「カトリック情報ハンドブック2022」巻頭特集

「カトリック情報ハンドブック2022」 に掲載された巻頭特集の全文をお読みいただけます。 ※最新号はこちらから 巻頭特集「苦しむ人、悲しみにある人に寄り添う」 カトリック中央協議会出版部・編  昨年のこの巻頭特集では、回 […]


「カトリック情報ハンドブック2022」
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巻頭特集「苦しむ人、悲しみにある人に寄り添う」

カトリック中央協議会出版部・編

 昨年のこの巻頭特集では、回勅『ラウダート・シ』公布5周年にあたって、環境問題をテーマとしました。そのリード文は、コロナ禍についての記述で書き起こされています。
 それから1年が過ぎた今、昨年同様にコロナ禍に触れて筆を起こさなければならなくなることなど、いったいだれが予想しえたでしょうか。2021年9月初旬現在、東京は4回目の緊急事態宣言下にあります。これを耐えれば光が見えるはず、だから我慢して頑張ろう―。そんな願いは何度も打ち砕かれました。耐えてはきたけれど状況が一向に好転しない、そのことであきらめや自暴自棄にとらわれたり、他者に対して過剰に攻撃的になったり、感覚が麻痺してリスクを大したことではないと思い込むようになったり……、そんなふうになってしまった人も少なくありません。
 そうした中、社会の周縁にある弱い立場の人たちは、いっそうの苦しみを背負わされることになっています。社会に機能不全が発生したとき、そのしわ寄せは、まず弱者のもとに押し寄せるのです。
 2020年10月に、教皇フランシスコは回勅『兄弟の皆さん』を公布しました。これは、イスラームのグランド・イマーム(指導者)、アフマド・アル・タイーブ師との対話から刺激を受け執筆された、兄弟愛と社会的友愛に関する社会回勅です。教皇がこの回勅を執筆中に、新型コロナウイルス感染症のパンデミックが起こりました。教皇はそれに触れ、混乱と危機の中で、「わたしたちの誤った安全が露呈されました。各国がばらばらな対応をしただけでなく、共同で行動できないことも明らかになりました。密接に関係し合うものであるにもかかわらず、わたしたち全員に影響する問題の解決をいっそう困難にする分裂がありました」(回勅『兄弟の皆さん』7)と述べています。「問題の解決をいっそう困難にする分裂」、それは、他者を顧みない利己主義によってもたらされたものです。この箇所では、国際関係における国レベルでのエゴイズムが問題とされているのですが、そのような分裂は、人間社会におけるあらゆるレベルに存在するものです。コロナウイルスの感染拡大は、そうした人間社会の闇を、目に見えるものとしてわたしたちに突きつけたのです。
 こうしたことを踏まえ、今回の特集では、社会の中で弱い立場に置かれ、苦しんでいる人、悲しみにある人に寄り添い、励まし、そうした人たちとのつながりを構築するとともに、具体的な相談や支援のために活動する司祭、修道者に、ご自分の思いや経験を書いていただきました。
 コロナ禍が図らずも浮き彫りにした闇を真摯に見つめ、利己主義による分裂を超えて、だれをも排除することなく皆と手を取り合って前に進む社会を実現するため、わたしたちは具体的に行動していかなければなりません。皆さんが抱いている何かをしなければという思い、その具体化に、本特集がお役に立てばと願っています。


 最初はフランシスコ会司祭、本田哲郎師です。『小さくされた者の側に立つ神』(新世社)、『抑圧された者の側に立つ神』(オリエンス宗教研究所)、『釜ケ崎と福音――神は貧しく小さくされた者と共に』(岩波書店)など、多数の著書のある本田神父の活動は多くのかたがご存じのことと思います。大阪釜ヶ崎で日雇い労働者のために長く活動し、社会福祉法人聖フランシスコ会ふるさとの家にかかわり、釜ヶ崎反失業連絡会の共同代表も務めておられます。
 本田神父には、コロナ禍にあって釜ヶ崎で生じている問題とその解決とを簡単につづっていただきました。


 8月9日は早朝から「長崎の鐘」がラジオから流れていました。長崎原爆投下の日だと気を改めました。終戦から3か月後に営まれた浦上教会の合同慰霊祭で、信徒代表として永井隆博士が読まれた弔辞の中で、すべては神の摂理(計画)として受けとめるしかない、という思いが語られたそうですが、その悲しみとあきらめが、そのまま写し出されたような歌になっています。
 その3日前、8月6日には、広島に原爆が投下されています。後日、広島で行われた平和記念行事で宣言されたヨハネ・パウロⅡ世教皇の平和メッセージは、「戦争は人間のしわざです」をくりかえしました。とても大事な受けとめと思います。
 釜ヶ崎では、コロナ禍の中で、活動する仲間たちが、けんめいに頑張りました。「特別定額給付金」のことと「ワクチン接種」を、住民票をもたない人たちにも希望する人みんなに行きわたるようにすることができました。
 国の事業はすべて住民票にもとづいてなされます。しかし、住民票を設定できる状況がととのえられない人たちもいます。日やとい労働の人たちは、その多くが建設現場が仕事先で、たいていは現場近くに仮設される「飯場」で暮らすので、そこに住民票を取り寄せることは困難(法的にも)です。釜ヶ崎のような「寄せ場」と言われるようなところには、「ドヤ」と呼ばれるその日払いの泊まるだけの簡易宿泊所(ホテルもどき)がかなりありますが、通常、そういうところに住民票をおくことは認めてもらえません。
 数年前、実際に起こったことですが、1000名を超える労働者が釜ヶ崎内のとある事務所に住民票をおかしてもらっていたことがありましたが、「住居実体がない」ということで職権消除(編集注=市区町村の職務に基づく権限により住民票を消除すること)されています。結果、選挙の投票用紙も手にすることができませんでした。
 釜ヶ崎には「シェルター」(無料宿泊所)があり、現在、コロナ禍による「密をさける」ためにベッド数を大はばに減らし、120名の人が利用しています。はみ出された人の中から、高齢の順に、地域内にあるドヤを36名分借り切って、シェルターの延長の形で活用しています。
 シェルター運営にたずさわる仲間たちが走りまわり、行政と話合い、病院関係者たちとも話をつめ、このシェルターの利用者という位置づけで、何とか希望者は給付金もワクチンも受けられるようになりました。シェルター利用者の70%の人がワクチン接種をすますことができたようです。
 そのほか、わたしたちと連携するいくつもの活動グループが協力してくれています。コロナ禍でやとい止めにあった人たちの心をいたわる若手の仲間たちの中からクラウドファンディングが立ち上げられ、仮りの住まい確保に成果をあげています。わたしたちが関わる支援機構(NPO)の窓口相談件数がこれまでの1.5倍になっているようです。
 釜ヶ崎に住むようになって30年がすぎましたが、ここで学ぶ聖書の大事なことの一つは、「キリストは必ず人の手をとおして働かれる」ということです。


 お二人目は、援助修道会のシスター林義子です。シスターは、自殺予防のための電話相談の運動である「いのちの電話」に、その設立時から携わってこられました。「いのちの電話」は1951年に英国で始まった活動が元になり、シスターの文章にあるとおり、プロテスタントのドイツ人女性宣教師ルツ・ヘットカンプ氏を中心に準備され、1971年に東京で開始されました。
 シスターには、いのちを守るさまざまな活動とのかかわりに満ちた半生を振り返っていただきました。


すべてのいのちを守るために

教皇フランシスコの訪日
 日本のカトリック教会は、2019年11月、念願の教皇フランシスコの日本訪問を実現させました。同年11月23日の到着から、教皇は分刻みで予定をこなしておられました。
 私は幸いにして、東京ドームのミサに参加することができました。ミサの前には私たちの立ち位置より少し高めのパパモービルに乗り、教皇は参加者へ挨拶をすべく広大なドームを回りながら、両親に抱えられた赤ちゃんを抱きあげ、祝福しました。そのたびに群衆の歓声の轟音が湧き起こった瞬間を、私は今も忘れられません。
 そのほかに、教皇は、いじめに苦しんでいる少年、そして若者たちのグループ、また、東日本大震災の被災者、原爆被爆者等の方々と、親しい交わりをなさったそうです。
 記者会見の際、一人の記者に「今回の旅の目的は何ですか?」と問われ、教皇は「すべてのいのちを守るため」とおっしゃられました。私は教皇が訪日の目的に、苦しんでいる人や忘れられている人のいのちを選ばれたことに、大変驚きました。日本に住んでいる私たちが一つの大きな問いを投げかけられたのだ、と思いました。
 教皇のご訪問から、すでに2年が経ちました。この間、教皇から頂いた「日本のすべてのいのちを守ってください」というメッセージを、どのように守ればよいかを考えても、私には答えが出てきませんでした。そのような時にカトリック中央協議会から、「日本社会の問題をテーマに何か書くように」とのお誘いを受け、(これからは私が一人で悩んでいるだけではなく、より多くの人と、より多くのいのちを守ることができるのではないか)と感じ、今までの私の体験と願いを、ここでわかちあいたく思います。

ヘットカンプさんとの出会い
 私は幼児洗礼で、子どもの頃、フランス人の神父さまに「お前たちをいつも神様が背中から守っているんだよ」と言われて育ってきたため、特別に「いのち」について意識したり、考えたりすることなく生きてきました。成人してからは、もっぱら「人間」という存在に関心を持っています。
 ある日、東京でボランティアによる電話相談をすることを考えていたプロテスタントのドイツ人宣教師ルツ・ヘットカンプさんに長野・軽井沢の道で出会いました。大学院の卒業を控えていた私は(何か社会にかかわることがしたい)と思っていたため、彼女に協力を申し出ました。それが今年、設立50周年を迎える「いのちの電話」でした。周囲からは「無理じゃない?」「経済的にも難しいのでは?」と言われた中での創設でしたが、たくさんの人の協力を得て、1971年10月、東京で「いのちの電話」のベルが鳴り始め、24時間眠らぬ電話の活動は、今日まで続いています。私は創立前から手伝っていましたが、開局後は事務局職員として、あらゆることにかかわっていました。この電話相談事業には「いのちの電話」という名称が選ばれました。私には正直、関心の湧かないネーミングでしたが、今では「生きるための、いのちとしての重み」を強く感じており、とても適した名前であると思っています。

「いのちの電話」の始まり
 「いのちの電話」が始動した時、夜中の電話担当者がいなかったため、私がかかってくる電話に出ていました。ある日のこと、電話の主は高齢の女性でした。とても丁寧な声でゆっくりと、「今日は一日中、誰とも話さないで寝ますが、どうしても寂しくて眠れないの」と話し始められました。「じゃあ、お話ししましょう」「けれども、もうあなたさまの声を聴いたので眠れます。ありがとう」。そう言うと、その方は電話を切りました。私はしばらく席を離れられず、彼女が目の前にいるような気がして、座っていました。わずか2、3分の電話が、彼女と私を絵のごとく結び付けたのでした。私は一本の電話を受けたのではなく、彼女とまさに対面したのです。そして、彼女を通して、老人の孤独の深さを知りました。
 「いのちの電話」は創立時から、受話器を置くと、すぐに次の電話がかかってくる状態が続いていました。ある夜、私が電話を取ると、地方訛りの強い、中学生らしき男の子からでした。前日の夕方、東北からの汽車で上野駅に着いたばかり、とのことでした。東京の建築ラッシュの労働力として、東北地方の男子を集団で送ってほしい旨の国からの要請があり、彼も中学校を卒業後に上京した少年たちの一人でした。まったく未知の世界に連れてこられたことを、一生懸命に説明してくれました。人がいっぱい動いている上野駅、人々が話しているけれども意味がさっぱりわからないこと、今は寝る時間なのに眠れず、家のことを思い出して寂しい、早く帰りたい、と訴えていました。この電話に、私は繁栄しつつある日本社会の発展の陰で負担を背負わされる少年たちのことを憂いながら、彼はこの経験から何を得ていくのだろう、などと考えさせられました。

ボランティアによる電話相談
 「いのちの電話」は、専門家ではなく普通の人、「自分から積極的にかかわっていきたい」と願って活動の最前線にいるボランティアによって支えられています。ボランティアは日常生活の中で起きる悩みや相談などを受話器を通して聴きます。人のいのちとかかわる責任を、ボランティア自身が取ることを約束して従事しています。組織としての「いのちの電話」は、国から法人格を頂いている社会福祉法人です。先ほどのような中学校を卒業して上京した少年たちが、国の労働力として派遣される現実などに違和感を覚えながらも、私たちは電話相談が社会に拡がっていくさまを学ぶ日々でした。
 事務局のオフィスは、電話担当の交代を待っているボランティアや、毎月一回必須とされる研修を受けるために訪れるボランティアたちで賑わいをみせ、人の出入りが多くあります。そのような喧騒の中でも、一番奥にある電話室にボランティアたちはそれとなく気を配っており、「いのちの電話」特有の雰囲気を醸し出しています。

すべてのいのちに向けて
 私は開局以来、専任の職員としてあらゆる部分に顔を出していましたが、2、3年経つと、「いのちの電話」にかかってくる電話の年齢層や訴えの内容について、大まかにつかめるようになりました。もし、「どのような内容でかかってくるのですか?」と質問されたとすれば、「あること・ないこと・みんな」という一言で答えるでしょう。統計を出すために分類するならば、次のようになります。
 女性よりも男性が多い。男女ともおもな内容は、生き方・家族・孤独・暴力・介護・育児・家出・男女の性・対人・友人・教育・経済・法律の問題など。あらためて考えると、「いのちの電話」は「すべてのいのち」に使命があるのだ、と感じます。もちろん、いたずら電話や個人的な欲求を満たすためにかけてくる場合もありますが、長電話も含めて、各電話は担当者の判断で対応することになっています。再度の電話が必要な場合でも一回切ってから、かけ直してもらいます。それは「いのちの電話」の条件の一つ、「一期一会」を大切にしているからです。電話をかける側も受ける側も、どちらも名乗りません。また、秘密保持は絶対です。
 最初に創立された「東京いのちの電話」に続き、まもなく「いのちの電話」は他県にも拡がりを見せ、ほとんどの都道府県に「いのちの電話」は設立されました。現在は「日本いのちの電話連盟」として、同じ精神で活動しています。また外国にも名称はそれぞれ違いますが、同様の主旨で運営されている電話相談の組織があります。世界初のボランティアによる電話相談事業は、イギリスのチャド・バラー牧師による「サマリタンズ(よき隣人)」です。彼によってフランス・イタリアなどのヨーロッパ、オーストラリア等に広まり、現在も活動しています。

高度経済成長期の日本で
 「いのちの電話」が創立された1971年、その時代の日本はどうであったのかを説明するためには、どうしてもそれ以前の社会情勢について触れなければなりません。日本は第二次世界大戦に敗戦後、すべてがゼロとなりました。平和と真の豊かさを取り戻したい、という願いを実現させるために、まず労働力と経済成長を軸として、人々は必死に働きました。国の方針もあり、男性は無論、これまで家庭の中にいた女性たちも、外に出て給料を得るようになりました。その結果、三種の神器と呼ばれた洗濯機、冷蔵庫、電気掃除機を買うことができ、それは大喜びだったようです。テレビの出現も大きな影響を与えました。
 池田勇人内閣の所得倍増計画の影響が経済面には大きかったと思われ、マイカーの数も増え、大企業の合併も頻繁に行われました。1964年には東京オリンピック、そして1970年には大阪万国博覧会が開催され、翌年には沖縄返還協定が交わされました。NHK総合テレビジョンの全時間カラー化も実現しました。
 新しい国になるために莫大なエネルギーを費やしていることを、ようやく日本全体が思い巡らす必要性を感じ始めていました。

発展する経済大国における闇
 1971年10月1日、「いのちの電話」は初めての電話相談を受け、それから毎日、眠らぬダイヤルとして相談を受け続けています。50歳になる2021年10月1日まで、一体どのくらいの数になることでしょう。創立時のままの場所で、創立時のままのコンクリートのビルの一部で、今も運営を続けています。それゆえに、私が久しぶりに訪ねても変わることなく、古巣に戻った歓びがあります。しかしながら、肝心の電話相談に関しては重い内容が増えているようです。1980年代からは自死など、いのちにかかわる重篤な電話が多い、とのことでした。
 すでに1960年代末には、日本の国民総生産(GNP)はアメリカに次いで世界2位となり、諸外国を驚かせました。あの凄まじい敗戦を体験した日本国民にとっては、毎日毎日、連帯して働けば新しい日本の希望は約束される、という未来への確信があったのだと思います。
 しかし一方で、鍵っ子(両親が不在)や孤食(一人で食べる)など、子どもにまつわる諸問題が増えたり、テレビに夢中になって互いに話すことが減ったりするなど、核家族の問題が起きていました。
 1980~90年代、日本経済は世界から注目される絶好調の成長を遂げていきました。その実現のために働く人々は自分の役割を果たしていくことはできたでしょうが、そのリズムやスピードについていけない人も出てきて、長期休職や失業に追い込まれることもありました。やがて社会的な犯罪が増えてきて、一般市民が巻き込まれる事件も起こりました。私は「いのちの電話」の事務局で、毎日受けた電話内容をまとめた記録を読んでいましたが、中学校で起きている校内暴力のありさまを知り、マスメディアでの報道などでも情報を集めていました。学校は、登校拒否から家庭内暴力、校内暴力、学校閉鎖といったつながりを見せていました。次々と熾烈化する状況に、私は(早く終息してほしい)と祈るばかりでした。

危機にさらされるいのち
 都会では、リストラで職を失った人やホームレスが、生活の拠点として公園や川辺の空き地にブルーシートを広げ、寝食を取るようになっていました。また、このような人々をからかったり、追い出したりする若者たちも出てきて、安全な環境が損なわれ、無秩序になった地域もありました。警察は、増加する暴走族の全国一斉取り締まりを実施していました。このような環境で影響を受けるのは若い人たちです。そうした出来事が起こると、マスコミが現場に駆けつけて報道します。それによって、一般市民は起こっていることを知り、考えます。もちろん、以前もそのような報道はなされていたでしょうが、1980~90年代にかけて起こった数々の報道内容はより重く、複雑で、「あってはならない」と思うような出来事が取り上げられていました。その多くが、いのちにかかわる「あってはならない」ことでした。
 私たちはいのちこそが、何よりも価値が重く、決して殺されたり、傷つけられたりしてはならないことを知っています。しかしながら、その大切さが忘れられてしまうことも、日常生活では事実でしょう。度重なる自然災害に遭われた方々を思うと、たまらない気持ちになります。それでも、月日が過ぎると、記憶から離れていく自分もいるのです。
 私たちはすべて、いのちとして生まれてきました。そのいのちによって、毎日生きることができています。本来、人は自分で死ぬことはできません。たった一つのいのちを頂いて生き切ること、それが私たちのいのちです。私たちには生きることを大切にする責任があるのです。いのちは危ういものであり、そのいのちを守ることを私たちは学ばなければなりません。「いのちとは何か?」「なぜ最も価値あるものなのか?」「なぜ尊いのか?」。いのちに対しては、自分のみならず未知な人のいのちをも、自分のこととして感じとることが必要です。
 教皇フランシスコから訪日の目的として「すべてのいのちを守るため」という言葉を頂いて、「はたして今、日本でいのちが守られているだろうか?」と考える時、私は(「はい」とは言えないだろう)と感じています。戦後から今日に至るまでの日本社会は、人を労働や生産の動力のようにとらえており、その成果として華々しい経済成長がありました。

フランスへの移住
 1990年に入り、私は修道会の派遣要請を受けて、フランスへ行くことになりました。創立20年を迎えていた「東京いのちの電話」はボランティアの誠意により、与えられた使命をしっかり果たせるようになっていました。私は(安心して組織を離れることができる)と感じましたが、それでも20年間、共に汗をかいてきたボランティアの人たちとの別れはとても寂しいものでした。
 会議のためにパリに滞在したことはありましたが、フランスでの生活は初めてでした。フランス人との暮らしを想像すると、緊張で胸がドキドキしました。最初は、新しく入学したばかりの1年生のように振る舞っていましたが、慣れてくると、フランス人の感受性、特に他者の心をとても大切にする国民性に気づきました。それは人が人を「いのち」として受け取っている姿でした。私がパリに着いた時、フランスにあまり明るい印象を持ちませんでした。それは当時のフランス政府高官の自殺のニュースがあったからかもしれません。詳細はわかりませんが、フランス人がみな、この悲しい出来事に心を合わせて祈っていることを感じました。
 私が胸をときめかせながらド・ゴール空港に降り立った日。迎えを待つ間に、売店で日本人向けの新聞を見つけました。そこには朝日新聞パリ支局での勤務が終わる記者の、挨拶の記事が掲載されており、次のようなことが書かれていました。
 「今、日本から優秀な若い人が送られてくるが、とても残念なことは、彼らが今の日本がどれほど豊かになっているかをフランス人の友人に話し、日本人の友人にはフランス人の悪口を平気で語っている、ということだ。フランスでの生活が君たちにとって難しいことであっても、もっと肯定的に表現することを勧めたい。それによって、フランスでの生活は異なってくると思う」
 フランスでの生活で、私も同じような思いを抱きました。実際、私がパリの美容院に行った時、大きな声でフランス人のことを悪く言う若い日本人に出くわし、残念に思ったものでした。

アフリカを訪れて
 私は日本で課せられた仕事や生活とは一変して、パリ在住のかたわら、自分の修道会の会員シスターたちが活動している東西南北のさまざまな国や地域を訪れるようになりました。現地で働いている会員の生活を見ることと、各地の現状把握が目的でした。滞在は、遠方は1カ月ほど、他は1、2週間くらいでした。多くの場所を訪ねましたが、今なお心に刻まれている場所はアフリカ諸国です。貧困と内戦の中でも、子どもたちの輝く姿が忘れられません。目をキラキラさせていて元気いっぱい、そして人が大好きな子どもたち。父親の古びたシャツを着ている子、ズボンだけで上半身は裸の子らが笑顔で走りまわっているのでした。この子たちの存在は、きっと大人たちにとって生活の厳しさや困難、苦しみや悲しみなどを乗り越える力や希望になっていることだろう、と感じたものでした。
 アフリカのある国で、私たちは現地の会員の家に招かれました。彼女の父親は村の責任者で、私たちは丁寧なもてなしを受けました。そこに、彼女の姉が赤ちゃんを抱っこして来られました。ふと赤ちゃんをみると、その両目にはたくさんのハエがたかっていました。私たちが赤ちゃんを案じて見つめていると、祖父である彼女の父親が「この辺りでは医者がいないので、困っているのです」と言いました。パリから来た私たちはショックを受けて、「お薬はないのですか?」とうかがうと、「病院も薬もありません」。もはや何もできない貧困の中で、あの家族はお互いを気遣いながら生きているのでした。私たちが訪問してから数十年が経ちましたが、医療が行き届いていることを願うばかりです。

ある少女の質問
 南米は自然資源に恵まれた国が多く、日本とも様々な分野で交流があります。国によっては、資源にまつわる権利闘争がいつまでも続いている危険な地域があります。そのため、入国に複雑な手続きを求められたり、路上を歩く時も地面に手をつけて腰を低くして歩き、いつ来るかわからない銃弾から身を守ったりしなければなりません。権利争いが内乱となっている場所で、一番犠牲になるのが一般市民です。厳しい環境に置かれている人々がいること、いのちの危機が起きていることを、私たちは忘れてはならない、と自戒を込めて思います。
 南米諸国を訪れた時のこと、集会を催すために現地の方の広い部屋をお借りしました。そこでは24時間体制の警備員を常駐させており、庭の一角には警備員家族のための家がありました。私たちは安心して集まりをして、休憩時には庭に出て歓談していました。すると、可愛らしい5歳くらいの女の子が近寄ってきて、私たちの輪の中に入りました。女の子は私に、「どこから来たの?」と聞いてきました。私は「私のお家は東京にあるのよ」と言うと、「東京はどこにあるの? どのように行くの?」、「そうね、東京はここの下をずーっと行くと、着くかしら」と私が応じると、彼女は真剣な顔をして、「東京にはバイオレンスはないの?」と問うてきました。私は、このような小さな子が「バイオレンス(暴力・暴行)」という言葉を口にして、その意味を知っている、ということに言葉を失いました。会員が教えてくれたことには、この国のバイオレンスがひどくなっており、一般市民を巻き込んで銃撃戦になったり、暴徒が家に入り込んできて、家人、特にその家の主人に暴行を加えたりして、子どもたちはさまざまな惨状を目撃しているそうです。子どもたちの心を思うと、私は胸が張り裂けそうでした。「東京にはバイオレンスはないの?」と言った女の子は、警備員の仕事をしているパパが無事に帰宅するまで、じっと待っている、ということでした。(パパのいのちが守られるよう、神様に祈る日々なのだろう)と、無垢な女の子の姿を、私は悲しく見つめたのでした。

清潔で安全な日本
 2002年春、私は派遣の任を終えて、東京に戻ってきました。数日後、ベッドの中で早朝の通勤電車の音を聞いて、(ああ、東京にいるんだ)と思ったものでしたが、それ以外は異動したことの変化を感じませんでした。しかし、日が経つにつれて、日本と外国とを比べている自分に気づき、意識するようになりました。比較がわるいわけではなく、それによって双方をより深く理解することができるのです。自国である日本への問いかけとして考えていきたい、と常日頃より思っています。
 帰国早々、最も感じたことは、東京という大都市の衛生面と安全性についてでした。特に、公衆トイレの清潔さは驚くばかりでした。ふと、私はアフリカで出会った赤ちゃんの目にハエがたかるさまを思い出しました。私が訪れたアフリカの村では、朝、子どもが泣いているような声が聞こえます。思わず、現地の会員に「あの声は何?」とたずねると、「水を売りに来たロバよ」とのことでした。日本では蛇口をひねれば当たり前のように出る清潔な水も、その村ではロバの背に載せられて運ばれてくるのです。
 安全面でも、日本では住んでいる人々はもちろんのこと、外から一時的に入国する人たちの安全さえも保障されており、治安の良さを痛感しました。そして、あらためて日本の食の豊富さにも驚きました。あらゆる食材が国内外から手に入り、世界中の料理が味わえます。「清潔さ」「安全」「食の豊かさ」は当たり前のことではなく、世界には、そのような環境には恵まれない国や地域があり、そこに住む人々がいるということを忘れてはならない、とつくづく思います。

日本のいのちの危機を知って
 帰国後は早速、「東京いのちの電話」の事務局へ挨拶に伺いました。場所は以前と同じでしたが、12年の時を経て、事務局スタッフの顔ぶれはほとんど変わっていました。通常、ボランティアには定年制がありますが、定年後も許可を得て、働き続けることが可能です。私は4年間、理事としてお手伝いしました。私がかかわっていた時代とは電話相談の内容が変わったようで、ベテランのボランティアは「内容が複雑で、重い感じがする」と語っていました。旧文部省はいじめによる自殺の予防対策を行っていましたが、子どもが自らいのちを絶つケースが続いていました。
 私がパリにいた頃、日本では一人ひとりのいのちを揺るがす多くの出来事がありました。天災(1995年の阪神淡路大震災)、事件(1995年のオウム真理教による地下鉄サリン、2001年の大阪教育大附属池田小学校児童殺傷)など、子どもを含む多くの人の尊いいのちが奪われることに、私は無念さと憤りを感じたものでした。日本から送られてくる新聞を必死に読んだことを思い出します。帰国してからも、一般市民のいのちを奪った事件(2008年の秋葉原無差別殺傷など)に胸を痛めました。
 このような事件が連続的に起きている背景は、一体何でしょうか。なぜ人は死にたくなり、なぜ人はいのちを奪うのか。たくさんのいのちが失われていくことに、自問自答を続けています。悲しい出来事に対して、「仕方がない」「考えないほうがよい」「個人の問題だ」などとみる風潮もありますが、(はたして、そうなのだろうか?)と、私は思っています。
 ある雨の日の夕方、地下鉄永田町駅のエスカレーターで、渋谷方面に乗り換える人々が下から上がっていく様子を、私は隣のホームから眺めていました。ビジネスマンたちが、同じようなスーツ姿に同じような鞄と傘を下げ、無言で視線を落とす姿に、思わず目を奪われました。まるで迷った羊の群れが牧者に連れられて歩いている光景に、私には見えたのでした。この光景は幻影にすぎないのかもしれませんが、日本におけるいのちの危機を、なぜか肌で感じた出来事でした。

手を差し伸べることの豊かさ
 日本は高度経済成長を成し遂げ、平和であることが当たり前となり、物質的な豊かさを享受してきました。しかし、その陰には大きな犠牲も払われてきたことでしょう。時間外労働、休日出勤など、過重労働で疲弊した働く人々、また、さまざまなハラスメントに苦しむ人々の姿が報道されています。子どもたちの心に深い傷を残すような暴力やいじめ、一般市民が巻き込まれるような事件や事故に、私たちはショックを覚えます。最初は一人で考えたり、また他の人と話したりするものですが、時間が経つにつれて忘れてしまい、誰かが助けを求めていることがわかっていても、見て見ぬふりをしてしまいがちです。私たちは聖書の中にある「サマリア人(よき隣人)」でありながらも、実際には助けを必要としている人を見ても、声をかけたり、手を差し伸べたりできないことがあります。(何かしなければ)と思いつつも、その場を立ち去ることもあるでしょう。しかし、悲しく、痛ましい出来事のある社会に、私たちは生きています。自分のみに意識を向けるのではなく、助けを必要としている人に対して、実際の行動を起こすことが求められている、と強く感じます。
 最近、テレビで放送されたことですが、小学校3年生くらいの女の子が朝、バスを待っていると、前に目の不自由な男性が白杖を手にして立っていたそうです。やがて、バスが来たことを知った少女は、「バスが来たよ!」と男性に告げました。バスの扉が開き、男性が乗るために足を踏み出した時、少女はそっと男性の背中に手を添えて、ゆっくりと押しました。その少女の気遣いで、男性は安全にバスに乗り込むことができ、続いて少女も乗ると、バスは発車したそうです。男性は、少女の手の温かさと優しさがどれほど嬉しかったかを、番組の中で語っていました。

いのちを大切に
 2020年から蔓延している新型コロナウイルスは、私たちの日常生活を変えるほどの影響を与えています。感染予防対策の一つとして、社会的距離間(ソーシャルディスタンス)が挙げられています。もちろん大切なことであり、実行されなければなりませんが、私たちの生活が分裂や分断を起こすかかわりとなってしまいがちです。本来、人のいのちの世界とは、つながりと心の世界です。私たちの心には、誰かが苦しんでいる姿を見て、「かわいそう!」「助けなければ!」と、心が動かされる瞬間があるはずです。すべての人、すなわち、すべてのいのちが叫ぶ時、とっさに助けに動けるかどうか、それを選ぶのは私たちのいのちである、と私は考えます。いのちが選べば、そのための行動に入るでしょうが、いのちが選ばない時もあるでしょう。その時の自分のいのちの意志、あるいは健康がかかわっているのかもしれません。大切なことは、すべての判断は本人に任せること、自分の心に問うことです。
 私たちはこの数年、激しい自然災害に遭遇しています。いずれも多数の犠牲者を出し、甚大な被害をもたらしています。その中で、ボランティアの人々が被災地に足を運び、支援に動いています。その存在は被災した人々を励ましたり、癒したりしていることでしょう。駆けつける人々の無償の行為が被災者への光となり、復興に向けて歩む力となるのです。ボランティアの人たちは自分の心の動きに従って被災地に行き、必要とされていることに自発的に取り組んでおり、その行動は被災者のみならず、多くの人に喜びと勇気を与えます。
 今日、コロナウイルスにより、私たちの生活や働き方は変化を求められています。その現実の中で、私たちはしっかりとした価値観をもって、新しく生きることが大切です。すべての人が自分のいのち、そして他の人々のいのちの価値を重んじることができる社会を目指すことが望まれます。そのために、人とのかかわりが途切れることのない世界の実現を願ってやみません。自分のいのちはもちろんのこと、他者のいのち、特に苦しんでいる人、助けを必要としている人に心を配る社会であってほしいと、私は心より祈り続けます。


 3人目は、同じく援助修道会のシスター野本佳子です。心の問題、家庭の問題を抱える人たちの相談・支援に埼玉県婦人相談員としてかかわり、また中学や高校の不登校生の相談、人間関係の研修会などにも長らく携わって来られ、さらには東京カリタスの家の家族福祉相談室のスーパーバイザーも務められたシスターは、現在、イエズス会霊性センターせせらぎで祈りの同伴を、麹町聖イグナチオ教会では入門講座、聖書講座を担当されています。
 シスターは、家庭に関し厳しい困難を抱える中で神と出会った一人の女性の人生を紹介してくださいました。それは、愛を生きるようにという神の招きに耳を傾けることをあらためて知るための、導きともなるものです。


社会・家庭に居場所がない人たちが訪ねる教会

 現代社会の中の大きな問題の一つとして家族間問題があげられます。私は福祉関係の仕事や学校・教会の宣教・司牧活動を通して、家族から受け入れられず除外されて育ってきた人たち、心理的経済的に追い詰められて性格的に歪まざるを得なかった人、知的障碍を抱え人間の尊厳を奪われるような人生を送っている人などに出会ってきました。それは、人間とは何者か、人生とは何か、このような苦しみを負ってまで生きる意味は何かなどを、自問自答しながらの出会いでした。そして、いろいろな方々との出会いを通して、神様がその人々に私を出会わせ、神の存在と愛の深さ、人生の神秘、救いについて考えさせ、生きる意味、価値を知的理解ではなく、具体的に生身の人を通して教えていただく恵みを与えてくださっていたということに気づきます。つまり、心とからだ、魂を持った人間の救いを全人的に受け止め、関わっていくようにとの招きでした。私は福祉の場で相談業務に携わっていた時も、教会でカテキスタとして講座を持つ時も、この視点から人との関わりが求められているのを感じています。
 2019年のフランシスコ教皇様の訪日のテーマは「すべてのいのちを守るため」でした。神は誰一人として排除されない社会の実現を望んでおられるからこそ、このようなテーマを選ばれたのでしょう。これは慈しみと憐れみの神の本性から考えて言えることです。私が出会った暗闇の中にいる人が神と出会い、生きる力を得、神が現実の中で働いておられるということを益々、実感しています。私を通して語られる神のみ言葉がその方の中で癒しや力となっているのを知った私はとても驚きましたが、現代の不安と混乱・混迷の社会にとって「み言葉」が人々の平和と安心への神からのプレゼントだということを痛感しています。それについては菊地大司教様が教皇フランシスコ訪日講話集の中で、教皇フランシスコが語られた言葉について「『言葉』の背後に確固たる信念があるからこそ、その『言葉』は多くの人の心に力強く響きわたりました。教皇フランシスコの語る『言葉』の背後にある信念は、単に個人的な信念ではなく、イエス・キリストへの信仰に基づいた確信であり、だからこそ語られる『言葉』は、いのちの重さを背負った『言葉』でした」と書かれています。菊地大司教様がおっしゃる「確固たる信念」とは、イエス・キリストへの信仰を真実に生きた人が得た信念なのでしょう。困難や苦しみを乗り越えさせた神のみ言葉はその人の信念となって心の中で生き、力と喜びを与える源泉になり、それはまた他者を生かす力になっているのでしょう。日常生活をどれだけイエスのみ言葉・価値観に基づいて生きているかが問われ、それを生きる時に「信念」が育つのを感じます。
 「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく熱くもない。……なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」(ヨハネ黙示録3・15~20)。私はこの言葉にハッとさせられます。神様は人の歴史に直接介入されず、人の行為と出来事を通してご自分の思いを実現されます。神を愛すると言いながら、人との出会い、出来事への関わりが神のみ言葉からかけ離れたものであったなら、そこに神の力が働くよう願うことは自分勝手な願いになってしまいます。人との関わりになまぬるかった私は、人の叫びや苦しみを聴きとることが出来るように人に関心を持った時、慈しみと憐れみの神の思いが伝わり、イエスに助けを願いながらその人と関わりました。苦しむ人に寄り添い、悩みを聴き、共に神に助けを求める時、神が働かれるという体験をしてきました。
 “自分は見捨てられた、生きる意味がない”という人々に出会うことがよくありますが、その人と共にイエスとの関わりの中で生きる時、思いがけない展開があります。その人たちは多くの場合、幼少期に親との関係性の中で正常な愛を受けずに育った人達であり、家庭が自分を守ってくれる居場所ではなかった人たちです。イザヤ49・14~16aはその人々に癒しと力を与えます。人間の愛は親であっても限界があります。不安やトラウマから自分の子供を折檻し、虐待をしたり、育児放棄をしている親はいます。コロナ禍になってもっと増加していると思いますが、2019年度全国児童相談所相談件数によると19万4千件近くの子供たちがいろいろな形の虐待にあっているそうです。子供にとっては親から見捨てられていると感じることは人間不信につながり、生涯不安と恐怖にとらわれた人生を送らないとも限りません。その不安と恐怖の中にいる人が自分を見捨てない神の愛があることを知り、信じることが出来、今までとは違った心で人生を歩み始める様子を私は見てきました。
 私が出会ったAさんのストーリーでは、まさにイザヤの言葉が実現していました。

シオンは言う。
主はわたしを見捨てられた
わたしの主はわたしを忘れられた、と。
女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
たとえ、女たちが忘れようとも
わたしがあなたを忘れることは決してない。
見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。

 普通、子供は幼少期に親との関係の中で「自分は愛されている」「親は自分を守ってくれる存在」といった基本的信頼が確立されますが、生まれたときから親に見放されていたAさんは基本的信頼の歪みの中で育っていきました。自分も人も肯定できないAさんは親を恨み、人をも受け入れることが出来ませんでした。しかし、心の深いところで真実を求めていたAさんは、神の愛の存在を知る機会に恵まれます。神を感じる出来事を通して、神様は生まれたときから自分を見守ってくださっていたこと、自分は愛される存在だったと気づいていきます。神が人間不信から信頼へ、否定的な生き方から愛する生き方に変わるように導いてくださいました。親から見放された状況だったAさんの人生に神様が関わってくださり、見守っておられたこと、感謝のうちに今は自分の人生を送っていることをAさんは語ってくださいました。Aさんの人生の分かち合いは、神が今も生きて私たちの歴史の中で働いておられることをあかしするものです。
 Aさんの母は子供が欲しくなかったし、結婚もしたくなかったのですが、祖母のきつい攻めで望まない結婚をしました。当時は女が結婚し、子供を産むのは当然という風潮があり、このような価値観の中で結婚したのですが、最初に授かった子は、望まない子としてお腹を殴って流産し、その後、Aさんが生まれましたが、思いつかないという理由で名前をつけませんでした。隣の人が不憫に思って「聖なる美しいマリア様」という意味を含んだ名前を付けてくださいました。その方とは引っ越し等で以後、お会いしていないそうですが、おそらくカトリック信者で、名前に込められた不思議な導きでしょうか、AさんはK教会の入門講座に参加し、私と出会いました。
 講座の話を食い入るように聴き、時には涙して聞いておられるAさんに私の心が留まりましたので、講座後、話しをしましたところ、心を開いてご自分の人生を分かち合ってくださいました。
 結婚も育児も苦痛なAさんの母はいつも不機嫌で具合が悪いと言って、夏休みにどこかへ連れて行ったり、誕生日やクリスマスにプレゼントをくれるような事もなく、Aさんと妹は他の家の子より愛されない子供だったと感じていました。Aさんの父は仕事が続かず、借金の肩代わりをし、暴力をAさんに振るったりしました。母はそれを見ても見ぬふりをしていたそうです。家に帰らない父。Aさんは温かい家庭を望んでいました。18歳で家出をし、その後まもなく家出先の男性の子供を妊娠、長男を出産し、結婚をしましたが、そのような結婚がうまく行くはずもなく、まだ10代同士だった夫とは不仲。アルコール依存症の夫の暴言や暴力の日々で地獄のような結婚生活だったそうです。それでも、どうにもならないよくない環境なのに、この夫に寄り添い絶対離婚しないでいい家庭を作ると意気込んでいました。Aさんは子供たちのために耐えつつ、なぜこんな不幸になったのかと泣いて過ごす日々でした。そのAさんの嘆きと叫びを神様はずっと見、聴いていらしたのでしょう。ある日突然、Aさんの夫が失踪し、結婚生活は強制終了となりました。あの時、神様は結婚生活を強制終了という形で壊して、救い出してくださったのだと思うとAさんは語ります。実際に愛のない結婚生活は強制終了したけれども、これは苦しいAさんの心と生活を救うための神様の配慮であり、この不幸な結婚生活から出て、温かい家庭を築くようにという神の導きだったのだと、講座の話(出エジプト記)からAさんは感じたそうです。
 帰る家がなく、親からネグレクトされて思い出すことが辛い子供時代、また、暴力と暴言、アルコール依存症の夫との苦しい結婚生活からくるトラウマがあるにもかかわらず、真実の愛を求め、その精神を持って生きていこうという希望がAさんには生まれました。彼女のストーリーに私は心動かされ、彼女の人生の中に神の働きを見出しました。苦しみ叫ぶ彼女の声を神は聞かれ、そこから救い出すために人間の目からは不幸と思える状況を通して、神は彼女に回心の時を与えられました。
 『歪んだ正義―「普通の人」がなぜ過激化するのか』(毎日新聞出版)において大治朋子氏は、ロニー・ヤノフ・ブルマン著『砕け散った前提―トラウマの新しい心理学へ』の次のような内容を紹介しています。「この本は戦争、犯罪、虐待といったトラウマを引き起こすような出来事、特に自然がもたらす天災ではなく人間がもたらす人災がいかに人の世界観を破壊し、人間不信などをもたらすかについて記している。それによると、私たちは主に親との愛着関係を通じ、『世界は意義深いもので、善意にあふれている』といった平和で受容的な世界観を育む。こうした世界観があるからこそ、人はやがて外界へと巣立ち、さまざまな挑戦をしたり他者を信じたりして新たな人間関係を築くことができる。しかしこうした世界観が形成される幼少期に強いトラウマに長期間さらされると、そもそもそうした世界観を育むことが難しくなる……」(前掲書238頁)
 Aさんにとってはトラウマで苦しい状況であったにもかかわらず、子供への愛が引き金となって、否定的な生き方ではなく、「愛に生きる人」へと変えられていきました。Aさんはずっと淋しい人生だったので、子供たちにとって「帰りたい家」を作りたいという思いが生活の原動力となり、愛を与えて生きて行くこと、笑顔で感謝して日々を生き「帰りたくなる家」を大事にしていきたいという思いを持つようになりました。この変化は親らしくなかったAさんの両親を変え、孫にとっては優しいおじいちゃんおばあちゃんとなり、今はすっかり穏やかになり孫達から愛される存在となったそうです。
 Aさんは今、癌を発症し、それが「子供が自立するのを見届けるまでは死ぬことはできない」と「命」に向き合い、「命」は限りあるものだと痛感するきっかけとなり、改めて自分の日々の生活や食事、生き方、やりたいこと、時間の使い方、全てと向き合うようになっています。極限まで追い込まれたからこそ子供達が喜んで帰る家を築くことの大切さに気づき、否定的な生き方から積極的に人生を生きる生き方へと変えられました。そして将来は児童養護施設で愛されないで育った子供達と一緒に生活してみたいと思っているそうです。「自分は愛されているんだ」と安心できる場所があるだけで、人は生きる希望が持てると気づいたからです。
 Aさんは現在、介護福祉士の資格を取り、コロナ禍の中、病院で看護助手として働いておられます。苦しみの中でも真実の愛を求めたAさんは「愛」そのものであるイエス・キリストに出会い、洗礼を受けられました。人を通して神は働かれますが、教会の人々との出会いは神の愛を知る機会になり、尊厳を失った日々を今は感謝し、人々にこの愛を伝えたいと願っておられます。
 コロナ禍の時代、ますます人々は経済的にも心理的にも苦しい状況が続き、将来に対する不安や恐れや自粛生活による家族間問題などにより、家庭内の人間関係が壊れ、離婚や子供の自殺も多くなっています。このような時代だからこそ、人の心の問題に関わることが求められるのですが、実際は出会うことに制限があります。教会を訪ね、自分の心の救いや心の糧になる話、人との関わりが助けになっていた人たちは、2021年の今、コロナ禍以前のように自由に動くことが出来ません。オンラインを利用しての講演やZoomミーティングなどがありますが、体や心が感覚的に触れることが出来ない物足りなさがありますし、そこから力を得ることは少ないのです。人の生活や心のケアに具体的に関わってきた私は今、どのように人のニーズに応えることが出来るのかと考えます。一人ひとりにとっての救いは自分の軸足をどこに置いているかによると思いますので、その軸足の見つけ方や立ち方、自分軸の持ち方を伝えたいと思っています。
 軸足は人によって違います。宗教的観点からだけでは伝わりません。特に日本人は誰もが特定の宗教を持って生まれ育ったわけではないので、人間として誰にでも共通する強さ・軸足を提示していくことが大切です。この世に生きる限り私たちは誰もが「心と体」を持っています。それらは人間の尊厳に関わるものであり、一人ひとりがこの世に生きた「いのち」の尊さを具体的に表現するものです。このことに目覚め、「いのち」を大切にしていく姿勢が今こそ求められています。フランシスコ教皇様の来日のテーマは「すべてのいのちを守るため」でした。これまで減少していた自殺者数がコロナ禍後、特に女性や子供に増えているとのことです。いろいろな原因があげられますが、社会的に弱い立場に置かれている女性や子供の命が奪われるような社会・家庭環境になっているのは否めません。「あなたは人から愛されている」「あなたは価値がある」という思いを、苦境にある人々に周りの人が発信することが求められているのでしょう。今は日常生活の中での人との関わりをもう一度見直す機会だともいえるのではないでしょうか。専門家のところに出向く機会が少なくなった社会状況だからこそ、日々の身近な人との出会いが「いのちの尊さ」を伝えられるような関わりになっていくこと、「あなたは愛されるにふさわしい存在です」とお互いが言える関係になっていくことこそ、慈しみと憐れみ深い神が望んでおられることではないかと思います。
 Aさんの人生に具体的に人――私や教会の人――が関わることによって、その中に、神の愛を見出し、イエス・キリストに出会い、自分の人生の意味、使命を知り、困難があっても乗り越えていく力を頂いたように、一人ひとりの日常の出会いを大切にしていくことが私たちに願われているのではないかと思います。コロナ禍を通して神様は私たち人間に「愛を生きる」ように招いておられるのでしょう。
 慈しみと憐れみの神の思いを困難、苦しみの多い現代社会の中で一人ひとりが生きることによって、社会で見捨てられた人が少なくなることを私は信じていますし、「慈しみと憐れみの心」が一人ひとりに与えられますよう、神に祈り、願うことは大切なことであると考えています。


 最後は、東京教区司祭の高木健次師です。2016年からカトリック東京国際センター(CTIC)で働いておられます。
 高木神父は、日本社会の中で非常に困難な状況に置かれている、滞日外国人が抱える諸問題について書いてくださいました。南米出身の教皇フランシスコは、就任当初から移住者の問題について数多く発言しています。回勅『兄弟の皆さん』にも、その問題についての訴えがつづられています。わたしたちは、意識して、この問題を知る必要があります。高木神父の経験は、そのための貴重な示唆を与えてくれます。


 カトリック東京国際センターは東京教区の一部署で、外国人の生活相談・支援を行い、十分ではありませんが、生活困窮者への食糧支援もおこなっています。ここではCTICで私やスタッフが出会った人々の置かれた困難な状況についてお伝えしたいと思います。

在留資格のない子供たち
 私がCTICに関わったのは、2006年に司祭養成の研修の一環として訪れたのが最初でした。一人のスタッフがある外国人家族のアパートを訪問するのに同行しました。アパートの住人は、在留資格を持たない外国人一家で、両親と小学校高学年の娘という家族構成でしたが、在留資格がないことが摘発された両親は東京入国管理局(当時)に収容されており、娘は児童相談所に「保護」されていました。私たちは彼らに頼まれ、住人不在のアパートの部屋に入り、娘が学校で書いた作文や絵、成績表など、彼女の学校生活がしっかりしたものであることを物語る「証拠」を探し集めました。当時、日本で生まれ(あるいは幼少時に来日)、日本の学校に通う子が、ある程度の年齢に達している家族について、一定の条件が揃っている場合には日本への定着が認められ、子どもの利益を考慮し、比較的容易に在留が特別に許可される(在留特別許可)可能性があったからです。その日集めた資料は後日スタッフによって入国管理局に提出され、数年後にその家族には、「在留特別許可」が出されたと聞いています。
 しかし、2011年以降、「在留特別許可」の数は減り続け、2006年には 9360人だったものが、2020年には1476人にまで減少しています。様々な理由が考えられますが、在留特別許可に取り組む弁護士や支援者の間では、「認定の判断が極めて厳しくなった」というのが共通認識です。また排外主義運動が広がりを見せる中、社会の非正規滞在者に対する雰囲気も非常に険しいものへと変わって行きました。
 日本では、在留資格がない非正規滞在の親から生まれた子どもたちは、たとえ日本生まれであっても、生まれた瞬間から自動的に「非正規滞在」となってしまいます。特別な事情のない限り学校教育を受けることはできますが、健康保険に加入することはできません。また両親に就労資格がないため、生活は非常に不安定です。そして何より問題なのは、彼らが学校生活をおくりながら、他の子どもたちが持つような将来についての展望を何も持つことができないことです。難民申請や在留特別許可が認められない場合、簡単に帰国できない事情を持つ親は、さらなる申請や行政訴訟、再審情願などを行います。それらの手続きは、時には結果が出るまでに何年もの時間を要します。結果を待ちながら成長する子どもたちは、将来自分が日本で生きて行くことが許されるのか、行ったこともない「祖国」に送還されてしまうのか、それがいつになるのか、全く分からないまま年月を過ごさなければならないのです。
 東アフリカ出身の女性と南アジア出身の男性の間に生まれた姉弟は、まさにそのような子どもたちです。母親も父親も手続きがよく分からなかったために、オーバーステイになった後に難民申請を行いました。この母子とCTICとのかかわりは、母親から子の父親のDVについて相談を受けたことから始まりました。日本人や在留資格のある人の場合は、DVから逃れるために、まず市町村の男女共同参画室や福祉課、あるいは警察の生活安全課などに相談して保護してもらうのが一般的ですが、在留資格がない人の場合、それらを頼ることができないため、助けてくれる知人や支援者を自力で探さなければなりません。彼女の場合、CTICに相談をしたことのある同国人がCTICを紹介したのでした。父親とともに居候していた知人宅から逃れ、しばらくの間、ある難民支援団体が運営するシェルターに入れてもらうよう手配し、北関東某県まで母子を迎えに行きました。当時小学校高学年の姉と低学年の弟はとても活発で利発な感じでした。父親と離れることの意味もよく理解していました。また、「東京」で暮らすということに少し興奮した様子でした。「東京に行ったら若者に人気のユーチューバーに会えるかなあ」などと言っていました。同乗していたCTIC相談員が「東京に行ったことあるの?」と尋ねると「あるよ!」と子どもたち。「どこに行ったの?」との問いに、子どもたちは「品川!」と答えました。「品川の水族館?」「お父さんが紙を持っていく所!」でした。在留資格がない家族は、本来なら収容施設に収容されるのですが、この家族の場合、自ら出頭して手続きを行っているため、収容はされずに「仮放免」されています。収容を免れている一方で、入管の指示に従って定期的に出頭しなければならず、子どもたちが言っている「お父さんが紙を持って行く所」とは、義務付けられている出頭のことでした。また、仮放免の人達は、許可なく都道府県を超えて移動することも禁じられているため、行動範囲は限られたものとなってしまいます。何かの楽しみのために、東京へくることなどなかったのでしょう。この元気な子どもたちが知っている東京が入管だけなんて。ふとお姉ちゃんが言いました。「あーあ、新しい学校行ったらまた肌が黒いとかなんとか言われるのだろうな」。元気にふるまっていても、心の中では、未知の場所で、また一から人間関係をつくっていかなければならない不安を抱えているのかと思うと胸が締め付けられる思いになりました。現在この母子は、都内の同国人が多く住む地域に住み、彼らに助けられながら元気に生活しています。姉は中学生、弟は小学校高学年になっています。間もなく他のクラスメイトたちは進学先について、将来について、具体的なことを思い描き語り始める年齢です。しかし、在留資格のないこの姉弟が、自分たちは働くことすら許されていない存在だという厳しい現実を直視しなければならなくなる日はそう遠くはありません。
 生まれた時には在留資格を有していたにもかかわらず、突然、それを失ってしまった子がいます。東アジアの国出身の両親のもとに日本で生まれたその子は、小学校3年生まで「永住者」として生活していました。彼女の父親は留学生として来日し、日本語学校、短大を卒業後、日本で就職しました。職場での評判も良く、多くの同僚から信頼を得ていました。母親もかつては留学生として来日しましたが、オーバーステイとなり、自ら出頭し帰国していました。父親が結婚のために短期間帰国し、母親を呼び寄せ、日本で暮らし生まれたのがこの子です。こうして10年間家族3人仲良く日本で暮らし、その間に家族全員「永住者」の在留資格も得ました。しかし両親の心に引っかかっていたことが一つありました。それは父親が母親を日本に呼び寄せる時、手続きがなかなか進まなかったため、母親がある書類を偽造し、提出していたことです。嘘を隠しながら暮らしたくないという思いから、両親は子が10歳になるのを機会に入管に出頭し、すべてのことを正直に告白しました。永住資格が取り消されるなどの罰則は覚悟していたのですが、入管の決定は、家族全員の在留資格を取り消し、父親を収容施設に収容するという、予想をはるかに超えて重いものでした。同様の事例に比較しても、あまりにも厳しい判断だったと思われます。両親の故郷では、その国の言語での読み書きが十分にできない子は、義務教育期間であっても受け入れてくれる学校がありません。両親は勉強が好きな我が子が、小学校卒業後に学校教育を受けられなくなることに心を痛め、何とか子だけは日本に残したいとの思いから、子の在留資格について行政訴訟を提起し、争うことにしました。争いの期間を経て、裁判所から出された和解案は、「両親が送還を受け入れ、子については『中学生の留学生に対して、入国管理局が求める条件』をすべて準備できるなら、子に『留学生』の在留資格を与える」というものでした。日本で生まれ育った子が中学に通うのに「留学生」とは全くおかしなことです。それでも両親は子のためにその和解案を受け入れ、帰国を決心しました。私たちは「中学生の留学生に対して、入国管理局が求めるすべての条件」を整えるために奔走しました。父親の会社の人たちは、在留特別許可のための嘆願書を提出するなど最後まで応援しましたが、願いは入管には届きませんでした。父親の収容は3年10か月に及びました。そして、新型コロナウイルス感染症の影響下、両親は無理をおして祖国に帰国しました。現在、その子は、学生寮の完備した学校で生活しています。しかし、小学校3年生から中学校入学直前までという長期に渡る父親の不在が、子の心に大きな傷を残したことは疑う余地がありません。また、突然自分が暮らしていた国から「あなたはここにいるべき人ではない」と言われ、親と別れて自分だけ日本に残り、両親が外国(両親と子にとって祖国であっても、子にとっては、一度も行ったことのない「外国」です)に帰るという事態を、その子がそう簡単に受け入れ消化できるわけはありません。
 日本は「締約国は、児童がその父母の意思に反してその父母から分離されないことを確保する」(第9条)と記されている「児童の権利に関する条約」に批准しています。しかし、法務省が、非正規滞在の親を家族から引き離して長期に収容したり、「親が帰国するなら、罪のない子どもにだけは在留資格の付与を検討する」という厳しい選択を迫ることが珍しくなくなっています。このような「家族分離」の問題は、外国人支援のなかでも、カトリック教会が優先的に取り組まなければいけないものだと感じています。

バブルを支えた人たち
 ある月曜日の朝、事務所の扉の前に、土気色の顔をした細身の男性が立っていました。週末から行く所がなく、飲まず食わずで、週が明けてCTICの事務所が開くのを待っていたとのことでした。彼は60歳を目前にした、南米スペイン語圏の国出身の日系人でした。
 80年代後半労働力不足の状況にあって、日本政府が「合法的な労働力確保」のために目を付けたのが南米諸国の日系人でした。「単純労働の外国人は受け入れない」という方針を定めていた政府は、「『自身のルーツ探し』や『親族との交流』を希望する日系人に来日の便宜を図る」と説明し、日系2世や3世とその家族に、就労活動には制限のない在留資格(日本人配偶者等もしくは定住者)を与える入管法改正を行いました。そして、「デカセギ」と呼ばれる日系人が来日するようになりました。カトリック教会でスペイン語やポルトガル語のミサが行われるようになったのは、この頃からです。彼らは、コントラティスタ(請負業者・派遣会社)を介して多くの仲間とともに来日し、コントラティスタに仕事の紹介を受け、「寮」という形でアパートを提供され、多少日本語の出来る同国人の責任者の下、日系人のグループで働くことになります。職場でも、寮でも、周りにいるのは同国人であり、地域社会どころか同じ工場の日本人労働者と交流する機会もほとんどありません。日系人の多くが、在日年数が長いにもかかわらず日本語が話せないのは、こうした就労や生活形態によるものです。
 その男性もそのような「デカセギ」で来日した日系人の一人です。彼は一年前に、26年間勤めていた工場から「契約満了」と雇い止めにされ、同時に寮からも出されてしまいました。その後に就いた仕事は病気で長続きせず、居候していた友人宅からも、所持金がなくなったのを機に追い出されたようです。
 緊急のことなので、とりあえずCTICが所在する目黒教会の一室に宿泊させてもらうことになりました。パスポートの期限が切れていたので領事館で再発行の手続きを行い、最後の職場の住所に置きっぱなしになっていた住民登録を東京に移し、在留期限が迫っていたので入管で在留期間更新の手続きを行いました。パスポートは期限が切れても再発行してくれますが、在留資格の期限を一日でも過ぎてしまえば非正規滞在になってしまいます。簡単に再取得できるものではありません。こうして新しいパスポートと在留期間更新許可を待つ間に、再就職先を探しました。かつて日系人を雇用していたいくつかの会社に当たってみましたが、現在は「技能実習生」や「留学生」を受け入れていると断られ、高齢で日本語でのコミュニケーションが困難な彼を雇用してくれる会社はなかなか見つかりませんでした。何とか埼玉県北部にアパート付の職場を見つけ、そこで2年間お世話になりましたが、慣れない土地と慣れない仕事で体調を崩したため、再度目黒教会に受け入れてもらうことになりました。現在、彼は生活保護を受給しながら、とある簡易宿泊所で暮らしています。住居と最低の生活費は確保できているものの、「日本語が話せない」という問題もあり、地域で新たな人間関係をつくることもできず、彼にとって社会との繋がりは「CTICのみ」という状態です。働き盛りの時期を日本で過ごし、祖国との関係が希薄になり、日本で孤独に暮らし続けている日系人高齢者は相当数いると思われます。
 とは言え、公的支援を受けることが出来るというのは、彼が「日系人」で在留資格があることのおかげです。80年~90年代に来日し、在留資格も就労許可もないままに働いていたアジア諸国の人々の状況はさらに困難です。不法就労者と言っても、建設業、製造業をはじめとする各種産業の人手不足を補うため、政府が黙認することで半ば「公然の労働力」と見なされてきた人々です。彼らは、日本人と一緒に働く現場に適応し、仕事を学び、日本語での会話もできるようになった人々で、当時「不法就労かもしれないけれど、まじめに働き日本に貢献している」と評する受け入れ企業も少なくありませんでした。その後、日本社会の経済的停滞や、南米出身の日系人、外国人研修・技能実習生という「合法」的な労働者受け入れ経路が確立されると、政府は彼らを「不法滞在者」として摘発するようになりました。現在も日本に残っている彼らは、来日してから20年以上の、人によっては30年の時が経ち、それだけ年齢を重ね、祖国との繋がりが薄れてしまっているのが現実です。CTICの関係者の中には、送還後に祖国の家族の生活に馴染めず、親戚の家を転々とした挙句、ホームレス状態になった人もいます。一方日本に留まっている人の中には、就労できないために経済的に行き詰り、社会から孤立し、心身の病気を抱えるケースもあり、彼らの問題も深刻です。
 80年代後半から90年代に働き盛りの労働者として来日し、日本のバブルを支えたこのような労働者たちは、ともすると「過去の清算済みの存在」であるかのように扱われてしまいます。外国人問題として、技能実習制度や難民問題が多く取り上げられるようになった陰で、日本社会は都合のよい労働力として利用された方々の苦難が今も続いていることを忘れてはならないでしょう。

入管収容施設に収容されている人たち
 昨年名古屋入管の収容施設でスリランカ人女性が亡くなったことは記憶に新しいと思います。出入国在留管理庁は、医療体制や収容者の体調情報共有の不備も認めたうえで、「人の命を預かる行政機関としての緊張感や心の込め方が不十分だった」との調査報告書を公表しました。今回の方に限らず、これまでにも収容施設で亡くなった方は何人もおられます。心身の健康を損なう人はさらに多く、施設での処遇を含めた収容制度のあり方に改善すべき点があることは明らかです。CTICでは、品川区にある東京出入国在留管理局(通称 東京入管)と茨城県牛久市にある東日本入国管理センター(通称 牛久入管)の収容施設を、収容されている方からの依頼に基づいて、定期的に訪問しています。収容されているのは、在留期限を超えて日本にとどまっていたり、許可された仕事以外の活動をしたり、規定の時間を超えて就労したりなどの入国管理法違反によって、国外退去を命じられた人達です。しかし日本に家族がいる、祖国で迫害を受けている等の理由で、「退去強制処分の取り消し」や「在留特別許可」また「難民認定」を継続して求めている人が少なくありません。CTICだけでなく、カトリック教会の内外で外国人支援を行う様々な団体・グループが同様の活動を行っています。被収容者の方との面会の話題の多くは、収容施設での処遇についての怒り、そのような場に居続けることへの恐怖や絶望感についてです。
 一人の方に面会を重ねていくと、収容期間が長くなるに従って体調が悪化していくことを目の当たりにします。腹痛、便秘、食欲不振、不眠などを訴える人が多いのですが、多くの場合、施設内では対処療法的な薬の処方しかうけることができていません。
 毎日の生活は、洗濯や外部との電話、運動をするために設けられている午前中2時間、午後3時間半の自由時間を除いて、窓が少ししか開かない居室で過ごさなければなりません。居室は、文化、宗教、言語、衛生観念の異なる5人~10人の相部屋です。何もすることがないままに、一日の大半の時間を狭い部屋の中で過ごす生活が続きます。いつまで我慢すれば外に出られるかもわからない、いつ強制送還されるかもわからないという状況は精神的に大変過酷であることは想像に難くありません。ある被収容者の女性は、定期的に面会に訪れたシスターに、面会室のアクリル板越しに(コロナの感染予防のためではありません。面会室はアクリル板によって被収容者と面会者が接触できないように仕切られています)、折り紙で作った花瓶を見せながら言いました。「私は日本人の夫と娘がいるから、絶対に元気な姿で仮放免にならないといけないのです。だから折り紙を折ります。折り紙に集中している時間は、過去にやってしまったことへの後悔や、強制送還のことを考えずにすむからです」。花瓶は、折り紙を小さく切って折ったパーツを組み合わせて作られていました。収容所内はハサミの使用が禁止されているので、定規で紙を切り、糊の差し入れも許されていないので、食事に出されたご飯を糊として代用していました。彼女とシスターは、面会の度に、折り紙の紙質や色、そしてどのような配色にするのかなどを話し合い、彼女の作品のために希望する折り紙を差し入れました。彼女は仮放免になった時、収容中に作った「作品」の内から気に入ったいくつかを、面会を続けていたシスターにプレゼントしてくれました。彼女はその後再び収容されたため、家族と離れて帰国したのですが、今でもCTICの事務所には彼女の作った折り紙の花瓶がいくつも飾られています。彼女のように収容中も自分を保つために、やることを見つけている人は少なくありません。日本語の勉強や読書、中には法律を学び、相当詳しくなっている人もいます。しかしすべての人が、自分なりに何かに取り組むよう前向きになれるわけではありません。また前向きに過ごそうとしている人でも、何か月かごとに提出する「仮放免許可申請」が不許可とされた時には、大変落ち込みます。「朝の5時頃、突然やって来る係官に『荷物をまとめなさい』と言われ、そのまま強制送還されるのです。朝が怖くて眠れません。仮放免になる可能性があるのか、それはいつなのか、そのことばかり考えているのです」。ある被収容者の言葉です。突然強制送還されるのか、あるいはいつ仮放免になって外に出られるのか、明日のことが見えない状況が何か月も、最近では長期収容の傾向が強まっていたので、何年も続くことがあります。どのくらいの期間収容所にいれば、どのような条件が整えばなど、仮放免許可のための要件が開示されておらず、どのような基準で制度が運用されているかが全く見えません。そのため被収容者たちは疑心暗鬼の中で毎日を過ごさなければならないのです。
 この原稿を書いている2020年8月現在では、新型コロナウイルスの感染予防の観点からか、多くの被収容者に仮放免が許可され、収容施設から出ることができています。感染が落ち着いた後の収容状況がどうなるかは不明です。また、仮放免は在留資格が与えられたわけではなく、就労資格も社会保障を受ける資格もなく、ある意味社会に存在しない人として扱われるので、不安定な生活を続けなければなりません。仮放免になって何かが解決したわけではないのです。
 コロナ禍でよかったこともあります。それは社会防衛の観点から仮放免者も希望すればコロナウイルスのワクチンを接種することができると厚生労働省が通達を出したことです。制度上いくら存在を無視しようとしてもウイルスには通用せず、感染拡大を食い止めるためには行政といえども、存在している人は存在している人として扱わなければならないというわけです。ささやかなことかもしれませんが、この出来事が、どんな立場の人にも、保護されるべき尊厳、基本的人権があるという考えへと通じる一歩となってくれることを望みます。

未知の国に送還される人たち
 ある時、国際空港の近くにある教会の信者の方から「教会の前に英語しか話せない男性が座っている。強制送還されて日本に来たと言っている」という電話が入りました。迎えに行って事情を聴くと、その人は3歳の時に母親の再婚相手の国に渡り、以来60年近くそこで暮らしていたのですが、犯罪行為を行い、当時のその国の政府の「外国人に対する不寛容な政策」が影響し、突然、身寄りも知り合いもおらず、言葉もわからない日本に強制送還され、空港に置いていかれたということでした。国際電話で家族に電話したところ、家族がインターネットで空港近くのカトリック教会を見つけ、そこに頼るようアドバイスをしたので教会に来たとのことでした。CTICが所在する目黒教会の一室に宿泊させてもらいながら、何か月にも渡りその方とともにアパートを探し、求職活動を行ったのですが、日本語がまったく分からないうえ、日本での生活経験がないこと、そして年齢が60歳を超えていることなどが災いし、住居も仕事も見つけることができませんでした。その後紆余曲折を経、彼は生活保護を受給しながら簡易宿泊所で生活をしています。私たちはその方と出会い、日本での生活を新たに立て直すための作業を共にし、多くの時間を過ごすことによって、身寄りも知り合いもなく、言葉の通じない国へ送還されることがいかに大変で残酷なことなのかを目の当たりにしました。
 日本の入管が行っていることはこの逆のパターンで、日本で生まれる、あるいは幼い頃に来日した人を、自分は全く行ったことがないか、幼いころに離れたきりの国籍国(親の祖国)に強制送還するという決定を下し、実際に送還しています。こうした人々には、先に挙げた子どもたちのケース以外では、犯罪に関わり、在留資格を失った方々が多いです。そうした人々は服役後、入管の施設に収容され「帰国」を促されます。外国から来た人が自分の犯罪行為によって日本を去らなければならないことはある程度仕方がないでしょう。帰国は本人の望みではないかもしれませんが、祖国に戻ることは刑罰ではありません。しかし、日本で生まれ育った者が、言語も習慣も違い、身寄りのない「祖国」に送られるというのは単なる送還ではないと言わざるをえません。中には、親が難民として逃れた先の国の難民キャンプで生まれて育ち、その後「第三国定住者」として日本に受け入れられ、日本で育ったという方もいます。その方の送還先は、「親が逃げだした元の国」ということになってしまいます。もちろん罪を犯さなければ問題なかったわけですが、刑事罰の他に、ほとんど未知の国に送られる「流罪」が加えられるということが果たして法の下の平等の観点から妥当なのでしょうか。

困難にある外国人と直接接している人々
 関連業種の小零細工場が立ち並ぶ東京の下町の一角に、東アフリカに位置する某国の難民申請者が多く住む地域があります。5人、10人の仲間が町内にある古いアパートや、かつては事務所に使われていたビルの一室、一軒家をシェアハウスとして、共同生活を送っています。日本人の若い労働者の姿をほとんど見ることのないこの町では、バブルに向かう労働力不足の時期にはオーバーステイのアジア人が、そして、現在はアフリカからの難民申請者が働いています。日本語が話せない人、病気を持つ人、長期の在留資格をもらえない人など、それぞれ事情を抱えているようですが、外国人労働者と一緒に働くことに「慣れている」会社の経営者は、それらを問題にしないばかりか、理解を示してくれる人もすくなくありません。低賃金かもしれませんが、そこで働く外国人にとって、決して居心地の悪い場所ではないようです。
 その地域で、高齢の女性が夫から引き継いだ工場の処遇に不満のある外国人労働者が、暴力的な抗議を行ったことがあります。恐怖を感じた経営者の女性は、廃業を余儀なくされました。夫が突然入管に収容されたため、生まれたばかりの赤ちゃんをかかえて途方に暮れていた外国人女性から助けを求められ、シェアハウスに支援に入ったCTICスタッフに対して、外国人と二人で会社を切り盛りしている工場経営者が「あなたのような外国人支援の活動家は嫌いだ。『労働法』だとか『人権』だとか、きれいごとを持ち込むつもりなら、それは止めてくれ。私たちもぎりぎりのところで精一杯やっているんだ」と言ったのは、その事件の直後のことでした。教会は特定の立場の人の利害を代弁する運動でも、政治運動でもありません。すべての人の救いに責任を負うという自覚をもって、こうした日本人の苦難にも目をとめ、同じように尊厳ある人として誠実に向き合わなければならないことを痛感させられた出来事です。この方々とは何年もの付き合いになりますが、その期間、生きた現場で、問題を抱える外国人と何十年も共に働き、共に生きてきた会社経営者やその地域の方々には見えて、私たちには見えていない現実があることを何度も経験しています。
 これは、外国人に関わる他の立場の方、例えば入管施設の職員についても言えることでしょう。収容されている外国人に一番近くで接する職員たちは、被収容者の不満と怒りを直接受ける人たちです。限られた予算、人員で秩序維持の責任を負っている組織の一職員として、自分の思う通りに振舞えるわけもありませんが、そうした職員の苦悩が取り上げられることはまずありません。もちろん、施設内での不当な処遇を正当化することはできませんが、日夜、被収容者と関わっている職員の方々もまた、日本の外国人政策の犠牲者であると思われてならないのです。
 誰かを敵とし、その組織や人を批判し、攻撃することを通して、社会問題に関わるというやり方では、私たちの目指す社会は実現しません。教会の活動が、特定の立場への批判にとどまることなく、すべての人への尊敬に基づき、より良い関係、良い社会を目指し続けることを切に願っています。


 以上が、4名のかたの寄稿です。貴重な経験をつづってくださった著者の皆さんにあらためて感謝申し上げます。
 特集の結びとして、回勅『兄弟の皆さん』の中の、教皇のことばを紹介します。教皇は、兄弟愛と社会的友愛について述べる糸口として福音書にある「よいサマリア人」のたとえを示し、それは「抽象的な理念を暗示するものでもなければ、社会的・倫理的な教訓を伝える役目しかないものでも」なく、「忘れられがちな、人間の本質的特徴を明らかに」するのだと説いています。その「本質的特徴」とは「わたしたちは愛においてのみたどり着くことのできる充満のために造られた」ということです。ですから「他の痛みに無関心で生きるという選択はありえません。だれかを『人生の隅』に放ったままにしておくことは許されない」のです、と教えています。
 回勅には、困難で悲劇的な現代社会の現状分析が、厳しく述べられています。しかし教皇は、だれをも排除することのない真に開かれた世界を構築するための希望の道筋もまた、はっきりと示しています。希望のうちに、皆で手を取り合って前に進むことのできる社会を実現していくため、ともに働くことができるよう、祈り求めたいと思います。

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