「カトリック情報ハンドブック2017」巻頭特集

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「カトリック情報ハンドブック2017」
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【ページ内目次】
特集1 東西十字路に立ったキリシタン―日伊国交150周年に寄せて
特集2 高山右近――ゆかりの地ミニガイド

特集1 東西十字路に立ったキリシタン―日伊国交150周年に寄せて
カトリック中央協議会出版部・編

 2016年、日本とイタリアは国交樹立150周年を迎え、多岐にわたる分野で記念事業が行われた。キリスト教の観点から詳しくみると、近年、イタリアと関連があるキリシタン時代の文化財の調査、発掘や資料の整理・分析、企画展が相次ぎ、今後の学術的発展に寄与する成果が明らかになった。
 わたしたちが新たな「発見」を知ることができるのは、専門家たちがその知識や経験、技術、深い洞察力や卓越した見識力をもって、解析し、魅力を引き出し、紹介してくれるからである。
 この特集では、「見いだす」人々に伺った話を通し、日本とイタリアの交流の物語に思いを馳せ、時代や国に翻弄されながらも信仰を守り伝え、真摯に生きたキリシタンの姿を見つめたいと思う。
 なお、ご多忙にも関わらずご協力くださった関係各位・機関に、心から感謝を申し上げたい。

Ⅰ 日本からイタリアへ~肖像画をめぐって~

 明治維新遂行の過程で、岩倉具視を正使とする総勢107名の使節団は、1871(明治4)年11月に横浜を出港し、約2年の時をかけ欧米諸国を歴訪した。その旅は、制度や文物を見聞して優れた文化を吸収し、新しい日本の国家像を考えるための視察であった。1873年5月、滞在していたイタリア・ヴェネチアの文書館を訪れた岩倉らは、130万点もの収蔵品からある日本人に関する書状を見せられた。それは、「1615年2月24日」「支倉六右衛門長経」と署名されたラテン語文書、「大友家ノ使臣羅馬及ヒ威尼斯ニ至リシトキノ往復文」であった。それらを見た岩倉らは、自分たちより250年以上も前に渡欧した使節が存在し、熱烈な歓迎を受けていたことを認識したのであった(久米邦武編『特命全権大使米欧回覧実記』、1878年刊、1975年復刻、宗高書房)。
 思いもかけず「過去」のキリシタンと出会った岩倉たちであったが、彼らは同じくこの旅において、「現在」のキリシタンと向き合わざるを得ない状況に身を置いていた。すなわち、この歴訪のもうひとつの目的――幕末に諸外国と結ばれた不平等条約の改正に際して、明治政府によるキリスト教弾圧に対する強い非難を諸国から受け、交渉が難航していたのである。そうした状況を打破するため、同年の2月、キリシタン禁制を含む太政官高札は撤去されていた。
 岩倉使節団が果たした二つの「キリシタン」との偶然の巡りあいは、東西交流の扉を開いた少年使節あるいは支倉常長一行の偉業と情熱を日本人に思い起こさせたばかりでなく、信仰の自由をもたらしたことにもなる。
 それからおよそ140年、日本一大きな博物館で、とても小さな展覧会があった。コの字型で屏風5隻並ぶ程の空間は、しかしながら時代の空気を感じさせる、大変印象深いものであった。そこで中心となって展示されたのは、岩倉らが「出会った」使節たちの肖像画である。
 ここでは、近世初期に海を渡り、欧州の地を踏み「肖像画」に描かれるという栄誉を賜ったキリスト者を取り上げる。

① 伊東マンショ
 2016年、「世界初公開」と冠された特別公開「新発見!天正遣欧少年使節伊東マンショの肖像」が5月の東京を皮切りに、長崎・宮崎で開催された。目玉となったのは、九州のキリシタン三大名の名のもとに、スペイン・ポルトガル国王とローマ教皇へ派遣された伊東マンショ(1569?~1612)を描いたトリヴルツィオ財団所蔵の油彩画(54.0×43.0㎝、カンバス、1585年)である。
 彼は、豊後・大友宗麟の名代として選ばれ、使節団の正使を務めた。当初は、宗麟の姪の子である伊東ジェロニモ祐勝が派遣されることになっていたが、安土から呼び戻す時間的余裕がなかったため、日向都於郡城主伊東祐青の子で大友宗麟の遠縁にあたるマンショが代わったのであった。同船したのは、有馬のセミナリヨ(小神学校)で共に学んでいた千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン。1582(天正10)年2月20日に長崎を出発、13歳前後の少年であった彼らは、時には荒海にもまれ、あるいは凪のため進めなかったり、またマンショにいたっては病に罹り苦しんだが、マカオ、マラッカ、ゴアを経由し、1584年8月無事ポルトガルに到着した。そしてスペイン・マドリードでは国王フェリペ2世に、翌年3月にはローマで教皇グレゴリオ13世に謁見した。この間、教皇が急逝したので、一行はシスト5世の就任式にも立ち会うことになった。訪問先ではどこでも歓待され、ローマ市民権を与えられるなどの栄光にも浴し、ヨーロッパの風を感じながら多くの見聞を重ね、1586年に帰国の途に着いた。長崎に帰着したのは1590(天正18)年7月21日、8年にも及ぶ旅であった。翌年、上洛した彼らは、聚楽第で豊臣秀吉に謁見し、西洋器楽を演奏するなどして秀吉を楽しませた。その際、秀吉はマンショに対して仕官を勧めたが、本人は断ったという。イエズス会に入会し司祭の道を選んだマンショは、マカオのコレジオ留学を経て有馬のセミナリヨで働き、司祭叙階も果たし、1612(慶長17)年に長崎で病死した。
 この使節派遣は、ヴァリニャーノ(イエズス会東インド巡察師)の計画によるものであった。欧州諸国に対しては日本における教会の実りを示し、少年たちを通じ日本人の優秀さ、文化の秀逸さを理解させ、また国王や教皇に向けては、日本教会のさらなる発展に向けた人的・経済的・精神的援助を請願し、日本に対しては、キリスト教世界の栄光と偉大さを体感した少年たちの口からその見聞を知らしめ、教化することが目的であった。
 一方、彼らが出帆してわずか数か月後、西洋に多大な興味を示しキリスト教布教活動にも理解があった織田信長が志半ばで世を去り、代わって権力を手中に収めた豊臣秀吉、その後の徳川政権はキリスト教に対して厳しい態度で臨み、迫害が加速していた。この波に呑まれたのは帰国した一行も同様で、千々石ミゲルは棄教、原マルチノはマカオに追放され、捕縛された中浦ジュリアンは西坂での穴吊りにより殉教した。
 日本での宣教活動に欧州で体験したさまざまなことを十分に役立たせることができたのか定かではないが、文化史的に見ると、彼らの渡欧は後世に大きな意義を持つ。日本に活版印刷機が導入され、音楽・美術分野において新しい道が開かれ、現代の我々の生活にもつながる功績がもたらされたからである。
 さて、「伊東マンショの肖像画」発見の経緯について、2016年5月にイタリア文化会館で開催されたシンポジウム 「イタリアと日本、初めての出会い~ドメニコ・ティントレット作『伊東マンショの肖像』の発見について~」で、この絵を所蔵するトリヴルツィオ家当主ジャンジャコモ・アットリコ・トリヴルツィオ氏が講演した。今回、東京国立博物館で企画を担当された学芸研究部保存修復課主任研究員、瀬谷愛氏から伺った話も踏まえて説明すると、次のようになる。
 ミラノの貴族トリヴルツィオ家は、17世紀に貧民救済施設を作るなどの社会事業に尽力し、枢機卿やイタリア大使を務める人物を輩出した、700年続く名家である。そして、現当主の母親が、家系の歴史をまとめ、資料や様々な所蔵品を調査することを目的に設立したのが、トリヴルツィオ財団だ。
 2008年のことである。母親から「欲しいなら譲るわよ」との申し出があった一枚の油彩は、「東洋人の絵」という印象はあるものの、素性はよく分からない肖像画だった。しかし、魅力を感じたトリヴルツィオ氏はこの絵を譲り受けることにし、財団の文書保存・管理担当者パオラ・ディリコ氏と共に調査を開始した。この段階で財団目録を調べてみると、「作者不明、ヴェネチア派の作品」と記載されているだけで、当初はまったく詳細が不明な作品であった。
 肖像画に目立った傷みはなく、保存状態はいたって良好だったが、表面の汚れを取り、また傷を抑える処置を施す必要があったので、修復工房に出し、その際にX線撮影も実施した。
 文化財分析には、様々な方法がある。ここで用いたX線透過測定法とは、X線を試料に照射し、その吸収の程度をフィルムなどで受け取り透過画像を得る方法で、質量の重い元素ほどX線を吸収し透過しにくくなる性質を利用したものである。調査によって、過去の修復跡を特定したり、物体の内部構造を知ることが可能となる。
 肖像画裏面には、「D.MANSIO NIPOTE DEL RE DI/FIGENGA AMB(ASCIATOR)E. DEL RE FRA(NCES)CO./BVGNOCINGVA A SVA SAN(TIT)A./MDXXCV/[王冠マーク]/DGH/393」という文字や記号が目視できる。「ドン・マンショは日向国王の孫/甥で、豊後国王フランチェスコより教皇聖下への大使 1585」という意味である。同様の記述は、使節について紹介する1585年7月2日の「天正少年使節からヴェネチア共和国政府への感謝状」(バチカン教皇庁図書館所蔵)で確認できるが、これらの表記については、イタリア人にとって馴染みのない日本の固有名詞ゆえ、文字に写し間違いがあると指摘されている。この言葉から、「これはどこかの国の使節で、マンショという名らしい」ということを推測できたのであるが、X線透過写真で表面左上に「O NEPOTE/FIGENGA AMB/DEL RE FRA/GVA A SVA S/XXCV」というほぼ同じことを示唆する銘文が現れたため、これによって、裏面の文字は単なる落書きではなくこの絵について語っている、という確信を得たのであった。これを足掛かりに調べた始めたところ、翌年、彼は日本人の使節であるという歴史に辿り着いたのだという。
 トリヴルツィオ氏やディリコ氏は、財団内のみならず、各地に残る資料を駆使し、5年に渡る追跡調査を行った。その結果、この肖像画が描かれた1585年から現在に至るまでの経緯が判明することとなった。絵画がいつ、どのようにして、誰の手を渡ってきたのか、その道筋が明らかになるのは稀なことだという。今回、約250年間で複数の手を渡ってきた絵の来歴が分かったことは、奇跡と言ってもよい。
 具体的に辿ってみよう。1585年、マンショら一行は、ヴェネチアを訪問していた。残されている資料によると、様々な国との海洋交易を繰り広げていたヴェネチア共和国の議会は、東の果てにある国との交流を示すものとして使節団の肖像画を描かせた。当時の価値として、肖像画を描かせるということは、第一級の歓迎を意味するもてなしにあたり、少年使節たちがいかに特別扱いを受けたかが窺える。
 手掛けたのは、肖像画制作で有名なティントレット工房である。明るい画面で、対象を生き生きと描くのが特徴だ。
 ヤコポ・ティントレット(1518~94)は、ルネサンス期のヴェネチア派を代表する画家である。ヴェネチア派の巨匠ティツィアーノの色彩や、ミケランジェロの素描から影響を受けた作風で、強烈な明暗の対比や動的表現、劇的な画面構成が印象的な作品を生み出した。ヤコポの子三人も画家となって父の工房を支え、そのうちのドメニコ(1560~1635)は、肖像画を得意としたという。
 依頼を受注した時、ヤコポは60代後半、ドメニコは20代半ばであった。果たして、肖像画を描いたのは父か息子か――工房とは、言ってみれば組織である。代表者が受注するが、実際に制作し納品するのは子や弟子であるケースは十分に想定できる。ヤコポが実際に描いたとも、あるいは晩年に差し掛かる時期だけにヤコポは名義だけで、別人が描いたとも、考えうる。しかも、近年研究によって、この絵の受注時期はちょうど父と子が名前を分け始めた過渡期として位置づけられ、筆者名の書き換えがなされているという。「伊東マンショの肖像画」の場合、調査により筆致が一致した息子ドメニコの作と見て構わないだろう、と判断された。
 しばしば、美術展覧会での作品解説で「筆致の符号により判明した」という言葉を見かける。真筆か模写であるか、何を材料に判断するのであろうか。この問いに対し、瀬谷さんは、分かりやすく説明してくださった。つまり、美術史年表上に点在する基準作――資料的裏付けにより、明確に作者や年代が判明している作品――と比較し、その描きぶりや傾向がどの程度似ているかを観察し、解明するのだという。模写の場合は、上手に写そうと集中するので、筆の勢いは失われることになる。そうしたフレッシュさをどこまで識別できるかが、判定する者の腕の見せ所となる。
 マンショ肖像画についていえば、他のヴェネチア派作品に多数触れてきたイタリアの研究者が判断を下したという。研究を積み重ねた上で、描き癖を読み取る感性、判断力に繋がる「目の記憶」、読み解く経験も大切なのである。そして、観察や経験を重ねてきたからこそ、勘が働くこともある。経験の積み重ね方が異なることで見解や意見に差が生じ、美術論争が起きることもある。画家について、また歴史的な事象についてどう捉えるか、その意味づけや価値観、方向性に違いが出るからである。
 肖像画は、元老院の建物に飾られる予定だった。しかし、実際にそれが実現したかどうかの証拠はない。確かに少年全員が描かれた資料は存在し、簡単なスケッチも残っている。「伊東マンショの肖像画だけはほぼ完成していた」という記録もある。作品は17世紀初頭くらいまではティントレット工房にあったのではないか、との推測もされたが、具体的な詳細については不明のままだった。
 マンショ同様、他の使節たちも肖像画にされた可能性はもちろんあるが、「マンショのみ完成」という資料から推測して、他の人の画はほとんど出来ていなかったと考えられている。そもそもこの肖像画計画は、当初群像図を目指していたとも考えられたが、その作品も見当たらず、実態はわからないままである。また、今回発見された肖像画は、大きい作品から切り取られたのではないかという推測もあったが、ヴェネチア大学のマリネッリ教授は、肖像画作品の制作過程の傾向、つまりまず小さい下描きを描いてから大画面に転写するという方法に鑑み考察すると、このマンショ像はその下絵にあたるものではないか、との見解を示したという。これはまだ推測の域を出るものではない。今後の研究を待ちたいところだ。
 画家が使節団に直接会えたのは、一日だけであった。それでは、いくら早描きでも不十分である。ただ、マンショは主席大使なので、優先的に描かれたと考えれば、唯一完成したという記録も納得できる。この時のマンショは、おそらく16歳。しかし口髭を生やしたその面持ちは、実年齢よりも上に見える。日本人としては珍しいことかもしれないが、ヴェネチアの人々にも大人びて見えたようで、文献には、「日向王の甥で同族の現在20歳のドン・マンショ」と実際より年上に記載されている(『天正遣欧使節記』(重要文化財)、イタリア・レッジオ刊、1585年、東京国立博物館所蔵)。
 財団の追跡により、肖像画はしばらく工房に留まっていたことがわかった。なぜ発注されたものが、依頼主に渡されず、制作者の手元に残ったのであろうか。マリネッリ教授は、使節訪欧後のイタリア半島に渦巻いた政治的事情が背景にあったのではと指摘する。自治国家であるヴェネチア共和国とローマ教皇庁との関係が飛び火して、イエズス会の使節である彼らの肖像画が元老院の建物に掲げられることに対し疑問の声が上がり、結局取り止められ、結果的に発注自体が取消になったのだろう、という見解だ。完成しないまま工房に残った下絵は、後に仕上げられ――X線写真で、襟の部分が後に流行した大ぶりなものに描き直されていることが分かっている――、数奇な運命に委ねられることになった。
 まず、肖像画は工房ごと相続したドメニコ・ティントレットの娘に渡り、さらにその夫セバスティアーノ・カッセールが工房を相続、その後、スペインのドン・ガスパール・デ・アーロという人物が工房の作品を購入し、ローマに送った。しかしナポリ領主になったとき彼は破産し、コレクションは借金返済のためフィレンツェのジョバンニ・デル・ロッソ銀行に差し押さえられた。さらに有力貴族の元へと流出したのだが、最終的にリヌッチーニ家へわたり、1831年、トリヴルツィオ家に嫁いだマリアンナ・リヌッチーニが資産として持参し、今に至るのだという。
 この肖像画の存在が世に知られたのは、2014年3月、財団発行の美術論文誌に研究成果が掲載されてからである。新発見の公表。この話題は、日本でも新聞で報道された。以降、首相や長崎、宮崎県の知事が鑑賞に赴いたこともあり、イタリア大使館の協力で、肖像画の来日が実現する運びとなった。これには、駐日イタリア大使を務めたこともあるジャンジャコモ・トリヴルツィオ氏の叔父が、日本に対し特別な思い入れを持っていたことも無関係ではない。何度も来日を誘われつつ果たせなかったトリヴルツィオ氏は、肖像画が伊東マンショという日本人を描いていること、しかも極めて歴史的に重要な作品であることが判明し、日本で是非見てもらいたいと、この機会を生かすことにしたのであった。
 企画展は、キリスト教宣教の拠点そして南蛮貿易の地であった長崎県や、伊東マンショの故郷・宮崎県に加え、東京都の東京国立博物館で開催される運びとなった。
 2008年に作品が再認識されてから5年以上、月日を重ね調査研究を行ったイタリアの財団の情熱。その由緒判明が日伊国交樹立150周年を迎える時機に当たったということも、企画実現に向け背中を押す形となった。
 肖像画の来日を心から楽しみにしていた人物がいる。岩倉具視の5代目子孫で、かつて駐イタリア公使も務めた岩倉具忠氏(京都大学名誉教授、イタリア語学者・イタリア文学者)である。2016年2月に逝去し、結局は叶わなかったが、この企画には熱意をもって協力してくれたそうである。
 企画実現のために熟した機会、注がれた多くの情熱には、心に響くものがある。そして、描かれてから約430年の間にこの絵が旅した道のりを想像してみると、マンショの軌跡に感慨深くなる。肖像画のマンショは、頬が紅潮し、緊張感と同時に誇らしさと喜びをたたえた大人びた表情で、自身を見つめる異国の画家の視線に応えるべく、語り掛けるようなまなざしを真っ直ぐこちらへ向けている。心境までも写し取り、その時代その場の空気までもが甦るような一期一会が、この絵を通して果たされてきたのだろう。
 東京国立博物館の公開は、規模としては小さいが、内容は充実し見る者を高揚させる企画だった。この企画展の意図や工夫、反響などについて伺った。
 企画の構成は、発表されたトリヴルツィオ財団の研究論文が研究成果として申し分ない内容だったので、それに則る形にし、加えてやはり「日伊国交樹立150周年」「キリスト教」というキーワードを重視した。イタリアに関わる資料を優先して東京国立博物館の所蔵品から出展の選定を行い、歴史資料の『天正遣欧使節記』を選出。また、日頃から問い合わせが多い「聖母像(親指のマリア)」(銅板油彩、イタリア、17世紀後半、24.5×19.4㎝、長崎奉行所旧蔵)も選んだ。最後に、二つの「三聖人像」である。ひとつはヨーロッパの麻製カンバス油彩(150.0×107.2㎝)、もうひとつは日本の木綿製カンバス着色(147.1×101.5㎝)の作品、両者ともに長崎奉行所の旧蔵品で、16~17世紀に描かれた重要文化財である。これらを選んだ理由は、3つある。まず、伊東マンショの肖像画と同時代であること。メインとなる肖像画が小さい作品なので、大きな作品を配置することで会場にめりはりをつけたかったこと。そして、キリスト教伝来期に日本へ渡ってきた作品と日本人が描いた模写という日欧の絵画を比較することで、その時代の空気感を伝えたいと思ったこと。当時の日本人は、宣教師からルネッサンスの絵画技法を直接学び描くことができた。それはきっと心躍る体験であったろう。そして、残念ながら時代の趨勢で折角のチャンスを捨ててしまう結果になったが、その後の展開次第ではもしかしたら当時のルネッサンス技法が日本でも根づき、発展した可能性があったことを示唆したいと瀬谷さんは考えた。展示スペースは狭い部屋になるので、伊東マンショ肖像画と研究成果についての解説パネルを除けば4点の展示が限度であった。だからこそ、厳選するところに、企画意図を深く滲ませるよう心を砕いた。
 企画は担当者によって、見せ方が変わる。どういう展示にしたいのか。そのテーマのためには、何をどのように並べ、どのような説明を付けるか。そうしたこだわりのある組み合わせによって、同じ作品を展示しても見え方が変わってくる。そこに、担当者の個性が出る。どのように「個性」を出すかが企画者にとって課題であり、展示を通じ世界が違って見えたのならば、それは担当者にとって醍醐味となる。
 例えば、ヨーロッパ人の作品と日本の模写作品を並立させた「三聖人像」について、企画段階では、ヨーロッパで制作された作品だけに統一してはどうか、という意見も上がったという。しかし瀬谷さんはあえて、美術品としては拙いこの作品を出品することにした。美しくまとめるよりは質が下がることになるかもしれないが、当時の人々がヨーロッパをいかに受け入れたのか、その気持ちも一緒に示したいし、日欧が関係をもつことで湧いたであろう驚きや喜び、苦しみを象徴的に表すために、ヨーロッパを見た日本人というものを対比させることに意味があると考えた。クオリティをどのレベルにするかは、常に議論があることで、作品の選び方に関わる重要な要素であるが、それを超えてもなお反映したい意図もあるのだ。
 一昔前なら、「見る人が感じてくれれば良い」だった企画展も、今では「分かり易く解説を加えること」が重視される。専門家として、作品の魅力、歴史背景などの情報を盛込む中で、できるだけ自身が感じた「人間としての気付き」、調べる中で体験し感じた「共有したい、面白い」と思ったことなどを言葉や展示で反映したい、と瀬谷さんは語る。今回でいえば、やはり「マンショがどう思われていたのか」という点は常に念頭にあったそうだ。
 特別公開の反響は、おおむね良かったという。来館したカトリック信者からは、逆に教えてもらうことも多く、新しい出会いが果たせたことも収穫のひとつであった。また、地方局の人気TV番組「戦国鍋tv~何となく歴史が学べる映像~」の中で、少年使節がヨーロッパ帰りのアイドルユニットとして紹介された影響もあり、「歴女」と呼ばれるとくに若い女性ファンの来館も多かったという。そして、リーフレットとパネルの解説に英文を付けたことが功を奏し、海外からの来館者の滞留時間が長く、日欧交流について理解を深めてもらえたのも成果のひとつであった。作品の魅力を紹介するにあたって、今まで言葉の壁による未消化は否めなかったが、今回の試みは、海外からの観光客が増えている昨今の工夫に対して、良いヒントになるという。
 「展示を見て毎日が楽しくなるように。気持ちが新しくなって、世界が新しい見え方になるように。」瀬谷さんが伝えてくださったこの印象深い言葉は、作品に魅せられた人の誠実な思いであろう。背景にあるさまざまなこと、人と思いをどれだけ汲み取り、いかにそれを発信できるか。専門家としての矜持を強く感じた。
 あらためて、一期一会の素晴らしさを教えられたように思う。

② 支倉常長
 少し遡ることにはなるが、東京国立博物館では、2014年2月に「支倉常長像と南蛮美術―400年前の日欧交流」展を開催した。この企画の主軸は、イタリア個人蔵の油彩「支倉常長の肖像」(196.0×146.0㎝、カンバス、1616年)である。
 仙台藩伊達政宗の家臣であった支倉六右衛門常長(あるいは長経、1571~1621)は、慶長遣欧使節団の正使に抜擢され、1613(慶長18)年10月28日、ルイス・ソテロ(フランシスコ会宣教師)ら180名と共に男鹿半島月浦からサン・ファン・バウティスタ号でヨーロッパに向け出帆した。彼らより30年程前に欧州へ派遣された少年使節が西回り航路をとったのに対し、支倉一行は東回りでメキシコからスペインそしてローマへと向かった。政宗がスペイン国王とローマ教皇のもとへ使節を派遣した目的は、スペインとの直接貿易の実現に向けた外交交渉と、仙台藩領内への宣教師の派遣要請であった。
 1615年1月、マドリードで国王フェリペ3世に謁見、翌月には国王臨席のもと支倉常長は受洗し、フィリッポ・フランシスコという洗礼名を授かった。その後ローマでは教皇パウロ5世との謁見を果たし、携えてきた政宗からの親書を呈すると、ローマ市民権や貴族位を授与されるなど友好的雰囲気の中で歓待を受けたのであった。
 しかし一方で、託された通商と布教拡大に関する是認は捗々しくなかった。日本国内でのキリシタン弾圧の情報が、スペイン側にもたらされていたからである。一部に大使たちを支援する言動は見られるものの、結局成果を得ないまま1616年1月にローマを出発することになった。それでも、支倉は寄港したマニラに2年滞在し、粘り強く交渉を続行、しかし使節に対する疑義を晴らすことは叶わず、1620(元和6)年8月に帰国した。その頃、キリスト教に対する弾圧が強化されつつあり、政宗は支倉の帰還と時を同じくして、藩内の禁教を断行する。
 時代に先駆けて果敢な旅を続けながらも、時代に翻弄され、その体験を生かすことなく散った支倉常長。その生き様と貫かれた信念から見えるものは何か――ここでは、「支倉常長像と南蛮美術」展を担当された学芸研究部列品管理課平常展調整室主任研究員・土屋貴裕氏と、学芸企画部広報室・宮尾美奈子氏から伺った話を紹介する。
 まず初めに、展示の舞台となった東京国立博物館(通称・東博)について触れよう。東博は、1872(明治5)年、湯島聖堂大成殿で開催された博覧会を契機に発足した「文部省博物館」を起源とする、日本で最も歴史と伝統のある国立の博物館で、現在は独立行政法人国立文化財機構に所属する。国立博物館施設は、総合的な文化紹介を特徴とする東京博物館のほかに、奈良の仏像美術を扱う奈良博物館、京都の文化を中心とする京都博物館、アジアの文化や交流をテーマにした九州博物館で構成されている。土屋さん曰く、東博では、学ぶ場であるのと同時に楽しむ場でもあるという考えに立ち、美術や日本文化に触れるきっかけとなるよう、内容の充実を図っているという。
 敷地には主に、日本美術を時代別に展示する本館、東洋美術中心の東洋館、特別展や考古、企画展示を行う平成館、法隆寺から皇室に献納された宝物を収蔵する法隆寺宝物館、明治末期の洋風建築を代表する表慶館、黒田清輝の作品展示を行う黒田記念館など6つの展示館が建つ。収蔵文化財は約11万点、質量ともに日本一のコレクションを誇るが、それに伴い普段の活動は、文化財の収集、保存・修復、管理、展示、調査研究、教育普及事業など多岐にわたる。テーマに沿って文化財を選別し展示するのだが、「特別展」では期間限定で文化財を紹介するのに対し、「総合文化展」(ほかの博物館の「平常展」にあたる)は一定の条件の範囲で機会に応じて出展する。
 約50名の研究員は役割やテーマごとの部署に分かれ、それぞれの作品研究、教育プログラム、保存・修復にあたるわけだが、展示に関しては企画から実行までは、当然多数の部署が連携して関わる。その仲介役と実務を担当するのが展示調整室で、土屋さんが所属する平常展調整室は、各分野の専門研究員たちが立案した展示企画を取りまとめるのが役割だ。また、例えば展覧会情報を発信するポスターも、制作をデザイナーに依頼するにあたっては、宮尾さんが所属する広報室が担当者にコンセプトを聞き、必要な材料を整えるのだという。
 総合文化展では、収蔵品と寄託品を組み合わせながら、文化財を魅力的に見せるよう展示を組み立てる。心掛けていることは、「いつ来館しても思い出に残る空間作り」なのだという。
ひとつの展示期間を設定し、1年を区分した上で、調整室では、それぞれの展示の時間幅を調整し、どのようなテーマ設定にするのか、何か特集を組むのか、さらには特集や部屋ごとに季節感や特色をいかに出すのかなどに配慮して内容の大筋を考え、さらに担当部署別に会議にかけて了承を得る。そして最終展示構成が決定したら、案内用のパンフレットなどを通じ広報する。
 一方、特別展の場合は、特別展室が同様に企画運営のための調整を図る。展示企画は、国内外での交渉や準備にかかる時間を考慮し、通常は開催時期の2、3年以上前から始動する。
 同じ作品であっても、展示のテーマが異なれば受ける印象は別のものになる。ゆえに、テーマ選びも重要だ。文化財が醸し出す世界をいかに見せるか、全体像を描きつつ取捨選択をする。そして、できるだけ次につながるような、印象に残る企画の切り口を心掛け、日々研究活動と展示準備を両立させつつアイディアを蓄積しなければならない。
 「展示」は、いわば公開の場である。厳しい条件下で管理されている文化財を陳列して公開するということは、リスクが伴うもので、「保存」とは相容れない行為である。しかし、文化財は、見てもらってこそその価値を知ってもらえる。その両者をいかにバランスよく行うか。後世へ「伝える」ためには、安心して見られる状態を保つ工夫が肝要であり、作品の保護には万全な対策が講じられる。具体的には、温度、湿度、光(紫外線)、虫害といった環境的な観点と、移動や取り扱いなどの作業的な配慮である。
 展示活動では、分野や材質によって定められた条件や制限の下、資料を活用する。作品の状態によっては、展示期間を短くし、場合によっては出品自体を見合わせることもある。日本美術の書画や染物は脆弱な作品部類に属するので、6週間展示したら、少なくとも1年半は休ませる。浮世絵の場合はさらに短く、4週間で交代する。さらに、国宝や重要文化財に指定されたものの展示は、さらに条件が厳しくなる。それ以上展示すると劣化を進めることになるので、人気作品だからといって闇雲に出さない、出せないのである。ただでさえ、経年劣化は避けられないので、文化財においては伝統的技法を用い、素材によっては経済的負担が発生することもあるが、必要に応じ修理を行うという。
 以上述べてきたように、博物館の環境作りの基本かつ中枢となる文化財の「展示と保存」という観点に基づき、現場は両者を実現させるために心を砕く。そのため、総合文化展では常時3,000件が出展されている中で、随時、展示替えが実施されている(のべ年間3~400回の展示を行っている)ので、来館するたびに様々な文化財の触れることができる。こうした一期一会を楽しんでもらいたいと担当者は願っている。
 さて、東博にはいろいろな珍しいもの、貴重な作品があるが、長崎奉行所が押収した状態の良いキリシタン資料が移管されているため、2年に一度のペースでキリシタン関係の展示を行っている。
 2013年秋、慶長遣欧使節の出帆400年と、国宝「慶長遣欧使節関係資料」のうち支倉常長の半身像、教皇パウロ五世像、ローマ市公民権証書など3点のユネスコ世界記憶遺産への登録を記念する特別展「伊達政宗の夢 慶長遣欧使節と南蛮文化」が仙台市立博物館で開催された。その折、イタリアから支倉常長の全身肖像画が来日し、東京でも展示されることになった。
 東博には、残念ながら支倉常長関係の資料はない。そのため、出品は肖像画と南蛮屏風の3件になったが、これらはすべて特別な機会でなければ見ることが叶わない作品なので、「1件ずつを見せる」を意識して企画展は構成した。また、展示場所の本館2階7室は、約151平米のコンパクトな角部屋だが、普段から屏風や襖を展示している場所であり、隣接する部屋の時代設定が安土桃山から江戸なので、ここに南蛮交易を位置づけることは、展示の流れからも違和感を覚えさせないと考えたと土屋さんは言う。
 この特別展で凝らした工夫について伺った。肖像画は油彩なので、鑑賞者が見やすいようこの絵のために造作壁を制作し、さらに作品に合うよう複数の館内研究院がチームを組み、最適な照明を検討し、有機EL(有機エレクトロルミネッセンス)照明を当てた。これは、美術品が一番魅力的に感じられるよう、作品に合わせて光の当て方を調節できる。有機ELとは、電圧をかけることで有機物が発光する現象を利用したもので、物体の色を忠実に再現するので、既存の照明より温かみをもたらし、人物の表情が生き生きと映えるのである。その心情まで透かし見えるような効果は、先に紹介した「伊東マンショの肖像」展でも発揮された。
 これまで、「支倉常長の肖像」は複数の存在が確認されている。報告書など出版物の挿絵(版画)、仙台博物館所蔵の油彩画、ローマ・ボルゲーゼ宮広間に掲示されていた油彩画、1583年にグレゴリオ13世の夏の離宮として建設されたクイリナーレ宮の中央広間の使節団群像壁画など、それぞれ日欧交流史を伝える貴重なものであり、いかに使節団が大きな関心を寄せられたかを示す作品でもある。
 ユネスコ記憶遺産に登録された仙台市博蔵の肖像画(80.8×64.5㎝、麻布油彩)は、手にロザリオを持ちキリスト磔刑像に敬虔な祈りを捧げる場面を描く半身像で、ローマ滞在中にフランス人画家クロード・デリュエの手で描かれたと推察されていう。この絵は、支倉自身に与えられ、日本に持ち帰ったものといわれる。支倉家は常長の息子の代に改易の憂き目に遭うが、肖像画はその際に没収され仙台藩で長い間管理されていた。厳しいキリシタン探索から逃れるためか、折り曲げ巻かれた際についたと見られる折り目や横皺が痛々しかったのだが、1967年に重要文化財に指定されたのを機に修復された。
 一方、東博の特別展に出展されたのは、教皇パウロ5世の実家ボルゲーゼ家に伝えられた全身像である。ローマ滞在時に一行を支援したシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の命で制作された。この作品は、使節の史料が国内外で関心を高め、その存在が再認識された明治期、『東京日日新聞』社長福地源一郎の取材で、初めて日本で紹介された。
 手掛けた画家は、中部イタリアのウルビーノ出身アルキータ・リッチと見られており、ローマ滞在中に制作を開始し、翌年中に完成したとされている。画中の常長は、1615年10月29日のローマ入市式での正装と同様の姿(「大使殿はインド製の豪華きわまりない衣服を身にまとっていたが、その服は多くの部分に区画され、動物や鳥や花の姿が絹や金銀で縫いとりされていて、それが白地によく映えていた。大使殿はカラーをつけ、ローマ風の帽子を被っていたが、尊敬を示すしぐさで彼に敬意を表する群衆に非常ににこやかな顔で帽子を取って挨拶し、彼の随員たちも同じように挨拶した。」アマーティ『伊達政宗遣欧使節記』、仙台市史編さん委員会編『仙台市史 特別編8慶長遣欧使節』、仙台市刊、2010所収)で、貴人の肖像画の典型ポーズをとる。伊達家を表す「九曜紋」が施された腰に帯びた刀や、「雪薄」を連想させる黄金色の薄をモチーフにした袴は政宗からの拝領品と考えられており、描写が緻密である。また、背景には帆船や寓意像などの説明的要素が挿入され、一行の航海は神に祝福されていることを表すと解釈されている。ちなみに、この帆船図は、近年宮城県内で起こったサン・ファン・バウティスタ号復元プロジェクトにおいて大いに役立ったという。支倉の颯爽とした姿は、欧州でブームを起こした「日本のサムライ」らしく、荘厳かつ華やかな印象を与える。
 特別展の来場者には、この支倉の肖像画が目的で足を運んだ人もいれば、出展を知らずに総合文化展を見て回るなかで「遭遇した」という人もいる。後者の人にとってそれは「レア感、ラッキー感」に結びついたようで、今まで知らなかった、教科書に載せられた説明でしか接したことがなかったという来館者にとっては、支倉の存在を知る良い機会となったようである。キリスト教に関心がある人ばかりでなく、歴史好きには興味深く、好意的な反応が多かった。
 ローマ市街のパレードでは、支倉常長一行は観衆の熱烈な歓迎を受けた。支倉はヨーロッパの人々から、聡明で知慮に富み、礼儀正しく、社交性や教養見識、品格があると評価されていたことが明らかになっており、外交官としての資質を十分に備えた人物であったことが推し量られる。使節が持参した日本製品の技術やセンスの高さも評価され、また常長も多くの貴重な文物を日本に持ち帰った。それらは仙台藩に没収されたが、皮肉にも禁教政策を強行した体制側が没収管理したからこそ使節の歴史や関係遺品は守られた、ともいえる。
 帰国後まもなく、西欧での体験を紹介することなく支倉常長はこの世を去った。そして支倉の逝去とソテロの殉教を機に、仙台領内での迫害は激しさを増す。
 肖像画の微笑をたたえた表情が示すものを、今一度考えてみる。晴れやかで誇らしげな顔。その後の運命。翻弄された波乱の人生。あの時代に渡欧する勇気と偉業。交渉における結果への執着。不利な状況下で伝わってくる必死さ。何がそこまで彼を駆り立てたのか。
 当時の仙台の状況――遣欧使節が旅立ったのは、陸奥慶長地震の2年後にあたる――に糸口を得るならば、新しい支倉像が浮かぶように思う。
 慶長使節団の目的については諸説ある。政宗の倒幕野望説というものもそのひとつであるが、近年、新しい一説が話題になっている。それは、震災復興の目的があったのではというもので、2011年の東日本大震災を経験したからこそ実感をもって提示された説である(濱田直嗣「慶長使節の出帆 寄せ来る波涛を乗りこえて」、慶長使節400年記念誌『航』vol.1、2013)。
 慶長地震の大津波に見舞われた仙台藩の再起を思い描いたとき、指摘されるとおり、外国からの利益獲得は画期的な手段となりえたであろう。しかし、徳川幕府が考えるような経済利益のみに固執せず宣教師の派遣にも主眼が置かれたのは何故かと考えると、一地方が現実打破に向けた勝負に出るには、新しい世界観や価値観に拠った精神的回復にも期待する思い、少なくとも欧州に渡った常長の胸の内では、その信念が膨らんだと見ることができないだろうか。
 そして、海を越えるという壮大な計画の実行者になった常長である。派遣の直前に実父の罪に連座し追放処分を受けた彼に、大使という大役を任せた政宗の思い。常長の能力と人物を政宗は高く評価していた。その資質を見込み、困難な任務を遂行させることで、処分を撤回し再生のチャンスを与えたと指摘される(『仙台市史 特別編8慶長遣欧使節』)。常長もまた、名誉回復以上に、故郷のために全力を尽くすことを決意し、受け入れたのではなかろうか。
 まっすぐに画家を見つめ返す常長の胸に灯る、熱く静かな青い炎。はるか遠い異国で味わった栄光、そして期待。それらが大きければ大きいほど、何としても成し遂げねばという常長の使命感は強くなっていっただろう。そして実現が難しい状況に置かれたときの、葛藤と苦悩、さらに燃えあがる使命感。
 支倉常長は、帰国後に棄教したとの説があるが、信仰を堅持した説の方が有力視されている。というのも、家中からキリシタンを輩出した責任を問われた息子・常頼が処刑され、支倉家が改易された背景には、持ち帰った聖具や聖画が温存されていたことがあり、同家にはキリスト教信仰が受け継がれていたとの見方が濃厚だからである。
 生きるよりどころとしての信仰を、最後まで貫いたと考えられる支倉常長。仏教式ではあるが、彼のものとされる墓や供養塔が、仙台市青葉区青葉町の光明寺、柴田郡川崎町支倉の円福寺、黒川郡大郷町東成田や黒川郡大和町吉岡の山中など、宮城県内で複数確認されている。語り継ぎ大切にするということは、心に響くものがあったればこそである。故郷のために東奔西走した常長を慕う人々の、感謝の念の表れとみられよう。

Ⅱイタリアから日本へ~江戸切支丹屋敷を拠点として~

 東京都内のキリシタンの痕跡のひとつに、「キリシタン屋敷跡」(文京区小日向1丁目)がある。東京メトロ丸ノ内線の茗荷谷駅から徒歩8分、高台と谷でなり坂が多い文京区らしく、勾配を上りキリシタン屋敷跡に向かう道にも、「蛙坂」や「切支丹坂」など記憶をなぞる名が残るが、すでに一帯は住宅が立ち並び、往時の面影を窺うことは難しい。
 キリシタン屋敷(別名・山屋敷)とは、鎖国令が敷かれ禁教政策を厳重化していたにも関わらず宣教師の潜伏が相次いだ17世紀半ば、捕縛の後拷問によって転宗した彼らを収容する目的で設けられた場所である。それまで主流であった弾圧による排斥は、殉教に向かう勇気を持ったキリシタンの信仰心をかえって強めるので逆効果であるとされ、幕府は背教者を作る方針に転換した。そのため、1640(寛永17)年にキリシタン奉行に就任した井上政重の下屋敷を改築し、1646(正保3)年から棄教者を移した。寛永(1624~44)年間の敷地は、北60間1尺5寸、南80間3尺、東18間4尺、西38間5尺で約1,740坪。元禄(1688~1704)以降、南に家屋、東に道路ができたため規模は縮小した。
 1643(寛永20)年に潜入した宣教師キアラなども、転宗の後ここで監禁された。最後の2名が亡くなった1700年頃から宣教師は誰もいなくなっていたが、伝馬町で火災が起きた後、囚人を屋敷に移したこともあった。禁教下「最後の宣教師」と呼ばれるシドッチ神父が登場するのは、さらにその後のことで、彼の死後、1725(享保10)年の火災で屋敷は焼失、再建されぬまま1792(寛政4)年に廃止された。
 海原のほとりに立ち、果てのない空でつながる遠い国の人々に出会うため、命の危険もかえりみず漕ぎ出した宣教師たち。現代のわたしたちの琴線に触れる、伝えたかった想いとその姿を追ってみたい。

③ キアラ神父
 2016年は遠藤周作の代表作『沈黙』の刊行から50年、この作品は国内外で愛読され、映画やオペラなど様々な分野で表現されている(2016年以降、アメリカや日本での映画最新作の公開が決定されている)。主人公・ロドリゴのモデルとされるキアラ神父が日本へ渡った当時、江戸幕府は「鎖国令」発布直後だったため、キリシタンへの警戒は厳しさを増していた。キアラも、捕縛され耐え難い拷問の末に棄教し、江戸キリシタン屋敷で幽閉された一人であった。
 ジュゼッペ・キアラ(1602?~1685)は、シチリア島パレルモで生まれたイエズス会司祭である。1635年に、東洋での布教を志願し出航した。鎖国下で迫害が激しい日本へ殉教覚悟で渡ることを決めたのは、棄教した宣教師――クリストヴァン・フェレイラ(沢野忠庵)――を信仰に戻すためである。
 1609(慶長14)年に長崎に来たフェレイラ(1580?~1650)は、有馬のセミナリヨでラテン語を教え、やがてイエズス会管区長代理と日本司教代理を兼任した。しかし、1633(寛永10)年に捕縛されると、穴吊りの拷問に耐えられず、最初の「転び伴天連」になった。棄教後は日本人名と妻を与えられ、幕府の協力者として長崎で翻訳や尋問時の通訳などを務めた。その後、自身の棄教を正当化する排耶書『顕偽録』を著し、密航宣教師持参の天文学書のローマ字翻訳や、西洋医学書の翻訳をも手掛け、1650(慶安3)年に長崎で病死する。
 イエズス会責任者が信仰を捨てた事実は本国にも伝わり、教会、殊にイエズス会に大きな衝撃を与えた。キアラは、会の汚点をそそぐべく日本へと向かうルビノら10名の宣教師のうちの一人であった。一行はマニラに逗留し、日本から追放された信者が作る日本人町で日本語を学びながら渡航準備を行い、計画を練った。まず一人でマストリーリが日本へ向かうがすぐに捕まり、殉教。残りの者は二つのグループに分かれ、キアラは準管区長マルケス指揮の第2グループとしてマニラを出帆した。翌1642(寛永19)年、筑前に上陸したが捕縛され、連行された長崎奉行所で尋問を受けた。
 キアラは、拷問にかけられても棄教しなかった。そのため、江戸に送られ、伝馬町の牢に収容された。そして、出島のオランダ人通訳と一緒に上京したフェレイラと再会する。この時、幕府の計らいで中国に向かうオランダ船員が立ち会ったのだが、その時彼らが見たキアラたちの尋問の様子は、後に書物に記された。
 江戸での再度の拷問――この時の穴吊りの拷問には耐え切れず、ついにキアラを含む4名の宣教師は棄教する(その後、2人は信仰に戻るも、幕府は認めなかった)。背教者と見なされた一同――キアラの棄教についても、疑問視する声はある――は、1646(正保3)年に小日向のキリシタン屋敷に収容された。キアラは幕命により岡本三右衛門という罪人の日本名を受け継ぎ、妻と十人扶持を与えられたが、屋敷から出ることは許されなかった。そして、晩年にさしかかる1674(延宝2)年、役人の要求でキリスト教の教義について解説した『天主教大意』3巻を執筆する。
 幽閉生活は40年におよび、1685(貞享2)年にキアラは病死する。戒名は「入専淨真居士」。遺体は火葬された後、小石川無量院に埋葬され、墓石が建てられた。
 この墓石を見るため訪れた調布のサレジオ神学院で、サレジオ会のコンプリ神父に話を伺った。
 コンプリ師がこの初夏にイタリア巡礼した折、キアラの故郷であるパレルモから100キロほど南のキューザ・スクラファニ市を訪れた。事前に、師が調べた資料からキアラの出身地が判明していたので、教会と連絡を取り、キアラ追悼のミサを立てたいとお願いしていたのだ。
 ミサが終わったときのことである。主任司祭が一枚の油彩画を手に現れ、キアラの肖像画(約90×60㎝、作者・年代は不明)だと説明した。描かれたキアラは、首に数本の竹串が刺さっている。地元では、キアラは「殉教者」と認識されていたのである。
 イエズス会本部に送られた情報では、確かに「キアラは殉教した」とされていた。つまり、フェレイラとキアラの面会に立ち会った船員を乗せたオランダ船がベトナムに寄港した際、そこにいた宣教師にその時の様子を伝えた。肖像画は、その限られた情報に基づいて描かれたのである。
 肖像画の下部にラテン語で記されたキアラの略歴について、コンプリ師は次のように訳された。
 「イエズス会士ヨゼフ・キアラはキューザ市で貴族のキアラ家から生まれ、聖F.ザビエルの出現により尊者マストリーリを団長としたインドへの特別宣教団に選ばれ、まず長い航行中、火災、飢饉、渇き、ペスト、戦争の種々の困難を乗り越えて、迫害による死の危険を忍耐強く忍び、ついに日本にたどり着いた。そこには、昼夜森林に過ごしながら自分の使命と活動の頂点に達し、住民から信仰のゆえに残酷にも尖った竹で首を刺され、長い苦しみののち帰天し、1649年頃殉教の冠を得た。」
 コンプリ師は、彼は貴族の生まれだったので、肖像画に残されたことはなんら不思議はないが、その存在について想像すらしていなかったので、発見の驚きとともに、キアラはこのような顔だったのかと思いを馳せた。
 42年間幽閉されたキアラについて、晩年になって著したキリスト教に関する書物の内容や考え方から、本当に信仰を捨てたのかとの疑念が持たれている。再び何度も尋問を受けたという事実に照らすと、キアラは生涯キリスト教を弁護し、背教を否定し続けたのではないかという指摘もある。
 さて、神学院の敷地内に現在保存されているキアラの墓石である。1909年、無量院の敷地縮小に伴い、墓石は雑司ヶ谷墓地へ移されることになった。キリシタン研究に没頭していたサレジオ会のタシナリ神父(1912~2012)は、キリシタン屋敷について調査するとともに、キアラのことも研究していた。存在するはずの墓石が寺にないことを知ると、移設先を調べ、1943年に発見、タシナリ神父は、引き取りたい旨を管理人に伝え交渉した。2か月にわたり毎日曜日に花を供え、祈り続けた姿に心打たれた管理人は了承し、当時練馬にあったサレジオ神学院に移された。
 墓石は、宣教師がかぶるような山高帽型の笠、塔身、基台、水鉢からなり、正面には「貞享二乙丑年入專淨真信士霊七月廿五日」と、戒名と年月日が記銘されている。「入専」はジュゼッペの当て字である。この墓石は、「江戸時代の鎖国禁教政策の歴史と、それに関わる人物を物語る遺品として学術的価値が高く、キリシタン墓碑研究上重要」であるとして、2016年1月、調布市有形文化財(歴史資料)に指定された。
 現在、観光マップにも掲載され、信者ではない人の訪問も増えている。キアラの人生を通じ歴史を知り、その心に思いを馳せることは、宣教にも役立つはずである。今後はパンフレットも作成したいとコンプリ師は語る。

④ シドッチ神父
 2014年、ひとつの埋蔵文化財調査が大きな話題となった。「キリシタン屋敷跡から人骨発見」。そして2年後、「発掘された人骨は収容されていた禁教下最後の宣教師・シドッチ神父のものである可能性が高い」ことが発表された。今回の解明は、文献史学、考古学、人類学など、様々な方面からの総合的な調査に基づいた、小さな積み重ねによって起こされた大きな奇跡ともいえる。発見の経緯と、携わった人々の想いを見つめる。
 ジョヴァンニ・バティスタ・シドッチ(1668~1714)は、シチリア島パレルモで生まれたイタリア人司祭である。不当な迫害の停止と宣教を志し、教皇の許可を得て日本を目指した。日本語を学んだマニラから、1708(宝永5)年10月に屋久島へ上陸したところを捕縛された。送還された長崎で奉行所の取り調べを受け、さらに翌年、江戸へ護送され小日向のキリシタン屋敷に監禁された。そして11月から4回にわたり、儒学者で政治家の新井白石(1657~1725)から尋問を受けた。その時の様子は、白石の著作『西洋紀聞』に記されている。白石は、事前にキアラの著作を繙き、シドッチの主張とキアラが残した著作の主旨に齟齬のないことを知り、またシドッチの学識と人物を高く評価した。鎖国の根本理由とされたキリシタン侵略説を否定的に捉えた白石は、本国送還が妥当とする上策を進言するが、幕府は中策のキリシタン屋敷幽閉を断行する。しかし、キアラにも仕えていた雑役の長助・はる夫妻の信仰の告白により、シドッチが洗礼を授けた事実が発覚、シドッチは地下牢へ投獄された。そして1714年11月、獄中で病死する。47歳であった。日本上陸時に携えていた品のなかで、東京国立博物館所蔵の「聖母像(「親指のマリア)」は、今も人気の高い絵画である。
 キリシタン屋敷跡は、「文京区小日向一丁目東遺跡」と名づけられた都の指定旧跡である。2016年4月4日の報道発表および、文京区教育委員会教育推進部教育総務課文化財保護係の係長小松史彦氏と主任主事(学芸員)池田悦夫氏の話をもとに、今回の遺骨発見とその分析経緯や意義について紹介する。
 まず、埋蔵文化財の発掘とは、どのような手順で進められるのであろうか。
遺跡とは、古い時代に建てられた建物、工作物や歴史的事件に由来する痕跡、過去の人々の生活の営みの跡が残されている場所のことである。文化財としての遺跡は中世までがおおむねの対象となり、それ以降の扱いは都道府県で判断が異なり、それぞれで重要と認められるものがなる。東京都の場合、近世には首都であったことから、御府内は「江戸遺跡」と認められる。発掘の必要性には、そこが文化財保護法で定められた「周知の埋蔵文化財包蔵地」であるか否かが関わる。遺物や遺構が土中に埋もれていると地域社会で認識されている土地を土木工事等で掘削しようとする場合、着手する日の60日前までに文化庁長官に届出をする義務があるため、開発事業者は市町村教育委員会に照会し、届出の必要について回答を得る。発掘調査等に要する費用は、原則として開発事業者等が負担する。
 今回の場合、住宅を壊して集合住宅に建て替える建設計画が持ち上がった際の照会で、周知の包蔵地ではないのだが、キリシタン屋敷跡地であることが分かった。そこで、試掘調査をさせてもらえないかと教育委員会が事業主に申し出たところ、了解を得た。「埋蔵文化財要綱」には該当するが法的強制力がない今回のケースは、事業主の任意の協力のもとで試掘が行われた。
 2012年1月10~13日に、試掘調査を実施。土中にあるため有無を含めてまだ分からない遺跡を確認するため、限定的に行うのが試掘調査である。文京区の場合、「埋蔵文化財取扱要綱」に則り、試掘するのは敷地面積のおおむね5%だ。
 文京区史において、ここがかつてキリシタン屋敷だったという事実は把握されているが、実際発掘を行うのは今回が初めてであった。この試掘により、キリシタン屋敷跡の土中の構造的なものは見えたが、これを「文化財」と結論づけるには、必ずしも良好な結果は出なかった。本格調査を行う上で判断材料となる遺構・遺物は出土していたが、その数量は少なく、本格調査を行うか否か迷うところはあったが、キリシタン屋敷跡という性格を重視し、本調査へと踏み切ることになった。試掘から本調査開始まで2年。協議を重ね調整を図りながら計画を立てるための時間であったが、土地を遊ばせておくことのないよう、通常は間をおかずに次の調査を行う。したがって、今回の案件は始まりから異例といえた。
 古地図では、屋敷と庭(空地)があることはわかっているが、掘削をした現在の場所が過去のどの位置に該当するのかは、出土した遺構と古地図とを照合してはじめて比定可能となる。
 本調査は、2014年4月3日~8月5日の4か月(ひと月実働20日)、掘削範囲は、敷地内の開発箇所(つまり土を掘り返す場所全体)である。もし今回、建設位置が少しでもずれていたら、人骨の発見はなかった。
 発掘は、専門会社に支援を要請して実施する。面積によって人員は変わるが、今回はリーダーとなる現場担当者1名、作業員が1日あたり15~16名、測量士1名、重機(パワーシャベル)1台、別に教育委員会職員が関わった。
 南から掘り進め、発掘調査が終盤に差し掛かってきた7月24日、北の一番端から人骨は発見された。このとき、出土したものが重要であるかどうか、見て瞬時に判断しなければならないので、専門職の役割と責任は重大だ。今回は、通常の江戸遺跡の埋葬の有様と異なっていたことが、次の一手を決める判断につながった。
 人骨が発見されたのは、169号、170号、172号の遺構である。172号遺構は座葬の墓で、江戸都市の一般的な埋葬方法である。そして、169号と170号は仏教以外(キリスト教か儒教)で見られる長方形で、納棺された状態であり、江戸では特殊な形といえる。キリスト教では、体が焼かれてしまうと復活できないという考えに則り土葬にされることが多いが、この墓の遺構はそれを想起させるものであった。そこで発見の翌日、江戸の都市および近世墓制・葬制の考古学的研究を専門とし、文京区の文化財審議会会長を務める早稲田大学人間科学学術院の谷川章雄教授に連絡を入れたところ、早急に現場へ駆けつけてくれた。さらに、谷川教授の指示を受け国立科学博物館人類研究部人類史研究グループの坂上和弘氏(自然人類学・法医人類学)に電話をすると、その翌日来てくれた。多忙を極める研究者である二人からすぐに助言をいただける環境が整ったことは、非常に珍しく、幸運であったと池田さんは振り返る。
 坂上氏は、大変特殊な状況だと瞬時に判断し、「掘削の方法に気を付けるように」と指示した。それに従い、担当者は靴には泥が付かないためのカバーをし、手袋とマスクを着用して、汗・唾・毛髪が落ちないよう身体を全て覆う重装備で発掘を続けた。これは、その後に行う調査で情報が正確に出ることを視野に入れた対処である。
 現れた人骨は、豆腐のようにぼろぼろな脆い状態だったので、丁寧に慎重に取り扱った。もし埋まったままさらに10年が経っていたら、おそらく人骨は無くなっていただろう、という。東京は、関東ロームという土壌からなっている。関東を取り巻く諸火山から降下し関東平野に堆積した火山灰(含有する鉄分の風化で赤土となる)である関東ロームは酸性土なので、人骨を溶かしてしまうのだ。発見後にDNA型鑑定が行われたのだが、以前は試験薬は大変高額な品であった。それが数年前に価格が下がったため、鑑定を実施することができた。整った環境があるからこそ英断もできる。骨の状態、鑑定を可能とする予算や技術、それらのすべてにとってまさに最適なタイミングであり、リミットぎりぎりだった。
 さて、その後の科学的な調査と多岐にわたる分野からの考察によって、今回の発掘からは何が判明したのであろうか。まず鑑定は、文京区と連携を組む国立科学博物館に託された。詳細な鑑定を実施する前に、まず骨の泥を払うクリーニングを行った。そして、所見が得られるようにするため、容易には動かせない状態の骨を接合する組み立て作業が必要だった。これにあたっては、発見された付近の土をふるいにかけ、骨片を拾うことまでした。より信憑性のあるデータを取得するための下準備には、数か月を要した。
 人骨には、サンプル分析によるDNA型鑑定と、観察による形質人類学的鑑定が行われた。
 DNA型鑑定とは、DNAのごく一部の分析からパターンの一致・不一致を判定し、確率論的に推定するものである。どういう分析が行われ、何がどう一致したのかを確認しないと評価を誤りかねないので、指紋鑑定とは異なり、判定者に高度な専門知識が求められる。
 鑑定方法にはステップがあり、今回はDNA抽出、ミトコンドリアDNA分析、核ゲノム解析などを実施した。
 第一段階に行った「ミトコンドリアDNA型鑑定」では、独自の遺伝情報を持つ細胞小器官のミトコンドリアDNA(卵子にのみ含まれる)から塩基配列の塩基の違いを調べ、母系の系譜を識別した。これで、ヨーロッパ、アジア、アフリカと大雑把な出自地域が分かる。鑑定は髄(コラーゲン)からが可能なので、左上顎側切歯を用いてDNAを抽出したところ、出土した3体の内、169号はヨーロッパ系、172号はアジア系との鑑定結果が出た。170号については、不明瞭な点が多かった。
 次に、次世代型シークエンサを用いた分析を実施した。これで更に地域を絞ることができる。結果、169号はイタリア・トスカーナ地方の人物、172号は日本人と判定された。
 形質人類学では、足の骨からは身長が、前歯の裏側の形からはアジア系かヨーロッパ系かが、額や頬骨眉弓(びきゅう)骨や腰骨の形状からは性別が判別できる。分析の結果、172号は150㎝後半の身長で屈葬されており、江戸時代の男性と考えて矛盾はなく、また169号は中年男性で、身長は170㎝を超え、当時の平均的な日本人の身長に比べると突出して大きく、また特殊な頭蓋骨形態でアジア系が有するシャベル型切歯を持たないなど、江戸時代の男性とすればかなり異質であり、江戸期の文献に照らすと、シドッチと矛盾しないと判断できるとの見解が示された。170号からは、シャベル型切歯を持ち、お歯黒をしていた可能性があるという程度の情報しか得られなかった。
 埋葬方法からは、次のことが導き出せた。170号と172号の人骨は江戸地域の一般的な方法である屈葬で、169号は半伸展で埋葬されていた。また、遺体が納棺されていたことは、長持ちの棹を通すための金具が一緒に出土したことから明らかである。
 2014年7月の発見から2016年4月の検証結果発表まで、約2年がかかった。それにはいくつかの理由がある。まず、鑑定結果が出るまでには時間を要する。また、より高度な分析が可能な検査を行うかを検討する時間や、発掘費用とは別にかかる鑑定費用を予算化する時間も必要であり、さらに「イタリア人である」とまで辿り着いた分析を、いかに「シドッチ」であるとの判断にまでもっていくのかという検証も慎重に行わなければならなかった。
 従来の研究でも、シドッチがどこに葬られたのかは推測されてきた。敷地の東側にある井戸がシドッチの墓の跡という見方もあったが、実際に発見されたのは西側からであった。文献には、裏門そばに長助夫婦と並ぶかたちで葬られたという記載があるが、発見現場とその内容とはほぼ一致している。
 科学的分析は時代が進むにつれ精度が高まり、科学的知見は推測を確実なものへと引き上げる。それでも、検証にあたっては不安材料もある。状況は整っているとはいえ、もし他から何か出土したら、説明が覆りかねない可能性をつねに秘めるからだ。様々な観点から出る矛盾点――それは科学の限界でもある――を解消するには、考古学、文献そして葬法や伝承による見地を組み合わせて、判断の根拠を示すための総合的な検証を重ねていく必要がある。
 歴史的に重要な意味を持つこの人骨は、今後文京区の文化財として取り扱われていくが、先にも述べた通り大変脆い状態なので、国立科学博物館に保管を委託している。その上で、将来は復顔を試みるためにレプリカを作成し、展示するなどの計画を進めたいとの考えを小松さんは説明された。
 今回の発見のニュースに、区民からは、驚きとともに大きな関心が寄せられた。また、遺構の見学会が実施されたが、2回目は人骨発見の翌日だったこともあり、何人かの神父も見学に訪れたそうで、また、強い要望もあり、人骨を中心とする3回目も行った。
 考古学は、文献以前の歴史を検証でき、しかも百年千年という長期での変遷、自然環境の変化と文化の関わりを時代によって明らかにできる学問である。今回の発掘によって、考古学の魅力を再認識させられた。なぜならば、墓域以外の出土人骨で個人が特定され、なおかつその経歴が辿れることは少ない。また、出土した人物の交流履歴や性格、意志、個性が判明することなど期待できない。ここまででも従来の考古学の常識を覆す発見なのだが、さらに、調整段階から発掘、総括に至るまでにも、小さな奇跡の積み重ねがあったという。理解と協力を惜しまずに関わってくれた人々、その存在や功績がなければ、出土に至っていなかったであろうし、判断が誤っていたら良い結果には結びつかなかったであろうことも事実である。
 出土品は口を利かない。しかし、人間が働きかけて初めて饒舌に語り出し、ものごとが明らかになる。事象の意味するものを思考し、議論や内省を促せたら、今回の発見はまた大きな意味を今生きる私たちに与えてくれるのではないだろうか。異国へとまさに骨を埋める覚悟でやってきたシドッチ。どのような風景を見、何を感じ考えたのか、遺物からその人物について想像することは意義深い。
 同じイタリア人で、ともにキリシタン屋敷の収容者であったキアラとシドッチを比較してみると、前者は火葬され寺に葬られるという仏教式だったのに対し、後者はキリシタン屋敷内にキリスト教式で埋葬された。そして、その後も遺跡は管理されて、決してぞんざいに扱われていなかったことが見て取れる。このシドッチへの対応には、ひとつの絆、すなわち新井白石との結びつきを思い起こさずにはいられない。
 新井白石は、1716(享保元)年に吉宗が8代将軍に就任したのに伴い政治的地位を失い、以降、著述に励んだ。『西洋紀聞』は、仕えた7代将軍が体調を崩し逝去に至る頃から執筆を始め、最晩年まで手を加えたもので、シドッチ取り調べ報告書を元に、ヨーロッパをはじめとする海外事情、キリスト教の教義説明などを記す代表作である。そのなかで白石は、尋問を振り返って「時が随分と流れ、忘れたことが多い」と断りながらも、情景を鮮明に描く。不遇のうちに過ごす彼にとって、胸に去来するシドッチの姿は懐かしく、忘れ得ぬ出会いであったことは、想像に難くない。
 東京国立博物館での特別公開「伊東マンショの肖像」について話を伺った瀬谷さんは、シドッチが携帯していた「聖母像(親指のマリア)」の出展にあたり調べた新井白石に感銘を受けたという。尋問をする立場にありながら興味の方が勝った白石が、シドッチの気持ちをほぐしながら対応する姿や、二人に芽生えた人間関係を知ったことは、新たな「発見」であり、企画に携わった産物であった。また、文京区の発表に接したのがパンフレットの校正時期に当たったので、うまく文章に反映できた。この図ったようなタイミングには、巡り合わせを感じたという。
 地域に眠る歴史に目を留める。思い浮かべる光景に、時を隔てた人々の心を重ねる。ここにもまた、かけがえない出会いがある。

Ⅲイタリアと日本が交わるとき

 現在、バチカンと日本の研究機関とが連携し、「マレガ・プロジェクト」というキリシタン資料の整理分析事業が進んでいる。マリオ・マレガ(1902~1978)は、イタリア出身のサレジオ会司祭であるが、1929年に来日し宮崎で教鞭を執った後、大分や臼杵の教会に赴任した。司牧の傍ら、マレガは膨大なキリシタン資料を収集したのだが、そのきっかけは、子供たちが何か丸めたもので遊んでいる様子に出会ったことであった。拾い上げてみると、それはキリシタン迫害の歴史を繙く文書であった。貴重な史料が残されていること、それらが散逸の危機に瀕していることを知り、地元の協力を得ながら時間と費用をかけ、迫害の歴史に関する史資料を精力的に探し出し、また大分県内のキリシタン史跡の発見にも尽力した。同時に、日本の神話や宗教、文化にも強い関心を抱き、『古事記』など古典や神道関係の文献をイタリア語に翻訳するなど、日伊の文化交流にも功績を残した。
 マレガが文献収集に注力した時代は、太平洋戦争のさなかだった。空襲による史資料の焼失を避けるため、宮崎のサレジオ会にそれらを疎開させたことが功を奏し、1942年に『豊後切支丹史料』を、1946年には『続豊後切支丹史料』を刊行するに至った。
 難を逃れた文書群は、戦後になってバチカンへ移管した。その一部は教皇庁立サレジアナ大学図書館のマレガ文庫に収蔵されたが、一方で、所在不明になってしまった原資料もあった。2011年、1万点を超える史料やマレガの手書き原稿、メモなどを収めた箱がバチカン教皇庁図書館で発見されると、日本にも文書の概要調査や公開に向けた整備への協力が依頼され、2013年にバチカン教皇庁図書館と国文学研究資料館人間文化研究機構との間で協定が締結された。発足した「バチカン図書館所蔵マリオ・マレガ収集文書の保存・公開に関する調査・研究」班には国立歴史民俗博物館、東京大学史料編纂所、大分県立先哲史料館も参加し、キリシタンおよび日欧交渉研究に関する学術情報基盤の整理作業が進んでいる。
 今回の特集では、日伊の交流を軸に、「もの」を通して人々の生き方を見つめ、祈りと誇りを追想した。
 取材に応じて下さった方々からは、活動を通じて出会ったキリシタンの痕跡を丹念に拾い、経験と眼識、ほとばしる情熱をもって、対象に敬意を払いつつ真摯に向き合う姿が感じられた。それぞれに共通するのは、追想の機会を「一期一会」として受け止め、時や場所を越えてつながる人物に対して理解を深め、未来に向け発信する姿勢であった。
 今回紹介したのは活動の一部にすぎないが、それらを通して、読者の皆様が新たな意義と魅力を「発見」される一助となれば幸いである。(内藤 浩誉)


特集2 高山右近――ゆかりの地ミニガイド
カトリック中央協議会出版部・編

 日本の司教団は、終戦まもなくから高山右近の列聖列福運動に取り組んできた。その長きにわたる日本の教会の願いがついにかない、2016年1月21日、右近の殉教を公式に宣言する教令に教皇フランシスコが署名し、列福が正式に承認された。そして2017年2月7日には大阪城ホールで、教皇代理である教皇庁列聖省長官アンジェロ・アマート枢機卿の司式により列福式が挙行される。
 これまでこのハンドブックでは、キリシタン史跡を訪ねる特集を10年にわたって続けてきたが、右近に関連する史跡も幾度か訪ねている。その際の取材をもとに、右近ゆかりの地を簡単に紹介したい。

大阪府高槻市

 高槻は、キリシタン大名高山右近が城を構えた地である。
 阪急の高槻市駅から南へわずか数分、高槻警察署を背にしてカトリック高槻教会がある。玄関のアーチに白壁、そして後方のドームが実に印象的で美しいこの教会には、若き日の姿を写した右近像と、威風堂々とした右近顕彰碑が建っている。また聖堂隣の右近会館の壁には、右近のレリーフも飾られている。

 像は白亜の大理石。ニイブラ・アルギイニイ氏の作でクラレチアン会から寄贈され、1965年3月21日に挙行された高山右近逝去350年祭において、教皇パウロ六世の代理であるマレラ枢機卿により祝別を受けた。片膝をついて胸に手を当て、天へと視線を向けた表情は、きりりとして実に精悍である。まったくぶれることなく、ひたすら己の信じる道を突き進んだ右近の生のあり方が、まさにそのまま造形されている。近づいて見てみると、着衣には全面に花模様があしらわれているのが分かる。その透かしのような文様は、大理石ならではの美しさを醸し出している。いかにもヨーロッパの作家といった個性であろう。
 顕彰碑は田口芳五郎司教(後に大司教、枢機卿)の撰による。日付は「昭和二十一年十一月列聖誓願ノ日」である。当然「今ヤ遺徳四海ニ普及シ列聖ヲ誓願スルノ聲羅馬聖廳ニ達ス」といったような時代がかった文章だ。若い人たちは「聖廳」は「聖庁」、すなわち教皇庁のことだとは、説明されなければ分からないだろう。しかし、敗戦からわずか1年3か月後に列聖誓願しているのだ。日本人が持つバイタリティの凄さには驚かされる。
高山右近天主教会堂址

高山右近天主教会堂址

 教会の前の道をそのまま南に進むと、左手に商工会議所がある。この敷地内には「高山右近天主教会堂址」の標柱が建っており、さらに建物に沿って左に曲がると、植込みの中に「高槻城厩廓 桝形門の石垣石」なるものが置かれている。こうした史跡や遺物の発掘調査について詳しく知るには、高槻市立しろあと歴史館に立ち寄るとよい。出土したロザリオなどが展示されているのだが、何よりも出所がはっきりしているので、第一級の資料なのである。
 この歴史館の裏手が、公園として整備されている高槻城址である。その一角には西森方昭氏作の右近のブロンズ像が建っている。

富山県高岡市

 高岡には右近が縄張り(城の建物の配置を決めること)を行った加賀二代藩主前田利長の隠居城、高岡城がある。
 朱塗りの駐春橋を渡って外堀を越え、城址内に入る。護国神社の脇を通るとすぐに内堀に面するのだが、二の丸と本丸を結ぶこの場所に、築城当時の石垣が少し残っている。横方向の石の並びが不揃いな「乱積み」と呼ばれる積み方である。不揃いだなどと書くと、未見のかたには、野卑なだけであまり美しいものではないと思われてしまうかもしれないが、わたしはこの種の石垣が一番美しいと思っている。江戸城の整然と積まれたそれなどとはまったく異なる、いわば動的な美だ。それに、巨石の間で生じる隙間には間石がしっかりと噛ませてあるので、苔むした今でも、往時はなかなかに堅固なものであったろうことが偲ばれる。

 この石垣の石には、十字や「田」の字のような文様が確認されている。城址公園内にある博物館の玄関先に、実際の石がこうした文様が目視できるかたちで展示されているので、ご覧になるとよいと思う。
 この印は、石工が目印としてつけたものである。十字やそれに類する印を何らかの基準点としてこうしたものに付すことは、現代においても普通にあることだろう。しかし、この十字の印がキリシタンと関係あるものとして、まことしやかに語られていた時期がある。十字、即キリシタンという実に他愛ない説である。いくら右近がキリシタン大名だからといって、自らが縄張りした城の石垣に、自分の信仰の大切なシンボルを刻んだりするはずがない。そんなことは、少し考えれば分かりそうなものだ。
 さて、この城跡にも西森氏の右近像が建っている。次はこの像と、それが設置されている土地について紹介する。

西森方昭の右近像

 西森方昭氏は1939年生まれ大阪出身の彫刻家で、この高山右近像は代表作の一つである。同型の像が、国内の4箇所、海外の1箇所にある。国内は高槻と高岡のほかに、香川県の小豆島・土庄教会と、石川県志賀町の高山右近記念公園、そして海外はフィリピンのマニラ市パコ駅前ディラオ広場である。
 小豆島の像は、もともと大阪のカテドラル(玉造教会)にあったもので、2007年5月に移設された。小豆島は小西行長の領地であったところで、豊臣秀吉による伴天連追放令後に、右近が潜伏した地である。隠れ住んだといわれる中山地区には、それを示す標柱が立てられている。また小西は、オルガンティーノ神父もこの島にかくまった。
 石川県志賀町は、右近の子孫が代々住んだといわれている町である。現在も、高山家十六代当主である豊次さんと妻美智子さんが住まわれている。お二人は2015年2月に神戸で挙行された右近帰天400年記念ミサに出席され、ミサ後には大塚喜直司教(列聖推進委員会委員長)と面会なさったことも報道された。
 マニラは右近逝去の地である。この地の像は、比日両国の友好のために、高槻市内の諸団体が協力して、1977年に寄贈したものである。現在、高槻とマニラは姉妹都市の関係が結ばれている。
 西森氏の右近像の特徴は、何といってもその険しい表情だろう。それは強靭な精神を表していると思えるが、同時に、眉間に寄せられた両眉には苦悩の片鱗もまた見て取れる。手にしているキリスト磔刑の十字架をもかたどる剣には、横木すなわち鍔にあたるところに一羽の鳩がとまっている。剣は力強さや勇ましさを表現しているが、そこに鳩が宿っていることで、戦国大名でありながらキリシタンであった右近の内的葛藤が浮かび上がってくる。
 多くのキリシタン大名が、武士としての生き方と信仰者としての生き方の間で葛藤し苦しんだなかで、右近ほど純粋かつ力強く、その信仰を全うした者は見当たらない。しかし、右近に内的葛藤がなかったはずはない。西森氏の右近像は、そうしたことをあらためて考えさせてくれる。

石川県金沢市

 金沢の中心街の一角に建つカトリック金沢教会、その敷地にも右近像が建っている。作者は1914年生まれ金沢在住の彫刻家、竹下慶一氏。短刀一本のみを腰に差し、右手には聖書を携え、左手の指先は彼方の何かしらを指している。大名としての華やかな印象はない。しかし、肩幅ほどに開かれ、しっかりと大地を踏みしめている両足、遠くへと向けられたまなざし、髭をたくわえ、きりりと結ばれた口元、そうした細部からは自然と力強さが伝わってくる。まさに、この地での右近の姿なのであろう。
 またこの像のそばには「南坊石」なるものがひっそりと置かれている。右近の屋敷を取り壊した際に運び出されたと伝えられるものだ。「南坊」とは、茶人右近の号である。
 加賀は、領地召し上げとなった右近が預けられた地であるが、領主である前田家の右近に対する信頼は厚く、客将として金沢城の改築などの事業に携わった。西内惣構堀跡などは、そうした右近の活躍にまつわる史跡であるので、ぜひ訪れておきたい。

大阪カテドラル・カトリック玉造教会

 玉造教会の建物前の両脇には、大阪教区とゆかりの深い、戦国時代にあって敬虔な信仰を生き抜いた二人、すなわち細川ガラシャと高山右近の石像が対になって立っている。作者は阿部政義氏。カトリック信徒の彫刻家である。
 不思議な印象を受ける像である。両手でもって胸に十字架を抱く大きな全身像だが、純然たる写実とは少々異なるやや単純化されたフォルムであり、静謐を感じる美しさがあるものの表情が読み取りにくい。しかしそれゆえに、モデルである人物の内面理解へと観る者を自然に誘うようにも思われる。
 また聖堂内には、近代日本画の巨匠、堂本印象画伯による3点の壁画があり、いずれも右近とガラシャがテーマとなっている。とくに正面の大作「栄光の聖母マリア」は、和の要素を思わせる衣装をまとって幼子を抱く聖母を両脇から右近とガラシャが見上げるという独創的な構図で、印象画伯の代表作の一つに数えられる。 (奴田原智明)

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