教皇フランシスコ、2016年5月11日の一般謁見演説:18. いつくしみ深い御父(ルカ15・11-32参照)

5月11日、教皇フランシスコはサンピエトロ広場に集まった大勢の信者とともに、一般謁見を行いました。この謁見の中で教皇は、いつくしみの特別聖年に関する連続講話の18回目として、放蕩息子のたとえ話について語りました。以下はその全訳です。

18. いつくしみ深い御父(ルカ15・11-32参照)

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。
 今日のこの一般謁見は、二カ所で行われています。雨が降りそうなので、病者の方々は大画面を通してパウロ六世ホールで参加しています。二カ所で行われていますが、一つの謁見です。パウロ六世ホールにいる病者の方々と挨拶を交わしましょう。今日はいつくしみ深い父のたとえ話について考えます。このたとえ話は、父と二人の息子をめぐる物語であり、神の限りないいつくしみを理解する助けとなるものです。

 まず、父の喜びが表れている後半の箇所から始めましょう。父は言います。「食べて祝おう。 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」(ルカ15・23-24)。父はこう言って、弟のことばをさえぎりました。弟は「もう息子と呼ばれる資格はありません……」(19節)と言って、自分の罪を告白しようとしていたところでした。しかし、このことばは、父には耐え難いものです。父はすばやく、息子に一番良い服、肥えた子牛、履物といった尊厳のしるしを戻します。イエスは、たとえば「この償いはしてもらう」と言うような、機嫌が悪く怒っている父親を描いているのではありません。そうではなく、この父親は息子を受け入れ、愛のうちに待ちます。父親は、自分の前に健やかな姿で無事に立っている息子の姿だけを思い描きます。父親はそれを喜び、祝います。放蕩息子を歓迎する場面は、感動的な表現で記されています。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、あわれに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(20節)。 何という優しさでしょう。父親は遠く離れていたのに息子を見つけます。これは何を意味するのでしょう。父親は何度もベランダに出て通りを眺め、息子が帰って来ないか見ていました。放蕩の限りを尽くした息子は、父親が自分を待っているのを目にしました。何と素晴らしい父親の優しさでしょう。父親のいつくしみは満ちあふれるほど豊かで無条件です。その優しさは、息子が話す前に示されています。もちろん、息子は自分が過ちを犯したことを悟り、認めます。「わたしは……罪を犯しました。……雇い人の一人にしてください」(18-19節)。このことばは、父親のゆるしの前に崩れ去ります。父親の抱擁と接吻により、彼は何があってもつねに自分は息子だと思われていたと悟ります。イエスのこの教えはとても大切です。神の子であるわたしたちの身分は、御父のみ心の愛がもたらす実りです。それは、わたしたちの功績や行いによるのではありません。したがって、だれもそれを奪うことはできません。悪魔にもできません。だれもその尊厳を奪うことはできないのです。

 イエスのことばは、決して希望を失わないようにわたしたちを力づけます。わたしは、危険な道をたどり、離れていく子どもたちを心配しながら見守る親たちについて考えます。また、自分の働きは無駄ではないかと思い悩んでいる小教区の司祭やカテキスタのことや、監獄の中で自分の人生は終わったと感じている人々、さらには過ちを犯し、未来を思い描くことのできない人々、いつくしみやゆるしを乞い求めながらも、自分にはその資格がないと思っている人々に思いを寄せます。人生のどんな状況においても、わたしが神の子でなくなることは決してありません。このことを忘れてはなりません。わたしは、わたしを愛し、わたしの帰りを待ってくださる御父の子どもなのです。人生の中で最悪な状況にあっても、神はわたしを待っておられ、わたしを抱きしめたいと望み、わたしに期待しておられます。

 このたとえ話には、兄というもう一人の息子も登場します。兄も父親のいつくしみに気づく必要があります。彼はいつも家にいました。しかし父親とはまったく違い、彼のことばには優しさが欠けています。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。…… ところが、あなたのあの息子が……帰って来ると……」(29-30節)。ここには軽蔑が見られます。彼は「お父さん」と呼ぶことも「弟」と言うこともなく、自分のことだけ考えています。彼は自分がいつも父親のそばにいて、父親に尽くしてきたことを自慢しています。しかし彼は決して喜んで父親のそばにいたわけではありません。そして、自分の宴会のために子山羊一匹くれなかったと、父親を責めます。なんと哀れな父親でしょう。一人の息子は立ち去り、もう一人も決して父の近くにはいなかったのです。この父親の苦しみは、わたしたちが神から離れてしまったときの神の苦しみ、イエスの苦しみと同じです。その苦しみは、わたしたちが神から立ち去ったり、神のそばにいても心から近づいていないために生じるのです。

 兄にもいつくしみが必要です。正しい人、すなわち自分が正しいと思っている人もいつくしみを必要としています。この兄は、何も見返りがないのに苦労する価値があるだろうかと考えるわたしたちを表わしています。人が御父の家にいるのは、報いを得るためではなく、責任を共有する子としての尊厳をもっているからであると、イエスは伝えています。それは、神と取引することではなく、十字架の上でご自分をささげつくしたイエスの足跡をたどることなのです。

 父親は兄に言います。「子よ、おまえはいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部おまえのものだ。だが、おまえのあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(31-32節)。父親の論理はいつくしみの論理です。弟は自分の罪のために罰を受けて当然だと思っていました。兄は、自分の奉仕の報いを期待していました。二人は互いに話し合うこともなく、異なる生き方をしていましたが、両者ともイエスとは違う論理のもとに考えています。それは、もしよい行いをしたら報いを得、悪い行いをすれば罰せられるという論理です。これはイエスの論理ではありません。違います。この論理は父親のことばによって退けられます。「おまえのあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(32節)。父親は失った息子を取り戻し、今度は兄に弟を返すこともできます。弟がいなければ、兄も「兄弟」ではなくなってしまいます。父親のもっとも大きな喜びは、自分の子どもたちが互いを兄弟と認め合うことなのです。

 息子たちは、父親の喜びにあずかるか否かを、自分で決めることができます。彼らは自分が本当はどうしたいのか、自分の人生観はどんなものなのか自問しなければなりません。このたとえ話の結末はありません。兄がどう決断したのか、わたしたちには分かりません。そして、そのことはわたしたちの励みになります。わたしたちは皆、御父の家に入り、いつくしみと兄弟愛という御父の喜びと祝いにあずかる必要があることを、この福音は教えているのです。兄弟姉妹の皆さん、「御父のようにいつくしみ深く」なるために、わたしたちの心を開こうではありませんか。

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