「カトリック情報ハンドブック2016」巻頭特集

「カトリック情報ハンドブック2016」 に掲載された巻頭特集の全文をお読みいただけます。 ※最新号はこちらから 特集 キリシタン史跡をめぐる―九州編【3】カトリック中央協議会出版部・編  全国のキリシタン史跡を出版部員が […]


「カトリック情報ハンドブック2016」
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特集 キリシタン史跡をめぐる―九州編【3】カトリック中央協議会出版部・編

 全国のキリシタン史跡を出版部員が実際に訪れ紹介する、連続企画の第10回目。今回は「九州編【3】」として、長崎県内の史跡を紹介する。2014年秋と2015年夏の2度長崎を訪れ、各地を巡った。
 当然ながら長崎にはキリシタン関係の史跡は数多い。限られた紙幅と種々の条件により、そのすべてを網羅することは困難であり、また、そうしたことを目指しているわけでもない。不足に関しては、多数刊行されているガイドブック、あるいは作家・研究者による文献を参考にしてほしい。
 (なお本文中、一部の文献、資料の引用にあたっては、旧字を新字に、旧かな遣いを現代かな遣いに、漢字をかなに、適宜改めた)

長崎の史跡 その1

長崎市中心部(2014年9月22日)

 第二バチカン公会議『典礼憲章』の発布50周年にあたって、日本カトリック典礼委員会主催による講演会が9月23日に長崎カトリックセンターで開かれることとなり、当日現地で書籍販売の手伝いをすることになった。せっかく長崎まで足を運ぶのだから、限られた時間ではあるが、その前後にいくつかの史跡を訪ねることにした。
 この日、昼ごろ長崎空港に到着。遠出をするにはやや中途半端な時間なので、何度長崎に来てもつい行きそびれてしまう、市内中心部のあまり目立たない史跡を巡ってみることにした。

イエズス会本部跡

イエズス会本部跡

 午後2時、JR長崎駅を起点にして歩き始める。10分ほどで県庁に到着。その正面入り口横には「イエズス会本部 奉行所西役所 海軍伝習所 跡」と彫られた大理石の標柱が立っている 。
 この地にはまず元亀2(1571)年に、長崎港開港そして町の整備に伴い、フィゲイレド神父によって「岬の教会」と呼ばれる小さな教会堂が建てられた。その名のとおり岬の突端に建つ教会であった。つまり、この県庁あたりから先は、当時は海だったのである。長崎を歩く際には、この昔の海岸線を頭に入れておくと、一つ一つの史跡を訪れて頭に浮かべる想像が豊かになる。わたしは極度の方向音痴で地図を見るのも大の苦手なのだが、自分の能力で可能なかぎり、そのことを意識している(正直に告白すれば、その際逆の方角を思い浮かべていることもあったりするのだが)。
 この教会はおよそ10年後に建て替えが行われ、さらに増築も施され、天正18(1590)年には新たな聖堂が建てられた。しかし、天正15(1587)年に伴天連追放令を発した秀吉の命により、わずか2年後の文禄元(1592)年には取り壊されてしまう。だが、その翌年にはこの地にイエズス会本部が建設され、慶長6(1601)年には、被昇天の聖母にささげられた聖堂が再び完成し、司教館やコレジオも建てられた。
 この新しい聖堂は「非常に大きく、実に壮麗」(岡村多希子訳「一六〇一、〇二年の日本の諸事」)な建物であったと伝えられている。塔は3つの鐘と大時計を備えていたという。しかし、慶長19(1614)年に家康の禁教令を受けて、すべてが破却された。新しく港町として発展を遂げていた長崎の、まさにシンボルであったろうこの教会を、現代のわたしたちは、県庁玄関脇の植え込みの中にひっそりと立つ1本の標柱を眺めつつ想像するしかない。
ミゼリコルディア本部跡

ミゼリコルディア本部跡

 県庁から国道34号を北に進むと長崎地方法務局がある。その横の階段脇には「ミゼリコルディア本部跡」の標柱がある。ミゼリコルディア(慈悲)の組は、もともとはルイス・アルメイダによって日本にもたらされた、隣人愛の具体的実践を目的とする、信徒を主体とした共同体である。この組は、病院、孤児院、老人福祉施設などを営み、社会の底辺で苦しむ弱者に寄り添った。188福者殉教者の一人であるミカエル薬屋は、この組の長であった人である。
サンアウグスティン教会跡

サンアウグスティン教会跡

 階段を下りて西へ、賑橋前電停近くの中島川に掛かる常盤橋の袂には、狭いスペースに押し込められるかのように「サンアウグスティン教会跡」という標柱が立っている。これはアウグスチノ会司祭エルナンドによって建てられた教会の跡を示すもので、この教会もまた、慶長の禁教令を受けて取り壊された。エルナンド神父は日本205福者殉教者の一人で、鷹島で殉教した。
 同じく賑橋前電停近く、公会堂前通りの一角に長崎銀行の本店がある。1924年に建てられた大正期の西洋建築である。もっともかなりの補修が施されているので、当時のままというわけではないが、外観の1階部分や玄関の石組に往時の面影を偲ぶことはできる。碑も解説の板もないが、昨年の本特集で紹介した竹田市の歴史資料館にあるサンチャゴの鐘がその音色を響かせていた聖ヤコボの病院は、この場所に建っていた。
サン・フランシスコ教会跡

サン・フランシスコ教会跡

 長崎市公会堂前をJR長崎駅方面に曲がると市役所の別館があるが、その敷地には「サン・フランシスコ教会(修道院)跡」の標柱が立っている。このフランシスコ会の教会は慶長16(1611)年に建てられたが、ここもまた禁教令により取り壊され、跡地には牢が建てられた。188福者の中浦ジュリアンやトマス金鍔次兵衛は、その牢に囚われて拷問を受けた。
サン・ドミンゴ教会跡

サン・ドミンゴ教会跡

 別館の国道を挟んでのはす向かいには桜町小学校があるが、その門は代官屋敷のそれを復元したもので、脇には「末次平蔵宅跡」と並んで「サン・ドミンゴ教会跡」の標柱が立ち 、敷地内には、サント・ドミンゴ教会跡資料館がある。これは、小学校の拡張工事の際に出土した遺構を発掘当時のまま公開保存する施設である。市は遺跡の重要性を認め、校舎拡張は建物の階を増やすことで解消し、保存、公開を決めたのである。自治体の経済的負担は少なくないと思われるが、英断といってよいだろう。教会とその後の代官屋敷の遺構、つまり200年以上にわたる時の流れを、現代に生きるわたしたちが直に目にできる。
 2014年版の本特集で鹿児島の京泊の教会を紹介したが、管区長代理であったモラレス神父を長とするドミニコ会宣教師が、薩摩での迫害の難を逃れるために、その京泊教会を解体し木材を船で長崎まで運んで建てたのが、このサント・ドミンゴ教会である。オルファネール神父によれば、その船には188福者の一人、税所七右衛門の遺体も積み込まれた。
 この日は月曜日で資料館は休館日だったので、2日後にあらためて訪れた。事務所に女性が一人いて、あいさつすると、遺跡の概要と資料館設立の経緯を説明してくれた。
 通路を歩きながら遺構を見下ろす。教会時代の石組の地下室や石畳を間近に観察することができる。江戸初期の教会の、ここまで完全に保存された遺構をこのように観察できる場所は、他にはないだろう。モラレス神父は当時の長崎代官村山等安から土地の寄進を受け、慶長14(1609)年にここに「ロザリオの聖母とサント・ドミンゴに捧げられた教会を建てた」(井手勝美訳『日本キリシタン教会史』)が、わずか5年後に、やはり禁教令を受け破壊された。その跡地には、朱印船貿易で巨万の富を得、長崎代官となった末次平蔵が屋敷を構え、その失脚後には、長崎代官を継いだ高木家の屋敷となり、江戸の終わりまで続いた。
 奥には展示スペースがしつらえてあり、出土したメダイや十字架などを見ることができるが、圧巻なのは、壁を埋めるかのごとく展示されている多数の花十字紋瓦である。この遺跡からは約80点もの花十字紋瓦が出土した。花十字紋とは十字の四方が花のように開いた文様で、キリシタン墓碑などにも同種の文様は見られ、原城跡などからも同種の瓦が出土している。
山のサンタ・マリア教会跡

山のサンタ・マリア教会跡

 資料館のほど近くには、長崎歴史文化博物館がある。収蔵資料にはキリシタンに関するものも若干あり、また建物の北側入り口の広場には「山のサンタ・マリア教会跡」の標柱が立っている 。
 この教会の成立について詳しいことは分からない。碑文によれば、慶長8(1603)年には大きな教会堂が建てられたそうであるが、ここもまた慶長19年に取り壊され、その跡地には奉行所が建てられた。
ルイス・デ・アルメイダ渡来記念碑

ルイス・デ・アルメイダ渡来記念碑

 さて、路面電車の通る国道34号に戻り、新大工電停まで歩く。ここから北に向かって細道に入ると、春徳寺へと向かう坂の途中に、実に立派な「ルイス・デ・アルメイダ渡来記念碑」を見ることができる 。
 昨年の本特集でもこのイエズス会修道士(後に司祭)について触れたが、アルメイダは病弱であったにもかかわらず、弘治元(1555)年の来日から、天正11(1583)年の天草での死に至るまで、司祭になるためにマカオに渡った時期(1579~1580年)を除き、教えをのべ伝えるため、ほぼ九州全域を訪問している。この碑には「1567」という数字が大きく刻まれ、彼がトーレス神父によって長崎に派遣された年を示している。翌1568年には口之津に起居していたようであるが、長崎にもたびたび訪れている。
トードス・オス・サントス教会 コレジヨ・セミナリオ跡

トードス・オス・サントス教会
 コレジヨ・セミナリオ跡

 左側の坂を上り切ると春徳寺の山門に行き当たるが、その脇には「トードス・オス・サントス教会 コレジヨ・セミナリオ跡」の標柱が立っている 。
 アルメイダの後を継いで長崎の布教にあたっていたガスパル・ヴィレラ神父は、永禄12(1569)年にこの地にあった廃寺を領主長崎甚左衛門から寄進され、長崎初となる教会を建てトードス・オス・サントスと名付けた(ポルトガル語で諸聖人の意)。後には、コレジオやセミナリオも併設されることになる。長崎氏は代々大村氏に仕える家であり、甚左衛門はキリシタンであって、その妻とらは、大村純忠の娘である。
 ここもまた、これまで見てきた教会同様、慶長19年に取り壊された。春徳寺はその跡地に建てられた寺である。
サン・ラザロ病院 サン・ジョアン教会跡

サン・ラザロ病院
サン・ジョアン教会跡

 新大工電停のあたりまで戻り八幡町教会に寄ってから、長崎駅方面に歩を進め、中町教会に立ち寄った後、本蓮寺の階段下に出た。ここには「サン・ラザロ病院 サン・ジョアン教会跡」の標柱がある 。
 サン・ラザロ病院はミゼリコルディアの組によるハンセン病患者のための病院で、付属する小さな教会があったようであるが、後にその隣にサン・ジョアン教会が建てられた。この教会は、トードス・オス・サントス、山のサンタ・マリア教会とともに「長崎の三大教会」といわれた(片岡弥吉「長崎の切支丹」)。
 ここもまた慶長の禁教令により破却された教会である。この禁教令による取り締まりは、後に行われたものに比べればさほど徹底したものではなかったが、このように長崎中心部のごくわずかな範囲を歩いてみるだけで、いくつもの同じ憂き目にあった教会跡に行き当たるのである。一つ一つの場所には現在ではただ標柱が立つばかりだが、こうして巡ってみると、歴史上の悲劇が、時を超え、実にリアルなものとして迫ってくる。
 ここまで来れば、当然ながら最後は西坂の丘に登る。舟越保武氏の名作を見つめ、さらに長崎の港や街並を見渡せば、さまざまな思いが胸を去来する。湧き出る思いにただ己を任せる時間、こうした旅にそれはぜひとも必要だ。単に「見て回る」だけでは意味がない。ぼんやりとで構わない、勝手気ままでよい、ただ自分の内に思いが湧き出るままにすること、そうした時間を自由に取れるのが一人歩きの最大の魅力である。

大村市(9月25日)

 台風のため、前日は予定していた行動がとれず、博物館や資料館などを回ったりしていた。この日は、やや黒い雲がいまだ山際に横たわってはいるが、上天には青空が開かれ、初秋の心地よい、歩くには絶好の気候となった。
 朝、空港のコインロッカーに荷を預けタクシーに乗車。今日一日は大村市内を巡るつもりである。

天正遣欧少年使節顕彰之像

天正遣欧少年使節顕彰之像

 簑島大橋を渡り切った右側の森園公園でいったん車を停めてもらう。ここには天正遣欧少年使節顕彰之像がある。長崎に来るたびにリムジンバスの車窓から眺めていたこの像を、一度間近で見てみたいと思っていた。
 向かって左から、まず一人やや離れて彼方を指さすのが、大友宗麟の名代であり一行の主席であった伊東マンショ。次が大村純忠の名代であり後に棄教した千々石ミゲル。三人目が最年少の原マルチノで、彼は家康の禁教令によって追放されたマカオで客死した。最後が188福者の一人である中浦ジュリアン。彼は禁教令後も日本に残り西坂の丘で殉教した。伊東と千々石が正使、後の二人は副使である 。
 少年らしくありつつも、この像の4人は胸を張り実に堂々としている。しかし、16世紀後半に、宣教師に連れられ、はるかローマを目指して長崎の港を出帆した4人の心中は、果たして如何ばかりであったのだろうか。今でいえば、彼らは中学校の1年か2年生である。
 セミナリヨで同じく机を並べる仲間うちから、ヴァリニャーノ先生は自分を選んでくれた――そう誇らしげに自負する気持ちは確かにあっただろう。しかし、今とはあまりにも状況が違う。彼らが帰国したのは8年後である。困難が容易に予想される長い船旅に出るにあたって、どれだけその胸の内に不安が渦巻いたことであろうか。実際洋上の彼らは、食事ほど嫌なものはないと思ってしまうほどの激しい船酔いに苦しんだし、疫痢によって生死の間をさまよいもした。
 それだけに、無事ローマに到着し、グレゴリオ13世教皇との謁見が叶ったときの、喜びと緊張で打ち震えていたであろう16、17歳になった彼らの表情を想像すると、熱いものが込み上げてくる。台風一過の青空を背にした4少年像は、若者であるがゆえに持ちうる勇気を、その凛とした姿勢でもって静かに示していた。
 再びタクシーに乗り込み植松教会へ。今日はここを起点として、郡崩れに関連する史跡を訪ね歩くつもりである。教会では葬儀が行われていたので中に入ることはできなかったが、積み重ねられた大小さまざまな岩を背後にした色鮮やかな「キリスト信者の扶け手なる聖母像」の前でしばしたたずんだ後出発した。
郡崩れ・胴塚

郡崩れ・胴塚

 教会前を走る国道を空港方面に戻る。桜馬場交差点近くにあるのが胴塚である。アパート横の細い道を入ると、竹藪の脇に、棕櫚の葉を手にし跪いて天を仰ぐ着物姿の男性像が建っている。棕櫚の葉は殉教者のアトリビュート(その人物が何者であるかを示す持ち物のこと)である 。
 この地には郡崩れによって斬首された信徒の胴が埋められた。妖術を使うといわれたキリシタンの復活、否、蘇生を恐れ、大村藩は首と胴とを別々の場所に埋めたのである。
 「崩れ」とは、潜伏キリシタンの大量検挙事件を指す言葉である。おもに密告を発端として、豊後、濃尾、浦上、大村、天草など、全国で潜伏キリシタンたちの地下組織が崩壊の危機に瀕する「崩れ」が起きた。郡崩れは、そうした一連の崩れの中で最初に起きたものである。明暦3(1657)年に信徒の存在が発覚し、翌年の万治元(1658)年7月までに603人が検挙された。この人数の多さに大村藩は自藩のみでは対応できず、周辺の藩の助けも借りて取り調べを行った。その結果406人が打ち首を命じられたが、大村の放虎原では131人が処刑された。
 131人もの人間を打ち首にし、その首と胴とをわざわざ別の場所に埋めたというのは、実にグロテスクで背筋の凍るような話である。遺体の埋葬ではなく、人間の身体を「物」として、否、「物」にして、地中に捨てるがごとく埋めたのだ。人間はそこまでむごくなれるものかと戦慄する。この残酷さは深く思いにとどめなければならない。そうでなければ、殉教の意味は理解できない。すべての殉教者が、時の政権によって、無残な姿で虐殺されたのである。
 郡崩れの後には、幕府のキリシタン捜索とそれに伴う仏教化政策はいよいよ強化され、宗門改の法的整備も進んでいく。各地でキリスト教信仰者の姿は消えていった。しかし、すべての灯を消すことはできなかったことは、多くの人の知るところである。
郡崩れ・首塚

郡崩れ・首塚

 ここから国道34号を北に向かってしばらく行き原口住宅入口交差点の一本先を左折すると、原口町公民館前に首塚がある。いうまでもなくこちらは、殉教者の首が埋められた地である。跪いて両手を合わせ、深く頭を垂れる男性像が建っている 。
 像の背後には榎の大木が植わっている。プレートが結わえ付けてあり、「樹齢350年以上」とあった。つまり、郡崩れによる殉教があったころに、この樹は芽吹いたのだ。思わずその太い幹に掌を当ててしまう。この先、世の中がどのように変化していくのかは分からない。しかし、この地でこの樹は、これからさらに何十年も、あるいは何百年も、ただ静かに葉を茂らせていることだろう。この樹に比べれば実に小さな人間の営為を、黙って見下ろしていることだろう。
獄門所跡の聖母子像

獄門所跡の聖母子像

 来た道を戻るように南下し、次に獄門所跡を訪れた。首塚からは徒歩30か40分程度だろうか。多少迷って探したのだが、ボランティアで公園の清掃をしていた老人に道を教わりたどり着いた。
 杉並一丁目公民館の敷地内に白い聖母子像が建っている。聖母は御子を抱くのではなく、両腕を広げる御子を背後に立ってうつむいて見つめ、その小さな掌に優しく手を添えている。台座が高いので見上げるようになるのだが、澄んだ青空を背景に眺める聖母の顔には、何か吸い込まれるような雰囲気がある 。
 獄門とは「さらし首」のことである。切断された131人の首は、この地で見せしめのため、20日の間さらされた。
 ここで一つ言い添えておきたいのだが、郡崩れの捕縛者の中には、打ち首のほかに、永牢すなわち終身刑に処せられた者が20人いる。これについては、片岡弥吉氏の説明をそのまま引用しておきたい。「永牢二十人のうち大村領千寄の諸兵衛娘ちよは入牢のとき十一歳、牢死したのは一七二二年(享保七年)十一月二十八日で七十五歳であったから、六十四年間牢内で暮らしたことになる。ちよの兄千松は十三歳で入牢、七十四歳で病死、在牢六十一年、赤窄の五兵衛の娘いせは十歳で入牢、七十二歳で病死、在牢六十二年という文字通りの永牢になった」(『日本キリシタン殉教史』)。10代前半の子どもが老人になり病を得て亡くなるまで、60年以上もの間牢に閉じ込められたのだ。ただただ恐ろしいというしかない。
放虎原殉教地・日本二百五福者殉教顕彰碑

放虎原殉教地・
日本二百五福者殉教顕彰碑

 獄門所近くの交差点を西に入りしばらく行くと、放虎原殉教地の碑が建つ広場がある。この碑は、広場入り口側が「日本二百五福者殉教顕彰碑」で 、反対側は「大村潜伏キリスト教徒殉教顕彰碑」と なっていて、それぞれにレリーフが嵌め込んである。大変大きな碑で、青空を背に白い枠組みが鮮やかに映えている。
放虎原殉教地・大村潜伏キリスト教徒殉教顕彰碑

放虎原殉教地・
大村潜伏キリスト教徒殉教顕彰碑

 日本205福者は、元和3(1617)年から寛永9(1632)年の間に、長崎、江戸、京都、仙台などで殉教した人たちで、1867年に教皇ピオ9世によって福者に列せられた。日本人153名のほか、スペイン、ポルトガル、イタリア、メキシコ、韓国、ベルギーなどの国籍の人も含まれている。奥州の布教に尽力し、伊達政宗による支倉常長らの慶長遣欧使節に同伴もしたフランシスコ会の司祭ルイス・ソテロも、この205福者の中の一人だ。帰国する支倉ら一行に同行できなかったソテロ神父は、元和8(1622)年に身分を偽って中国船に乗り込み日本に再入国したが、ここ放虎原で寛永元(1624)年に火刑に処された。 
 また広場の右側には聖トマス西と15殉教者が、一人ひとりをかたどった金属製のオブジェによって顕彰されている。彼らは寛永10(1633)年から同14年の間に長崎で殉教した人たちで、日本人9名の他に、スペイン、イタリア、フランス、フィリピン国籍の人が含まれている。1987年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖された。
妻子別れの石

妻子別れの石

 再び国道34号に戻り南下する。協和町交差点のすぐ近くの墓地の一角に「妻子別れの石」というものがある 。郡崩れによって処刑されることになった131人が斬罪所に引かれる際に、家族と最後の別れをして水盃を交わした場所であると伝えられている。半分地中に埋まってある丸い石には、とめどなく流された涙で濡れたため苔が生えないとの言い伝えがあるそうだ。
 またこの墓地には、大村純忠の長女であるマリナ大村伊奈姫の墓もある。真っ赤な曼珠沙華が幾本も鮮やかに咲き、古い墓石を彩っていた。

 さて、ここからさらに南下する。途中、国道を離れて、聖トマス西と15殉教者の一人である大村の聖マリナにささげられた水主町教会に寄り、ここから旧長崎街道を進む。シャッターを下ろした店の多いアーケードを抜けて、線路沿いを行く。
 本小路というバス停の近くには、大村牢跡の解説板が立っている。郡崩れの殉教者たちは、ここから放虎原まで引いて行かれたのである。
 再度国道に戻って進む。やがて大村湾に注ぐ鈴田川にぶつかるので、これに沿って歩いていく。午後の日差しが川面をキラキラと輝かせ、背後の山の深緑と相まって美しい風景だ。さすがに真夏とは違うが、陽を遮るものもなく暑い。帽子をかぶって来なかったことを後悔した。
 鈴田川に掛かる三鈴大橋を渡って県道を道なりに進むと、左手の丘に白い十字架が見えてくる。鈴田牢跡である。
 鈴田牢は、元和3(1617)年から同8年の間に宣教師や信徒が囚われた牢である。その中の一人、205福者に名を連ねるイエズス会のカルロス・スピノラ神父が遺した書簡によって、この牢がどのような状況であったかを知ることができる。「牢は幅十六パルモ(注 一パルモは掌をひろげて親指の先から小指の先までの長さ)、長さは二十四パルモあり周囲も天井も鳥籠のように角材で造られていて、角材と角材の間は指二本の間隔であり、瓦屋根で、床には多数の横材が渡されその上に厚い板が張ってあります。辛じて人が通れるくらいの小さい戸があって、錠がかけられ、そのわきに日本の飯茶碗の大きさの窓があって、そこから私たちに食事が与えられます」。「夏は四方から空気と涼しい風が入って楽にすごせますが、雨や嵐の季節が始まり、またその後に寒さと雪が来ると、それを防ぐ方法がないので、私たちは主に捧げる数多の苦しみを味わいます」(ディエゴ・パチェコ〔結城了悟〕『鈴田の囚人――カルロス・スピノラの書翰』)。
 十字架の台座には、スピノラが遺した牢の平面図を刻んだ板が嵌め込まれている。それによれば牢部分の広さは5.6m×3.6mである。このような「狭隘な場所」に、元和7(1621)年には33人もの人間が押し込められていた。一人あたりは0.4畳ほどでしかない。
 

鈴田牢跡

鈴田牢跡

さらに十字架の横には岩を重ねた祭壇がしつらえてあり、その周囲が擬木で囲まれている。その擬木が囲む広さが牢の広さだそうだ。中に立ってみるとそれを体感できる。33人がここに収まれば、全員が立っているしかないような空間である 。
 高台の下には一面に青田が広がり、海からの風が心地よく、歩きづくめで火照った体をクールダウンしてくれる。しかし、真冬に吹く風は、本当に厳しく辛いものであったろう。この牢には計35名が囚われたのだが、過酷な条件によって3名が牢死した。残りのうち24名は西坂で、8名は放虎原で殉教した。もちろん、生き残った者はいない。
 大村駅まで歩いて戻り、最後に大村市立史料館に立ち寄った。1階は図書館で2階が展示室になっており、大村から出土したキリシタン墓碑やキリシタン時代のメダイなどを見ることができる。なお、今回は時間の都合で利用することができなかったが、ここには松田毅一氏によってその蔵書が一括して寄贈されており、閉架式ではあるが閲覧することができる。フロイス『日本史』の複写版も揃っているそうだ。
 
天正夢広場のからくり時計

天正夢広場のからくり時計

建物の前は「天正夢広場」と名付けられたちょっとした公園なのだが、その中央に立つからくり時計がなかなかに凝っていて面白い。全体は西洋の城の塔のような形で、その上に地球儀が据えられ、さらにその上には帆船の模型が飾られている。天正遣欧少年使節帰国400年を記念して設置されたモニュメントである 。四周には、1582年長崎出航から始まり、ローマに至るまで彼らが立ち寄った地を描いたタイルが敷いてある。
 大村を巡った今日は、遣欧少年使節に始まり遣欧少年使節で終わる一日となった。その間に訪ねたのは、すべて迫害と殉教の跡である。少年たちの勇気と殉教者の勇気、その2つの勇気が背後に負ったものはまったく異なる。歴史の大きなうねりが、信仰者の立つ状況を一変させてしまったのだ。そんなことをややぼんやりと考えつつ、空港に向かうバスに乗り込んだ。

長崎の史跡 その2

長崎市内(2015年7月28日)
 今年2015年は、信徒発見150年の記念の年である。長崎教区では2月半ばから3月17日の記念日まで、さまざまな行事が執り行われた。記念日当日の大浦天主堂での記念ミサには、教皇フランシスコの特使としてフィリピンのオルランド・ケベド枢機卿が招かれた。このミサは招待者のみの参加であったが、一般信徒向けには、早朝6時半を1回目として6回もミサが行われた。どのミサも堂内に入りきれないほど信徒が集まったそうだ。
 今回の旅、やはり大浦天主堂から始めなければならない。最初からそう決めていた。
 平日だが夏の午後、観光客は多い。隣のグラバー園の旧住宅が世界遺産に登録されたばかりで、県も市もさらなる観光客増加を望んでいることだろう。
 大浦天主堂には過去にも幾度か足を運んでいるが、残念ながらここでは、単に一観光スポットを訪れたにすぎないという意識がぬぐえず、教会に来たという気持ちにあまりなれない。最大の原因は、常時流れ続けている信徒発見についての解説の放送である。確かに、その事実を伝えることは大切なことではあるが、もう少し何とかならないものかといつも思ってしまう。
 今から150年前、パリ外国宣教会のプチジャン神父(後に司教)は、この聖堂で浦上からの潜伏キリシタン10数名の来訪を受ける。献堂から約1か月後、3月17日の昼下がりのことであった。
 「ここにおりますわたくしどもは、全部あなた様と同じ心でございます」。このあまりにも有名な信仰告白を行ったのは杉本ゆりという名の婦人である。彼女は続いて「サンタ・マリアのご像はどこ」と神父に尋ねた。プチジャン神父は翌日、この出来事を日本布教の総責任者で横浜にいたジラール神父に手紙で報告している。「親愛なる教区長様、心からお喜びください。わたしたちは昔のキリシタンの子孫が沢山いるすぐ近くにいたのです」との書き出しで始まるこの書簡には、「サンタ・マリアのご像はどこ?」というゆりのことばが、ローマ字でそのままに綴られている(純心女子短期大学・長崎地方文化史研究所編『プチジャン司教書簡集』参照)。
 この日を境に、浦上にとどまらず、外海や五島などの潜伏キリシタンが大浦を訪れることになる。もちろんこの時点で禁教令が解けていたわけではないが、司祭も信徒も、役人は黙認していると見ていた。大胆になった浦上信徒は、檀那寺と関係なく葬儀を行う、いわゆる「自葬事件」を起こす。こうした動きが徳川幕府による最後のキリシタン弾圧へと発展し、その流れをそのままに継承した明治政府によって、浦上信徒は一人残らず西日本各地20藩に配流され、拷問を受け過酷な牢生活を強いられた。これが浦上四番崩れである。
 祭壇右のマリア像を見上げながら、「全部あなた様と同じ心でございます」という、ゆりのことばを改めて思い浮かべた。今回の旅では、この「同じ心」ということばのもつ重みや喜び、そして悲しみまでをさまざまに考えさせられることになったのだが、そのときは観光客の群れの中で、漠然と思い耽っていたにすぎなかった。
 天主堂の隣には旧羅典神学校がある。明治8(1875)年に建てられた木骨レンガ造の建物で、ド・ロ神父の設計による。大正末まで神学校の校舎兼宿舎として使用された。現在はキリシタン関係の資料室となっている。
 規模は大きくなくとも見ごたえのある資料が並んでいるが、ここでの一番の見ものはド・ロ版画だと思う。日本人版画師に作らせた宗教画であり、版木も保存されている。
 その中に天国や地獄を描いたものがある。それは純西洋風ではなく、日本的な要素を多分に含んでいる。こうしたところもド・ロ神父の凄さなのだろう。現在の感覚だけから見れば漫画的といえるような図柄かもしれないが、凝った構図には迫力がある。当時の日本人信徒は、この絵に信仰者として真実味を感じたに違いない。
 旧羅典神学校脇の細道を天主堂を横に見ながら進みグラバー園の出口付近に出ると、十六番館という洋館が立っている。以前この建物の地下は資料館になっていて、遠藤周作に『沈黙』を執筆するきっかけを与えた踏絵が展示されていた。わたしは27年前、学生のころにそれを見た。しかし現在は扉が閉ざされており、内部は廃墟のように荒れている。いったい、あの展示資料はどこにいってしまったのであろうか。
 さてそのまま坂道を下り、大浦教会聖堂を訪れてから(教会学校の子どもたちが作成した「信徒発見のマリアさま」という切り絵が聖堂入り口に貼ってあったのだが、幼子イエスの表情が実に可愛らしくて微笑ましかった)、長崎港に添って国道を南下する。昼過ぎに長崎空港に着いたときには小雨がぱらついていて、今も雲が空を覆っている。しかし気温は高い。汗を拭いつつ30分ほど歩いた。
 

金鍔次兵衛潜伏の地

金鍔次兵衛潜伏の地

港に架かる女神大橋の手前に「金鍔」という名のバス停がある(バス停には各地で貴重な地名を今にとどめてくれている例が多数ある。もし路線が廃止になったら、その地名を後世に遺してくれるものが何もなくなってしまう。平成の大合併により多くの貴重な地名が失われた今、せめてこんな形ででも、それが残されていってほしい)。188福者の一人、金鍔次兵衛(名の読みは、「じひょうえ」あるいは「じへい」)ゆかりの地である。バス停すぐ近くの急な石段を上り、最後にさらに急な石段を脇の鎖につかまりつつ上り詰めると、岩崖に小さな洞窟状にえぐられた空間がある。次兵衛神父が身を潜めていたと伝えられる場所だ。現在は長崎四国八十八ヶ所霊場(本場四国に擬し大正期に作られた霊場)二十四番札所となっていて、いくつもの小さな仏像が祀られている 。ちょっと薄気味悪いようなところだが、洞窟を背にして前方を眺めると、山と山の間に港が透かし見え、海風も心地よく吹いてくる。
 『長崎志』に次のような記述が見られる。「当地古川町ニ次兵衛ト云者邪宗門ナル由訴人アリ。彼者ハ魔法ヲ覚シニヤ目前ニ有之ト云ヘトモ忽見失フ程ノ者ニテ寛永十二年当地ヲ出奔セリ。(中略)彼者常ニ金鍔ノ脇指ヲ差シタル故異名ヲ金鍔次兵衛ト云リ。又戸町御番所ヨリ西ノ山際ニ大岩ノ横ニ裂タル内ニ十四五坪ノ穴アリ。彼者此内ニ隠レ住タル由。後年此所ヲ金鍔谷ト云伝フ」。ここに「戸町御番所ヨリ西ノ山際」とあるが、現在の金鍔バス停のあたりは戸町四丁目になるかと思う。そして、「大岩ノ横ニ裂タル」という簡潔な表現がまさに適切であることは、現地を訪れれば自ずと納得できる。
 この福者については後に改めて触れるが、引用文の記述からも察せられるとおり、金鍔次兵衛は数多の伝説に彩られ、妖術使いの伴天連、そんなイメージで語られることすらある。ここは、地味かもしれないが、長崎中心部から比較的訪れやすい、そのゆかりの地である。
 さて、ホテルへと戻る途中、中町教会に立ち寄った。昨年訪れた際には設置工事が始まるところであった、聖トマス西と15殉教者の顕彰碑を見るためである。
 
中町教会・聖トマス西と15殉教者顕彰碑

中町教会・聖トマス西と15殉教者顕彰碑

実に立派な碑で、正直あっけにとられたほどだ。中心に据えられ頂に十字架磔刑像が立つ背の高い黒色の顕彰碑の両脇には、8名ずつ計16名全員の、等身大よりやや小さめの像が立っており、ポーズはさまざまだが、すべての人物が天へと視線を向けている。駐車場の一角の十分な敷地で、碑の銘板にあるとおり、ここは記念庭園なのである 。
 西坂で殉教したこの16人の内訳は、司祭9名、修道士2名、修道女2名、信徒3名である。像によってこれが視覚的に理解できる。それがこの顕彰碑のよいところなのではないだろうか。
 明日からに備え、本日はこれにて終了。長崎駅前から路面電車に乗り込んだ。

雲仙・島原(7月29日)
 この日は、終日Cさんとご一緒することになった。ご一緒するといっても、Cさん運転の車にわたしが同乗させていただくのである。
 Cさんとは、先に書いた典礼委員会の講演会で初めてお会いし、ごあいさつさせていただいたご婦人である。その際には、来年島原取材を手伝っていただけないか、そちらの方面は公共交通機関を使って巡るのは難しいのでといった話をごく簡単にしただけであったのだが、一年が過ぎて、その口約束が現実となった。Cさんとはその後、メールで数回やり取りをしたばかり。お会いするのはそれ以来のことである。なんとも、人の縁とは不思議なものだが、こうした縁は本当に大切にしたい。
 朝、浜口町で車に乗せていただいてから1時間ほど、雲仙では小雨がぱらついていた。最初に雲仙教会を訪問してから(鍵がかかっていたので中には入れず)、雲仙地獄を歩いた。
 だいぶ気温が低い。たえず噴き出す蒸気で眼鏡がくもる。天気のせいか、あるいはまだ時間が早いからか、観光客はまばらで静かだ。
 雲仙温泉には「○○地獄」と名づけられた地熱地帯が30か所ほどあるそうだ。その一つ「清七地獄」の前で立ち止まる。解説の板は、清七という長崎に住むキリシタンが捕らえられ処刑されたときに、この地獄が噴出したと説明している。
 

雲仙キリシタン殉教記念碑

雲仙キリシタン殉教記念碑

キリシタン殉教記念碑を目指して上へと登っていくが、途中の四阿からは、立ち込める蒸気と霧とで、まったくといってよいほど景色を見渡すことができなかった 。
 205福者の一人、西坂で火刑に処され殉教したアントニオ石田神父ら7名が、長崎奉行竹中采女正重次から寛永8(1631)年にここ雲仙で受けた拷問は、グロテスクなほどに残酷なものである。底に小さな穴をあけた柄杓に熱湯を入れ、苦しみを長引かせるために、少しずつそれを体中に垂らしていくのだ。当然体は傷だらけになる。
 パジェスは、名は定かではないが、このとき拷問を受けた一人の神父の勇敢な態度を伝えている。熱湯が「片方の腕の下の胸の脇に触れて来ないことを感じ」た彼は、縛られた腕を可能なかぎり挙げて「ここは灌水式を受けておりません」といったのだという(『日本切支丹宗門史』下)。
 またパジェスは、別種の拷問も記録している。フランシスコ・デ・イエズス神父とベアトリス・ダ・コスタという名の婦人は、素裸にされ、バランスを保つのが難しい丸い石の上に立たされ、両側から杭に縛られた。さらに口の中に卵大の石が詰め込まれ、その姿のまま12月の寒空の下、一晩中置かれたのである。肉体を痛めつけるばかりでなく、人間としての尊厳を完全に剥奪し自尊心を踏みにじる、身の毛もよだつような拷問である。奉行にとって処刑は仕方なしの最終手段であって、真の目的は殺すことにはない。あくまでも棄教させることにある。だからこのような凄じい拷問がいくつも考案されたのだ。
 また拷問の末、半死の状態で小屋にいたビンセンシオ・カルワリオ神父は聖画像を踏むよう強要された。しかし神父は「そんな?聖をさせるより、わたしはこの足を切り落としてしまいましょう」と毅然としてこたえた。片岡弥吉氏によれば、これが日本で行われた最初の絵踏の事例だそうだ(『長崎の殉教者』)。
 また、188福者のうち、パウロ内堀作衛門ら26名が寛永3(1626)年の2月と5月とに雲仙で殉教している。205福者の碑とともに立つ十字架の下に据えられた大理石の銘板には、彼らの名が刻まれている。


 雲仙岳から島原へと下っていくうち、クーラーを切って外気を取り込むだけで十分快適であった車中の気温がぐんぐん上がっていく。あっという間に5度以上も上昇してしまった。空模様も山の上とは違い、雲もなく晴れ渡っている。
 次の目的地は島原城である。1960年代に復元された天守自体には何の魅力もないが、この復元天守内が資料館となっており、最初のフロアにはキリシタン関係の資料が展示されている。だが、これにしても、多くのこうした資料館同様、さして目を引くようなものがあるわけではない(なお、これはキリシタン資料ではないのだが、このあと訪れる今村刑場で処刑された罪人の死体を腑分けして作成された解剖図がここには展示されている。これは一見の価値がある)。
 ただ敷地の一角にキリシタン墓碑が保存されている。あえていえばこれが目当てだった。
 
島原城のキリシタン墓碑

島原城のキリシタン墓碑

『まぼろしの邪馬台国』で知られる宮﨑康平の記念碑の隣に、4つの墓碑が並べられている 。いずれも蒲鉾型のものだが、そのうちの1基には刻まれた干十字(カルワリオ十字)がはっきり確認できる。また、全面が大きくえぐられているものもあるが、解説の板によれば、これは旧島原藩家老職奥平氏宅の庭から発見されたもので、手洗盤として利用されていたのだそうだ。キリシタン墓碑がこんなふうに再利用されていた例は大阪の茨木市でも見た(2010年版『カトリック教会情報ハンドブック』参照)。元は墓碑と知っていてそんな不埒なことをしたのか、知らないで単に手頃だと思い利用したのか、それは分からない。
 島原半島は全国で群を抜いてキリシタン墓碑が多数発見されている地域である。南島原市教育委員会の企画により制作された『日本キリシタン墓碑総覧』によれば、南島原市で112基、島原市で8基、雲仙市で11基が確認されている。あとは京都市の20基を除けば、佐賀、大分、熊本、大阪のいくつかの市で、それぞれ数基が確認されているばかりなので、島原がいかに突出しているかが理解できる。全国総数の7割近くがこの半島に集中しているのである。このあとCさんと、道路脇の案内標示を見つけては「あそこにもキリシタン墓碑ってありますよ」といった会話を幾度も交わした。親切にも彼女は「寄りますか」と一つごとに尋ねてくれたのだが、そんなことをしていたら、この日に予定していた行程はまったくこなせないことになってしまう。それほどの数なのである。
 次に島原教会を訪問する。八角形ドーム型の個性的な外観をもつ聖堂である。この八角形は真福八端を表していて、「心の貧しい人は幸いである」に始まり、一つずつの壁面に一句一句が刻まれている。

島原教会・中浦ジュリアン像

島原教会・中浦ジュリアン像

島原教会・ルイス・アルメイダ像

島原教会・
ルイス・アルメイダ像

島原教会・内堀兄弟像

島原教会・内堀兄弟像

 前庭には、福者・内堀兄弟、中浦ジュリアン、ルイス・アルメイダの像が立っている 。作者いずれも本田利光氏で、どの人物も柔らかな表情をしている。とくにアルメイダは、左手に幼子を抱き、右には杖をついた少女が寄り添っていて、慈父のごときである。アルメイダは、ここ島原での布教においても、多大な功績を残している。
 内堀兄弟というのは、雲仙で殉教したパウロ内堀作衛門の3人の息子、バルタザル、アントニオ、イグナチオのことで、父の死の一週間前、手の指を切り落とされたうえ、2月の有明海に投げ入れられて殉教した。
 この殉教については、フェレイラ神父が報告書に詳しく書きとどめている。3人のうち最年少である5歳のイグナチオは右手の人差し指を切り落とされると、その「手を顔近くに上げて、美しいバラの花を見る人のようにゆっくり傷口と切り落とされた小さな指から流れる血をながめてい」たのだという(結城了悟『雲仙の殉教者』)。
 凍てつく冬の海に投げ入れられたのは、単純に殺すためではない。沈みそうになれば繋いだ縄を引っ張って水面まで引き上げ、また縄を緩める。それを何度も繰り返す中で、教えを棄てるよう強要したのだ。父同様、子もまた、このような残忍な拷問の末に命を落としたのである。
 聖堂入り口左には、指を切り落とされた自分の手を見つめるイグナチオの像が立っている。右は、慶長18(1613)年に有馬で火刑に処され19歳で殉教したマグダレナ林田の像である。
 中に入ると、グレゴリオ聖歌が静かに流れていた。ちょうど正午になり、教会の鐘が厳かに響く。Cさんが「グレゴリオ聖歌が合いますねえ」と静かにつぶやいた。彼女が考えていたこととはちょっと違うかもしれないが、確かに残酷な状況をあれこれ思い浮かべた後だけに、この美しい調べは慰めになる。
 祭壇に向かって右には天草四郎の陣中旗のレプリカが、左には巨大な踏絵が掲げられ、陣中旗の隣には有馬の殉教者の聖遺物が安置されている。
 両脇のステンドグラスが見事だ。題材は、天正少年使節、アルメイダ、ヴァリニャーノ、島原および雲仙の殉教などである。雲仙の殉教の模様は、おそらくモンタヌス『日本誌』収載の挿絵を元にしたのだろう。
 なお、この聖堂には教皇が迫害下の日本信徒を励ますために送った書簡に対して、島原の信徒たちが書いた返書の写しが展示されている。
 教会の前には白土湖という、池といったほうがふさわしい規模の湖があるが、その南端に架かる橋を渡ってやや細い道を南に進むと、左手に今村刑場跡がある。205福者のうちナヴァルロ神父ら4人が火刑にされ、郡崩れの信徒の斬首もあった地である。

 

今村刑場跡

今村刑場跡

この一角だけ草木が鬱蒼としており、南無阿弥陀仏と刻まれた碑が立つ、何とも寂しげな場所だ 。一方、隣は保育園で、青空のもと水遊びに興じる子どもたちの歓声が盛んに聞こえてくる。こんなギャップは各地で幾度も経験してきた。こうしたギャップがあると、その地の印象がいっそう強く胸に刻まれる。今楽しげに声を上げている子どもたちは、自分たちが幼年期を過ごした保育園の横が殉教地であったことなど一切知ることなく大人になっていくかもしれない。それはそれでいい。この地が史跡として守られ、隣では子どもたちが嬉しそうに声を上げている、今がそうした世であるということ、そのことが何よりも大切なのである。
 島原街道を西へ、Cさんの運転で快適に進んでいく。途中で昼食をとり、有家の殉教地に向かった。
 
有家・キリシタン処刑の地

有家・キリシタン処刑の地

南島原市役所の1kmほど手前で右折ししばらく行くと、左手に有家中央青果協同組合の建物がある。その裏手に墓地があり、その脇に「キリシタン処刑の地」と刻まれた石柱が立っている 。
 片岡弥吉氏の『長崎の殉教者』に掲げられている「有馬地方の殉教者一覧」で殉教地が有家とされている人数を単純に抜き出して足していくと、62名がこの地で殉教したことになる。とくに寛永7(1630)年5月19~31日については「二五〇名鋸引き、うちトマス吉兵衛等五〇名死」とある(なお、ここに立つ有家町教育委員会による解説の板では、これが寛永5年のこととされている)。
 このときの有家の迫害の凄じさはパジェスが書き残している。あまりに残酷な描写ゆえ躊躇してしまう気持ちも正直あるのだが、一部を引用しておく。「若干の人々は、細縄で手足を縛られ、しかも縄が肉の中に食いこんで千切れるまでに締めつけられた」「竹を尖らし、錐のようにして肉の中に突刺す、骨まで突刺して、時には傷の中で竹を折った」「十歳と十二歳の子供たちは、両親の目の前で、両親を動かし、本来の愛に訴えて屈服させようというので拷問にかけられた。この子供たちは、掌に熱い燠をのせたまま、動かずにじっとしていた。僅かに六歳になる子は、体を火箸でちぎられ、さらに唇を切られた」「罪人の首は、始めは筋を開くために、竹の鋸で、次いでは、肉をさばいて傷を大きくし、最も苦痛多く、最もゆるゆると殺すために歯をつけた木か竹の鋸でひくことが計画された。第一日目に、彼等は、三箇所の切口をつけられ、続く六日に二箇所つけられた、その試練毎に、刺激を強めるために、傷口に塩をつめこまれた」(『日本切支丹宗門史』下。なおパジェスのこの記述は1630年の章にあるものだが、これらの迫害については1627年のこととされている)。書いているだけで戦慄が走り、キーボードを打つ指が萎えてしまう。人間が人間に対してかくも残忍になれるということ、その事実に慄然とせざるを得ない。
 当然棄教した者も多い。しかし、そのことに後世のわたしたちが、一体何をいえるだろうか。
 
有家キリシタン史跡公園のキリシタン墓碑

有家キリシタン史跡公園のキリシタン墓碑

来た道を北上し、有家小学校の脇を通って細い道路をさらに進むと、のどかな田園風景(ただ休耕地も多く、丈高い雑草が一面に茂っていたりもする)の一角に有家キリシタン史跡公園がある。公園といってもさしたる広さがあるわけではなく、4基のキリシタン墓碑と、十字の紋様が刻された印塔の笠部分が、野ざらしではなく屋根がしつらえられて保存されている 。しかし保存状態はよくない。干十字や花十字の紋様はまずまず確認できるが、洗礼名だと類推されている「類子」の文字など、はっきりとは分からない。松田毅一氏が『キリシタン時代を歩く』において島原のキリシタン墓碑群について触れる中で、日本におけるこうした遺物や史跡の保存が、海外と比較してあまりにも遅れていることを嘆いている。とにかくそれを価値あるものとして保存しようとする最初の一歩が遅すぎるのだ。ここにある墓碑にしても、「類子墓碑」こそ1927年に県史跡の指定を受けているが、それ以外は1982年になって町文化財の指定を受けているのである。風化してしまったものは永遠に元には戻らない。
 この公園は「桜馬場墓碑群」と呼ばれていた当地の墓碑を合祀する目的で設営されたのだが、室町時代の作とされる石仏が2体、同じ敷地に保存されている。この、ずんぐりとした石仏の表情がユーモラスで何とも面白い(解説の板には「合祀されている石仏二体」なる記述があるのだが、ここで「合祀」ということばを使うのはどう考えてもおかしいだろう)。
 
有家セミナリヨ跡

有家セミナリヨ跡

再び島原街道に戻り西に進むと、右手に「史跡 セミナリヨ跡」と記された標柱が立っており、その横には4基のキリシタン墓碑がある 。
 ヴァリニャーノによって天正8(1580)年に有馬に開かれたセミナリオは、政情不安や弾圧により、八良尾、加津佐、天草、再び八良尾、そして有家へと移っている。ここ有家のセミナリオは短命ではあったが、1596年には、あの有名な「セビリアの聖母」の銅版画制作の舞台となった。
 4基の墓碑の保存状態はやはりよくはないが、1基の花十字は、比較的鮮明である。
 解説を読み、そそくさと写真を撮影して、交通量の多い道路を何とか横断し、再び車に乗り込む。南島原市役所を左折、海岸方面へと向かう。
 途中の商業施設の敷地に、褌一つでロダンの「考える人」のようなポーズをしている、締まりのない顔のユーモラスな巨像があったのだが、Cさんが「みそ五郎」というのだと教えてくれた。島原半島に伝わる巨人伝説である。天草一揆軍が会議をしたとされる談合島は、この「みそ五郎」が尻もちをついた際に飛んだ土くれによってできたのだそうだ。
 さて、もう一つキリシタン墓碑を訪ねる。場所は西有家町須川の墓地の中である。この墓碑の場所については、グーグルなどのインターネット上の地図にも記載がある。なぜなら、県や市町村ではなく、国指定の文化財であるからだ。
 墓地の前の電信柱に「吉利支丹墓碑」との表示が貼られている。駐車に適当な場所がなかったので、残念ながらCさんを車中に残し、わたし一人、その案内に従って墓地の中に入っていった(それにしても、この案内表示は古いものではない。何で「吉利支丹」などと漢字で書く必要があるのだろうか)。
 遠くからでも分かるよう、背の高い白い十字架が建っている。そして、墓碑自体は小さな小屋の中に収められている。何かこれまでと矛盾するようなことをいうようだが、保存に関してはこれでよいとしても、小屋のガラス窓越しに墓碑を見なければならないため、細かな装飾などが観察しにくい。昭和48年の文化庁文化財保護部による解説を引用しておく。「この墓碑は背面に美しい花十字の線彫りと一方の軸部に花十字を平彫りし他方の軸部に楔形の小十字とローマ字墓標とを薬研彫りしてありキリシタン墓碑の中でもっとも高い価値を有するものである」。そしてこの墓碑は、ローマ字文が刻まれた、また元号と西暦が併記された日本最古の墓碑とされている。
 
西有家町須川のキリシタン墓碑

西有家町須川のキリシタン墓碑

暑い中、体をかがめて必死に覗き込んだが、ガラスの輝きや映り込みがどうしても邪魔をする。写真も何枚も撮ったのだが、上手くはいかなかった 。
 さて、次がこの島原での最大の目当てである。島原街道をそのまま進み仙乗院という寺の脇を右に入る。道なりに行くと川にぶつかるので、それを渡ってから右折、しばらく行くと左手に小さな案内表示が出ている。日野江城跡である。
 数台が駐車可能なスペースがあるので、そこに車を停め、案内に従って急な坂道を上っていく。こちらは大手口につながる上り口である。見渡す景色の緑が鮮やかで、鳥の声も盛んに聞こえる。暑さこそ厳しいが、牧歌的で平和な風景である。
 個人的な感慨をあれこれ書き連ねはしないが、わたしにとっては27年ぶりの日野江城址訪問である。学生のころ、わたしをここに連れてきてくれた恩師はすでに亡くなっており、どうしても込み上げるものを感じてしまう。
 遠藤周作氏が『切支丹の里』に収められたエッセイの中で日野江城について「実際、一度の合戦も行われず、他の山城のように悲劇的な運命をもたなかったこの城を訪れる人はほとんどなく、このあたりを旅する人は島原の乱の原城はたずねても、ここに眼をむけることもしないであろう」と書いているのだが、まったく観光地化などされていない城址である。しかし、杖曳く人のほとんどないような場所だからこそ、素朴な雰囲気の中で、過去について思いを馳せることができる。
 日野江城は、島原半島を支配した有馬氏の居城であるが、島原のキリシタンの歴史は、永禄5(1562)年に有馬義直が弟の大村純忠を介して宣教師派遣をイエズス会に求めたことに始まる。トルレス神父は大村にいたアルメイダに彼の地の布教を命じた。当初有馬氏には、口ノ津港開港による南蛮貿易での利を求める打算的な考えがあったのかもしれないが、アルメイダの布教は著しい成果を上げていく。永禄9年にはすでに1300人の信者が島原にはいた。さらに義直が天正4(1576)年に受洗するに至って、信者数は爆発的に増加する。義直は受洗の年に没するのだが、そのころには領内に2万もの信者が数えられた。
 義直の跡を襲った子の晴信は最初キリスト教を迫害したのだが、口ノ津を訪れたヴァリニャーノ神父の説教に心打たれ受洗する。それによりさらに信者数は増加、領民のほとんどがキリスト者になったといわれている。そして45もの教会が建てられた。
 先に有家のセミナリオのところで少し触れたが、宣教師は教会だけでなく、有馬にセミナリオを、加津佐にコレジオを建てた。この時期、まさに島原は、大村、豊後と並んで、キリシタンの中心的な土地となったのである。
 
日野江城階段遺構

日野江城階段遺構

坂を上り始めてすぐに目についたのだが、あちこちに緑色の網を張った柵が巡らされている。イノシシ侵入防止のためだそうだ。さらに上ると、1998年の発掘調査で検出された階段遺構全体が、足場が組まれて覆われている。さらなる調査が行われているようである 。
 この階段の一部には、破壊された仏式の墓石や五輪塔が用いられている。そして、この五輪塔の年代などから、16世紀末の遺構であることが推定されている。そうであるならば、有馬のセミナリオで学んだ天正使節の少年4人も、間違いなくこの階段を上り、本丸へと入城しているのである。
 さらに本丸跡へと、少々足場の悪い道を藪蚊を追い払いつつ進む。一つ手前の広場で見渡すと、眼下に有明海の輝きがよく見渡せる。晴信のころには、あの海岸線へと至るまでに、屋根の上の十字架をいくつ見ることができたのだろうか。実に自然に、そんなことへと思いが及ぶ。
 苔むした石垣に心惹かれ、鳥の声を楽しむ。悲しみに満ちた場所をいくつも訪れてきただけに、キリシタン隆盛の時代の史跡に立って心が和む。Cさんとの間に会話もさしてない。二人ともそれぞれの思いの中にしばし自分をゆだねていた。
 次が最後の目的地、原城である。車なのでほどなく到着し、まずは空堀を見る。わたしの記憶が確かならば、この空堀に、以前は短い竹がいくつも立てられて十字の形を作っていた。そのときには、堀の中まで下りていき、その十字に沿って歩きながら、何か震えるような気持ちになってしまい、その気分がいつまでも抜けず困ってしまった思い出がある。
 この地を訪れた舟越保武氏は、かつて血みどろの戦があった場所が、今はあまりにも静かでのどかであるだけに、かえって絶望的なキリシタンたちの声を聞く思いがし、代表作の一つ「原の城」を制作した。それは兵士たちの単純な嘆きの表現ではない。少しばかり肩をすくめたようで、やや前かがみといった姿勢の兵士像は、ある種の幻想性を帯びている。その幻想性が伝えるのは、慟哭とは異なる声にならない悲しみ、人間が抱える底深い悲しみである。
 昨年の本特集でも書いたが、天草の乱は、生活苦に耐えかねた農民が起こした一揆であるとわたしは理解している。その農民たちがキリシタンであったということにすぎない。だから宗教的な一揆ではない。しかし、当たり前であるが、だからといって、女性や子どもも含め、幕府軍によって惨殺された多くの人間の悲しみに心打たれないわけではない。これはわたしの勝手な思い入れによる解釈なのだが、舟越氏の「原の城」に漂うのは、キリスト者でありながらも武器を手にせざるを得ず、そしてはかなく死んでいった兵士の悲しみなのかもしれない。
 
原城址

原城址

原城は慶長9(1604)年に完成したとされる城である 。現地を訪れるとよく理解できることだが、海に突き出した崖の上に建設された、まさに天然の要害である。日野江城よりもはるかに堅固な城であったと思われる。晴信もここに居を構えたが、その息子である直純は慶長19年に日向に転封となり、そしてその翌年の一国一城令によって、この城は廃城になったとされている。島原の乱は寛永14(1637)年のこと。天草四郎率いる一揆軍は、地の利を信じて、その廃城に立てこもったのである。
 オランダの力を借り海からの砲撃を行うも目立った効果を上げることのできなかった幕府軍が最後に用いたのは兵糧攻めであった。一揆軍の食料も砲弾も尽きかけたころ、はるかに数の勝る軍勢による総攻撃によって、原城は落城、天草四郎は討ち取られた。
 天草四郎の墓碑や、北村西望作の天草四郎像などが立つ本丸跡から眺める有明海は、やや緑がかった海面が沖の小島と相まって、穏やかで美しい。
 島原の乱終結後、幕府軍によって原城は徹底的に破却された。本丸石垣も取り壊されて埋められたのだが、その跡からは多数の人骨が発掘されている。幕府軍は、石垣の石も一揆軍の亡骸も、同じく「物」として穴に投げ込んだのである。
 さて、世界遺産登録を目指して最近立てられたのであろう、島原の史跡を紹介する解説板をCさんと眺めていると、「有馬キリシタン遺産記念館」なる施設が紹介されていた。何とか閉館時間に間に合いそうなので、城跡近くの八幡神社で、鈴木重成(昨年の本特集でも触れた天草代官である)によって建てられた島原の乱供養碑を、暴力的といってよいほどのクマゼミの大合唱と蚊の攻撃の中でそそくさと見てから早速向かった。
 立派な建物に驚いた。旧原城文化センターを改修し、昨年オープンしたのだという。
 10分ほどのビデオを見た後、館内を巡った。展示室は左右二翼に分けられていて、左が日野江城、右が原城に関する展示となっている。
 Cさんと二人で日野江城跡の航空写真を「ここから入って、ここを通って、ここまで行ったんだねえ」などと話しながら眺めた。現地を訪れた直後にこうした写真を見ると、自分がたどった道が、より明確に理解でき楽しい。
 原城のほうのコーナーで圧巻なのは、石垣発掘の際に多数の人骨が出土した模様を正確に復元した実物大ジオラマである。また、砲弾をもとに作られたロザリオなどの出土品も展示されている。
 
千々石ミゲル像

千々石ミゲル像

これにて本日の行程は終了、のつもりであったが、長崎に戻るには途中で千々石を通過する。千々石ミゲル生誕の地である。橘神社の奥に記念碑があるらしいので、寄ってみようということになった。しかし、すでに日が暮れてしまい、そこまで歩いていくのは難しいと判断してあきらめることにした。だが、方向転換するために自動車を乗り入れた場所が、たまたま雲仙市千々石庁舎の駐車場で、そこで図らずも千々石ミゲル像を見ることができた 。
 千々石ミゲルは天正少年使節4人の中でただ一人棄教した。この像は南蛮風の衣装をまとい、首に十字架をさげ、右手を高く掲げているのだが、台座にはつまらない文句が書いてある。「今日、なお後世の人々をして、千々石清左衛門の波瀾に富んだ生涯に、最も共鳴を抱かせるゆえんは、彼の至純な人間的生き方に対する景仰心の表れとも言える」。何なのか。結局「至純な人間的生き方」というところに「棄教」も含ませようということだろう。実に安っぽい表現だ。ミゲルの複雑であったに違いない胸の中など、さっぱり伝わってこない。結局は、ただの町おこしの材料でしかない。少年の面差しを残す像の顔を見上げながら、少々歯噛みする思いであった。

長崎市外海町(7月30日)
 7時56分浜口町発のバスに乗り込む。予定より少し遅れ、50分ほどで桜の里ターミナルに到着。すでに待っていてくれた長崎巡礼センター外海ステーションの松川隆治さんの運転する軽自動車に乗り込んだ。今日はこの松川さんに一日外海を案内していただくことになっている。
 山中の道を20分ばかり走り、最初の目的地の入り口に到着した。これから往復3時間、山道を歩くことになる。目指すは次兵衛岩。188福者の一人、金鍔次兵衛が隠れ住んだと伝えられる場所である。
 空き地に車を停め歩き出す際に、松川さんから竹の杖を渡された。わたしは歩くことには自信があるが、山歩きはまったくの素人。広島の高松山でのぶざまな様子は2013年の本特集にも書いた。なので、この時点では杖の大切さなどちっとも分かっていなかった。
 本格的な山道へと入る前、見晴らしのよい場所で、松川さんが谷を越えた向こうの山を指し示す。「あそこに白く光っているものが見えるでしょう」といわれ目を凝らしたがよく分からない。松川さんが丁寧に何度か説明してくれ、ようやく識別できた。確かに何かが小さく光っている。しかし、何だかは分からない。「あそこが目的地です」と、こともなげに松川さんはいう。わたしは汗を一つ拭い、「頑張ります」と声を出して気合を入れた。出発時間は9時15分であった。
 まずは杉木立の中、枯葉の堆積した坂道を下っていく。「次兵衛岩洞窟」と書かれた、行き先を指し示す表示が立っている。この後も、要所要所に細かく案内の表示が目についた。発見後、苦労してこうした整備をなさってきたのであろう。
 松川さんによれば、この場所は、戦後に庭石用の蛇紋岩を採取するため山道ができたのだという。この時点では、湿っていて多少歩きにくくはあってもとりあえず道があったので、さして歩行に困難を感じてはいなかった。途中、一つの剥き出しになった大岩のところに麻縄が何本もかけてあり、これを滑り止めとして靴に結わえるのだと教わった。しかし、松川さん自身はそれをする気配がない。なので、せっかく教わったにもかかわらず、大した考えもなしに、それをせず先に進んでしまった。これはすぐに大きな後悔を生むことになる。松川さんの足元はトレッキングシューズ、わたしはただのハイカットのスニーカーである。素人というのは本当に駄目なものだ。松川さんは若いころから登山に親しんできたのだそうである。
 街歩きでも、この旅のように史跡を巡って方々を歩くときも、わたしはつねに軽量のランニングシューズを愛用しているが、この日は訳あってハイカットのスニーカーを履いていた。それは、わたしなりのささやかなマムシ対策であった。外海でのガイドをお願いするにあたって最初に長崎巡礼センターに連絡した際、センターの事務局長である入口仁志さんは「とにかくマムシが多いから、わたしたちは夏には行かない」とおっしゃった。松川さんも、事前の電話での打ち合わせで「とにかく足元だけはきちんとしてきてください」と、マムシへの注意を喚起してくれた。もちろん、トレッキングシューズを履けばいちばんよかったのであろうが、あいにく持ち合わせがない。ゴム長靴ではさすがに歩きにくいだろうしなどと、あれこれ考えた結果、せめてもということで、ハイカットにしたのである。ものの本によれば、ハブなどと比較してマムシの毒牙は短い。なので厚手のものを身に着けるのが効果的とのこと。そこで、デニムにハイカットシューズ、これで取りあえずは何とかなるだろうと考えたのである。要するに素人の浅知恵である。
 しばらく行くと沢に出た。木漏れ日を浴びた流れが放つ輝きがまぶしい。しかし、ここからは道なき道を進んでいくことになる。
 最初の難関として、石を伝って沢を渡る。登山ストックを手にした松川さんが比較的足場のしっかりとしたところを選んでくれ、的確に指示をくださる。わたしはそれに従って歩を進めるだけだ。
 「今度の台風次第では、あきらめることになったかもしれなかった」と松川さん。実はこの旅の直前、長崎には台風12号が直撃していた。しかし上陸のころには熱帯低気圧となっており、雨量もさほどではなかったそうだ。もしその台風が激しい雨をもたらしていたならば、沢の水嵩が増し、渡渉できない可能性もあったのである。
 沢を渡る際もっとも気を付けねばならないのは、石にむした苔である。これがとにかく足を滑らせる。苔の付着していないところを選って足をかけなければならない。何で靴に縄を結ばなかったのか――。あっという間の後悔である。
 沢の上流に眼を向けると、両岸の岩肌の苔は緑に輝き、鬱蒼と茂る木々の間から注がれる光の線を受け止めて、息をのむほどに美しい。ひんやりとした空気と、やわらかな水音、そしてかすかな鳥の声、そうした諸々とともに、眼前の景色は幻想的に広がっている。
 しかし、こんなふうに自然を楽しむ余裕があったのは最初だけであった。美しい苔は、終始油断ならない対象となり、流れる汗を拭う余裕すらなく、ただひたすら足元を凝視して進まねばならなかった。いつものわたしなら、岩の下から這い出てくる沢蟹を追いかけたり、ディズニーのアニメさながらの真っ赤で巨大なキノコをしげしげと眺めたりするはずである。しかし、そんな気がまったく起こらない。
 

次兵衛岩へと至る、沢に沿った道なき道

次兵衛岩へと至る、沢に沿った道なき道

幾度か岸を変えつつ先に進む。岩に手を掛けて上り下りを繰り返す。軍手はすぐに濡れそぼってしまった。松川さんに置いていかれないようにするのに必死である 。最初はその足元を注視し、同じ場所に自分も足を掛けるようにしていた。しかし、途中でそれは無理だと気付いた。松川さんが1歩で行くところを、わたしは3歩使わなければ進めないのである。多少大きな岩だと、そこからストンと格好よく飛び降りることができず(着地点には苔が密生しているので)、ぶざまなへっぴり腰になってしまう。Cさんが一緒でなくてよかった――。心底そう思った。
 実は昨晩、別れ際にCさんは悩んでいた。外海にも一緒に行きたいというのである。島原で過ごした一日が、彼女の心に確かなものを残したのだ。楽ではないと思いますが、それでよければご一緒するのは構いませんよ、そうわたしはこたえていた。結局Cさんには別の用事が生じて、外海にはわたし一人で来ることになったのだが、朝届いたメールには無念が滲んでいた。
 しかし、わたしも男、ご婦人にこんな姿は見せたくないのである。Cさんには申し訳ないが、今回はわたしだけでよかった。
 それにしても、一年に何組もの巡礼団がこの次兵衛岩を訪れているのである。そうしたかたのブログなどを拝見すると、失礼ながら決して若いとはいえないご婦人がたを含んだ団体もある。修道服のシスターですら巡礼している。それを思えば、我がへっぴり腰は実に情けない。こんなはずではなかったのだが……。あきれずに付き合ってくださる松川さんに感謝である。
 途中、松川さんのストックが流れの際を指し示した。「マムシがいる……」。確かに、特徴的な縞模様が体を波打たせて這っている。しかし今回ありがたいことに、この毒蛇との遭遇はこの一度のみであった。夏になるとマムシも涼を求めて水際へと出てくるそうだ。「これからが本格的なシーズンでしょう」と松川さん。
 山に入る前と今とでは、気温は5度以上違うかもしれない。木々が日光を遮っているし、水の流れもある。だが、とにかくとめどなく汗が流れてくる。タオルはすでに絞れるほどだ。
 最初の小休止で、松川さんが飴玉をくれた。甘いものを摂ったほうがよいという。水は飲みたいが飴玉はちょっと……、そんなふうにそのときは思ったのだが、実際なめてみると(黒糖の飴だった)、これがいい。口の中が不快になったりはしないのである。もう、ひたすら感心しきりである。
 岩を積み重ねて作った小屋がいくつか目についた。炭焼小屋だそうである。このあと、かなり奥深くにもこの小屋は散見できた。もちろん今は使われてはいないのだが、焼いた炭を運び出すのに、果たしてどれほどの労力を要したのであろうか。それを考えると気が遠くなる。
 ルートに倒木があれば、動かせるものならば松川さんはそれを取り除ける。今回は鋸を持ってくるのを忘れたとおっしゃっていたが、動かせないものは切断して処理し、ルートを確保するのだそうだ。スタッフの皆さんのこうした行き届いた管理があってこそ、わたしたちは次兵衛岩を訪れることができる。
 
次兵衛岩下のマリア像

次兵衛岩下のマリア像

出発から1時間後、マリア像の前に到着。苔むした岩の上に立つ白いマリア様である 。下には柄杓が置かれていて、清水が流れ出ている。ここで再度休憩。持参した飲み水の量が心もとなくなっていたところであったが、松川さんが氷入りのジュースを、水筒一本振る舞ってくれた。何の果物かは忘れてしまったのだが(ヤマモモだったか)、多少の酸味が心地よい。生き返る気がした。
 マリア像を撮影しようとカメラを見るとレンズがくもっている。しかし、乾いた布がない。何もかもびっしょりなのである。仕方なく、タオルの端のほうで、ごまかすように拭った。
 ここからが最後の難関である。不要なものはマリア像の下に置いたままにし、もはやほぼ意味をなさないタオルとカメラだけを持って、「次兵衛岩(5分)足元注意」との案内が指し示す最後の急な上りにかかる。
 木と木の間に渡されたロープを伝って上っていくと、解説の板とともに、せり出した大岩の横腹にえぐられたような空間が見えた。これが次兵衛岩である。
 
次兵衛岩

次兵衛岩

手前の祭壇には花が活けられ、その奥には顕彰碑、左手には修道服を着て十字架を持った神父の像が立っている。右手奥にかがんで入れるほどの口が開いていて、真っ暗だがさらに空間が広がっている。こここそ次兵衛神父が隠れ住んだところである。顔を差し入れて覗き込むと、何かしらの生き物が何匹も跳ねるように動く気配がした。暗いので何であるかは分からない。懐中電灯を持ってくるべきであった。カメラのフラッシュをたいて確認すると、5、6畳はあろうかと思われる、割に広い空間である。しかし、大人ならばかがんでやっと入れるといった程度の高さしかない 。
 次兵衛神父はここに潜伏していた、しかし一体どうやって……。確かに水はある。だが何を食べるというのか。やはり協力者がいなければ無理だろう。
 なぜ神父は潜伏していたのか。いうまでもなく、生き長らえて、一人でも多くの人に秘跡を授けるためである。どうしても殉教ばかりがクローズアップされてしまうが、禁教の時代には多くの司祭や修道士が、昼間は山野に身を潜め、夜の闇を利用して移動し、必死に生きて宣教司牧に努めたのである。
 1602年頃、大村のキリシタンの家に生を受けた次兵衛は、有馬のセミナリオで学び、家康の禁教令発布後にマカオのコレジオに入る。したがって、彼はペトロ岐部と同窓で学んだのである。しかし、昨年の特集でも触れたが、当地のイエズス会は日本人の叙階を許さなかった。そこでペトロ岐部はローマを目指したが、次兵衛は日本に戻ってくる。だが司祭への夢をあきらめることはできず、1622年マニラに渡ってアウグスチノ会に入会する。セブで叙階された後は、ひたすら帰国の機会が訪れることを待ち続け、1631年末あるいは1632年の初めになって、ようやく母国の土を踏んだ。
 次兵衛神父は、馬丁となって働きながら入牢中の司祭と連絡を取り、夜になれば密かに信徒たちを訪問し励ました。やがて奉行にその正体を見破られると、神父は姿をくらます。寛永12(1635)年に「戸根村の山中に隠れている」という情報が入ったので、奉行は西彼杵半島一帯の大規模な山狩りを行ったが、神父を捕らえることはできなかった。彼は江戸にあって、何と家光の小姓たちに教えを伝えていたのである。しかも数人が受洗した。当然家光は激怒し、次兵衛召し捕りの厳命が下されることになる。そこで奉行は近国諸所に関所を設けた。それでも次兵衛神父は捕まらない。
 しかし寛永13(1636)年11月に、妖術使いとまでいわれた次兵衛神父も、密告によりついに捕縛される。これまで多くの労力を費やされ、むなしく奔走させられていたがため、役人の次兵衛神父に対する憎悪は甚だしく、水責めなど過酷な拷問を受けることとなる。最後にはもっとも過酷とされる穴吊りを2度も受け殉教した。捕縛翌年のことであった。
 穴吊りが2度行われたことには意味がある。次兵衛神父は彼をかくまった12人の男女とともに穴に吊られたのであるが、その12人が次々と息絶えていく中にあって、神父は3日間生き続けた。奉行は一度神父を牢に戻し、手当てを施した。それは、次兵衛神父が棄教したというデマを、広くキリシタンたちに信じ込ませるためだったのである。
 1638年には早くも次兵衛神父の列福調査がマカオで行われているのだが、このデマが障害となり福者に列せられることはなかった。それから370年も経った2008年に、マカオで机を並べたペトロ岐部とともに次兵衛神父もその列に加えられたことは周知のとおりである。
 しばらく休んでから、松川さんが右手奥の木立の切れ目へと案内してくれた。確かに先ほどからわたしも何かを視界の端にとらえてはいたが、何であるかは分からなかった。工事現場にあるような簡易トイレがあるのかなと何となく思っていた。
 果たしてそこにあったのは、歩き始めるときに松川さんが指し示してくれた、あの白く光るものであった。要するに大きめの銀色のサンシェードである。だから陽を受けて光る。それがパイプ状のものに結わえ付けてあるのだ。巡礼の人たちに、目的地がどのあたりであるかを最初に説明するためにこれを設置したのだそうだ。
 先ほど上ってきた急坂は、下りのほうが辛い。ロープをしっかりつかんで、少しずつ歩を進めた。
 マリア像の前で再度荷物を背負い、身なりを整える。今度は松川さん、バナナを出してくれた。身体は確かに甘いものを欲しがっているのだろう、数口で平らげてしまった。さらに松川さんは背中にしのばせていたタオルを抜き取った。もちろん汗を吸収するためのものである。何から何まで勉強になる。次の機会には必ずと思わずにはいられない。
 最初に沢を渡るとき、松川さんが「帰りは気を付けてくださいね。慣れたと思うから失敗しますよ」と、これまた的確なアドバイスをくださった。
 一度の軽い休憩をはさみ、あとは黙々と歩いたが、途中、一人で奥に進もうとしている人と鉢合わせた。確かに、細かに案内表示があるので、一人で目的地まで行けないことはないとは思う。しかし、松川さんは「あの靴で大丈夫かな」と少々不安げであった。彼の足元はランニングシューズであった。
 車に戻ったのは12時ごろ。3時間弱の行程である。距離は片道およそ3kmとのことだ。
 もう一度あの光る目印を眺める。あそこまで行って戻ってきた、今はあの目印が何であるかを知っている……。いささか誇らしげな気持ちになる。
 松川さんは、これまで幾度もこの道のりのガイドを務めてきた。20人ほどの団体を案内したこともあるという。それほどの人数の場合は先頭と最後尾に、それぞれガイドを付けなければならない。休憩も多く取る必要があるので4時間はかかるそうだ。
 帰りがけ、行きがけにはきちんと見なかった自動車道脇に立っている次兵衛岩洞窟入り口の看板で少し車を停めてもらう。「遭難の危険がありますので、「次兵衛岩」訪問には、現地に詳しい方の同行が必要です」との注意書きが記されてある。その下には、わたしが借りたと同様の杖が、数本用意されてあった。


 元は炭鉱があった池島への船が出る港まで出て、レストランで昼食を済ませた後、向かったのは大野教会である。世界遺産登録のための事業の一つであろうが、教会前の坂道が工事をしていてコンクリートを打っているので、車ばかりでなく歩行者も迂回しなければならない。「大野教会堂来訪者受入態勢整備工事(1)」と看板には仰々しいタイトルが掲げられているのだが、迂回路の説明が曖昧で、行政のやることは駄目だと、松川さん盛んに嘆いておられる。
 
大野教会

大野教会

民家脇の細道を通り、教会堂の前に出た。ちょっと他に例のない、不思議な雰囲気をもった教会である。薄く砕いた石を積み重ね漆喰で固めた壁に瓦葺き、鬼瓦の部分に十字、両側面の窓上部にはレンガのアーチ、漆喰に木の枠がはめられ、木の雨戸が入っている 。
 次兵衛岩で松川さんは、そのウエハース状に層を成す岩は温石(おんじゃく)というのだと教えてくれた。大野教会の壁に用いられているのも、その温石である。大野教会はド・ロ神父によって1893年に建てられた。この特異な壁は、それにちなんで「ド・ロ壁」とも呼ばれている。現在は国の重要文化財であり、巡回教会として、年に一度だけミサが行われている。ド・ロ神父は、大野地区で「かくれ」からカトリック教会に戻った人たちのためにこの聖堂を建設したのである。
 内部をのぞくと、通常使われる祭壇の背後に公会議前の祭壇がある。質素だが木肌の艶が美しい。内側から見た窓枠はターコイズブルーで、木の床と天井、そして白い壁と実にマッチしている。実用性、美的感覚、そして風土への融合、そのすべてをこの建物は備えている。ド・ロ神父がどれほどの天才であったかがよく理解できる貴重な遺産であろう。
 次に、そのド・ロ神父の大平作業場跡を見る。大野教会からはわずかの距離だ。
 
大平作業場跡

大平作業場跡

畑地の中にある、屋根を失った西洋風建物の遺構は、かなり特異な空気を醸し出している。上から眺めると、まるでマチュピチュ遺跡である 。
 ド・ロ神父は、貧しい地域住民の生活向上のために、この地に二町歩の原野を買い求めて開墾し、麦や茶を栽培した。これはその畑に付属した作業場である。
 今ではかなり崩れてしまってはいるが、そうとうしっかりとした建物であったろうことはよく分かる。17、8年前に、これは遺跡じゃないかと草を刈ってみたところ、この見事なド・ロ壁が現れたとのこと。
 崩れた壁の上から木が生えてきてしまったりしているのだが、それはすでにしっかりと根を張っていて、引き抜いたら壁ごと崩れてしまうそうだ。下に降りて細部を見てみると、アーチ状の窓の上部など、やはり多少の崩壊が進んでいる。
 外壁に馬をつなぐ金具が残っている。ド・ロ神父は、ここまで馬の背に揺られて通ったとのことで、山中の道を馬でぽくぽく上ってくる神父の姿を想像するのは楽しい。
 次に訪れたのはバスチャン屋敷跡。このバスチャンという人については詳しいことは分からないが、宣教師追放後に外海地方のキリシタンを指導したといわれる日本人伝道師である。ここは車を停めてから、薄暗い細い道を5分ほど歩かなければならない。しかし、午前中のことを考えれば、こんなものは如何ほどのものでもない。ただ、コンクリートの石段に濡れ落ち葉が積もっていて、気を許すと転びそうになる。
 
バスチャン屋敷跡

バスチャン屋敷跡

杉木立の中、脇には清水が流れる薄暗い場所に、ド・ロ壁を模した小屋が建っている。バスチャンが隠れ住んだといわれる場所である。もっともその小屋自体は後から作られたもので、松川さんによれば、陽があまり当たらず湿度の高い場所ゆえ、木で作るとすぐに腐食してしまうので、石積みの小屋になったのだそうである 。
 正面には比較的新しそうな木の扉が付いている。施錠されてはいなかったので開けてみたのだが、そのとたん、とんでもない数の何かが一斉に飛び跳ねた。カマドウマである。それも、一体一体がかなり大きい。
 カマドウマという昆虫をご存じだろうか。胴はカシュナッツ状に湾曲していて茶色の縞模様があり、翅は退化していて、後ろ足が異常に長く驚くほどの跳躍力を示す、同目に属するバッタやコオロギと比べると少々奇怪な姿の虫である。
 これだけの数のカマドウマを一つ所で見たのは初めてだ。壁に彼らが無数に張り付いている。いかに昆虫好きとはいえ、さすがに足を踏み入れるのは躊躇してしまった。
 脇を流れる清水は澄んでいる。「かくれ」の人たちは、洗礼に使うためにこの水を汲みに来ていたそうである。長い間、一人の司祭もいない中で信仰を守り続けた人たちにとって、一つの場所を聖なる特別な地とするということは、自分たちのアイデンティティ維持のために欠くことのできない要素だったのではないだろうか。人間にとって、やはりシンボルは大切なものだ。それは自己規定や、人間どうしの連帯や一体化の拠り所ともなる。
 再び車に乗り込み、次にド・ロ神父の墓に参った。傾斜地に作られた墓地の上の方に神父の墓はあるのだが、実は一番下にも墓がある。松川さん曰く、高齢化社会でお参りがきつくなり、墓のほうに下りて来てもらったとのこと。まずは上の墓からということで石段を上った。
 この石段にも、その両脇にも温石が積まれている。勾配は急で、確かに歩きやすくはない。
 
ド・ロ神父の墓(下)

ド・ロ神父の墓(下)

ド・ロ神父の墓(上)

ド・ロ神父の墓(上)

ド・ロ神父の墓は、モンマルトルなどのフランスの墓地でよく見られるような、典型的な前世紀初頭の西洋風の墓石である。ド・ロ神父はフランス人、当たり前かもしれない 。
 風化なのか、下の方が欠け始めているその墓石の脇には略歴を刻んだ碑があり、その末尾には「日本にあること46年間一度も帰国することなく終生社会事業に貢献す」とある。神父の偉大さを称えることばだが、できれば「社会事業」だけでなく「司牧」もそこに加えてほしい。
 この略歴を見て改めて思ったのだが、ド・ロ神父は74歳で亡くなっている。今でいえば決して長寿ではない。何か、もっと高齢まで生きておられた人という印象を勝手にもっていた。あの豊かにたくわえた髭が醸すイメージなのだろうか。
 さて下の墓だが、これは立派だ。外海地方の偉大な功労者にふさわしい堂々たるものである 。しかし、だからこそ質素なド・ロ神父のイメージとの間に齟齬があるような気はするのだが……。
 こちらの墓石の台座にも、やはり神父の偉大さを讃えることばが刻まれていて、「35年の長期間に亘り熱心に司牧に従事し」とある。こちらは逆に「司牧」だけである。もっともド・ロ神父にとって「社会事業」と「司牧」とは一体のものであったろうことは間違いない。両者は切り離す、あるいは分けて考えることのできるものではなかったはずだ。だからこれでいいのだという気もする。
 
旧出津救助院

旧出津救助院

次に旧出津救助院を訪問した 。ここではお告げのマリア修道会のシスター赤窄が、実に詳しく解説をしてくださった。きさくで陽気なシスターで、途中「わたしこんなに話していて、お時間大丈夫ですか」などと気遣ってくださる。わたしは、ここまでにかいた汗に加え、ここでもひっきりなしに汗が流れてくるので「汗臭いかなあ。シスターに申し訳ないなあ」と、そんなことをやたらと気にしていた。
 実は5年ほど前にもここを訪れたことがあるのだが、そのときは修復工事が行われていて見学できなかった。2年前に完了したその工事には、5年の歳月を要したそうである。建築当初からは変更が加えられてしまったところを以前のままに戻し、耐震補強が加えられた。
 救助院は、ド・ロ神父が創立した女性のための授産施設である。貧困にあえぐ者の多かったこの地方で、その中でもとくに苦しんでいる未亡人(海難事故で配偶者を失う人が多かった)に生活の資を与えるため、ド・ロ神父は1883年にこの施設を設立した。そしてそれは、若い女性が自活できるよう手に職を付けるための訓練へと広がっていった。さらにこの若い女性たちをキリスト者として教育し、リーダーの養成にも努めたのである。
 ド・ロ神父はつねに進歩的な考えをもっていた人だ。そして、医学や建築、農業、印刷、食品加工など、多才過ぎるほどに技量を有してもいた。かてて加えて、貴族の家の出であるため、背後に豊かな財力もあった。その私財を、惜しむことなくこれら事業に投じたのである。
 この救助院において特徴的なのは、修道者になっていく人と、やがて結婚していく人とが、一緒に生活していたということである。ド・ロ神父は、嫁いでいく女性に対して「嫁入り布団は自分で作りなさい」といって、その他の嫁入り道具は用意してやり、前晩には皆で門出を祝ってやったそうである。そのようにして30数名がこの施設から嫁いでいった。
 生活は決して楽ではない。ド・ロ神父は毎日の食事の内容や食事にあずかった口数を丹念に記録しているが、ほとんどの主食は「かんころ」、すなわち寒風にさらして干したサツマイモである。しかし、初聖体のお祝いのときなどは、400人もの大人数に白米を振る舞っている。そうしたところに、神父の優しさが垣間見られる。
 
ド・ロ神父の時代に使われたホスチアを焼く器具

ド・ロ神父の時代に使われたホスチアを焼く器具

二階は女性たちが寝泊まりした場所であったのだが、ここで見せていただいたホスチアを焼く器具が素晴らしかった。実用品であるにもかかわらず、芸術作品であるかのように繊細で美しい 。赤窄シスターによれば、当地を訪れた韓国のCLCの人たちが、この器具に感動し、盛んに写真を撮っていたという。その気持ちはよく分かる。
 隣のド・ロ神父記念館も訪れ(5年前、ここでシスター橋口が演奏するオルガンを妻子とともに聞いた。まだ幼かった娘たちは、そのシスターのオルガンに合わせて「いつくしみ深き、友なるイエスは……」と歌ったのであった)、次は枯松神社へと向かった。
 車中で、本当に何気なくであったのだが、松川さんに「黒崎教会の所属なのですか」と尋ねた。一瞬の微妙な躊躇があって、松川さんは「わたしはカトリックではない」とお答えになられた。そして「わたしと(事務局長の)入口さんは、巡礼センターの異端児だからね」とおっしゃる。
 中央協議会の職員であるわたしは、そうしたことをあらかじめ心得ているのだろうと、松川さんは思っていたのかもしれない。信者であるとかないとかといったことは、わたしにとって何の問題でもない。いってしまえば、どうでもいいことである。ただ、長崎という土地柄もあるし、巡礼センターのスタッフすなわちカトリック信者という、単純な思い込みをしていたにすぎない(ただ後で、あまりにも事前の勉強が不足していた自分に気づき、大変恥ずかしく思った。最初に入口さんから教わっていた「松川さんは枯松神社の代表世話人を務めている」ということから、多くを類推して調べておかねばならなかったのだ)。
 枯松神社は、バスチャンの師であったサン・ジワンをまつる神社である。もともとは神社ではなかったはずだが、明治以降に「神社」になったのだそうだ。昔の人は「枯松さん」と呼んでいたとのこと。
 
枯松神社・祈りの岩

枯松神社・祈りの岩

まず「祈りの岩」というものを見た 。閉じた二枚貝のように上と下とが流線形になった大きな平たい岩の下に空間ができている。ここで潜伏キリシタンたちがオラショを口伝えに教えてきたのだという。その習わしは昭和初期まで「かくれ」の人々によって行われていたのだそうだ。
 生月とは異なり、この地区の潜伏キリシタンは、オラショを声に出さない。だが、それでは次の世代にオラショを伝えることができない。なので、このような場所で密かにオラショの伝達を行ったのである。この岩の前に立つと、決して大げさではなく、何かしらの息遣いが聞こえてくるような気がする。もちろん由来を聞いたからではあろうが、適度の薄暗さとこの岩の重量感が、こちらをそうした世界へと引っ張り込む。
 社殿へと向かう階段の脇に、板状の石を寝かせた墓がある。その上には、なぜか10数個の白い石が一か所にまとめて置かれていた。
 
白い石を十字の形に並べる松川さん

白い石を十字の形に並べる松川さん

松川さんはおもむろにその白い石を手に取り、一つの形に並べ始めた。十字架である。「かくれ」の人たちは、そのようにして先祖の墓を参ったのである。そしてお参りが終われば、その十字架を描いた石は、元あったように、ぐしゃっと一まとまりにしておく。古い時代には、石を一つ所にまとめておくこともしなかったそうだ。そうした説明に続いて松川さんはいわれた。「わたしが子どものころには、そうやってお参りをしました 」――。
 不意打ちのような感じであった。正直どきっとした。そして、そうだったのかと了解した。何かが込み上げてくるような不思議な感覚があった。わたしの中のある種の思いが、この時点で確かに変わった。しゃがんで手を合わせているその姿を見つめながら、松川さんご自身のことについて、あれこれ聞きたい気持ちが募ってくる。だが、こちらから色々と質問をぶつけるのではなく、松川さんが話してくださることに耳を傾けよう、自然とそうした気持ちになった。
 「かくれ」の人たちが行うこうした習慣や儀式などは、その成立の背後に多くの苦難と悲しみが存在することは間違いない。だが、実際のその儀式に対して、わたしたちが「悲しみ」だけを見るのであれば、それは驕慢な物の見方なのではないだろうか。下のものとして憐れんで見下す態度であるとはいえないだろうか。――そのようにわたしは思う。
 さて、この墓についてだが、こうして枯松神社の境内に墓を設けるといったことは、明治以降、憲法において信教の自由が明確に保障されてからのことであるらしい。禁教時代にそんなことをして、もし発覚すれば、潜伏キリシタンにとっての聖地は、瞬く間に荒らされてしまう。すなわち、これが重要なことであるが、明治以降にあっても「かくれ」の人たちは、秘するといった意味合いの形式を保っていたのである。カトリック教会に移ることのなかったそれら人々は、そうして独自の信仰形態を維持してきたのだ。
 社殿の前でお話しを聞いた。
 
枯松神社社殿

枯松神社社殿

現在の社殿は2003年に建てられたもので新しい。1932年に初めて社殿が建設されたとのことで、それ以前は祠のみだったそうだ 。
 キリシタンを祀る神社というのは珍しい。キリシタン神社の数については諸説あるようだが、この枯松神社以外に、長崎市淵神社の桑姫大明神、東京伊豆大島のおたいね大明神を代表的なものとして挙げることができる。前者は大友宗麟の孫を祀る神社らしいが、未訪である。ただ後者には行ったことがある。波浮港近くの断崖に白い十字架が建っていて、その脇に小さな祠があった。たしか「オタイネ様」との説明書きか案内板かがあったように記憶している。15年以上も前のことで、そのときにはまったく予備知識がなくよく分からなかったのだが、あれがそうであったのかと今になって思う。「おたあジュリア」を祀るものなのだ。
 ジワンという人物についての詳細は分からないが、黒崎地方の潜伏キリシタンを指導した宣教者である。枯松山の背後にオエン岩なるものがあるそうで、ジアンはそこに身を潜め、おえんという名の女性が食事を運んでいたと伝えられている。ジワンは死後、この地に葬られた。すなわち、枯松神社はジワンの墓なのである。そして潜伏キリシタンは、この地を聖なる場所として守り続けてきた。
 松川さんが徐々に饒舌になってきた。わたしは必死でメモを取り続ける。
 潜伏キリシタンたちが信じていたものの中に、バスチャンの予言なるものがある。それは、お前たちを7代まではわが子と見なすがそれから後は救霊が難しくなる、黒船に乗って神父が来ていつでも告解を聞いてもらえるようになる、キリシタンの歌をどこででも歌えるようになる、異教徒が自分たちに対して道を譲るようになる、といったもので、つまりは、やがてキリシタンの時代が来るのだという予言である。
 時代が下り、やがて1865年のプチジャン師による信徒発見があるわけだが、不思議なことに、この時はバスチャンから直接教えを受けた者たちから数えて7代目の世代に当たるのである。この事件はすぐさま潜伏キリシタンたちの間に広まった。
 いうまでもなく潜伏キリシタンたちにとって、この大事件は「信徒発見」ではない。彼らにとっては「神父発見」なのである。バスチャンの予言を胸に信徒だけで信仰を守り続けた彼らの前に、マリアを崇敬し、独身であり、ローマ教皇のもとにある(この3点が彼らにとってカトリック司祭であることの決め手だった)、本物のパーデレが突如現れたのである。キリシタンの時代がついに到来した、そう快哉したであろう彼らの喜びは想像に難くない。
 しかし、この時点で禁教が解かれていたわけではない。浦上信徒たちが、明治政府による最後の弾圧によって塗炭の苦しみを味わったことは、これまで幾度も述べてきたとおりである。
 やがてその禁教も解け、人々は信教の自由を手にする。堂々と教会に足を運ぶことのできる時代がついに来たのである。宣教師による積極的な働きかけによって、潜伏キリシタンは続々とカトリック教会に所属することになる。ただ、すべての人がそうなったわけではない。カトリック教会には復帰せず、先祖から連綿と行われてきた儀式その他をそのままに受け継ぐ、いわゆる「かくれ」となった人たちもいる。生月にはこの「かくれ」の人たちが多くいることは有名だが、松川さんによれば黒崎地区にも40戸ほどの「かくれ」の家があるという。
 先に外海の「かくれ」の人たちはオラショを声に出さずに唱えることについて触れたが、それ以外にも生月・平戸系の「かくれ」の人たちと、外海・五島系の「かくれ」の人たちの儀式や習慣にはさまざまな違いがあり、禁教の高札撤去後にカトリック教会へと復帰した人数にも差がある。
 これには多様な背景が存在するのだが、暦を有していたか否かということを大きな要因として挙げることができる。バスチャンは「バスチャン暦」なるものを外海の信徒たちに残した。暦があれば、それを基準、規範として信仰生活を営むことができる。しかし暦がなければ、指導者のいない中での信仰生活は、歳月を重ねるうちに大きく変貌していってしまう。逆に、暦を有していた者たちの信仰生活においては、種々の変貌はあったにせよそれはある程度抑えられ、その結果、先祖から受け継いだ信仰との間に大きな違和感を覚えることなく、カトリック教会への復帰を比較的容易に行える人たちが多かったともいえる。
 また、潜伏キリシタンは「納戸神」を祀った。聖母子像などを模した絵画であるが、古くなり傷みが生じれば、それは書き換えられていく。そうした書き換えを繰り返すうちに、そこには徐々に日本的な要素が盛り込まれてしまい、当初とは大きく異なる「かくれ」独自のものとなってしまうのである。
 枯松神社下の、これは新しい墓地に行くと、仏教式の墓石が並んでいる。松川、松尾など、松の字が付く姓ばかりだ。戒名塔を見ると、昭和の半ばぐらいまでに亡くなった人には、戒名ではなく片仮名の名が刻まれている。つまり洗礼名である。
 整理するとこうなる。潜伏キリシタンたちは禁教令高札の撤去後、3通りの道を歩んだ。すなわち、カトリック教会へと復帰した者、「かくれ」としての独自の信仰を守った者、正式に仏寺の檀家となった者、である。
 最後に樫山地区へと案内していただいた。樫山地区は古くは東と西に分かれ、東が佐賀領(深堀領)、西が大村領であって、東に潜伏キリシタンが多かった。
 ここに天福寺という寺がある。現在は新しい近代的なお堂が建っているのだが、禁教下の潜伏キリシタンたちは、この寺の檀家とされた。彼らはこの寺に、マリア観音など自分たちにとって大切なものを預けた。すなわち、寺は彼らの真の信仰を黙認し、彼らを庇護したのである。
 禁教の高札撤去後も、彼らはその恩義を忘れるわけにはいかなかった。皆がカトリック教会へと移ってしまえば、寺を維持する檀家がいなくなってしまう。そうした判断から、彼らは寺を棄てずに仏教徒となったのである。
 
ペトロ茂重顕彰碑

ペトロ茂重顕彰碑

さらに皇太神宮という神社にも連れていっていただいた。ここには、ペトロ茂重という人を顕彰する碑が立っている 。浦上三番崩れ(顕彰碑では四番崩れとなっている)の際に、聖画像を隠匿していたことが発覚し、拷問を受け牢死した人物である。この神社に神主はなく、潜伏キリシタンの末裔によって、今なお維持管理されている。
 松川さんは、大浦天主堂で行われた信徒発見150年記念ミサを報じたカトリック新聞を読んでほしいとたびたびおっしゃった。ミサの終わりに読まれた教皇特使ケベド枢機卿のメッセージを読んでほしいと。わたしも、ざっとだが、その記事には眼を通した記憶がある。ただ、松川さんがそこまで強調するほどのことが書かれていたとの印象を受けてはいなかった。
 東京に戻ってから、その記事を改めて読んだ。特使任命書の中でフランシスコ教皇は、司祭がいない中で信仰を保ち続けてきたキリシタンを、わたしたちの「模範」であると述べている。それだけのことならば、すでに1月15日の一般謁見で教皇が述べたことの繰り返しにすぎないし、教皇の一般謁見をまとめた書籍の編集過程でそれもすでに読んでいた。しかし、何か引っ掛かる。ケベド枢機卿によるメッセージ、その全文に眼を通さねばならない。
 その全文は、長崎教区のウェブサイトで日本語訳が公開されている。本文は4つに分かれていて、「祈り」という見出しの付いた1は、「潜伏キリシタンは、神に祈るために樫山に行こうとしました」とのことばで始まっている。
 これはかなり不思議な一文だ。ここで特使は、潜伏キリシタンが熱心に祈ったこと、祈りこそが「彼らの信仰を生きたものとして保」ったのだということを説いている。さらっと読んでしまうと、何も「樫山」という固有名詞をわざわざ出す必要はないようにも感じてしまう。
 なぜ樫山なのか、知識のない者には、おそらくさっぱり分からない。
 樫山赤岳は潜伏キリシタンによって聖地とされていた。浦上のキリシタンたちは、3度樫山を巡礼すればローマのエクレジアを巡礼したことになると信じていたのである。「ローマの」エクレジア(教会)を訪問したことになるということが重要で、潜伏キリシタンたちは「密かに学んだカテキズムのおかげで」教皇との連帯の大切さを知っていたということを特使は評価しているのである。続く2と3においては「沖に見えるはパーパの船よ、丸にヤの字の帆が見える」という潜伏キリシタンたちの祈りの文言を引いて、彼らのマリア崇敬(「丸にヤ」は「マリア」)と、教皇に対する忠誠を称え、4では、司祭をもたなかった彼らが、信徒が教理を教える役割を担って、親から子へと信仰を受け継いでいったことが「どれほど素晴らしいこと」であるかを述べ、それが現代に生きるわたしたちに教訓を与えるものだとしているのだ。潜伏キリシタンについて詳らかに理解したうえでメッセージを綴っている特使は、たとえそこに変容があったとしても、司祭不在の中、信徒によって代々信仰が伝えられたということ、その事実を称賛しているのである。
 バスチャンの予言を信じ続けた150年前の信徒たちがこのメッセージを聞いたならば、果たしてどのように感じたであろうか。もしこのメッセージが、現在のわたしたちに過去を語るものではなく、150年前に「あなたたちは」と二人称で語られるものであったとしたならば、果たして彼らはどう思ったであろうか。それを想像せずにはいられない。
 桜の里ターミナルへと送っていただく車の中で、振り返って赤岳を眺めた。岬の突端側は切り立つ崖になった美しい山だ。わたしは過去に幾度かこの外海を訪れたことがあるのだが、まだこの地の夕景を眺めたことがない。次の機会には、夕陽に染まるこの山をぜひ見よう、そう思った。
 丸一日、たっぷりお世話になった松川さんとは桜の里で別れた。自動車がターミナルに乗り込んだと同時に1台のバスが発車したので、松川さんはわたしといっしょにわざわざ時刻表を見てくださり、すぐに次のバスがないならあれを追いかけよう、そんなことまでいってくださった。
 幸い次のバスの発車まで10分程度しかなかった。自動車を発進させる松川さんに「ありがとうございました」と掛けたわたしの声は、ついつい大きくなってしまった。


 わたし自身が幾度か訪れたことがあるので、今回、出津教会を訪問しなかった。もちろん、初めて外海を訪れる人にとっては外すことのできない場所である。外海地区に赴任したド・ロ神父が、私財をなげうって最初に建てた教会堂だ。決して豪奢ではないが、緑の山と青空とに映える白壁が美しい。
 また、外海歴史民俗資料館も見ごたえがある。そして、遠藤周作文学館とともに、文化村にある「沈黙の碑」。わたしが愛してやまない文学碑の一つだ。「人間がこんなに悲しいのに 主よ 海があまりに碧いのです」。自筆原稿の文字でそう刻んである。

平戸・生月(7月31日)
 この日は、早朝からバスと電車を乗り継ぎ、朝のうちに平戸に着く計画を立てていた。さらに平戸では、午前中のうちはレンタサイクルで各所を巡るつもりであった。
 しかし、まったく事情が変わってしまった。朝6時半、わたしはまたしても、浜口町でCさんの自動車に乗り込んだのである。
 前日、外海で松川さんといる間にもCさんからのメールが届いていた。外海でわたしが体験していることが、いたく気になるようなのである。そして夕方には、明日の平戸行きに同行してはだめですか? とのメールが来た。お邪魔でしたらもちろん遠慮します、との気遣いのことばも添えられている。
 そのとき、わたしは思った。やはり、歴史の重みを持った場所というものは、それを感じることのできる人には、とてつもないものを与えてくれるのだな、と。Cさんにとって雲仙・島原の殉史跡探訪は、大きな感銘をもたらしたのだろう。そうであるならば、これを断ってはいけない。わたしは、Cさんに電話し、ご一緒しましょうと告げた。
 

日本二十六聖人乗船場跡碑

日本二十六聖人乗船場跡碑

長崎自動車道を北上する。大村を通過し、東彼杵でいったん高速を降りた。最初に訪れたのは二十六聖人乗船の地である。自動車で平戸に向かうのでなければ立ち寄りはしなかった場所だ。道の駅に車を停めて向かった海岸近くには立派な碑が建っていて「日本二十六聖人乗船場跡 聖ペトロ・バウチスタの涙」と彫られている 。慶長元年12月18日(1597年2月4日)の夕暮れ、ここで一行は船に乗せられて時津へと向かい、翌日、西坂で十字架につけられるのである。
 ペトロ・バプチスタ神父は、ここへと護送されてくる途中の小休止の際に涙を流した――、フロイス神父がそう伝えている。役人はその姿を見て「死ぬ時が近付いて来たので死に脅えて泣いている」と冷笑した。しかしバプチスタ神父は「死を恐れたからではなく日本で自分の修道会の宣教の足掛かりをつくるために渡来したのに、今自分が死ぬとそのような事がすべて不可能になる」、そう思い泣いたのである(結城了悟訳『日本二十六聖人殉教記』)。
 何ら恐れを抱かずに「喜んで」殉教した者たちのエピソードは多数伝えられている。もちろんバプチスタ神父にしてもしかりである。しかし、宣教師の志半ばの無念を伝えるこうした逸話は、数少ないのではないかと思う。
 海岸まで出て、しばし海を眺めた。ちょっと冬の海を想像できるような気温ではないが、何となし、寂しさを感じる場所であった。
 碑の近くに「本朝万部塔」なるものがある。説明の板によると、郡崩れの際に、長崎街道沿いや集落の中に仏教徒のあかしとして建立された15基の宝塔の一つだそうだ。
 
田平教会

田平教会

しばらく一般道を行き、佐世保大塔で再度高速に入る。佐々から再び一般道となり、北上を続ける。平戸市に入って最初に訪れたのは田平教会。鉄川与助の手によるレンガ造(一部木造)の教会堂である 。
 天井部が八角形のドームになった鐘楼を備え、外壁のレンガは一つ一つに色彩の微妙な違いがあって、それが味わい深い。内部は白を基調としたリブ・ヴォールト天井の優雅な造りで、側廊と身廊を分けるアーケードには椿の花の浮彫があしらえてある。
 椿の花は、キリシタンと深いつながりがある。五島の教会には、椿を紋様として取り入れた装飾が数多くあり、生月に伝わる洗礼者ヨハネを描いたとされる「お掛け絵」には椿の花があしらってある。花弁を散らさずに花全体がぼとりと落ちる椿は、首が落ちることを連想させる。平戸生月町博物館・島の館の学芸員である中園成生氏によれば、だから首を刎ねられたこの聖人のシンボルとなるのだそうである(『生月島のかくれキリシタン』参照)。
 また、外海には「バスチャン椿」なる伝説が残されている。樫山の人たちが霊木とした木のことだ。これが役人によって切り倒されるという噂が立ち、信徒たちはその木から小片を作って宝としたのである(前日樫山の神社の近くで、松川さんに「これがバスチャン様の椿だともいわれている」という木を教えてもらった。樹齢だけを考えるなら一致するのだそうだ)。外海歴史民俗資料館には、その一片が陳列されている。
 椿を紋様に取り込んでいることもその一例ではあろうが、鉄川建築の魅力は、西洋の模倣だけに終わっているものではないということだ。ゴシック建築に倣いながらも、そこには確かに日本的要素が盛り込まれている。その和の要素の取り込み方が、格調を崩すことなく華麗なのである。
 なお教会のすぐ横が墓地になっていて、十字架のある墓石が何基も立ち並んでいる。林立する十字架の向こうに見る教会堂――この風景も田平教会独特のものではないだろうか。
 さて、平戸島へと上陸する前に、焼罪史跡公園にあるカミロ・コンスタンツォ神父殉教碑を見に行った。サムソンホテルの駐車場を通って、この公園に行くことができる。
 
カミロ・コンスタンツォ神父殉教碑

カミロ・コンスタンツォ神父殉教碑

西洋式のシンメトリーの公園で、トンボがやたらと飛んでいた。公園に入ったとたん、その一番奥に、炎をかたどった大きな碑が見える 。その後ろには海を挟んで平戸城や平戸教会も見ることができ、絶景のビューポイントだ。
 イエズス会士のカミロ神父は慶長10(1605)年に来日したが、家康のキリシタン追放令によって同19年にマカオに追放された。しかし日本への思いは捨てがたく、元和7(1621)年に日本人の船で潜入、だが翌年に宇久島で捕縛され、田平のこの地で火刑に処された。縛り付けられた柱の上から神父は「最後まで、崇高な説教を止めなかった」(『日本切支丹宗門史』中巻)。このモニュメントは炎に包まれるカミロ神父をかたどっているが、同時に天へと上げられる師の姿でもある。
 いよいよ平戸大橋を渡って平戸島へ。まず向かったのは根獅子にある平戸市切支丹資料館である。ここには生月・平戸の「かくれ」に関する資料だけでなく、外海・五島の「かくれ」に関する資料も展示されており、両者の違いが説明されている。規模こそ小さいが、なかなかに見ごたえのある資料館である。
 
うしわき様(おろくにん様)

うしわき様(おろくにん様)

資料館の隣には、「うしわき様(おろくにん様)」と呼ばれる小さな森がある。「うしわき」とは、この地の名称「大石脇」が転訛したものであるが、殉教者が葬られたとされる場所である。「おろくにん様」とは6人一家のことで、その一家が里人1千人の身代わりとなって殉教したため、千人塚とも呼ばれるそうだ 。
 原生林の中に続く道の先、石垣状に三方を囲まれた中に、マキの一種だろうか、細長い葉を付けひょろひょろと伸びた枝が天を覆い、ひっそりと小さな祠がある。もちろん開放的な印象を受けるわけではないが、さほどじめじめとした感じはない。長い時の流れの中を受け継がれてきた聖地の静謐さが感じられる場所である。
 根獅子の浜は小さな入り江の海水浴場で、一軒だけ海の家もあるのだが、海の色が目も眩むばかりに美しい。まさにエメラルドブルー、Cさんと二人、思わず感嘆の声を上げてしまった。
 浜へと下りてみた。快晴のもと、混雑しているわけではないが、カラフルな水着を身にまとった若い女性や親子連れが笑い興じている。ほのぼのとした明るさだけに包まれた、空の青さ同様、一点の曇りもない平和な風景である。
 浜の砂地から少し先の海面から、さして大きくはない平たい岩が頭を出している。それは昇天石と呼ばれ、70人以上ものキリシタンがその上で処刑されたと伝えられている。昇天石には上ってはならない、今でもそういわれているそうだ。
 浮き輪を付けた子どもたちの歓声が響くこの浜が、400年近く前に真っ赤な血で染まった。あまりに美しすぎる現在の光景を眺めていると、その事実は俄かには受け入れがたい。想像することも難しい。しかし、そうであるからこそ余計に、その400年前の出来事が重くのしかかってくる。Cさんと二人、沈黙のうちに、しばらく浜辺を見つめていた。

ペトロ・バプチスタ神父渡来記念碑

ペトロ・バプチスタ神父渡来記念碑

 その後、平戸大橋方面へと戻り、平戸市観光協会駐車場で、ペトロ・バプチスタ神父渡来記念碑を見る。
 先に紹介した、二十六聖人の一人ペトロ・バプチスタ神父は、文禄2(1593)年にフィリピン総督特使として平戸に上陸、肥前名護屋城にて秀吉と謁見した、日本で最初にフランシスコ会士として布教を認められた人物である。
 碑にはブロンズレリーフが嵌め込まれてあるが、そのデザインが面白い。神父を中心に、航海に用いた帆船、太閤秀吉、神父の故郷スペインの地図、西坂の丘の十字架などが配置されている 。
 
崎方公園内フランシスコ・ザビエル記念碑

崎方公園内フランシスコ・ザビエル記念碑

次に崎方公園内のフランシスコ・ザビエル記念碑を見る。聖師の平戸来訪400年を記念して建てられたものである。十字架の中心にあしらわれた横顔は、堂々として威厳に満ちている 。
平戸教会

平戸教会

 そして、先ほど、対岸から見た平戸教会を訪れる。緑色が個性的なゴシック様式の壮麗な教会堂である 。現在は平戸ザビエル記念聖堂と呼ばれているが、これは敷地内にザビエル記念像が建立された1971年以降のことで、教会の保護の聖人は大天使ミカエルである。教会内部は白が基調のリブ・ヴォールト天井だが、マーブル色の大理石柱が独特のアクセントを生んでおり、祭壇奥の天井付近には、龍を退治するミカエルの像が立っている。また、敷地内には平戸殉教者顕彰慰霊之碑もある。

 さて、この平戸教会で、平戸在住のPさんと落ち合った。ここからPさんの運転する軽自動車にCさんとともに乗り込み、生月を案内していただくのである。
 生月大橋を渡って、まずは遅めの昼食を済ませた。「あごだしラーメン」なるものを食したのだが、やや塩気がきついものの、それが汗をかき続けている者には逆に都合よく、非常に美味であった。
 最初に訪れたのが、平戸市生月町博物館・島の館。地方にはよくあるような民俗展示の資料館で、2階がキリシタン資料の展示室となっている。もちろんこの2階の展示が目当てで訪れたのだが、古来の生月島の文化であるクジラ漁の歴史を解説する1階の展示も、ジオラマが精巧であり、天井から吊るされたクジラの骨格標本も迫力十分で、実に面白かった。
 2階の展示については、内容は充実しているといってよいとは思うが、Pさんが「カトリックもかくれも、ごちゃごちゃになっている」と評していたとおり、展示の仕方にはもう少し工夫が必要ではないかとも思う。ただここでは、生月とは違い根獅子の「かくれ」は、外海同様オラショを声には出さないということを学んだし、外海系と生月系の「かくれ」の違いの解説も丁寧だった。また生月の「かくれ」の家の納戸が再現されていて、これには靴を脱いで上がることもでき、なかなかに興味深かった。
 次に向かったのはダンジク様。博物館に入る際、そちらへと向かう道は土砂崩れによって通行止めになっているとの表示が見えていたので、Pさんが受付で尋ねてくださり、ダンジク様までは通行可能であることを知って、先へと進んだ。
 目的地付近は海岸沿いの道路だが、原生林に塞がれて海は見えない。ダンジク様へと下る道の入り口で車を停め、その原生林を見てみるとヤブ椿であった。
 ダンジク様については、ここに立てられている解説の板の文章をそのまま引用しておく。「正保二年(一六四五)平戸藩は押役を置きその下に宗門目付、下目付、宗門改め役を置いて切支丹の取締りにあたらせた。/この頃、捕吏に追われた弥市兵衛と妻マリア、その子ジュアンは、この断崖の下のだんじくの繁みに隠れていたが子ジュアンが磯に遊びに出たところを海上から役人に発見され殉教した。/以来、海上からのお詣りは忌みきらわれている。/いまもなお旧一月十六日の命日には信者が集まり、信仰を守りつつ殉教していった人々をしのび祈りを捧げている」。子の無邪気さが殉教の切っ掛けを作ってしまうという、なんともやりきれない話である。
 ここにある「だんじく」とは「暖竹」、すなわち暖地の海岸に生息するイネ科の植物のことで、節のある茎や先端が細く伸びた葉が竹に似ている。切ない殉教が伝わるこの場所で、生月の「かくれ」の人たちは、現在でも独自の行事を行っているのである。
 細い枝をくねくねと伸ばす椿の森の中の細道を下っていく。一応コンクリートで舗装されているのだが、逆にそれが災いして、濡れ落ち葉で足元が不安定になる。やがて、やや急な石段となったが、この辺りから丈3メートル位はあろう暖竹が密生している。
 

ダンジク様

ダンジク様

やがて一気に眺望が開け海が見えた。その先、まさに鬱蒼と茂る暖竹に囲まれて、小さな祠が祀られてある。祠の中には「ダン竹大明」と刻まれてあった 。
 ここに「史跡 だんじく様」と彫られた標柱が立っているのだが、ここが「かくれ」の人たちにとって霊的な空間であり、現在も祭儀が行われている場所であるならば、この標柱はいらないのではなかろうか、せめてもう少し離れた所に立てるべきではなかろうか、そんなことを思った。
 車に乗り込む前に、汗を拭いつつ、しばしの休憩。セミの声のシャワーを浴びる。上りである復路の所要時間は、7、8分といったところだろうか。しかし傾斜がかなり急で、手すりに頼らなければ心もとないような道である。しかも薄暗く、「一人ではまず来ないですよね」と、Cさんは素直に感想をもらしていた。
 次は山田教会へ。これも鉄川与助が手掛けた、レンガ造ロマネスク様式の教会堂である(ただし、現在の石造の入り口部分は、後に増築されたものである)。
 山田地区は、鉄川与助が西洋建築を学んだペルー神父による熱心な働きかけにより、生月島の中でも比較的カトリック教会に復帰した信徒の多かった地域で、その信徒たちのために1912年に山田教会は建てられた。
 内部は、木目がそのままに生かされた茶色の柱とリブ・ヴォールト天井で、規模は大きくなくとも重厚感がある。ただ一点、どうしても気になることがあった。アーケードの上が一面、奇妙なモザイクで飾られている。目を凝らすと、それはチョウの翅で作られているのだ。それが両脇と入り口上、3面にわたって上部壁面を隈なく覆っているのである。正直唖然としてしまった。好みは個人によってさまざまではあろうが、わたしには受け入れがたいものであった。
 教会の敷地内には、聖トマス西列聖記念碑が建っている。トマス西と京都のラザロをかたどった、放虎原にあるのと同様の金属製のオブジェが両脇に配置された碑である。
 
黒瀬の辻殉教碑

黒瀬の辻殉教碑

ここから黒瀬の辻殉教地へと向かう。188福者の一人であり、トマス西の父親であるガスパル西が殉教した地である。
 ガスパル西は、生月島における最初の殉教者である。キリシタンであった山田領主の籠手田氏が長崎へと亡命した後、迫害の始まった生月で信徒たちの指導者的役割を担っていた西は、キリストの教えを捨てるようにとの勧告を拒絶して捕縛され、慶長14(1609)年に処刑される。刑を執行することとなった山田代官の井上右馬允は西の友人であり、彼に切腹を勧めた。しかし西はそれを断り、「主の殉教に倣って十字架上で死ねるよう取り計らってほしい」と願った。この願いは前例のないこととして受け入れられなかったが、同時に彼が望んだ「少し前にキリシタンが埋葬され十字架が立てられている場所」での刑執行については聞き届けられた。その場所で西は「大胆にも首を役人の刀の前に差し伸べ、斬首され」た。その後、彼の遺体はキリシタンたちによって「立派に埋葬され」た(鳥居正雄訳「ジョアン・ロドゥリーゲス・ジランのイエズス会総長、クラウディオ・アクアヴィーヴァ師宛、一六〇九、一〇年度、日本年報」)。
 現在の黒瀬の辻(「黒瀬」とは、すなわち「クルス」である)には、頂上に大十字架を頂く、立派な殉教碑が建っている 。碑の正面には赤い大理石の祭壇もしつらえてある。さらに、Pさんに教えていただいたのだが、この碑の下部台座内部は小聖堂になっている(施錠されてあるので、この日入ることはできなかったが)。青空を背にそびえる殉教碑は、実に威風堂々としたたたずまいであった。

ガスパル様

ガスパル様

 また、この碑の裏に「ガスパル様」という史跡がある。ガスパル西の墓である。それ自体は、朽ちた大樹の根の脇のいくつかの石の集積にすぎないのだが、竹筒に百合や菊の花が美しく手向けられており、今なお大切に守り続けられていることがよく理解できる。周囲の椿の木々も、海風から「ガスパル様」を守るかのごとく枝を伸ばしている 。
黒瀬の辻から見る中江ノ島

黒瀬の辻から見る中江ノ島

 この丘から、中江ノ島を遠望した 。4つの丘が連なったごく小さな島であるが、カミロ・コンスタンツォ神父の宿主であったジュアン坂本左衛門はじめ、多くのキリシタンの処刑が行われた殉教地であり、生月キリシタンにとっての聖地である。この島の岩の割れ目から流れ出る清水は、現在でも「かくれ」の人たちが洗礼の水として用いている。
千人塚

千人塚

 黒瀬の辻を後にして向かったのは千人塚。生月島での殉教者を葬った地で、その数が多かったことから千人塚の名で呼ばれている 。
 石鳥居と、その奥に小さな祠があるばかりだが、どちらも後世に建てられたものだろう。とくに祠はごく新しいものである。Cさんは、キリシタンが葬られた地であるのに、一つの十字架すらないことを盛んに疑問に感じている。もともと殉教者たちがここに葬られた際には、墓所としてどのような様式をもっていたのかは分からないが、禁教下におおっぴらなことはできなかったはずだ。そしてそれが歳月を重ねるうちに、神道的な様式へと変化していったのであろう。
 
八体龍王

八体龍王

次に、近くにいた人に道を聞き、「八体龍王」という史跡を訪ねた 。ここは妊娠中であった女性を含むキリシタンたちが処刑されたと伝えられる地で、「八大龍宮」と彫られた石の祠(これは古いものだと思う)がある。お産の神様として参詣されるそうである。これも、キリシタンゆかりの場が異宗のものへと変化していった一例であろう。
 千人塚にせよ、八体龍王にせよ、案内の表示こそ立ってはいるが、少々分かりにくい。とくに千人塚については、自動車道から一本入ったところにしか案内表示がない。
 表通りに出ると、目の前は、この島に渡った際にあごだしラーメンを食べた店である。「あごだしラーメンが目印ということだね」とPさん。うまい具合に、スタートに戻るとなったわけである。

 生月大橋を渡って平戸に戻り、このあとPさんに、山野教会、紐差教会、宝亀教会へと案内していただいた。
 山野教会は、外海から五島を経てこの地に移り住んだキリシタンのために、もともとはラゲ神父により建てられた教会で、現在の聖堂は1924年の献堂。大きくはないが、周囲の光景に自然に溶け込んだきれいな聖堂だと思う。
 一方、紐差、宝亀の両教会は大きくて立派な聖堂であり、前者は鉄川与助による鉄筋コンクリート造で、聖堂背後の屋外に一留ごとが石碑に刻まれた十字架の道行が設けられている。後者は、白に縁取られた赤い外壁と、薄萌葱色に塗られた木製の外回廊が印象的な優美な建物である。
 Pさんと平戸教会でお別れし、再びCさんの車に乗り込み長崎に戻る。フランシスコ・ザビエルから明治以後の「かくれ」の人たちについてまで、実に盛りだくさんの一日であった。高速に乗ったころには、はや夜。運転するCさんの隣で、申し訳ないと思いつつ、ついつい、うつらうつらしてしまった。

浦上周辺ほか(8月1日)
 最終日である。少々疲れが溜まってはいたが、朝食を済ませ、8時前にホテルを出た。
 気温は高いが、風もあり、朝のうちは爽やかにも思える陽気であった。今日は本原教会をゴールに設定して浦上教会の北方面を歩くことにした。

 
サンタ・クララ教会碑

サンタ・クララ教会碑

まずは大橋町のサンタ・クララ教会の碑を見る。大橋電停から国道を挟んでの川沿いに、うつむき加減で胸に手を当てたマリア像とともに由来書きが刻された碑が建っている 。
 この地には慶長8(1603)年に教会堂が建てられたが、同19年に閉鎖、後に破却された。その後、潜伏キリシタンたちは共同体を作り、ここに集まって、盆踊りを装って祈りをささげたのである(片岡弥吉『長崎の殉教者』参照)。
殉教者ジワンノ、ジワンナ、ミギル之墓

殉教者ジワンノ、
ジワンナ、ミギル之墓

 この碑から浦上川を隔て如己堂の方面へと少し入ったあたり、住宅街の一角に「ベアトス様の墓」なるものがある。ベアトスとはポルトガル語ベアトの複数形で福者を指す。
 大きな小判型の自然石に、白い字で「殉教者ジワンノ ジワンナ ミギル之墓」と書かれている。史料に見られずとも口碑によって伝えられる殉教者の墓である 。ジワンノ、ジワンナ夫妻とその子ミゲルは、全村民がキリシタンであった浦上村で、見せしめのために捕らえられたが、厳しい水責めにも棄教することなく、塔の尾で火刑に処された。村民は遺体をもらい受け、この地に葬った。以後この場所は、浦上信徒の崇敬する地となったのである(片岡弥吉前掲書参照)。

 次に如己堂へ。いうまでもなく永井隆博士がその43年の生涯を閉じた2畳一間の小さな家であるが、その如己堂が立つ場所は潜伏キリシタンの中で最高指導者の役割を担う帳方の屋敷跡である。初代帳方の孫右衛門から、浦上三番崩れによって捕縛され牢死した7代目の吉蔵までがここに住んだ。永井博士の夫人である緑さんは、この吉蔵の曾孫に当たる。如己堂に併設されている記念館の玄関前に「帳方屋敷跡」と刻された標柱が立っている。
 ここから、長崎南山学園の前を通って、こうらんばキリシタン墓地へ。この墓地には、浦上四番崩れで津和野に配流された、岩永マキや髙木仙右衛門の墓がある。
 お告げのマリア修道会の前身である浦上十字会の創立者、岩永マキについては2013年版の本特集で触れたが、四番崩れで逮捕された浦上信徒たちの中にあって、まさに中心的存在といえるのが髙木仙右衛門である。
 浦上四番崩れが信徒たちによる自葬事件に端を発することはすでに述べたが、まずは1867年7月15日(慶応3年6月14日)と10月5日に計83名が牢に入れられた。これが最初の捕縛者たちである。
 この捕縛者たちは、ただ一人を残して改心、すなわち棄教して帰村する(ただし、何人もがその後改心戻しを申し出ている)。このただ一人の抵抗者が髙木仙右衛門である。やがて仙右衛門も一度は釈放され、徳川幕府は倒壊、明治の世を迎えることとなる。
 ただ一人仙右衛門のみが棄教しなかったという事実、これは大きな問題をはらんでいる。つまり、もし仙右衛門も含め浦上で逮捕された全員が棄教していたならば、幕府は「キリシタンはすでに亡き者、全てが改心者と見な」したとも考えうるからである(髙木慶子『髙木仙右衛門に関する研究――「覚書」の分析を中心にして』参照)。つまり、その後の明治政府による一斉配流、すなわち信徒たちがいうところの「旅」も、なかったかもしれないのだ。
 しかし、仙右衛門は信仰を貫いた。真冬の津和野での氷責めのような過酷な拷問にも耐え、1873年5月9日に帰村する。この仙右衛門の抵抗こそが、諸外国を動かす力ともなり、明治政府に、自国民に対する信教の自由を保障させたのである。その後の仙右衛門は、岩永マキの仕事を援助し、浦上教会建設に尽力するなど、信徒としての活動に生涯をささげ、1899年4月13日に永眠した。
 高低差のある広い敷地を汗だくになってあれこれ探して、やっとお告げのマリア修道会の墓所を見つけた。向かって右側の碑の16人目、確かに岩永マキの名が刻されている。彼女は仙右衛門の死の21年後、1920年1月27日に、72歳で地上での生を終えた。
 

髙木仙右衛門の墓

髙木仙右衛門の墓

髙木仙右衛門の墓は、このお告げのマリア修道会の墓所にくっついてある 。「ドミニコ髙木仙右衛門之墓」と彫られた御影石の墓石は新しい。すぐ横に、古い墓石があるが、これが元々の墓だったのかもしれない。
 この墓地は、とても見晴らしの良い高台で、山肌に張り付くように広がる長崎の街の様子が一望できる。しばしその眺望を楽しんでから、一つ一つの墓石を眺めつつ、墓地の中の迷路のような細道を散策した。とくに地方の場合は、墓地を訪れると、同一の姓が刻まれた墓石が連続して並んでいることに気づかされるが、ここには、わたしでも幾人かの聖職者のことがすぐに頭に浮かぶ、長崎らしい姓が並んでいる。

 墓地を後にし向かったのは十字架山。1950年にピオ12世教皇から、西坂とともに指定を受けた公式巡礼地である。
 
フランシスコ病院の聖フランシスコ像

フランシスコ病院の聖フランシスコ像

途中フランシスコ病院の前を通った際、前庭に立つ聖フランシスコの白い像が目に留まった。身をやや屈めて、犬と会話するフランシスコである。犬というのは珍しいのではないだろうか。顔を上げて一心に聖者を見つめている、その犬の姿が何とも愛くるしい。優しさに満ちた像だ 。
 しかし、後から気が付いた。あれは犬ではなく、オオカミではなかろうかと。小鳥はおろかコオロギとすら話すことができ、動物の守護聖人であるフランシスコであるから、犬であったとしても一向に差し支えなかろうとは思うが、『聖フランシスコの小さき花』は、聖者がオオカミに説教し、そのオオカミが悪さを働き苦しめていたアゴッビオの町の人々と和解させたというエピソードを伝えている。
 写真で改めて見てみると、確かに鼻先の感じはオオカミといえなくもない。そして左手をその動物の背にそっと置く聖者の表情は、優しく教え諭すイメージそのものである。しかし……、オオカミなら頬のあたりの毛がもう少し逆立った感じだし……、やっぱり犬なのだろうか……。

 さて十字架山だが、「平の下」というバス停のすぐ近くの細い階段を上った先である。途中、民家の玄関先に「聖マリア堂の碑」が建っている。四番崩れの一斉検挙までの間、密かに宣教師を迎え入れた秘密教会の跡である。最初の検挙の日に、役人はまずこの御堂を襲った。当日ここに滞在していたロケーニュ神父は、直前の通報によって辛くも難を逃れたが、「水方の又市の子で、父にかわって伝道士として働くことになった友吉は捕らえられ」た(片岡弥吉『日本キリシタン殉教史』)。「水方」とは、潜伏キリシタンの中で洗礼を授ける役割を担う者のことである。
 ここから先、住宅が立ち並ぶ中の細い石段をひたすら上っていく。はや昼近く、暑さは厳しい。とめどなく汗が流れてくる。こんな勾配の地に生活している人はなんて凄いんだろう、高齢のかたも多いに決まっているが……。そう思わずにはいられなかった。
 

十字架山

十字架山

汗だくになって到着。青い芝生が広がるその奥に、石の十字架が建っている 。
 配流地から戻った浦上信徒たちによってこの丘に十字架が建てられたのは、1881年9月のことである。「旅」から無事帰還できたことへの感謝、そして心ならずも絵踏を行ってきたことへの償い、さらには、その行為を信徒に強い、あるいは多くの無辜の信徒を死に追いやった為政者の罪の償いのために、彼らは労働奉仕をささげた。文字がかすれていて読みにくかったのだが、1979年に記述された解説の板によれば、台石や竿石は、本原郷の石切り場から60名の屈強な男たちによって運ばれ、とくに4尺(約1.2m)角もある台石は、7日間をかけてこの頂上まで運ばれたそうである。ただ上って来ただけでひたすら汗を拭っているわたしは茫然とするしかない。
 最初の十字架は木製、その後1923年に石製になり、1945年の被爆後に補強が加えられ現在に至るとのことである。現在は、この十字架を中心として反時計回りに金属製の十字架が立ち並び、十字架の道行が設けられている。これは1952年に設置されたもので、日本で初めて屋外に設けられた十字架の道行だそうである(片岡弥吉『長崎の殉教者』参照)。
 急な階段を下りバス通りへと戻る。途中、のんびりとした昼前の空気の中、一匹の白猫が勝手に先導してくれた。
 ここから本原教会へ。丘の中腹に、円形の上に細い塔が建つ特徴的な教会の姿が見える。あそこまで上るのかと、少々気持ちが萎えたことも否めない。長崎では、どこに行くにも、ひたすら坂を上らねばならない。
 近くのコンビニでしばしの涼を取った後、教会下に至る。聖堂へと続く折れ曲がった急な石段に愕然とする。あとは気合いばかりである。
 
本原教会の野外祭壇

本原教会の野外祭壇

本原教会の裏山は、マリアの山(一本木山)と呼ばれている。四番崩れの際に、ロケーニュ神父はここに潜んで「旅」へと向かう信徒たちに秘跡を授け、殉教をもいとわない精神的な準備をさせたそうだ。
 聖堂裏の小高くなった植え込みに白いマリア像が置かれており、その下に由来が記された碑文が建てられている。さらに修道院との間の坂道を上っていくとルルドがある。過去にはここから清水があふれていて、迫害の時代からプチジャン神父のころまで、その水が洗礼式に使われていたそうである。残念ながら、今は泉は涸れてしまっている。
 聖堂から山の頂へと至るまでには、十字架の道行のレリーフが続いており、頂上には十字架像と祭壇がある。毎年キリストの聖体の祭日には、ここで野外ミサと聖体行列が行われている 。
 
ペトロ・バプチスタ神父像

ペトロ・バプチスタ神父像

聖堂へと戻り、ペトロ・バプチスタ神父の碑を見る。二十六聖人殉教400年を記念して設置されたこの碑に嵌め込まれたブロンズレリーフは、平戸市観光協会駐車場にあるものと同一である。本原教会はペトロ・バプチスタ神父にささげられた教会であり、聖堂正面には、左手に十字架を持ち、右手を高く掲げた聖者の像が、長崎の街を見渡すかのように立っている 。
 聖堂前にたたずんで、わたしもしばし、大小の家々が所狭しと建ち並ぶ景色を眺めた。迫害を受けた多くのキリシタンの苦しみ、そして1945年8月9日の惨劇、それらは過去の出来事であって、こうして眺める風景にその面影は見られない。発展を果たした豊かな日本の一風景である。だからこそ、世代を超えて語り継がれることが何よりも大切なのだ。わたしがよそ者であるからだろう。何でもないこうした風景から、そんな思いを強く抱かせられる。
 バスに乗ろうかと思いつつも、結局歩いて浜口町のホテルまで戻り、手荷物を受け取って昼食を済ませ、西坂の丘に向かった。
 長崎にはこれまで何度も足を運んでいるが、長崎に来て西坂の丘を訪れなかったことは一度もない。日帰りの出張であっても、わずかの時間を作って、この丘には登った。舟越保武氏の二十六聖人像を何度でも見たいのである。
 
長崎26殉教者記念像

長崎26殉教者記念像

今回は、東京の練馬区立美術館で舟越保武展を鑑賞した直後のことで、この彫刻家の作品群について改めて思いを巡らしていたこともあり、よりじっくりと一体一体を眺めた。信徒発見150年に合わせて清掃がなされたとのことで、昨年と比べずいぶんときれいになった。酸性雨によるブロンズのくすみが取れて彫像は濃緑色に輝いている 。
 26人の並び順は、殉教の際の十字架の順序についてフロイス神父が残した記録に基づいているのだが、ほとんどの人物が手を合わせ天を見上げている中にあって、向かって右から6人目と11人目の人物だけが、両手を広げて、視線を下に下げている。それはパウロ三木とペトロ・バプチスタ神父である。説く者として、語りかける者として、この2体は制作されている。像自体が高い位置にあるため鑑賞者はつねに彼らを仰ぎ見るのであるが、見上げるからこそ、彼らが語りかけていることがより理解できる。
 フロイス神父の記録に順序が基づいてはいても、この像は磔刑の姿ではない。京都からの長い道のりを経て26人はこの丘にたどり着いたのだから、実際の彼らは、襤褸をまとったみすぼらしい身なりをしていたはずである。だが、舟越氏は、汚れのない整った修道服や羽織袴、つまりは晴着を彼らに装わせている。それは、天の国に迎え入れられる彼らの姿だ。下へと伸びた足先は地に着くそれではない。当初彫刻家が依頼されたのは磔にされた殉教者が脇腹を槍で突かれる様子の像であったが、そうした残酷な情景を描くことを舟越氏が嫌ったとも聞いたことがある。舟越氏は単に地上での事実を描くのではなく、彼らの内面を、事実を超えた真実をこそ表現したかったのだろう。
 舟越氏は具象彫刻家であるが、こうしたことからは、リアリズムとは何であるかという問題を改めて考えさせられる。
 脳梗塞を患った晩年の舟越氏は、リハビリの末、左手で制作を行った。そうして造形された作品は、かつてのクララ像がもつような、目元や鼻筋や顎の線のすっきりとした端正な優美さは備えていない。しかし、利き手ではない手によって生み出された作品が浮かび上がらせているのは、イエス・キリストの、あるいはマグダラのマリアの、静かな悲しみをたたえた内面の真実なのである。
 さて、去年に引き続き、像の裏手の記念館にもまた立ち寄ったのだが、多少のリニューアルが施されていた。外にはトマス小崎とロレンゾ・ルイスのモニュメントが設けられ、内部の展示も、以前は雑然とした感じを受けたのだが、随分と整理され見やすくなった。
 2階の中庭へ。本田利光氏作、金鍔次兵衛像と向き合う。丈の短い和服にざんばら髪、いかにも潜伏者の姿である。腰に差した一刀の鍔と胸の十字架だけが金色に輝いている。――行って参りました、あなたが身を潜めていた場所に……。そう心の中で報告を済ませた。
 これにて今回の旅程は終了、後は空港へと向かうばかりなのだが、Cさんからの何ともありがたい申し出があり、空港まで車で送っていただくことになった。多少の時間の余裕がある。そこで三ツ山教会に寄ってもらうことにした。長崎に来るたびバイパスを走るリムジンバスの車窓から遠くに眺め一度は訪れてみたいと思っていた、髙見三明長崎大司教の出身教会である。昨年の長崎訪問の際には、長崎純心大学に併設されている博物館を訪ね、バスでこの教会のすぐ下を通った。ひどい雨の中で途中下車するわけにもいかず、見上げるように車窓から白い塔を眺めたばかりであった。
 彼方を見晴るかすかのように山の上に立つ、白亜の美しい聖堂だ。その白さが、夏空の青にも山並みの深緑にも実に映える。
 
木場教会殉教者顕彰之碑

木場教会殉教者顕彰之碑

教会の敷地内には木場教会殉教者顕彰之碑が建っている 。この辺りは古くは木場と呼ばれ、キリシタンが栄えた土地である。
 伊達政宗が遣わした慶長遣欧使節の一行のうち、黒川市之丞、松尾太源らは、すでに仙台でキリシタンの迫害が始まっていることを知り、この木場に安住の地を見いだし移り住んだ。また、平戸松浦家の家臣パウロ原田善左衛門はこの地に亡命し、密かに布教を行った。これが大村藩の知るところとなり、原田夫妻は川平の難河原で火刑に処される。時代は下り、その後浦上で崩れが起きるたびにこの木場にもそれが飛び火し、多数の検挙者が出、牢死した者も多い。
 碑の台石側面には「殉教者パウロ原田善左衛門とその夫人の遺骨をここに葬る」と刻されている。すっきりとした形の美しい碑だ。その横にたたずみ、山々に囲まれた緑の田園風景をしばし眺める。そして長崎に別れを告げた。


 羽田空港の混雑のため予定より到着が遅れている飛行機を待つ間、芋焼酎のグラスを傾けるわたしの頭に浮かんできたのは、杉本ゆりがプチジャン神父に告白した「あなた様と同じ心でございます」とのことばであった。
 同じ心――、過酷な拷問や刑罰に耐え教えを捨てることなく殉教した人々、一人の司祭もいない禁教下の世にあって代々教えを伝え続けた人々、そうした人々からわたしたちは「同じ心」を受け継ぎ今にある。それは重い事実だ。
 しかし、わたしはさらに思う。カトリック教会に復帰することなく先祖から受け継いだ固有の信仰を守る人たちとも、わたしたちは間違いなく繋がっている。それは疑いようがない。
 またさらに、過酷な苦しみの果てに悲しみつつも愛する存在を裏切った人、その人たちが流したであろう涙にも、必ずや「同じ心」がある、わたしはそう確信している。それは、10年にわたって続けた旅によって得た確信でもある。

***

 2007年版の『カトリック教会情報ハンドブック』から始まったこの「キリシタン史跡をめぐる」は、今回が最終回となります。これまでお読みくださった、またさらには、温かい励ましのことばや厳しいご批判、誤りの指摘などをくださった読者の皆様に心から御礼申し上げます。
 毎年の取材では、さまざまな地で多くの人との貴重な出会いがありました。そして多くの人に助けていただきました。ここでお名前を挙げることはいたしませんが、お一人おひとりに心からの感謝を申し上げます。
 紀行文の体裁をとり、何よりも読者のかたに、そこに行ってみたいと思ってもらえることを目指しました。そのため、とにかく自分の足で方々を歩きましたし、原稿作成にあたっては、文章が壊れてしまうことにも多少は眼をつぶって、道順などを細かく記したりもしました。
 これまでの本特集が、今後の皆様の巡礼にささやかであってもお役に立てば、望外の幸せと思っております。 (奴田原智明)

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