教皇フランシスコ、 2018年9月2日「被造物を大切にする世界祈願日」メッセージ

教皇フランシスコの「被造物を大切にする世界祈願日」メッセージ 2018年9月2日 親愛なる兄弟姉妹の皆さん  「被造物を大切にする世界祈願日」にあたり、わたしは何よりもまず、わたしたちの共通の家というたまものと、その家を […]

教皇フランシスコの「被造物を大切にする世界祈願日」メッセージ
2018年9月2日

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 「被造物を大切にする世界祈願日」にあたり、わたしは何よりもまず、わたしたちの共通の家というたまものと、その家を守るために尽力しているすべての善意の人について主に感謝したいと思います。また、生態系の研究と保護を推進するために数々の計画が立てられていること、持続可能な農業の発展と、責任ある食糧供給に向けて努力がなされていること、さらには世界中のキリスト者による被造物を守るための教育的、霊的、典礼的なさまざまな取り組みにも感謝します。

 わたしたちは責任をもって被造物を守ってきたわけではないことが、自覚されなければなりません。環境の状態は地球レベルでも、多くの特定の地域でも、満足のいくものであるとは考えられません。もちろん、人間と被造物の間に健全な結びつきを取り戻す必要があるという認識は高まっていますし、真正で総合的な視野で人類を捉えて初めて、現在と未来の世代のためにこの地球をさらに大切にすることができるという確信もはぐくまれています。「適切な人間論なしのエコロジーなどありえない」(回勅『ラウダート・シ』118)からです。

 カトリック教会は、東方正教会の兄弟姉妹との一致のうちに、また他の教派やキリスト教共同体とともに、この「被造物を大切にする世界祈願日」を数年にわたり記念してきました。この日にあたり、極めて基本的で重要な要素である「水」の問題に注目して頂きたいと思います。残念ながら多くの人にとって、水は入手不可能ではないにしても、得ることが困難なものになっています。しかしながら、「安全な飲み水を入手することは、人間の生存に不可欠であり、また、それ以外の人権を行使する条件そのものであるため、基本的で普遍的な人権です。飲み水に事欠く貧しい人々は、不可侵の尊厳に根ざす生存権を否定されているのですから、わたしたちの世界は貧しい人々に返済すべき甚大な社会的負債を抱えているのです」(同30)。

 水は、わたしたちが自分の起源について考えるよう促します。人体の大部分は水でできています。歴史において、多くの文明は大河の近くで発生しており、それぞれの文明は大河によって特徴づけられています。初めに、創造主の霊が「水の面を動いていた」(1・2)という、創世記の冒頭の箇所は示唆に富んでいます。

 水が被造物と人類の発展に果たす根本的な役割について考えるとき、わたしは基本的で、他の何よりも地上のいのちのために役立っている「姉妹なる水」のことを、神に感謝せずにはいられません。だからこそ、水源と流域の保全は緊急の責務なのです。すぐ手軽に得られる利益(『ラウダート・シ』36参照)の先を見据え、「効率性と生産性をただただ個人の利益のために調整する単なる功利的視点」(同、159)を超えることが今、これまで以上に必要とされています。水資源の私有化は水を得る権利という人権を侵害しており、決してゆるすことはできないという観点のもとに、共同で計画を立て、具体的な活動を起こすことが緊急に求められています。

 水はわたしたちキリスト者にとって、清めといのちに欠かせない要素です。再生の秘跡である洗礼のことがすぐに思い浮かびます。神は、霊によって聖化された水によって、わたしたちを生かし、新たにしてくださいます。これこそが、永遠のいのちの祝福された源です。他の教派のキリスト者にとっても、洗礼は、完全な一致への道のりでさらに真正な兄弟愛を生きるための、かけがえのない真の出発点です。イエスは公生活において、人間の渇きを永遠にいやすことのできる水を与えると約束し(ヨハネ4・14参照)、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ7・37)と語りました。イエスのもとに行き、イエスから飲むということは、主なるイエスと直接出会い、主のことばから生きる意味を学ぶことを意味します。イエスが十字架上でいわれた「渇く」(ヨハネ19・28)ということばを、心の中に強く響かせてください。主はご自分の渇きをいやすよう、今もわたしたちに求めておられ、愛に渇いておられます。主は、現代に生きる多くの渇いた人に水を飲ませることを通して、ご自分の渇きをいやしてほしいと求めておられます。そして「のどが渇いていたときに飲ませた」(マタイ25・35)と、のちにわたしたちに告げたいと望んでおられます。地球という一つの村で人々に水を飲ませるということは、各個人の愛のわざの実践であるだけでなく、水という基本財をすべての人に確実に行き渡らせるためになされる具体的な選択と絶え間ない努力でもあるのです。

 内海と大洋の問題にも触れたいと思います。わたしたちは創造主に対し、膨大な水とその中にあるものという壮大で並外れた恵み(創世記1・20-21、詩編146・6参照)を与えてくださったことを感謝し、地球を海で覆ってくださったこと(詩編104・6参照)をたたえるべきです。広大な大海原とその絶え間ない動きを黙想することは、わたしたちの思いを神に向ける機会にもなりえます。神はご自分の造られたものにつねに寄り添い、その歩みを導き、その存在を支えておられます(聖ヨハネ・パウロ二世教皇、一般謁見講話、1986年5月7日参照)。

 このはかりしれないほど貴重な宝を日々大切にすることは、今日、避けられない義務であると同時に、まぎれもない真の課題でもあります。創造主のこの継続するわざに参加するためには、善意の人々と積極的に協力する必要があります。残念ながら、とくに国境を越えた海域の保護については、効力のある規制や管理手段が欠如しているために、多くの取り組みが台なしになっています(『ラウダート・シ』174参照)。プラスチックごみが漂う生気のない海面に、わたしたちの内海と大洋が覆われることがあってはなりません。この緊急事態に対しても、わたしたちは積極的な姿勢で全力を尽くし、あらゆるものが神の摂理のままに行われるよう祈り、すべては自分たちにかかっていると思って働かなければなりません。

 海域が、民族の分離のしるしではなく、人類共同体の出会いのしるしとなるよう祈りましょう。よりよい未来を求めて、海でいのちを危険にさらしている人々の安全を祈願しましょう。主に、そして政治という崇高な奉仕に携わるすべての人に願い求めましょう。細心の注意を要する現代の諸問題――移住、気候変動、基本財を享受するというすべての人に与えられた権利にかかわる問題――が、責任感、未来を見通す力、寛大な心、そして連帯的精神、とりわけもっとも余裕のある国々の間の連帯精神をもって対処されますように。船員司牧のために献身している人々、海洋生態系に関する問題の研究を促進する人々、海洋に関する国際規則の起草と適用に貢献している人々のためにも祈りましょう。それらの規則は個人、国、財、天然資源――たとえば海洋動植物とサンゴ礁(同41参照)もしくは海底――を保護するもの、さらには個別の利益ではなく、人類家族全体の共通善の観点から総合的な発展を保証するものであるべきです。また、海域を保護し、大洋とその生物多様性を守るために尽くしている人々のことも思い起こし、彼らがその務めを責任と誠実さをもって果たせるよう願いましょう。

 最後に、若い世代のことを考え、若者のために祈りましょう。若者が、水という必要不可欠な資源をすべての人のために大切にしたいと望みつつ、わたしたちの共通の家に対する理解と敬意のうちに成長しますように。わたしは、すべての人がこのかけがえのない資源を享受できるよう、キリスト教共同体がこれまで以上に具体的に貢献し、創造主から受けたたまもの、とりわけ河川、内海、大洋を大切に守るよう心から望みます。

バチカンより
2018年9月1日

フランシスコ


(カトリック中央協議会事務局訳)

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