教皇フランシスコ、2019年4月3日一般謁見演説 モロッコへの司牧訪問

 

教皇フランシスコ、2019年3月27日一般謁見演説
モロッコへの司牧訪問

モロッコ司牧訪問を振り返って

 愛する兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。

 先週の土曜日と日曜日、わたしは国王ムハンマド六世の招きを受けて、モロッコを司牧訪問しました。わたしを温かく迎え入れ、協力してくださったモロッコの国王と政府当局の皆さんにあらためて感謝の意を表します。とくに、兄弟として、とても友好的に、温かく接してくださった国王に深く感謝します。
 何より、今日の世界においてこの司牧訪問のモットーでもある「希望の従事者」となるために、ムスリムの兄弟姉妹との対話と出会いの歩みをまた一歩進める機会を与えてくださった主に感謝します。今回の訪問は、二人の聖人、アッシジの聖フランシスコとヨハネ・パウロ二世の足跡をたどるものでした。八百年前、フランシスコは平和と兄弟愛のメッセージをスルターン・アル=マリク・アル=カーミルに伝えました。教皇ヴォイティワ(ヨハネ・パウロ二世)は、モロッコ国王ハッサン二世をイスラーム国家の元首として初めてバチカンに招いた後、一九八五年に記念すべきモロッコへの司牧訪問を行いました。でも、なぜ教皇はカトリック信者だけではなくムスリムのもとにも行くのだろうと、疑問に思う人もいることでしょう。それは、多くの宗教があるからです。なぜ多くの宗教があるのでしょう。いったいどうしてさまざまな宗教があるのでしょうか。ムスリムと同様、わたしたちも同じ父祖アブラハムの子孫です。なぜ神は、多くの宗教を存在させておられるのでしょう。神はそれを、可とするよう望まれたのです。スコラ神学者は、神の寛容なみ旨に言及してきました。神は、多くの宗教が存在するという現実を容認なさろうとしました。一部、文化から生じた宗教もありますが、どの宗教も天に目を向け、神を仰ぎ見ています。けれども神が望んでおられるのは、わたしたちの間の兄弟愛です。とりわけ、この司牧訪問の目的である、わたしたちと同じアブラハムの子孫であるわたしたちの兄弟姉妹、ムスリムとの兄弟愛です。相違を恐れてはなりません。神はそのことを認めておられます。むしろ、人生をともに歩むために、兄弟愛をもって働けるかどうかを心配すべきです。
 希望に従事するとは、現代のような時代においては何よりも、文明の間に架け橋を築くことです。モロッコの国民と指導者にお会いすることで、その高潔な王国とともにそれに貢献できることはうれしく、光栄なことでした。ここ数年間にモロッコで行われたいくつもの重要な国際会議のことを思い起こしつつ、わたしたちは、人間の尊厳を守り、平和、正義、そしてわたしたちの共通の家である被造物の保護を促進するために、宗教が重要な役割を果たすことを国王ムハマンド六世とともに再確認しました。こうした観点からわたしと国王は、聖都エルサレムを、人類の遺産、そして平和的な出会いの場として、とくに、三大一神教の信者にとっての出会いの場として保持するために、「エルサレム声明」に共同で署名しました。
 わたしはムハンマド五世廟を訪れ、このかたと、ハサン二世の功績に敬意を表しました。それから、イマーム(イスラーム指導者)と説教師の養成を目的とした、ムハンマド五世イスラーム研究所を訪れました。この研究所は、他宗教を尊重し、暴力と原理主義を拒否するイスラームの促進を図っています。わたしたちは皆、兄弟姉妹であり、兄弟愛のために働かなければならないということを強調しているのです。
 わたしは、政府関係者との会談でも、移民の皆さんとの会合においてはとりわけ、移民の問題にとくに注力しました。その会合では数名が、移住者の生活が変わり、人として迎え入れてくれる共同体と出会ったときに、人間らしさを取り戻せることを証言してくれました。これは、根幹にかかわる重要なことです。昨年十二月、「安全で秩序ある正規移住のためのグローバル・コンパクト」が採択されたのは、まさにモロッコのマラケシュにおいてでした。これは国際社会にとって、責任を担っていくための重要な一歩でした。聖座としてのわたしたちの貢献は、四つの動詞に要約できます。すなわち、移住者を受け入れること、移住者を保護すること、移住者の地位を向上させること、移住者と共生することです。それは、優れた福祉プログラムうんぬんではなく、この四つの行動を通してともに旅することを問題としています。それぞれの文化と宗教的アイデンティティを保ちつつ、相違に対して開放的で、人類兄弟愛のしるしのもとに高め合える町、国を築くことができるのです。モロッコの教会は、移住者に寄り添うために尽力しています。わたしは「移住者」と呼ぶのが好きではありません。むしろ「移住している人」というのがいいと思います。なぜだか分かりますか。「移住者」は形容詞の名詞化ですが、「人」という語はもともと名詞です。わたしたちは形容詞文化に落ちてしまいました。多くの形容詞を使い、名詞、すなわち実体を忘れがちです。形容詞は必ず名詞に、個に、結びつくものです。だから「移住している人」なのです。こうすればそこには敬意がありますし、あまりに液体のようで、あまりに「気泡」のような、形容詞文化に陥ることもありません。モロッコにある教会は、先ほど申し上げたように、移住した人に寄り添うべく尽力しています。ですからわたしは、「よそ者であったときに宿を貸し」(マタイ25・35[聖書協会共同訳])というキリストのことばを実践するその務めを通して、惜しみなく尽くす人々に、感謝と励ましのことばを送りたいと思いました。
 日曜日は、キリスト教共同体のために充てました。まず、ここバチカンのサンタマルタの診療所や小児応急クリニックを運営している、聖ビンセンシオ・ア・パウロの愛徳姉妹会が運営する農村社会福祉センターを訪れました。そのシスターたちは大勢のボランティアと協力しながら、さまざまなサービスを住民に提供しています。
 ラバトのカテドラルでは、司祭、修道者、そして世界教会協議会(WCC)のメンバーらと会いました。モロッコの信者は少数ですが、だからこそわたしは、塩と光とパン種のたとえの福音(マタイ5・13―16、13・33参照)を思い起こし、謁見の冒頭で朗読したのです。肝心なのは量でなく、塩に味があるか、光は輝いているか、そしてパン種に生地全体を膨らませる力があるかどうかです。それはわたしたちではなく、神によって、聖霊によってもたらされるものです。聖霊はわたしたちを、どこにあっても、対話的で友情のあるしかたで、とりわけわたしたちキリスト者どうしで、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13・35)とのイエスのことばを実践することで、キリストのあかし人にしてくれます。
 教会の交わりの喜びは、首都ラバトのスポーツ競技場でのミサにおいて、その原点と最高の表現を見いだしました。会場はその喜びで満たされました。六十もの国から数千人が集まりました。イスラームの国の中心で、神の民が独自のかたちで存在を示したのです。いつくしみ深い父親のたとえは、神の計画の美をわたしたちのただ中で輝かせました。御父はご自分のすべての子らを、ご自身の喜びにあずからせ、ゆるしと和解の宴に参加させたいと望んでおられます。御父のあわれみが自分には必要だと自覚している人と、兄弟姉妹が家に戻ったときに御父とともに喜ぶことのできる人が加わる宴です。ムスリムが、恵みに満ちた神、あわれみ深い神に、毎日祈りをささげる地に、あわれみ深い御父の優れたたとえが響きわたったのは、偶然ではありません。そうです。この世界の希望の従事者となれるのは、御父のみ腕に抱かれ新たに生まれて生きる人のみ、自分たちを兄弟姉妹だと感じている人のみなのです。

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