柏崎教会では、屏風を利用した祭壇や、バリアフリー、空間を無駄なく利用するなど、効率的で優しい工夫を施した。また、複数の教会で主任司祭と幼稚園長を兼任し、青年の交流活動にもかかわっている。地区長を務めた頃は、ボートピープル(ベトナム難民)問題が生じた時期でもあった。移民の国ではない日本には法律がなく、難問は山積みだったが、結果的に海水浴場の「海の家」で受け入れることになった。1980年4月16日に32名を、その後12年6か月で1732名を支援した。彼らの影響や思い出は、今も、柏崎教会に残っている。
 日本には最初から好印象を抱いていた。優れた国だと教わっていたし、興味深いものがあり、喜んで来たという。来日してすぐ、書店で日本の伝統を知ることができる書籍を求めた。今でも大切に持っているのが、箱根・富士屋ホテル編集刊行の『WE JAPANESE』である。ことわざや行事、日本の習慣などが項目ごとに英語で説明された600頁もの和綴じ本で、ここから色々なことを学んだ。日本の習慣や思考には、初めからあまり驚かなかった。「日本は平和で、人々も謙遜深く忍耐強いのが好ましい」と語る。
 日本人の信仰について尋ねると、師は次のようなたとえを用いて語った。「熊本でのある寒い日、祈りの本を読みながら火鉢に当たっていて気付いたことがあります。信者には、藁のようにぱーっとすぐきれいに燃えるが後には何も残らない者と、信仰の恵みを受ければ炭火のようにその恵みを心に温める者とがいます。日本人の信仰はこの炭のようだと感じます」。息を吹きかけると、炭火は燃え上がる。もちろん司祭の指導は必要だがそれだけではなく、信者が互いに息を吹き込むことも大切だ、と指摘する。中越沖地震を体験した折には、互いに協力する日本人の兄弟意識の強さを目の当たりにした。師が来日した頃にはまだ珍しかったボランティア活動も、今では新しい世代に根づき始めている。司祭の仕事は、「みな兄弟」という大きな喜びや、人々の内側にある炎を引き出すことにある。いつも聖フランシスコの「平和と喜び」を心掛け、喜びに満ちて活動をしてきた師は、弱者に寄り添う心を尊び、日本人の良い点も他国の人々と分け合うことの大切さを、自らの姿によって示している。 (於・柏崎教会)

カンドゥッチ・マリオ師 CANDUCCI,Tarcisio Mario, O.F.M.(79歳)

 1934年、イタリア・リミニーの出身で6人兄弟の長男として生まれた。修道名のタルチシオは、宣教師として中国に渡る希望を胸に抱きながらも戦時中に爆撃で亡くなったイタリアの修道士にあやかり、18歳の初誓願時に名づけてもらった。宣教師になる望みは無事かなえられ、「あこがれの日本に来ることができた」と語る。12、3歳で司祭になりたいと考えるようになったのは、中国から戻った宣教師の話を聞いたことがきっかけである。フランシスコ会司祭との出会いにも影響され、17歳で、フランシスコが植えた杉があるサン・レオの修練院に入る。
 1960年に26歳で司祭になると、派遣に惹かれてしかたなかった。神学院では、帰国した宣教師から話を聞き定期的に発表する研修グループのリーダーになった。所属するボローニャ管区はパプアニューギニアなどに宣教師を派遣していたが、中国に代わって当時は日本行きがもっとも多かった。敗戦によって支えがなくなり何かを求めていた日本人の喪失感に応える必要があると考え、日本文化を熱心に勉強した。殊に『羅生門』『七人の侍』などの黒澤映画は夢中になって観たものだった。研修発表は、教授たちや管区長も聴きに来た。霊性が深く、厳しいが父のような存在だったコルシーニ管区長は、当時若い神父たちの責任者だった。面接で「日本に宣教師として行きたい」と申し出た。直前に面接し同様に訴えた同期生は「イタリアの若い人のために働いてほしい」と断られたのに対し、自分の希望が通ったのは、管区長のトンスラ(頭頂部の剃髪)を手伝う際心の中で「わたしを宣教師にしてよ」と念じていた効果に違いないと思っている。
 しかし、同時に考えていた。もう少しウルバニアーナ大学で勉強したいし、夏休みを利用してイギリスで英語を学びたい、と。そこで、宣教学を学ぶため、60年から3年間ローマへ留学する。それは折しも、第二バチカン公会議と重なる時期でもあった。
 公会議開始日の62年10月12日、世界中から集まった3000人近い司教を間近で眺めたことは印象深い。公会議開始から2週間程経って、7、8人が副総長に呼ばれ、聖ペトロ大聖堂で行われる全体会議での世話役――席の案内やメッセージの配布などをするようにと命じられた。この役割は当初、神学生が担当することになっていた。しかし、教会の改革が必要と司教たちが喧々囂々と討論する様子を見た教皇ヨハネ23世(1958~1963在位)は、彼らには刺激が強いと心配し、その役目を司祭へと交代させたのである。その時博士論文を仕上げたい一心であった師は時間の余裕がないと断ったが、総長に「従順を分かっているのか」と言われ、引き受けた。しかし、身分証明書を首から下げて入った会場での経験は、今から振り返ると貴重であった。温和ながらも改革の人であったヨハネ23世は、「窓を開け新しい空気を入れるように」教会の刷新や現代化を図り、他宗教からの専門家もオブザーバーとして参加していた。休憩での交流を含め、会場内ではそれぞれに道を探る努力、真剣な瞳が感じられ、雑用係とはいえそのような一生懸命な雰囲気、生の声や姿に触れた意義は大きかった。身分証明書と記念メダルは、今でも大切に保管している。
 ヨハネ23世とも、直接言葉を交わしたことがある。スペイン広場近くの文書記録所へ週に一度教授と一緒に通っていたある日、係が念入りに掃除をする様子を見て訝しく思っていると、教皇が訪問するのだという。やがて現れた教皇に「フランシスコ会でどうするのか?」と尋ねられたので「日本に行く」と伝えると、「やぁ、極東に宣教師として行くのですね、良かったね、良かったね」と澄んだ眼差しを向け喜んでくれたことを、今も忘れない。
 ローマで仕上げた博士論文は、当初1613年に伊達政宗が送った慶長遣欧使節団で通訳を務めたフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ神父(1574~1624)についてまとめようと思っていた。当時あまり知られていない人物であったし、指導教授も「あなたは日本に行くのだし、日本で殉教した人だから、よいテーマだ」と背中を押してくれた。また、数多の資料がローマに残されていたので、良い論文が書けるのではと期待した。が、調査を進めるうちに、資料の大部分は日本語であり、しかも文字が判読できないことに気がついた。そこでテーマを変更し、興味があった宣教師養成に焦点を絞り、ローマにあった二つのフランシスコ会運営のコレジオ・ミッショナリオ(宣教師のための研修学校)の内の一つ、あまり調べが進んでいないサンバルトロメオ修道院を対象にして、1600~1800年代の資料に基づき、宣教師がどのような準備をして現地へ赴くのかを検証した。過去の宣教師が残したものを調べた上で海外宣教へと向かいたいと考えていた自身にとって、この論文執筆は宣教前の基礎知識を得、先駆者の真剣な姿勢を見習う機会になった。宣教とは、人間的な部分と、神から支えられている部分とが一緒になり、互いに受け入れ助け合いつつ多くのかかわりの中で果たすものである。教会が国を超えて存在すること、大先輩の中には殉教者や聖人もいるということを認識し、命を懸けて最後まで行うものだ、と自覚した。
 来日は1963年。ジェノバを8月末に船で出立し、42日間かけて10月半ばに横浜へ到着した。太平洋に入る前までの航海は、楽しかった。しかしその後台風による高波に揺られ、とても辛い目にあった。宣教者の保護者である聖テレジアや聖フランシスコのミサもできなかった。それでも、早朝に到着した横浜で眺めた富士山の、頂に冠した雪に朝日が当たる姿が美しく、心に残った。それから六本木の日本語学校へ向かい、2年間朝から晩まで勉強した。ローマにも日本語学校はあったが、渡航して日本人から習うべきと諭されていた。六本木には18か国80人ほどの宣教師が世界中から来ていて、中には漢字を覚えられず夢でうなされる人もいた。翌年に開催を控えたオリンピックの影響で、新しい道や立派な建物が次々と完成する東京には、発展的で近代的な印象を受けた。来日してすぐ、所属する新潟長岡地区つまり日本海側を訪問する機会にも恵まれた。昔のままの雰囲気が残る風景に接し人々との交流も生まれると、宣教生活の具体的イメージが湧き、その後の勉強にも熱が入った。また、出会う日本人は丁寧で、外国人ということで興味を持ってくれる人もいて、多くの友人ができた。
 北陸で手伝いをすることになり、運転免許を取った。その時期に父親が交通事故で亡くなったが、駆けつけようにも簡単に出国できる状況になく落ち込んだ。が、しぶしぶ日本行きを許してくれた父のためにも頑張るしかない、と気持ちを引き締め、複数の教会を夢中になって回った。また、若者が英語を学ぶ機会を求め教会へと足を運ぶことが度重なったことから、グループを作り、英語を通しての福音宣教を試みた。それは若者が生き生きと交流する場にもなり、大きな手ごたえを感じた。地域の人のためには、聖書勉強会も始めた。皆が尊敬をもって接してくれた。幼稚園長や長岡地区長を務め、多忙ながらも楽しい毎日を過ごした。
 フランシスコ会は、一つの聖務にこだわらず民衆の中で共に歩み、小さき者の所に行き兄弟として生きることを旨とする。そして祈り中心の共同生活をし、愛に基づく福音宣教へと向かう。日本人と接していると、その大部分は本音と建前が異なり感情表現が乏しいため、本音が分かるまでに時間が掛かると感じる。正確さは素敵だと思うが、もう少し緩やかさ、温かさがあっても良いのではないか、とも思う。80年代、新潟地区は難民を受け入れるかどうかで悩んだことがある。最終的にはカリタスジャパンを通じ、元は子どもたちの研修所であった「海の家」を受け入れ場所として提供したが、地元からは、治安の問題などで反対もあった。しかし準備を進めるうちに、逆にベトナム難民との交流が生まれ、状況は好転した。その後フィリピン女性の農村花嫁、南米からの労働者問題も噴出し、そのような「使い捨て」扱いされる人々への対応ではさまざまに苦労した。東京でも種々の国籍の人が生活し、今や日本の国際化は著しい。交わりの一方で、教会への受け入れに警戒する傾向も否めず、敷居が高いと感じることがある。豊かな選択肢と思いやりによって、こぼれやすい人を受けとめる教会になってほしい。「イエス様は道を誤った人を探しに行き、罪びとを招くために来ました。それがキリスト教の精神であり、本物の愛です。苦しみ、辛さに寄り添い、恐れず互いを受け入れましょう。順応性を高め、開かれた教会として祈り、一緒に生きれば良いのです」と師は強調する。
 30年間働いた高田教会での体験は、今でも思い出深い。「幼老園」ともいうべき、老人・子ども・障害者の施設の真ん中に聖堂があり、さまざまな人々が共にかかわり、声が飛び交う環境は、「小さい者の支え」を具現化したものであった。社会と共に歩む教会を目指し、教会に何ができるか、ニーズに応える。その大切さを師は繰り返し説く。北陸の自然環境は厳しいが、自然界が生き生きとしていて自分の肌には合っていた、という。今は東京に暮らすが、再び自然の豊かな地で色々な人とかかわりながら、生活の中の信仰を尊びつつ小さな人と共に働きたい、と願っている。 (於・聖アントニオ修道院)

(内藤浩誉)

特集2 キリシタン史跡をめぐる―九州編【1】カトリック中央協議会出版部・編

 全国のキリシタン史跡を出版部員が実際に訪れ紹介する、連続企画の第8回目。今回は「九州編【1】」として、福岡、熊本、鹿児島各県の史跡を紹介する。訪問先については、教区から提出された教区内巡礼地一覧を参考にしつつ、各種資料を参照し選定した。
(なお本文中、一部の文献、資料の引用にあたっては、旧字を新字に、旧かな遣いを現代かな遣いに、漢字をかなに、適宜改めた)

福岡・熊本の史跡(1)

三井郡大刀洗町(7月8日)
 JR鳥栖駅からタクシーに乗車し東へ、30分ほどで今村教会の前に到着した。
多少予想はしていたのだが、目的地までタクシーで簡単に着いてしまうと、どうも感慨が湧いてこない。自分の足で徐々にその地へと近づきつつ、頭の中でさまざまに思いを巡らすことがいかに大切であるかを痛感した。日程上しかたなくのことではあったのだが、やはりローカル線を乗り継いで、苦労してこの地に入るべきであった。

カトリック今村教会

カトリック今村教会

今村教会――赤レンガ造りの重厚で美しい教会堂である。晴れ渡る夏の青空を背景に、ロマネスク様式の二本の塔が壮麗にそびえている。建築家鉄川与助の最高傑作といわれるのも頷かれる。
鉄川与助は、1879(明治12)年に長崎県五島列島の中通島に生まれた。父親は大工の棟梁であった。学業のかたわらその父のもとで修行を積み、小学校高等科卒業後、初めて教会堂の建築に参加した。長崎の曾根教会の新築工事であったのだが、このとき彼はペルーという名の司祭と出会い、西洋建築について多くを学ぶ。とくにリブ・ヴォールト天井の工法をここで習得したことは、その後の鉄川にとって決定的なこととなった。
 リブ・ヴォールト天井とは、聖堂内で側廊と身廊を区切る各柱から、リブすなわち肋骨のように湾曲した木が伸びて天井を支えるというもので、「コウモリ天井」とも呼ばれる。この工法により教会堂独特の天井の高さは生まれるのである。
 鉄川の生涯を語るにあたっては、もう一人の司祭との出会いについても述べなければならない。有名な外海のド・ロ神父である。ド・ロ神父は多彩な才能と知識を備えた人で、建築にも精通していた。このド・ロ神父のもとで弟子のように多くを吸収していたころである1913(大正2)年に献堂されたのが、眼前の今村教会なのである。
 脇の入り口から聖堂内へと入る。杉の柱の褐色が輝いている。天井の曲線が実に優美で繊細だ。それら枠になる部分の木の茶色と壁の白とのコントラストが、荘厳な空間を生み出している。もちろん補修は繰り返されているのであろうが、細部はまったく古さを感じさせない。
 祭壇は公会議前の雰囲気が濃く残るので、当然ながら時代を感じさせる。十字架の後ろに置かれた、勇ましい大天使ミカエルの像が印象的だ。ステンドグラスは細かな装飾ではないが、逆にそれが落ち着きを感じさせ、夏の日差しを十分にやわらげ透過させている。フランス製で建築当時のものだそうだ。大正初期の今村の人々は、床に落ちるこの赤や青や緑や黄色の光を、さぞかし驚嘆のまなざしで見つめたことだろう。
 福岡県三井郡大刀洗町大字今――この福岡の片田舎になぜこんなにも立派な教会があるのか、その歴史を知らなければだれもが当然、そう疑問を抱く。
 大浦天主堂でベルナール・プティジャン師により浦上の潜伏キリシタンが「発見」されたのは1865(慶応元)年のことであるが、その2年後にここ今村でも潜伏キリシタンが「発見」されたのである。それは、プティジャン師に同じ信仰を持つ者と名乗りを上げた、浦上信徒たちの働きによるものであった。
 もともとこの地にどのようにキリスト教が伝えられたかには不明な部分も多いのだが、久留米城主で大友宗麟の娘婿であるキリシタン大名毛利秀包や、キリシタンに好意的であったその後の田中吉政などの時代にその端緒は求められるようだ。
 その後の禁教により信者たちが潜伏していくのは長崎等の地域と同様である。いわゆる「かくれ」として、今村の信徒たちも親から子へと信仰を伝えていった。ただ、今村では大規模な迫害や殉教などはなかったようである。もちろん、後述するがいくつかの殉教は伝えられている。
 今村の信徒発見は、浦上の染め物屋が藍を仕入れに久留米地方へと出掛け、今村にも潜伏キリシタンがいるとの情報を得、それを大浦のロカーニュ師に伝えたことに端を発する。ロカーニュ師は信徒の深堀徳三郎、相川忠右衛門、原田作太郎の3人に、今村を訪れてみるよう勧める。この3人に道中で深堀茂市が加わり、都合4人で今村探訪は行われ、新たな信徒発見へと至った。その顛末は浦川和三郎司教の『浦上切支丹史』に詳しい。
 浦川司教が綴る信徒発見の物語は非常に興味深く、ことばが適切でないかもしれないが、小説を読むような面白さに満ちていて、スリリングで感動的である。今村の人々は、長崎からの謎の来訪者を当然警戒した。長崎の信徒たちも最初から直截に話を切り出すわけにはいかない。相手を窺いつつの駆け引きが展開される。
 長崎の信徒たちは昼食をとった小店に一夜の宿を請うのだが、かたくなに拒否されてしまう。そこに一人の女性が現れ、少し遠いが自分の家まで来るならば泊めてあげますと申し出る。4人は喜んで女に従う。女は途中一銭屋(男の髪結いをする店)に立ち寄り、そこには平田シマという女性がいた。シマは、どうせならばここに泊まっていきなさいと告げて夕飯の用意を始め、「お菜は何に致しますか。鶏はいかがですか」と尋ねる。「いや、鶏は食べません」「お好きではないのですか」「好かぬのではないが、今は食べる時ではありませんから」「そんなら卵はいかがですか」「鶏も卵も一切食べません。食べてはならぬ時ですから」。この会話によってお互いの心の内が遂に知れるようになる。そのときは悲しみ節(四旬節)だったのである。
 シマ宅に浦上の人が宿泊していると聞きつけた村の者たちは「老若男女の別なく、我勝ちにと押し掛けて来た」。浦上の信徒たちはここぞとばかりに自分たちの信仰について話し始めた。しかし、村人たちは容易に心を開こうとはしない。彼らを隠密ではないかと疑っていたのである。
 翌朝になって村人たちの疑念もようやく氷解し、自分たちも「切支丹宗門」であると打ち明けた。そして、村人を代表して平田弥吉という者が長崎へと赴く。彼は長崎で改めて受洗した。
 この信徒発見の物語において、最初のきっかけを作ったのが2人の女性であるということが何とも興味深い。世話役の男たちは猜疑心に囚われていた。もちろんそれは責任ある立場ゆえのことであろうが、柔軟であった女性たちが、今村の信徒たちに新しい世界への扉を開いたのである。
 竹村覚氏により1964年に発見された「邪宗門一件口書帳」は、今村の潜伏キリシタンについて知ることのできる唯一といってよい史料であるが、この史料については、海老沢有道氏が詳細な考察を行っている(「筑後国御原郡今村の復活切支丹」、『キリシタン研究第十八輯』所収)。そこに次のような指摘がある。「注目すべきは、一八八〇年代に今村と周辺村落の『かくれ』は、すべてカトリックに帰正し、肥前のように『はなれ』がなくなったことである。その理由は種々考えられようが、オラシヨ伝承がむしろ不確かであり、尠なかった地域が、『かくれ』独自の変質した教理を持たないだけに、かえって帰正しやすい面があったからではなかろうか」。プティジャン師は、長崎の各地域の復活キリシタンの洗礼について、水方と呼ばれる洗礼を授ける役割を担う者が実際に唱えた文言と行った所作とを検討し、それぞれの洗礼が有効であるか否かを判断したのだが、ここ今村については、すべて無効であるとの判断が下された。したがって彼らは、改めて洗礼を受けたのである。
 こういったことは、当然ながら混乱を引き起こす。長崎の各地には「はなれ(離れ)」と呼ばれる、カトリック教会に帰属せずに先祖からの「かくれ」の信仰を保ち続ける人々が生まれた。しかし、今村にはそのような「はなれ」は生まれなかったというのが海老沢氏の指摘である。氏が述べるその理由については、そういったことも確かにあるかもしれない、とは思う。
 しかし、だからといって自分たちの洗礼が無効であると宣告された今村の人々の内に何らの葛藤も生じなかったとは考えられない。当地出身の作家である三原誠氏は『汝等きりしたんニ非ズ』という小説で、そこに存在したであろう苦悩を細やかに描いている。
 容易に想像できることだが、洗礼の無効を宣言されたキリシタンたちにとって何よりも辛かったのは、同じ信仰を持ちながら先に世を去った自分の先祖や親のことであったろう。自分は洗礼を受け直すとしても、すでにこの世にはない彼らにとって、それは不可能なことである。もし宣教師が死後の彼らが地獄の苦しみにあると伝えたならば、苦しまなかったはずはない。それゆえに自分自身が洗礼を受け直すことに迷いが生じたこともあるかもしれない。今村に最初に司祭が定住したのは信徒発見から12年後の1879年のことで、初代の主任司祭コール師は、1年間に1063名に洗礼を授けたそうだ(『信仰の道程――今村信徒発見125周年記念誌』による)。
 教会前の細い道を進むと平田ストアという店がある。この地域には青木と平田という二つの姓が圧倒的に多い。これも今村キリシタンのルーツを探る一つの手掛かりになるのだそうだ。元福岡教区長の平田三郎司教も、やはり今村教会の出身である。
 その平田ストアの前を通り、県道を越え国道322号に出て東に向かう。しばらく歩くと、水田が広がりその背後には緩やかな緑の稜線が連なるのどかな景色になる。しかしこの道には、歩道はおろか最低限歩くに必要な幅も脇に確保できていない。頻繁に車が行き交うわけではないが、国道ゆえそれなりに交通量もあり大型トラックなども通過するので、のんびりと歩くことができない。はなからこの道を徒歩で行くことなど想定されていないのであろう。さらに、夏の正午の炎天下、当然のごとく、ただの一人ともすれ違わなかった。
 目的地については地図上で大まかな位置を推測していただけなので、探し回ることは覚悟の上だったのだが、拍子抜けするほど簡単に見つかった。訪れようと考える人のためにやや詳しく道順を書くと次のようになる。

ハタモン場(ジョアン又右衛門殉教地)

ハタモン場(ジョアン又右衛門殉教地)

国道に出てから徒歩15分ほどだろうか、右手に大刀洗中学校の校舎が見える。校門前に細い道があるので、これに入りそのまま進む。学校とその隣の武道場の前を過ぎ、そのまま道なりに行くと、やがて正面で道が二股に分かれている。その二股の間に、倉庫のようなプレハブの建物を背にして十字架が見える。ここが目的地、ハタモン場と呼ばれるジョアン又右衛門の殉教地である。フェンスで囲われた区画に大理石の祭壇が据えられ、十字架が立っている。祭壇の足の部分には魚の絵とともにギリシア語でΙΧΘΥΣと刻まれている。これは迫害を受けていた初期キリスト者が信仰を表明するために用いた秘密のことばで、ΙΗΣΟΥΣ(イエス)、ΧΡΙΣΤΟΣ(キリスト)、ΘΕΟΥ(神の)、ΥΙΟΣ(子)、ΣΩΤΗΡ(救い主)の頭文字を取ったものだ。
 ジョアン又右衛門という人に関し詳しいことは分からないのだが、今村のキリシタンによって古くから尊敬されてきた殉教者である。現在の今村教会はそのジョアンの墓の上に建っている。祭壇下がその墓なのだそうだ。
 ここの碑文にはジョアン又右衛門は奥州の後藤寿庵のことだと書かれているが、その可能性は低いだろう。また島原からの落人であるとの説もあるようだ。
 ジョアンについては、さまざまな伝説が伝えられている。この地で処刑されたとき「天は、にわかにかき曇って暗くなり、大きな牛が倒れ、わらじの紐がぷっつりと切れたり、飛んでいる小鳥がひとりでに地に落ちたり」と、不思議な出来事が色々と起きたらしい。ジョアンの遺骸は夜になって信徒たちによって運ばれ、今村の竹藪に埋葬された。信徒たちは「ジョアン様のお墓」と呼んでそこを尊び、毎月20日を「あたり日」と称して、履物を脱いで墓を参り、祈りをささげたのだそうである(『信仰の道程――今村信徒発見125周年記念誌』による)。

カトリック本郷教会

カトリック本郷教会

メモを取る手を休めて下を見ると、小さなアオガエルが跳ねている。グリーンの背が強い日差しを浴びて輝いている。祭壇奥に向かって無心に進んでいくそのちっぽけないのちが、とても愛おしく思われた。
 二股の道の右側を進むと、県道509号に出るので右折する。南本郷の交差点を左折し、本郷小学校前の信号を右に曲がって少し行くと本郷教会がある。小教区の設立は1955年のことで、現聖堂は2010年落成の2代目、こちらも立派な聖堂である。大刀洗町の人口は1万5千人ほどでしかない。その小さな町に二つも教会があることは、やはり驚きだ。歴史の重みを思わずにはいられない。どちらの教会にも立派な納骨堂が付属して建っているのが印象的だった。
 本郷駅に出て西鉄甘木線に乗った。本郷の隣が大堰という駅で、今村に行くならばこの駅から歩くということになる。大刀洗町に路線バスはない。  

熊本・花岡山(同日)
 午後3時前に熊本に入った。まずは今夜宿泊するホテルに荷物を預けに行く。身軽になって玄関を出るとレンタサイクルが置いてある。しかも電動アシスト機能付きだ。迷わず借りて花岡山へと向かった。
 山なのだから至極当然だが、蛇行を繰り返す急な坂道を上っていく。この時点ですでにレンタサイクルに出会えたことを心から感謝したのだが、この後にさらなる恩恵を受けた。

熊本バンド奉教の碑

熊本バンド奉教の碑

頂上までは迷うことなく到着できた。山頂には第二次世界大戦の戦没者の遺骨を納めた白亜の仏舎利塔がそびえている。またこの山からは、熊本城築城時に加藤清正により多くの石が切り出されたのだそうで、「加藤清正腰掛石」やら「加藤清正ゆかりの兜石」などといったものがある。さらに「熊本バンド奉教の碑」というものが建っている。これは、内村鑑三による札幌バンド、植村正久による横浜バンドと並ぶ日本のプロテスタント教会の三源流の一つ、熊本バンドの発祥を記念する碑である。熊本洋学校でアメリカの退役軍人ジェーンズの感化を受けキリスト者となった35名の若者が、1876年1月30日に、この地で「奉教趣意書」に署名をした。
 さて、これらを一通り見た後で、案内の絵地図に向き合った。わたしが花岡山を訪れた目的が「加賀山マリア殉教碑」という名で記されている。どうもここまで上ってくる途中にそれはあるようなのだが、行きにはまったく気が付かなかった。ここから、ちょっとした困難が始まった。
 道の両側に注意を向けながら坂道を下りていったのだが、それらしいものはまったく見当たらない。脇に入るいくつかの道も進んではみたが、いずれも不発であった。これより先のはずはないというところまで下りて、もう一度来た道を上っていく。そんなことを何度か繰り返したのだが、どうしても見つからず時間ばかりが過ぎていく。レンタサイクルは6時までに返却しなければならない。少々焦ってきた。何回目かの往復の後、山頂すぐのところ、廃墟めいた閉店しているレストランの横にある細い階段が目に付いた。ここが違えばあきらめるしかない。自転車を止め、樹が生い茂るやや薄暗い中を進んだ。
 やがて右側に、いくつかの書籍ですでに見慣れている碑が見えた。ほっとして流れる汗をぬぐった。

加賀山隼人正興良息女墓

加賀山隼人正興良息女墓

この地に殉教碑が建てられた理由を知るには、文政年間にまで遡らなければならない。「加賀山隼人正藤原興良息女墓」と刻まれた墓碑(土台石)が、この山の中腹にて発見されたのである。その後、加賀山一族によって新たに墓碑が建てられ、そこには「加賀山隼人正興良息女墓」と刻まれた。
 殉教者である加賀山隼人の娘みやは、小笠原玄也の妻である。彼らは皆、188福者に数えられている。この墓が小笠原の妻みやの墓であるという確証はない。しかし、この地は小笠原一家の殉教地である。片岡弥吉氏は、墓に「玄也の名を記さず加賀山隼人正興良息女墓としたのは、刑死一家の主人たる玄也の名を記すのを憚った」(「小笠原玄也一件」)との推論を述べているが、この見解には説得力がある。
 小笠原玄也の殉教について教会側の史料はまったくない。だが、玄也による「書置形見送りの注文」が5通、玄也夫妻およびその子らによる遺書が16通、原本こそ失われているが、写しが今に伝えられている。片岡氏の「小笠原玄也一件」はこの遺書に基づいた詳細な研究であり、計21点全文の翻刻も付されている。以下、片岡氏の研究に多くを借り、小笠原玄也殉教の輪郭を記してみる。
 徳川家康による禁教令を受けて、豊前の細川忠興も家中のキリシタン探索を始めた。領内のキリシタンにとって精神的な支柱でもあったディエゴ加賀山隼人および小笠原玄也も棄教を迫られるが、屈しはしなかった。当初忠興は厳しい沙汰を示すことはなく、加賀山隼人も小笠原玄也も捕縛されることはなかった。
 パジェスの『日本切支丹宗門史』には、玄也について忠興が「身内の者故許して遣わせと命じた」という記述がある。玄也の父は小笠原小斎の三男であるが、この小斎は大坂の細川邸の留守居を預かっていた客将で、あの細川ガラシヤの最期に介錯を務め、その直後に自刃した忠僕である。忠興はガラシヤ夫人への愛惜の念から、小笠原小斎の遺族に大いに好意を示した。そして親族の婚姻により小笠原家と細川家とは血縁関係を結ぶこととなる。それゆえにパジェスの記述に見られるような手緩いといえる措置がとられたのである。
 捕縛されることはなかったが、玄也はこの後禄を離れ、農民とともに貧困の中で信仰を生きるようになる。その生活は20年以上も続いた。
 忠興は玄也の信仰を黙認していたわけだが、その隠居後に跡を継いだ忠利も、父同様に玄也への思いやりを示した。しかし、キリシタン詮議はこの後いっそう激しくなり、訴人への報償を示す高札が立てられ、ついには玄也も長崎奉行所に密告されてしまう。ここに至っては、忠利にも玄也を救うすべはなかった。殉教の前に何通もの遺書を家族がしたためる時間が与えられたのは、忠利が示すことのできた最後の優しさなのであろう。
 候文の遺書を一通一通読むことは楽ではないが、じっくりと読めば、自らの最期にあたっても、周囲の人間に配慮を示す玄也の優しさが心に響いてくる。妻や子らのそれにしても同様である。すべてを受け入れ死にゆくものが示しうる優しさであろう。
 加賀山隼人正興良息女墓の向かって右には、徳富蘇峰による「殉教史蹟」の題が刻まれた碑があり、右には大正四年に小笠原一族によって建てられた石の標柱が建っている。墓石自体は、何という名の石なのか分からないが、火山岩のような赤みを帯びた色が印象的だ。

加賀山親子殉教記念碑

加賀山親子殉教記念碑

碑の裏手にはちょっとした空間があり、芝が植えられ、近年になって建てられた「キリストの証人ここに眠る」と刻まれた碑がある。その碑に向き合ったあと、後ろを振り向くと、一本の竹の棒が、この空間の入り口に当たる部分を遮断している。それに手を掛けてみると、ただ鉤に渡してあるだけで簡単に持ち上がる。その下には少々の坂道が続いていて、それは山頂から下りてくる道につながっている。「しまった」と、思わず声を出しそうになった。この竹の遮断を確かに何度目かの往復のときに、下から覗き込んだのだ。しかし、民家の敷地であることは明らかだと思い込み、それ以上進まなかったのである。そのときほんの少しでも進んでいれば、こんなに苦労することはなかったのだ。ちょっとした案内表示を、この入り口に設けていただくわけにはいかないだろうか。
 6時まで時間がない。大慌てで山を下り、禅定寺に向かう。小笠原一家は花岡山近くの禅定院で殉教したと伝えられており、現在の禅定寺がその禅定院であると主張する人もいるようだが、片岡氏はそれに否定的な見解を示している。わたしも、殉教地だと思って向かうのではない。そこには三宅角左衛門の墓があるのである。
 もちろん交通ルールを守りながらだが、可能なかぎり自転車のスピードを上げ、新幹線の高架に沿って北に向かう。やや日が傾き始める中、山門前に到着した。
 本堂の向かって左に広がる墓地に加藤家家臣の大きな墓が並んでいる。ここには細川家家臣の墓もあるのだが、立派なのはいずれも加藤家臣の墓である。また、小西行長の弟であり、関ヶ原の戦いの際には兄不在の宇土城を加藤清正の攻撃から守った小西隼人の墓もある。しかしこれは、ある一画の墓石群の中のどれかという程度にしか特定できない。

三宅角左衛門の墓

三宅角左衛門の墓

したがって、キリシンタン迫害者である加藤家の重鎮たちがおもに葬られている場所なわけだが、その中にあって三宅角左衛門だけは少々異なる印象を与えてくれる。その詳細は後に述べたい。明日訪れる予定の八代の地の殉教者と、彼は深くかかわっているのである。
 三宅角左衛門は先に触れた宇土城攻めにおいて功をなした加藤家の重臣で、小西領接収後には麦島城の城代を務めた。普請奉行としての名も高く、石垣つきの名人ともいわれ、熊本城築城時には大きな働きをなした。
 巨大な一枚岩でできた立派な墓だ。彼の軍功がこの墓によって称えられている。しかしわたしは、キリシタンであった仲間と不幸な形でしか交わりえなかったこの武士の哀れを思い、複雑な気持ちでその墓石と向き合っていた。

福岡・熊本の史跡(2)

熊本・立田自然公園(7月9日)
 今日も朝からうだるような厳しい陽気である。駅前でバスに乗り、30分弱、濟々黌高校前で下車した。目の前にルーテルのきれいな教会堂が建っている。その前の道を進み、濟々黌高校の校門前を左折、さらに学校敷地に沿って進んでいく。途中一般民家の門の内に寺田寅彦の下宿跡という標柱が立っていたのでそれを見る。五高時代の下宿先だったそうだ。
 20分ほどで立田自然公園の入り口に到着。徳永直の文学碑があった。小林多喜二と並ぶ代表的なプロレタリア作家の一人だ。いい碑である。石の形も、彫られた文字もその内容もよい。
 この碑の近くに付近の史跡を紹介する絵地図が立っていて、その中に「小笠原小斎の墓」とあった。予定にはなかったが、これは寄らないわけにはいかない。
 まずは公園へと入る。ここは細川家の墓所である泰勝寺という寺の跡である。泰勝寺は明治新政府の神仏分離令により廃寺となった。明治初期には仏教への弾圧もまた存在したのだ。
 公園には四つの廟が遺っている。細川忠利が肥後54万石の領主となったとき、祖父である細川幽斉と祖母の光寿院、そして母であるガラシヤの廟を建立した。忠利は父である忠興より先に世を去り別の地に葬られたが、その子光尚が、祖父忠興をガラシヤの横に葬った。現在これらが「四つ御廟」と呼ばれている。
 同じ形の廟が、右から幽斉、光寿院、忠興、ガラシヤの順に並んでいる。山の濃い緑を背に負い、静謐で幽玄な空気が漂う。

細川ガラシヤ廟(立田自然公園)

細川ガラシヤ廟(立田自然公園)

ガラシヤ廟の前には、彼女が死の直前に水鏡として用い身づくろいをしたと伝えられる手水鉢がある。廟には真っ白なユリが手向けられていた。
 ガラシヤの死というものはどう捉えるべきなのだろうか。正直わたしにはよく分からない。もちろん彼女の持っていたであろう堅固な信仰を否定するつもりは毛頭ない。死を選ぶよりほかになかった状況も理解しているつもりで、その死が責められるべきものと思っているわけでもない。パジェスはいう。「ガラシヤ夫人は、総ての道徳の完全な鑑であった。彼女は、前から如何なる事変に遭おうとも、それに対する覚悟が出来ており、又神の思召に従って死ぬ事を一種の贖罪として進んで受け容れたのであった」(『日本切支丹宗門史』)。しかし、この一女性の死について思う際に覚える微妙な引っ掛かりを、わたしはどうすることもできない。介錯を務めた小笠原小斎の胸の内を思っても複雑な気持ちになる。
 墓前でこんなことをつらつらと考えるのは不謹慎だったかもしれない。しかし、うまく説明できないのだが、そんな複雑な思いに囚われつつも、同時にこのときのわたしは、暑さを除けば、何やらすがすがしいような気持ちでもあったのだ。四つ御廟が放つ厳かな空気が、心を鎮めてくれたのだろうか。
 この公園、当然木陰も多くゆっくりと散策したかったのだが、先を急がねばならない。入り口に戻り、入園券を売る女性に小笠原小斎の墓の場所を尋ねた。彼女も詳しくは知らないとのことで、代わりに付近の史蹟を案内する地図をくれた。絵地図とは違い精確なものだ。これがあれば迷うことはないだろう。足早に歩を進めた。
 公園入り口から熊本大学に向かって坂を下りていくと、左手にリデル、ライト両女史記念館というものがある。目指す墓はそのすぐ近くだ。ちなみにリデルとライトとは、19世紀末に英国から来日し、ハンセン病患者のためにその生涯をささげた叔母と姪の二女性である。この建物は元はハンセン病研究所であり1919年に落成されたもので、建物自体が登録有形文化財となっている。
 さて小斎の墓だが、記念館下の小さな公園横の坂道を上った先にある。「小笠原家累代之墓所 小笠原尚斎之墓」(小斎は尚斎と記す場合もある)と記された説明の板が立っているのですぐに分かる。この解説によると、この地は泰勝寺の末寺である常楽寺の跡であるとのことだ。

小笠原家累代之墓所

小笠原家累代之墓所

下草が茂る空間に30基ほどだろうか、古い墓石が並んでいる。雑草に足を取られつつ、1基1基を見て回ったのだが、古そうなものは刻された文字の判読は困難で、どれが小斎の墓であるかは特定できない。
 小斎は、細川忠興の剣術師範も務めた尚武である。主への忠義厚い武士であった。だからこそ、ガラシヤ夫人からその介錯を命じられた。忠を尽くした主の妻、その人の首を落とす。そのとき、この人の胸の内は如何様であったのだろうか。しかし、雑念が少しでも入れば介錯はできない。刀を握る手に迷いがあれば、死ぬ者に無用の苦しみを与えることになる。そこは武士、その異常な状況でも、明鏡止水の境地に己の心をもっていくことができたのだろうか。あるいは、ガラシヤの信仰に共鳴し、ひたすら実直に、そして粛々とその役割を果たしたのであろうか。そんなことは知りようがない。しかしわたしは、この一人の男の末路にも、やはり複雑な思いを抱いてしまう。
 炎天下の苔むした墓石群は、そんなわたしの心の内とは無縁で、何も語ることなく、ただひっそりとしていた。  

八代の殉教者碑(八代教会)

八代の殉教者碑(八代教会)

八代市(同日)
 昼ごろ熊本駅に戻り、鹿児島本線で八代に出た。まずは八代教会に向かう。途中に日本基督教団の教会があった。赤い瓦の切妻屋根が印象的な建物である。道路側を向く玄関も切妻屋根になっている。本日も憎いほどの快晴、青と赤のコントラストは実に美しい。
八代城址にほど近く、市役所やいくつかの大病院が並ぶ街の一角に八代教会はある。近代的な建物だが、背の高い鐘楼が教会としての存在感を示している。前庭には、1603、1606、1609年の八代における計11名の殉教者の記念碑がある。碑にはヨハネ福音書12章24節「一粒の麦が地に落ちて死ねば豊かな実を結ぶ」という聖句とともに、殉教者の霊名、名、年齢、処刑法を刻んだ御影石がはめ込んである。子どもが3人いる。ミカエル三石彦右衛門の子トマスは12歳、ヨハネ南五郎左衛門の養子ルドビコは8歳、ヨハネ服部甚五郎の子ペトロに至ってはわずか6歳である(これは碑に実際に刻まれている年齢だが、数えだと思う。したがって満年齢でいうならばさらに1歳引かれる。ペトロは5歳なのだ)。トマスとペトロは斬首され、ルドビコは磔刑に処せられた。
 八代の殉教者については、結城了悟神父の『八代の殉教者』が名著であり、多くを教えてくれる。
 加藤清正によるキリシタン迫害がいっそうの厳しさを増し、家中の侍は一人また一人と教えを棄てていく中にあって、ヨハネ南やシモン竹田五兵衛は己の信仰を堅持した。この二人は、昨日その墓を訪れた三宅角左衛門にとっては友人である。三宅は彼らの命を救おうと手を尽くした。
 竹田について三宅は、その母を使って説得を試みようとした。しかし母ヨハンナは「信仰のためなら息子の死は光栄である」と応じた。友を救いたい一心の三宅は、その母を叱りつけた。
 南についてはその心を動かすため、彼に対して影響力があると思われる権左衛門という家老を使った。権左衛門は、小西の家来であった南を引き取り、知行を与え、財産の一部の管理すら任せたのはだれか、他ならぬ加藤ではないか、にもかかわらず大名に背くのは「忠誠と感謝を欠く」ことだと南に訴えた。しかし南は「受けた恵みに感謝しながら、キリストに対する忠実はもっと大切である」とこたえた。
 友を救いえず、さらにその刑を執行しなければならなかった三宅の心中は、いかに痛んだことだろう。まさに張り裂けんばかりであったはずである。その苦しみを思うと、切なくやりきれなくなる。友の信仰を理解できなかったゆえの悲劇、それは確かにそうなのだが、殉教者とは別に、彼が背負ったものも重い。わたしはそう思う。

シャルトル聖パウロ修道女会記念館

シャルトル聖パウロ修道女会記念館

教会と道を挟んだ向かいに熊本総合病院があるが、その横の道を入っていくとシャルトル聖パウロ修道女会の修道院がある。その敷地の中央に建つ現在は記念館となっている建物は、築100年以上の国の登録有形文化財である。木造2階建て瓦葺きの洋館で、冴えた白壁に、ベランダの手すりや窓の鎧戸は濃いターコイズブルーで、避暑地を思わせるような色彩が何とも鮮やかである。教会を訪れた人は、ついでにぜひとも立ち寄りたいところだ。
 次に八代城址を訪れた。八代城は、これからその跡を訪ねる麦島城が地震により崩壊した後に建てられた。加藤の改易後には細川忠興が城主となった城である。元和元年に幕府は一国一城令を発したが、肥後は特別に二城体制が認められた地である。もう一城とは、いうまでもなく熊本城であり、この体制は明治まで維持された。
 現在は濠と石垣が残るばかりであるが、石垣の上に登ると、苔が美しく、木陰に入れば風が心地よかった。群れ飛ぶシオカラトンボを眺めつつ、しばし休憩した。
 さて次は麦島城である。八代城の横を伸びる県道42号を南下する。前川を渡る際、この先は天草かと河口の側を眺めた。橋を渡り終えた先の地は、八代海に流れ出る前川と球磨川との間に挟まれた三角州である。
 八代は古くから貿易港として栄えた。その統治を秀吉から任されたのが、水軍を率いた小西行長である。小西によって麦島城は築城された。
 まず寄ったのがシルバー人材センター。この建物内には、麦島城の石垣の一部が保存されており見学することができる。

保存公開されている麦島城石垣

保存公開されている麦島城石垣

麦島城は、1996年から2003年にかけて大々的な発掘調査が行われその規模が確認されているが、現在は埋め戻されている。調査発掘の場合、綿密な調査の後に遺跡を埋め戻し保存することはしかたがない。すべてを公開する形で保存することは、よほどの重要性をもった遺跡でないかぎりかなわない。ましてや、そのために箱モノを作ったりすれば、地方財政をいたずらに逼迫させるだけのことである。
 しかし、この麦島城の石垣一部の保存公開のしかたは、見事ではないかと思う。そのための箱モノなのではない。シルバー人材センターという公共施設の一部を利用しているのである。遺跡公開のための経費が特別に生じることはさしてないだろう。
 玄関を入ると、正面に「麦島城跡の概要」というパネルが掲げてある。その真下の床がくり抜かれるような形になっており、上から石垣を見ることができるのである。周りはコンクリートで補強してあるが、大きな石が積まれ、その間に細かく割ぐり石が差し込まれてある様子をつぶさに観察できる。それだけのことなのだが、妙に感動してしまった。それは、子どものころから考古学が好きで各地の遺跡を見て回ったわたしの、ごく個人的な感傷に過ぎないのかもしれないが……。
 玄関脇では地元の野菜を売っていた。信じられないほど長くて大きい茄子が3本で100円である。荷物になるのでさすがに買いはしなかったが、それによって感動を受けたことに対する感謝の気持ちを示したいような、そんな気分であった。
 ここでは「八代城ものがたり」というパンフレットを貰い受けた。当地を訪れるならば、まずこのパンフレットを手に入れることをお勧めしたい。地図が役に立つし、なかなかに充実した内容である。小西とともに、さりげなく竹田アグネス(竹田五兵衛の妻)を紹介しているのもいい。
 人材センターの近くに麦島神社があるが、結城師によれば、このあたりにキリシタンが捕えられた牢があったらしい。
 次は天守台跡である。人材センターからさして距離はないが、民家が並ぶ一角で少々迷った。
 雑草が丈高く生い茂っている中に「八代市指定史跡 麦島城跡」と墨書された標柱が立っている。

麦島城跡

麦島城跡

戦国の世には、城とは山城であった。つまり戦闘のための城である。これが近世に入ると、城は統治のため交通の要衝に建てられる平城となる。麦島城は最初期の平城であるといえるだろう。解説の板は、こういったこととともに、この地が江戸時代における最初のキリシタン殉教地であることも説明している。
 すぐ近くには、2010年2月に福岡教区が開設したキリシタン殉教者列福記念公園があり白い十字架が建っている。なかなかに広いスペースで、元はテニスコートだったのだそうだ。今もコートの感じが残っている。シャルトル聖パウロ修道女会のwebサイトで2011年に行われた殉教祭の様子を写真で見たが、そのときは400人ほどの参加があったそうだ。そういった行事を行うにも十分な広さである。
 さて最後に向かうのは古城児童公園。ここには殉教地を示す標柱が建てられている。
 大通りには出ずに、あえて前川まで出て川沿いを西に進んだ。日差しはいっかな衰えないが、川沿いに吹く風はさすがに心地よい。
 公園は麦島団地の東側にある。住宅街のごくありふれた小さな児童公園である。標柱が建てられたのは2005年のこと。八代史談会による。

八代の殉教者記念標柱

八代の殉教者記念標柱

1600年、関ヶ原の戦い。江戸の世の始まりの契機となるこの合戦の重要性については今さらここに書くまでもないが、この戦いは本格的なキリシタン受難の始まりを告げるものでもあったのだ。八代を治めた小西行長は西軍の将として参戦し、敗戦ののちに斬首された。その後八代を治めたのが加藤清正で、これまで述べてきたような迫害が始まったのである。
 秀吉の禁教令に始まり、江戸、そして明治初期に至るまで、統治者により翻弄され、キリシタンは苦しみを受けた。彼らは治世者の犠牲となったのである。そのことはしっかりと認識しておかなければならない。
 藤棚下でしばし休息した後、八代駅に戻るべく腰を上げた。このとき児童公園から駅まで掛かった時間は45分ほど。疲れていたとはいえ割合と歩くことには自信があるので、あまり参考にはしないでほしい。

鹿児島の史跡(1)

薩摩川内市(7月9日続き)
  午後4時半ごろ、川内駅に到着。今夜の宿泊先である駅前のホテルに荷物を置き、川内教会に向かう。教会には、2008年の列福式に合わせて鹿児島教区により建てられたレオ税所七右衛門の碑がある。
 駅から徒歩10分程度だろうか。市役所と川内文化ホールの間の道を入る。教会は文化ホールの裏手にある。

レオ税所七右衛門碑(川内教会)

レオ税所七右衛門碑(川内教会)

前庭に、肖像が彫られた大きな碑がある。小高く丘のようになっているので、教会の前を通る人からもよく見えるだろう。せっかく顕彰するならば、地元の歴史、キリシタンの悲劇を、教会外の人にも積極的に伝えたい。
 聖堂に入ると、入り口横に「福者188殉教者のゆかりの地を訪ねて!」という手作りの地図が貼ってあり、全国の関連の土地が紹介されている。その横には1602(慶長7)年にドミニコ会の5名の宣教師が甑島に上陸したことにまで遡る川内教会の沿革が綴られており、隣には踏絵が展示してある。
 聖堂は木の風合いが柔らかさを感じさせる落ち着いた雰囲気だ。祭壇右手には税所七右衛門の肖像画が飾られている。列福を機に、教会を挙げてこの殉教者を顕彰していこうという機運がさらに高まったのだろう。子どもたちが歴史を学ぶためにも、とてもよいことだと思う。
 雲が茜色に染まりかける中、夕食をとる店を探しつつ川内の街中をぶらぶらと歩いた。この時間になっても気温は高いが、たそがれどきの風がいくばくかの涼をもたらしてくれる。明日はドミニコ会の日本宣教の出発点となり、税所七右衛門を信仰の世界へと導く舞台となった京泊教会跡を訪ねる。また、京泊には原子力発電所がある。先を急ぐため昼間はかなりがつがつとした歩き方をしたが、今はゆっくり気ままに歩を進めつつ、殉教者のこと、原発のこと、その二つをさまざまに思い巡らした。

京泊(7月10日)
 川内駅前を8時16分に発つ路線バスに乗り込んだ。本日も快晴、朝から気温が高い。セミの声がうるさいほどだ。
 バスが駅前を発車したのは定刻を5分ほど過ぎていたのだが、途中でなぜか時間調節のため停車した。駅では幾人かの人が乗車したが、ここで乗客はわたし一人になった。運転手から「お客さん、どこまで?」と訊かれたので「京泊」と答えると、「ああ」と、少々意外といったような微妙な返事が返ってきた。
 市街地を過ぎると、バスは左手に川内川を見ながらゆっくりと進んでいく。河口が近づくにつれ川幅は広くなる。漁船が浮かび、空にはトンビが飛んでいる。水田の苗の青さが鮮やかだ。民家はちらほらとしかない。この路線バス、次にこの地を訪れるときには果たして走っているだろうか。

京泊教会跡を示す案内板

京泊教会跡を示す案内板

30分ほどで京泊に到着した。バス停のすぐ近くに「京泊教会跡地500m」との立派な案内表示が立っている。その矢印の示す道に入っていく。
 途中「330m」の表示があり、次には曲がる場所を示して「180m」の表示がある。そこには京泊教会とレオ税所七右衛門に関する簡単な年表が掲げてあった。近くの民家のムクゲの花がいかにも夏らしい。
 ここからちょっとした山中になり、笹の茂る道を進んでいく。辛い道になるのかと一瞬思ったが、樹木や笹は鬱蒼としつつも、擬木で作られた階段があったり、一部は舗装されていたりもする。この舗装された道が途中で二股に分かれているが、真ん中に小さな赤い矢印が立ち左を指していた。
 舗装が尽きた先には苔むした階段が続いている。これを上りきったところが教会跡地である。色鮮やかなアオスジアゲハと大きなカラスアゲハが、優雅に上へ下へと飛翔し迎えてくれた。ここにいる間、この蝶たちはいつまでも、じゃれるかのようにわたしの周りを飛び続けていた。

京泊教会跡

京泊教会跡

 階段が尽きてすぐに京泊天主堂跡の標柱、奥には「1606~1609」と書かれた十字架、そしてその横の木には巨大なロザリオが絡ませてある。京泊教会はロザリオの聖母にささげられた教会である。
 十字架とこの木の近辺には、手水鉢のような形のものを含め、人工的な石塊が並び、それに木漏れ日が落ちている。下草はまめに刈り取られているのだろう。こんな場所ならば、雑草だらけになるのはあっという間だ。
 また「ザビエル歴史街道」と銘打った案内板に、京泊教会についての解説と地図が記されている。この案内板は鹿児島県内のザビエル関連施設各所に立っているもので、今日明日で、そこにピックアップされているすべての史跡を訪ねる予定である。先にも触れたが、京泊教会はドミニコ会の宣教によるものでザビエルとはあまり関係がないようにも思うが、ザビエルが鹿児島を去る際、ここ京泊の港から船に乗って平戸に向かったとの説がある。
 1602年に下甑島に上陸したドミニコ会宣教師は、苦労の末3年後の1605年に上甑島に聖堂を建てた。しかしこの聖堂は、台風によりわずか数日で倒壊してしまう。その後、薩摩藩主島津家久の許可を得、彼らは京泊に教会を設立するのである。オルファネールはこの地を「港の入江の部落の外にある小高い丘にあり、閑静な眺望を有する極めてよい場所」(井手勝美訳『日本キリシタン教会史』)であったと伝えている。
 1608年、この教会を一人の武士が訪れた。税所七右衛門である。彼は平佐奉行であった北郷三久の家臣であった。そのころ三久は、すでに家臣たちに対しキリストの教えの道に入ることを禁じていたのだが、主君の命に背くのを承知で七右衛門は受洗を望んだ。司祭たちはその申し出を喜びはしたが、彼らのほうが七右衛門の身の上を案じた。「しかし武士は何人たりともキリシタンとなるべからずとの殿の厳命を熟慮されたい。かつ今後転ばなければならぬとすれば今は断念されてはどうか」。これに対し七右衛門は「もっとも困難なことは救いの真の道を見出すことです。私はその道を得た以上、この世の一切にかけても、また生命にかけても信仰を棄てませぬ」(井手勝美訳、同前)。
 三久は優れた家臣であった七右衛門の受洗を知って残念に思い、転宗を迫った。しかし七右衛門が揺らぐことはなく、死刑を命じるしかなかった。七右衛門の受洗は1608年7月22日、斬首されたのはそのわずか4か月後の11月17日であった。
 左側から林を抜けて、やや見晴らしのよいところに出てみた。海からの風が汗まみれの体に心地よい。空にはトンビが旋回し、ウグイスの声が聞こえる。実にのどかであるが、視線の先には火力発電所の煙突がある。京泊では、川内川河口を挟んで、火力発電所と原子力発電所とが向き合っている。こちらにあるのが火力発電所で、対岸が原発だ。
 ヒメヒオオギズイセンの鮮やかなオレンジ色を楽しみながら山を下りた。先ほど見た教会跡まで180mの表示のあるところまで来ると、電柱に「津波注意 高台はこちら」として教会跡を矢印が指し示しているのが目についた。津波、原発とくれば、日本人ならばだれもが、あの3.11以降の、今も継続中の悲劇について思いが至るだろう。
 海岸沿いの道に出て、京泊の次、バスの終点である川内漁港まで歩いた。ここからは対岸の原発がよく見える。九州電力は7月8日に原子力規制委員会に対し、川内原発再稼働に向けての安全審査を申請した。この美しいのどかな場所を、絶対に悲劇の舞台にしてはならない。
 停留所に腰掛けてバスを待つ。やがて折り返しのバスがやって来た。最初の乗客はわたし一人。途中で一人のご婦人が乗り込むまで、運転手と愉快に話しつつ過ごした。こういったことが、地方で路線バスに乗る楽しみだ。川内駅前で下車するとき、彼は「元気で頑張ってね」と肩を叩いてくれた。頬骨の張った、いかにも南国男子といった黒々と日焼けした顔が印象的だった。  

鹿児島の史跡(2)

鹿児島市(同日)
 昼過ぎに鹿児島駅に到着。じりじりするような暑さの中を海側に向かって歩き始めた。線路の向こうには噴煙を上げる桜島が見える。初めて見たのだが雄大な姿だ。石橋記念公園の中を通り、国道10号を進んで橋を渡る。途中、改めて桜島を眺める。橋の上からはその全貌がよく見える。火口から吐き出される煙と上空の雲とが一体になっているかのようだ。
 橋を渡り切ったらすぐに右手の階段を下り、祇園之洲公園に入る。この階段やそれに続く歩道脇には、黒い火山灰が積もっている。活火山とともにある街であることを改めて感じる。
 やがて左手にザビエル上陸記念碑が見える。やや横からの角度だと背後に桜島を見ることになる。

ザビエル上陸記念碑

ザビエル上陸記念碑

この碑は実におもしろい。向かって右には、後ろの柱に支えられて宙に浮くザビエルのブロンズ像が立つが、左の大きな作品は陶板レリーフである。作者はベルギー出身のルイ・フランセン。1960年代に来日し、日本各地で数多くのパブリックアートを手掛けた芸術家である。駅や公共施設など、彼の作品は国内のさまざまな場所で見ることができる。
 この陶板レリーフには三つの世界が描かれている。向かって左にはザビエル家の紋章と帆船、右側には丸に十字の島津家の紋と武士の家族、そして正面は、イエス・キリストを背負う、きりりと口元を結んだ精悍な若い武士である。この正面の絵柄が、この作品の命なのだと思う。日本にキリストの教えを運んできたザビエルではなく、キリストを背負っているのは武士なのである。伝えられた側を中心に据えているというのが素晴らしい。そうであってこそ、ザビエルが何を成したかを伝えることができるのだ。
 両手を広げ天を仰ぐブロンズのザビエル像は威厳に満ちている。この両者が一つになることによって見事なバランスが生まれている。抜けるような青空と熱帯植物を背後に従え、この巨大なモニュメントはずっしりとした存在感を示していた。
 駅の方角に戻り、次は福昌寺跡に向かう。大龍小学校の横を通って北に進む。途中「宅地内降灰指定置場」というものを見た。黄色の専用の袋に入れられて灰が棄ててある。
 やがて正面に玉龍中学・高等学校が現れる。目的地はこの学校の裏手だ。東側を回ると、角に「福昌寺跡30m キリシタン墓地200m」の標示がある。昼食の時間なのだろう、学校のセミナーハウスからは生徒たちのにぎやかな声が聞こえてくる。
 福昌寺は、その末寺が九州一円はおろか、中国、四国にまで広がったといわれる名刹だったのだが、熊本の泰勝寺と同じく明治の神仏分離令によって廃寺となった寺である。全国の中でも、薩摩藩が行った廃仏はかなり極端なものであったようだ。
 また当寺は、島津家の菩提寺としても知られている。伽藍の建ち並んでいたあたりには現在校舎が建っているのだが、島津家の墓所は今も保存されている。
 墓所入り口の案内図によれば、ここには6代から28代までの島津家歴代とその一族とが葬られている。わたしの目的は15代貴久の墓である。最初、メインの入り口から墓所に入ったのだが、ここからは貴久の墓には行けない。塀に隔てられ通路がないのである。一度墓所を出て、少し進んだ先にあるもう一つの入り口から入る。正面に9基の墓が並んでいるが、右から2番目が貴久の墓である。

島津貴久の墓

島津貴久の墓

この墓所には、墓地特有の狭くひしめき合うような感じがない。貴久の墓の周囲も広々として開放的である。わたしからすれば、そんな雰囲気が逆に意識の集中の邪魔をした。さらに、食後の掃除が始まったのだろう。生徒たちの声が正直やかましい。
 島津貴久はザビエルが最初に会見した大名である。この会見からザビエルの日本における布教は始まった。しかし、わたしはどうもこの貴久という人物がよく掴めず理解できないでいる。なので、とりとめなくさまざまなことを彼の墓前で考えたかったのであるが、暑さのせいもあり集中力を欠いている。早々に次へと向かう。
 墓所を出て、校舎に沿って道をさらに進む。角に「キリシタン墓地100m」の標示があり、その近くで、中学生らしき男子生徒数人が何かしら作業をしていた。彼らはわたしに目を留めると即座に「こんにちは」とあいさつしてくれた。こちらも帽子を取ってあいさつを返す。旅先でのこのようなちょっとした交流は何とも気分を和やかにしてくれるものである。
 標示に従って急な石段を上る。キリシタン墓地の前に福昌寺歴代住職の墓を訪ねる。「光明藏」と刻まれた石造りの重厚なゲートをくぐると、上部のほうが広がった卵型の塔身を持つ墓が並んでいる。これは無縫塔と呼ばれるもので、僧侶の墓はほとんどがこの形をしている。

忍室の墓

忍室の墓

真ん中の開山者の墓にはその脇にそれを示す標柱が立てられているが、もう一つ同様の標柱が立てられている墓がある。15代住職であり、ザビエルと親しく交わりをもった忍室の墓である。
 ザビエルはその書簡の中で忍室について「学識豊かで生活態度が立派で、高位にあり、また八〇歳の高齢であるためにたいへん尊敬されている」と記している。そして「忍室は私と大変親しい間柄で、それは驚くほど」であり、霊魂の不滅なることについても彼と話したと綴っている。忍室は「ある場合には霊魂は不滅であると言い、他の場合には否定」したのだそうだ(1549年11月5日付ゴアのイエズス会員あて。河野純徳訳『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』)。おそらく忍室は、禅問答のような応答をザビエルに対してしたのだろう。ザビエルが高僧に手玉に取られた、そんなふうにいえば言い過ぎかもしれないが、困惑したザビエルの渋面が目に浮かぶようだ。
 彼ら二人の交流については、フロイスが伝えるエピソードがおもしろい。ある日のこと、座禅を組む僧侶たちについてザビエルが忍室に「これらの修道者たちはここで何をしているのか」と質問した。すると忍室はこうこたえた。「ある連中は、過去数ヶ月に、信徒たちからどれだけの収入を得たかを数えており、他の連中は、どこに(行けば)自分たちのためによりよい衣服や待遇が得られようかと思いめぐらしている。また他の連中は、気晴しになることや閑つぶしになることを考えているのであって、つまるところ、何か有意義なことを(黙想)しているような者は一人もいないのだ」(松田毅一、川崎桃太訳『日本史6 豊後篇I』)。この皮肉と諧謔に満ちたことばからは、忍室という僧侶の懐の深さをうかがい知ることができる。
 また次のやり取りも興味深い。ザビエルが忍室に尋ねる。「青年時代と、今すでに達しているような老年(期)とどちらが良いと思っているか」。忍室は「青年時代だ」とこたえ、さらに理由を問われると「まだ肉体が病気その他の苦労に煩わされることがないし、何でもしたいことを妨げられずにする自由があるからだ」と説明する。それにザビエルは反論する。「(ここに)一艘の船があって、港を出帆し、ぜひとも別のある港に行かねばならぬと仮想していただきたい。その船客たちは、風波や嵐に曝されて大海原の真只中にいる時と、もう港が見え出し、(やがて)港口に入りながら、過ぎ去った海難や嵐のことをそこで回想(できるようになった)時と、どちらの時にいっそう嬉しい思いを抱き得るであろうか」。すると忍室は「伴天連(殿)、私にはあなたの(おっしゃったこと)がよく判る。港に入ろうとしている人々にとって、港が見える(時の)方が嬉しく喜ばしいことは当然であることをよく承知している。だが拙僧には今まで、どの港を見分けるべきか決めてもいないし、決心したこともないので、どのように、どこへ上陸せねばならぬのか判らない」と応じるのである(同前)。キリスト教と仏教の、救いに関する理解の本質的な違いについて考えさせられる、有徳の宗教家どうしならではのやり取りだと思う。
 学校は午後の授業に入ったようだ。先ほどの喧騒が嘘のように静まり返っている。墓所は鬱蒼と樹木に覆われ涼しい。苔むした墓石を前に、460年以上前の異文化、異宗教間交流について、思いを馳せた。
 石段を先に進む。目指すはキリシタン墓地。薩摩藩に配流された浦上信徒たちの墓である。
 福昌寺は、日本のキリスト教史に二重にその名を刻んでいる。一つはここまで述べてきたザビエルと忍室の交流、さらにザビエルが説教を行った地としてである。今一つは、明治に入ってのこと、浦上四番崩れによって捕らえられた信徒のうち375人が、すでに廃寺となっていたこの寺に預けられた。
 浦川司教による『旅の話』を読むと、たとえば津和野や萩の配流者に比べれば、ここ鹿児島に預けられた信徒たちの待遇は、さほど過酷ではなかったことが分かる。「しかし実際の話が、薩藩の腹は太かったのである。廃仏毀釈を断行する一方から、当時一般に邪宗門徒だ、赦すべからざる国賊だと見做されていた切支丹をば、斯くまで親切に取り扱い、終始かわらぬのであった」と『旅の話』にはある。薩摩藩は、あくまでもキリシタンたちは政府から自藩に預けられている者たちだという姿勢で、食事もきちんと与え、拷問も行ってはいない。浦川司教は、これは神の「有難い摂理」である、なぜならば薩摩藩に預けられた信徒たちは「あまり信仰の堅いほうではなかった」ので、津和野藩のように過酷な取り扱いを受けたら「終を全うし得た者が幾人あっただろうか」と、何もそこまで言わないでもと思うほどの辛辣なことばを投げかけている。
 もちろん彼らも、改宗の説諭は受けた。「改心すると長崎へ帰すぞ」という甘言に騙され改心を申し立てた者もいる。囚われたままの信徒たちは草履を作って小遣いを稼いだ。その後は出稼ぎも許され、乳牛の世話に携わったりもしている。
 この地で亡くなった人は、浦川司教の記録によれば53人(うち改心者2人)である。もともと彼らの墓は散在していたのであるが、1905年にそれを一つの地にまとめ記念墓碑を建てたのは、聖書翻訳で有名なラゲ神父である。

キリシタン墓地

キリシタン墓地

手前に「カタリナたき カタリナふじ」といった名を読むことのできる石がある。その側面には「原墓地在路傍風雨……堆積損地形……」といった文字が刻まれているので、これは後のものなのだろう。その横にはラゲ神父の建てた記念墓碑がある。西洋風の棺の形をし、天頂部には十字架が浮き彫りにされ、側面にはラテン語が刻まれている。正面には日本語で次のようにある。「基督降生千八百七十年ヨリ千八百七十三年ニ至ル間ニ於テ長崎浦上ノ公教信者ニテ信教ノ為メ追放セラレ此地ニ没シタルモノノ記念ニ之ヲ建ツ 明治三十八年」。
 ラゲ神父が集めたという墓は奥に並ぶもので、20数基ほどだろうか、平たい自然石に、苔むして確認しづらいが、確かに十字が彫ってある。落葉が堆積する中に、それらの墓石はひっそりと並んでいた。ふと足元を見ると、とてつもなく大型のマイマイカブリがわたしの足を上って来ている。盛んに食いついてくる藪蚊には往生するが、こいつは可愛らしい。しばらくはそのままにしておいた。

 鹿児島駅に戻る。途中信号待ちしながら帽子を取って汗を拭っていると、老婦人に突然話しかけられた。「うちの息子はもっと焼けてるよ。どっちが前か後ろか分からないくらい」と言う。息子さんは子どもたちにソフトボールを教えているのだそうだ。連日快晴の中を歩いている。確かに今回も十分に日焼けしてしまっている。この婦人もわたしを見て、焼けているなと思ったのだろう。しかし、なぜ息子さんと比べられなければならないのか。それが分からない。こういうかたちでの息子自慢なのだろうか。実に奇妙で愉快だった。
 駅前で市電に乗車。天文館通で下車する。向かうはザビエル公園とカテドラルである。しかし疲労が甚だしく足が重い。しかたなく冷房の効いた喫茶店でしばし休んだ。
 鹿児島一の繁華街である天文館通りほど近くに、ザビエル公園、そしてザビエル教会(カテドラル)はある。

初代ザビエル教会正門

初代ザビエル教会正門

ザビエル公園には、1908年にラゲ神父によって建てられたが、第二次世界大戦の際に焼失してしまった初代ザビエル教会の正門が移築保存されている。石造りの立派なもので、右に「フランシスコザビエ聖師滞鹿記念」、左に「天文十八年西暦千五百四十九年八月十五日着」と大きく彫られている。その前には、貴族的な精悍な顔つきのザビエル胸像が建っている。
 この門の右手に三人の立像がある。真ん中のザビエルを挟んで両側は日本人、左がヤジロウ(アンジロー)、右がベルナルドである。

ザビエル・アンジロー・ベルナルド像

ザビエル・アンジロー・ベルナルド像

 アンジローは、ザビエルを日本へと導き、布教にあたっては通訳を務めザビエルを助けた。彼については後に触れたい。
 一方のベルナルドは、鹿児島で洗礼を受け、ザビエルの平戸、山口、京都への旅に同伴、その後ザビエルとともにインドに渡り、そこからヨーロッパへと送られた人である。1553年にリスボンでイエズス会に入会し、1554年にはローマでイグナチオ・ロヨラにも会っている。その後、ポルトガルのコインブラで勉学に勤しんでいたのだが、病に倒れ1557年に同地で客死した。初めてヨーロッパの土地を踏んだ日本人である。
 ザビエルは左手を横に大きく広げ、人々を導く姿勢である。アンジローは手に書物を持ち、ベルナルドは祈りをささげている。この三者三様の姿が、それぞれの個性をよく表していると思う。
 公園と道を挟んで向かいにザビエル教会がある。聖堂は2階で階段を上るのだが、この階段には2枚のレリーフがはめてある。一つはザビエルが鹿児島に到着したところだろう、背景に桜島が見える。もう一枚は忍室との対話で、縁側に腰掛けたザビエルが僧侶と話しをしている。
 現聖堂は3代目だ。初代は先に触れたラゲ神父が建てたもの、2代目は戦後1949年にザビエル上陸400年を記念して建てられた。この木造の聖堂は現在、福岡県宗像市の御受難修道会宗像修道院敷地内に移築保存されている。赤い瓦の切妻屋根に尖塔のそびえる美しい建物だ。
 現聖堂が完成したのは1999年。この年はザビエル上陸450年にあたる。外観はザビエルが乗っていた帆船をかたどっているとのことである。
 聖堂内でしばしの時間を過ごした後、2階の手すりにもたれて、向かいの公園を眺めた。ここからだと旧聖堂の正門はよく見えるのだが、三人の像は木の陰になって見えない。正門の後ろに、丸く剪定された植木の頭が二つ見える。ちょこんと乗っかった帽子のようで可愛らしかった。

 鹿児島の夜は楽しかった。ホテル近くの小さな焼き鳥屋に入り、カウンター越しに、65歳だというご主人とその奥さん、そして常連客の人たちとも和やかに会話に花を咲かせた。話の流れで、自分の旅の目的を話すことになったのだが、それを聞いたご主人は、先日、夫婦でザビエル教会での葬儀に参列したのだと話してくれた。常連客の葬儀だったそうなのだが、初めてカトリックの葬儀に参列して、その雰囲気がいたく気に入ったのだという。皆で歌を歌ったりする、つまり皆で参加するという感じがいいのだそうだ。思わず笑ってしまったのだが、自分が死ぬときもあれがいいなとまでおっしゃる。何だか自分が褒められているみたいで気分がよかった。
 目を転じると、なぜか小上がりの壁に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい」(一テサロニケ5・16-18)の聖句が書かれた色紙が飾ってある。あまり褒められない特殊な職業の常連客がクリスチャンで、その人からもらったのだそうである。彼は、通常の仕事のときとは異なり、店に来ると大変紳士的でおとなしいのだそうだ。  

鹿児島の史跡(3)

日置市伊集院町(7月11日)
 最終日である。快晴。最後まで非情なほど天気に恵まれた。
8時過ぎに鹿児島中央駅に来てみると、昨日の桜島の降灰で電車が遅れているとアナウンスしている。当初は、まず8時29分発の電車で東市来まで行くつもりであったが、その手前、もう一つの目的地である伊集院まで行く電車がまもなく発車するようである。流れを考えると変更したくはなかったのだが、予定を変えて伊集院から先に訪れることにした。
 改札口を出ると、駅前に大きな騎馬武者のブロンズ像が建っている。17代薩摩藩主、島津義弘である。手綱を胸元まで引き馬が反り返る様子は、義弘の武名を轟かせることとなった、関ヶ原での生命を賭しての敵中突破のイメージである。その後のことを含めさまざまな解釈が成り立つ歴史の一コマだが、ゆかりの地では当然のごとく過剰に英雄化される。
 駅前の右側の道(県道24号)を進み、最初の交差点を右折してトンネルをくぐる。このトンネルの手前には島津義久公剃髪石なるものがあった。秀吉の九州征伐の際、降を請うため義久はこの石の上で髪を剃り僧体となったのだそうだ。
 トンネルをくぐってすぐ、左に伸びる細い坂道を上る。きつい傾斜だ。宅地開発中のような場所を過ぎると、少し広い通りに出る。そのままこれを上っていった先が城山公園の入り口である。

 城山公園のザビエル像

城山公園のザビエル像

左手に十字架を携えたザビエルの石像が立っている。穏やかな表情で彼方をみつめる、優しげなザビエルだ。
 現在は公園として整備されているこの地は、島津貴久が居城した一宇治城の跡である。ここでザビエルと貴久との歴史的な会見は行われ、ザビエルは領主から布教許可を得るのである(なお、会見の地については異説もある。青山玄師は、それは国分の清水城であるとの説を採っている〔「ザビエル滞在期の鹿児島――外国側史料の正しい理解のために」、『キリシタン研究第十三輯』所収〕)。
 一宇治城とはこの山城全体の名で、入り口に立つ絵地図が示すとおり、ここには神明城、伊作城、南之城、釣瓶城、中之城などがあった。
 神明城跡を目指し歩き始める。貴久が本館を構えたとされる場所である。
 公園整備の方たちが雑草を刈っている。高齢の方が多い。炎天下に大変な作業だ。子どもが遊ぶには楽しいだろう芝生の傾斜地の横を通り、「かたらいの広場」(ザビエルと貴久の会見を念頭に置いてなのだろうが、何とも微妙なネーミングだ)、つまり神明城跡に出る。

 島津貴久・ザビエル会見の地碑

島津貴久・ザビエル会見の地碑

 小さな桜並木の先に碑が建っている。「太守島津貴久 聖師ザビエル 会見の地」と彫られ、上部には十字架と丸が組み合わされている。丸に十字は島津の紋だが、この十字架が丸からはみ出る大きさなので、ただの島津の紋とはならずに、「十字架」と「丸に十字」、両者の意味を併せ持つようになっている。形もすっきりしていてきれいな碑だと思う。だいぶ苔が生えているが、建てられたのは戦後間もなく1949年のことである。
 ザビエルと貴久の会見、それはザビエルにとって大きな喜びをもたらすものであった。
 鹿児島上陸後、ザビエルの名代としてまずはアンジローが貴久に会う。その際アンジローは聖母の絵を持参した。それを見た貴久とその母は大変感激し、母は信仰について書いたものを送ってほしいとアンジローに依頼している。このことはさぞかしザビエルを喜ばせたことだろう。それを綴る書簡の叙述は生き生きとしている。
 そしてザビエル本人と貴久との会見が行われる。ザビエルの書簡をそのまま引用しよう。「大天使ミカエルの祝日(九月二十九日)にこの地の領主と会談しました。領主はたいへん丁重にもてなしてくださり、キリスト教の教理が書かれている本を大切にするように言われました。そしてもしも、イエズス・キリストの教えが真理であり、良いものであれば、悪魔はたいへん苦しむであろうと言われました。数日後、その臣下たちにキリスト信者になりたい者はすべて信者になってよいと許可を与えました」(1549年11月5日付ゴアのイエズス会員あて。河野純徳訳、同前)。
 多くの伝記や研究書が引用する有名な箇所である。嬉しさに顔をほころばせるザビエルの姿が目に浮かぶようだが、何となく違和感がある。初めて出会った西洋のキリスト教に対して、日本の一大名が果たしてこれだけのことを言えるだろうか。もちろんここで布教の許可が下りたことは事実であろうが、その直前の記述はどうにも不可解だ。
 このあたりの事情には、多くの研究者による指摘がすでにあるが、通訳の問題がある。アンジローはデウスを「大日」、聖母マリアを「観音」と訳した。これによって貴久は、キリスト教を仏教の一派と誤解したようなのである。このことを考慮すれば、違和感を覚える部分も多少は腑に落ちてくる。
 このコミュニケーションの限界について、アンジロー一人にその責を求めるのは酷だろう。しかし、ザビエルのことを考えると少々切なくなる。
 薩摩の地では、アンジローの活躍もあり、フロイスによれば150名ほどの受洗者を得た。しかし、1年という滞在期間を考えれば、ザビエルにとって満足のできる成果ではなかったろう。
 誤解のことはさておき、当初はキリスト教への理解を示し布教を許可した貴久は、仏僧たちの激しい反発に遭い、一転キリストの教えの道に入ることを禁じる。ここで貴久は、利害をさまざまに勘案している。ザビエルを薩摩にとどめればポルトガル商人たちをこの地に呼ぶことができ、鉄砲をはじめ西洋の種々の物品をたやすく入手できるようになると考えた。しかし、いつまでたってもポルトガル船は薩摩にやって来ない。商人たちはすでに他の地、すなわち長崎・平戸の利便性に目を付けていたのである。それでは、僧侶たちの反発に抗する理由がなくなる。そこで彼らの意を汲み、キリスト教禁教となるのである。
 失意のうちにザビエルは鹿児島を去ることになる。「もしも僧侶たちが妨げなかったなら、その地のほとんどが信者になったに違いありません」(同前)。書簡のこのことばには無念の思いが滲んでいる。しかし、ザビエルは日本人に失望したりはしなかった。「日本人はたいへん立派な才能があり、理性に従う人たちなので、これこそ真理であると思い、信者も信者でない人もキリストの奥義を喜んで聞きました。彼らが信者にならなかったのは、領主〔の命令に反すること〕を恐れたからで、神の教えが真理であり、自分たちの宗教が過ちであることを理解しなかったためではありません」(同前)。
 島津貴久という人物は、いったいどのような人であったのだろう。彼には旧領三州(薩摩、大隅、日向)制圧という悲願があった。その達成のためには、現領土内でもめ事を起こすわけにはいかなかっただろう。政治的な駆け引きで動くこともしかたがない。しかし、誤解はあったとしても、当初彼がザビエルに示した好意は、ただの政治家の外面としてしか理解できないものなのだろうか。ここのところがよく分からない。さまざまに想像を働かすことのできる余地がある。これが歴史の面白いところだ。
 迷路のような公園の中をしばし歩いた。城郭の名残りを思わせるようなものは特にない。明らかに人工的な起伏、それだけがすべてだ。
 公園を出て山を下り始める。途中、石垣の名残りかもしれないと思われる人工的な石塊の露出が見られた。
 行きに通った細い坂道ではなく、「薩摩街道出水筋」という標柱が示す坂道を下り次の目的地に向かう。民家の庭先にヒシバデイゴの花が咲いていた。その鮮やかな赤に、南国に来ていることを実感する。
 県道24号を横断し伊集院小学校の前を左折、県道206号に出て、これをひたすら東へと進む。この道も薩摩街道だそうだ。歩道の脇を流れる清水を泳ぐ大きな鯉が、突然勢いよく跳ね驚かされた。島津の紋の入った燈籠の形をした街灯が並んでいる。さらに、歴史の町としてのアピールはこれだけでなく、伊集院IC近くの擁壁には、関ヶ原の合戦図や東西両軍の軍旗一覧など、大判のパネルが掲げてあった。
 この道を行く目的は、アンジローの墓と伝えられるものを見るためである。大まかな場所は地図で見当を付けてある。なので、だいぶ遠いことは分かってはいた。今回の旅で、目的地までもっとも長い距離を歩いたところである。
 伊集院ICの入り口前を過ぎ、さらに進む。「清藤」というバス停が目印であるのだが、なかなか現れない。しばらく進むとバス停はあった。しかし、付近に墓らしきものはない。今までたびたび経験してきたが、こういう状況になったときの判断が難しい。この道をそのままいくか、脇にそれるか、見逃したと判断して来た道を戻るか……。そのたびごと、確たる根拠があって判断を下すわけではない。しかし、結局毎回行き着けてしまうのだから不思議なものだ。
 今回はそのまま先に進んだ。すると小さな川を渡ったすぐ先の左手に、目的のものを見いだせた。ここにも例のザビエル歴史街道の案内板が立てられている。それがまず目に付いたので見逃さずにすんだ。
 この案内板には「ヤジロウの墓(伝)」として、彼についての簡単な説明の後に次のように記されている。「ヤジロウの生涯については種々の伝承があり、異国で客死したという説もあるが、ここも墓所の伝説がある」。これだけでは何のことだかさっぱり分からない。伝説成立の根拠、言い伝えの拠るところを、多少なりとも記してほしいと思う。
 アンジローは鹿児島でザビエルと別れた。ザビエルの書簡には「パウロ(アンジローのこと。引用者注)はこの地に生まれた人であり、たいへんよい信者でありましたので、人びとに教理を教えるために〔鹿児島の〕信者たちとともに残りました」(1552年1月29日付ヨーロッパのイエズス会員あて。河野純徳訳、同前)とある。
 その後のアンジローについては、いくつかの説がある。これに関しては岸野久氏が、メンデス・ピント『東洋遍歴記』、フロイス『日本史』、ロドリゲス『日本教会史』の3史料を突き合わせての考察を行っている(『ザビエルの同伴者アンジロー――戦国時代の国際人』)。結果として岸野氏はピントの記録を採用し、ザビエルが鹿児島を離れてから約5か月後に、アンジローは仏僧の迫害に耐えかね中国へと渡り、その地で海賊に殺害されたのだと結論づけている。
 いずれの史料を採用するとしても、アンジローが中国で海賊に殺され客死したということは動かない。ここをアンジローの墓とすることにはかなり無理があるわけだが、真偽自体よりも、なぜそのような伝承が生まれたかに興味がある。それを辿ることができれば、アンジローという人間がどのように評価されていたのかを知るよすがにもなる、そう思うのである。
 岸野氏も詳しく書いているが、先に触れた「大日」という語の使用によって、旧来アンジローの評価は芳しくない。無学であると非難されている。しかし岸野氏は、日本人最初のキリスト教徒であるアンジローを肯定的に捉え、キリシタン史においても、日欧文化交流においても、彼の業績を評価している。これには大いに共感できる。ザビエルはアンジローに確かな期待を寄せて、彼を鹿児島に残したのだ。

アンジローの墓(伝)

アンジローの墓(伝)

アンジローは書簡を一つ遺している。これが彼の前半生を知りうる唯一の史料である。それによれば、彼はある理由により一人の人間を殺めたためマラッカに渡った。一度は帰国しようとするが、嵐に遭い日本に行き着けず、再びマラッカに戻る。そこでザビエルと出会うのだ。その後、聖パウロ学院に留学し、洗礼を受けるのである。
 この墓は台座の上に3段が重ねられたごく小さな塔だ。周囲がこのように整備されていなければ、ほとんど人目に付くこともないだろう。
 本名すら分からない男、しかし歴史の中で偉業を成した男。おそらくここは、その彼の墓ではないだろう。苦労して歩いてくるほど価値のある史跡ではないかもしれない。しかし、そんな価値判断もつまらぬことだ。アンジローについて思いを馳せる切っ掛けとなるならばそれでよい。
 帰りに計ってみると、駅まで徒歩40分ほどであった。路線バスは1時間に1本ほどは運行している。それを利用するのがいいかと思う。  

ザビエルと家老ミゲルの像(鶴丸城址)

ザビエルと家老ミゲルの像(鶴丸城址)

日置市東市来町(同日)
 伊集院の隣駅である東市来に降り立った。最後の目的地である。駅前を走る国道を左に進み、川を渡ってすぐ右折、そのまま道なりに進むと鶴丸小学校の前に出る。目指す鶴丸城址はこの学校の裏手である。役所の前に案内標識が立っているので、入る道はすぐに分かる。
神社横の擬木の階段を上る。しばらく行くとザビエルの像に迎えられる。左手に聖書を持つ、柔和な表情のスマートなザビエル像だ。その横には二人の人物の小さな像がある。ザビエルと、もう一人は家老ミゲルである。
 家老ミゲル――日本名は分かっていない。彼は鹿児島でザビエルの説教を聞き受洗した。そしてザビエルを鶴丸城へと招いた。城主である新納伊勢守康久は快くザビエルを迎えた。ザビエルはここに数日滞在し、ミゲルの家族や城主の家臣15名に洗礼を授けた。
 後にアルメイダもこの鶴丸城を訪れている。そして1605年にはルイス・ニアバラが川辺というところで、ミゲルの息子に会っている。彼は父から洗礼を授けられていた。ルイスが彼と会ったのは、その父の死の6、7年後のことである。臨終の際に父は息子に対し「福者パードレ(ザビエルのこと。引用者注)からいただいた二つのロザーリオと、聖水のいっぱい入った陶器の壺とを、中央に十字架のある封?の印章と共に、その子に手渡して、このロザーリオと聖水は霊験あらたかなものであるから、大切に扱うよう言いつけた」(池上岑夫ほか訳。ジョアン・ロドーリゲス『日本教会史 下』)。
 司祭不在の中、麦島城にできた信徒の共同体にあって、ミゲルは中心的な役割を担った。それは、ザビエルが蒔いた種の一つの実りである。ミゲルの小さなブロンズ像は、両手を合わせ、天に向かって祈りをささげている。
 舗装された細い道を上っていくと、大日寺歴代住職の墓なるものがあった。この寺も明治の神仏分離令により廃寺となった寺だ。最後の目的地に来て、ザビエルが神を表すのに用いた「大日」を名に頂く寺に出くわすというのも少々因縁めいている。この墓はもともとこの場所にあったわけではなく、小学校の敷地拡張の際にここに集められたのだそうだ。
 それはともかく、解説の板に興味を引くことが書いてある。そのままに引き写しておこう。「また、江戸時代のキリスト教禁制期にひそかに信仰を続けていた隠れキリシタンの墓(例∴)と思われるものもある」。ここには20基弱の墓石が並んでいる。奥の列のものは無縫塔だから住職の墓に間違いない。前に二列、板状の墓石が並んでいるが、これらのうちのいずれかがキリシタンの墓なのかもしれない。しかし、摩耗や損壊が激しく、特定はできなかった。

鶴丸城跡

鶴丸城跡

さらに擬木の階段を進む。だんだん傾斜がきつくなってくる。落葉が多く少し歩きにくい。ひどく苔むした石垣状のものが見えるが、古城の石垣にしては積み方が整然としすぎている。足元では、こちらの突然の来訪に驚いた小さなカエルが盛んに跳ねる。前を飛ぶイトトンボのメタリックな輝きに目を奪われる。鳥の声はほとんど聞かれない。ふもとの小学校の子どもたちの声だけが響いてくる。
 鬱蒼とした竹林を抜け、やがて山頂、つまり本丸跡に到達した。広葉樹が木陰を作るがらんとした場所に「鶴丸城跡」と彫られた大理石の標柱が立っている。ところどころに土台石のようなものが確認できる。
 結城了悟師は、ザビエルがここ鶴丸城においては家庭的な雰囲気を味わったであろうと書いている(『九州の古城とキリシタン』)。鶴丸城は、ザビエルが宿泊したことが確認できる鹿児島内唯一の城である。洗礼こそ受けなかったが城主も仲間に加わって、ミゲルたちとザビエルとの間にはどのような会話が交わされたのだろうか。あれこれと想像してみることは楽しい。1本の木に背を任せ、木漏れ日を感じながら、460年前の出来事にしばし空想を遊ばせてみた。

 今回、日程の都合上、熊本においてはまず外すことのできない、天草を訪問することができなかった。もちろん割愛するつもりはない。次回以降に訪ねる予定であることを付記しておく。
(奴田原智明)

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