教皇庁 教育省 指針「カトリック学校のアイデンティティ 対話の文化をはぐくむために」

 

ダウンロード(PDF 814KB)
教皇庁教育省
指 針
カトリック学校のアイデンティティ
対話の文化をはぐくむために

CONGREGATION FOR CATHOLIC EDUCATION
THE IDENTITY OF THE CATHOLIC SCHOOL
FOR A CULTURE OF DIALOGUE
Instruction

目次

序文

第1章 教会の使命におけるカトリック学校

母であり教師である教会 
学校におけるキリスト教的教育の「基本原理」について 
さらなる発展 
カトリック学校のアイデンティティの輪郭のダイナミックさ 
 信徒や奉献生活者の教師によるあかし 
 対話のための教育 
出向いて行く教育  
 「活動」としての教育 
 教育に関するグローバル・コンパクト 
 ケアの文化のための教育

第2章 カトリックのアイデンティティの普及と検証の責任主体

学校共同体  
 学校共同体のメンバー  
 生徒と保護者  
 教員と事務職員  
 学校の運営責任者(理事会)  
教会における教育に関するカリスマ  
 カリスマの制度的な表れ  
 「カトリック」学校の定義  
教会権威者の奉仕  
 教区司教  
 小教区と小教区の司祭  
 司教、奉献生活者、信徒の間の対話  
 司教協議会、世界代表司教会議シノドス、または聖職位階によって構成される評議会  
 使徒座  

第3章 いくつかの重要な点

「カトリック」という用語の解釈の相違  
 限定的な見方  
 形式的な見方、カリスマ的な見方  
 「狭い/閉鎖的な」見方  
権限と法規の明確化  
いくつかのデリケートな問題点と領域  
カトリックのアイデンティティを強化するための出会いと集結  
 一致の建設者であること  
 発展のプロセスを生み出すものであること  
 現実的かつ持続的な解決策の構築者であること  

結び




序文



1. 2015年にカステル・ガンドルフォで開催され、あらゆる種類とレベルのカトリック学校の代表者が参加した、教育省主催の世界大会「今日と明日の教育―情熱の刷新―」において、一般討論でもっとも取り上げられ、問題となった一つに、世界中の教会の教育機関におけるカトリックとしてのアイデンティティの明確な認識と、その一貫性の必要性がありました。同じ懸念は、教育省の直近の総会の際にも、また、アド・リミナ(訳注=各国司教団が5年置きにローマを訪問し、教皇に謁見して各国・各教区の状況を報告するもの)訪問時の司教たちとの会談でも表明されました。さらに教育省は、教育機関における伝統的な「カトリックのアイデンティティ」の概念についての異なる解釈により生じる対立と訴えの事例に直面しています。これらのことは、諸宗教間や諸文化間の対話が成長し、グローバル化のプロセスが出現した、近年の急速な変化にあって生じています。

2. したがって、教育省の権限において、教会における教育機関のカトリック的アイデンティティの価値について、より深く、アップデートされた考察とガイドラインを提供することは、適切であると思われます。そうすることにより、つねに適用される基準と連続性の中で、現代の課題に対応するための一連の基準を提供することができます。さらに、教皇フランシスコが述べたように、「アイデンティティをもたなければ、対話の文化を生み出すことはできない」1のです。

3. この指針は、さまざまなレベルの機関における考察と協議の結果であり、教育省が、学校教育の分野で働くすべての人々、すなわち、司教協議会、世界代表司教会議、聖職位階によって構成される評議会、裁地権者、奉献生活の会と使徒的生活の会の上長、ならびに運動団体や信徒の会、その他の教育分野において司牧を行う組織や個人に貢献できればとの思いで作成されました。

4. 教会の一致と交わりを守るという全教会の一般的基準として、ここで述べられることは、世界中に散らばる地方教会の異なる状況において適応されなければなりません。それは、補完性やシノドス的な歩みの原則に従って、また、異なる制度的権限を考慮しながら適応される必要があるということです。

5. 教育省は、この指針が、すべての民に教えることによって福音を宣べ伝えるという教会の使命(マタイ28・19-20参照)への従順において、教育や学問の分野における教会の歴史的存在の本質と存在意義にかかわるこの重要なテーマについて考え、理解を深める機会として歓迎されることを願っています。

6. 本指針の第1章は、教育界における教会の存在に関する議論を、教会の福音宣教の一般的な文脈の中に位置付けています。つまり、母としての教会、教師としての教会が、今日に至るまで時間と空間の中で、その活動を豊かにしてきたさまざまな強調点とともに歴史的に発展してきたということです。第2章では、さまざまな役割を担っている教育界で働く人々について扱っています。聖霊によって与えられた多様なたまものに富む教会において、その位階的性格に対応するように、それらの人々は教会法の規範に従い配置され、組織されています。最終章では、学校教育のすべての異なる側面を教会の実際の営みに統合する際に生じうるいくつかの重大な点について、教育省が特定の教会から提起された問題に対処してきた経験から、述べられています。

7. このように、本指針はカトリックのアイデンティティというテーマに関して、一般的な、ましてや包括的な論説を提示するのではなく、むしろある種の現在の問題を明らかにし、何よりも教育という重要な分野における対立や分裂を防ぐのに役立つ、意図的にまとめられた実践的なツールです。実際、教皇フランシスコが「教育に関するグローバル・コンパクト」の再始動にあたって述べたように、「教育を行うことは、賭けをすることであり、強者の利己主義、弱者の順応主義、ユートピアのイデオロギーが唯一可能な道として自らを押し付けようとする決定論や運命論を打ち破る希望を、現代の人々に与えることです」2。ますますフラグメント化(断片化)し、対立する世界において、教育分野における教会の堅固で一致した行動のみが、イエスから託された福音宣教と、人間が兄弟姉妹であると感じられる世界の構築の両方に貢献することができます。なぜなら、「子どもであるという自覚、孤児ではないという自覚があってこそ、わたしたちは互いに平和に暮らすことができる」3のです。


第1章
教会の使命におけるカトリック学校



母であり教師である教会

8. 第二バチカン公会議は、とりわけ、教会の性質とミッションを表現するイコンとして、教会の母性的なイメージを教父たちから引きだしました。教会はキリストの花嫁であるがゆえに、信者を生み出す母なのです。ほとんどすべての公会議文書で、教会の母性について触れており、そうすることで、教会の神秘と司牧活動を解き明かし、「教会から分離された子どもたち」をエキュメニカルに包み込む教会の愛、他宗教の信者たちに送られる教会の愛を示し、すべての善意ある人々に向けて手を差し伸べています。「Gaudet Mater Ecclesia(母なる教会は喜びます)」。教皇ヨハネ二十三世は公会議の冒頭でこのように述べ、教会が普遍的な母であることの抑えがたい喜びを表明しました。

9. 母なる教会というイコンは、優しさと慈愛を表すだけでなく、導き手、教師としての力を秘めています。教皇自身も、母という称号を教師という称号と結びつけています。なぜなら、「真理の柱であり土台である教会(一テモテ3・15参照)は、聖なる創始者によって、教会の子どもたちにいのちを与え、個人としても民としても、母としての配慮をもって彼らを導くという、二つの任務を託されています。その人々の尊厳は偉大であり、母なる教会はつねに最大の熱心さをもってその尊厳を守り、もっとも高く評価してきました」4

10. このような流れの中で、公会議は次のことを確認しました。「聖にして母なる教会は、神である創立者から受けた使命、すなわちすべての人に救いの神秘を告げ、キリストにおいてすべてを回復するという使命を達成するため、天上から来る召命と結びつくかぎりの地上の生活を含む人間の全生活について配慮しなければならず、そのため、教育の進歩と振興において果たすべき独自の役割をもっている。したがって聖なる教会会議は、キリスト教的教育、とくに学校におけるキリスト教的教育について、若干の基本原理を布告する」5。このように、教会が学校を通して追求する教育活動は、社会的ニーズにこたえることを目的とした単なる慈善活動に還元されるものではなく、教会のアイデンティティと使命の本質的な部分を表したものであることを明確に示しています。

学校におけるキリスト教的教育の「基本原理」について

11. 第二バチカン公会議は『キリスト教的教育に関する宣言』において、キリスト教的教育、とくに学校における教育に関する一連の「基本原理」を提示しました。第一に、人間形成としての教育は普遍的権利です。「人は、たとえ民族、身分、年齢の違いはあっても、皆、人格の尊厳をもつ者として、教育に関して他に譲渡することのできない権利を有する。その教育とは、人間固有の目的に対応し、人それぞれの能力、性の相違、文化や国の伝統に適応したものであり、同時に、地上における真の一致と平和を期して他の諸民族との兄弟的交流に応じる教育である。真の教育は、人間の究極目的の達成に向けて、また人間がその成員の一人として所属し、成人後はその役割を分担する社会が目指す善の実現に向けて、人格を形成していく」6

12. すべての人が教育を受ける権利を有しているため、公会議はすべての人の責任を求めました。親の責任と教育の選択における親の優位性が第一に位置づけられています。そして、学校の選択は自由に、良心に従って行われなければなりません。それゆえ、法律を遵守した中で、さまざまな選択肢を整えることが公的機関の義務です。国は、学校や教育事業を選択する家庭の権利が守られるよう支援する責任があります。

13. 教会も教育の任務を負っています。「とくに、教会はすべての人に救いの道を告げ、信じる者にキリストのいのちを授け、そのいのちが満たされるまで、絶えざる配慮をもって、これを育成していく任務を帯びているからである。したがって教会は、母として、その子どもたちの全生活をキリストの精神をもって満たすような教育を施さなければならない」7。この意味で、教会が追求する教育は、すでにキリストのいのちの充満に向かって歩んでいる人々の福音化と成長のためのケアなのです。しかし教会の教育に関する提案は、教会に属するものだけに向けられているのではなく、「人格の円満な完成を目指し、地上の社会の善を求め、人間によりふさわしい世界を建設するため、諸国民に」8向けられています。教会の教育に関する働きにおいて、福音化と全人的な人間形成は絡み合っています。実際、教会の教育活動は「人格の成熟を追求するだけでなく、…受洗した者が徐々に救いの神秘を認識するように導かれ、受けた信仰のたまものを日増しにより深く意識するようになること」9を目的としています。

14. もう一つの基本的な要素は、教師の初期および生涯養成です10。「カトリック学校がその目的と計画を実現できるか否かは、まず彼ら(教師)自身にかかっていることを忘れてはならない。したがって教師は、世俗と宗教の両分野にわたる知識を修得し、それを保証する適切な資格を備え、日進月歩の現代の発見に適切に対応できる教育術を十分身に着けるよう、格別の心配りをもって準備しなければならない。教師は、愛のきずなによって相互に、また生徒たちと密接に結ばれ、使徒的精神に満たされ、その生活と教えそのものをもって、唯一の教師、キリストをあかしするものとならなければならない。」彼らの働きは「使徒職の名に値するものであり…同時に社会に向けられた真の奉仕である」11

15. 教育の道が成功するか否かは、何よりもまず親と教師の相互協力の原則によるところが大きく、生徒の自主的な活動のために、「卒業した後も、助言や親交をもって、さらに真の教会の精神に満たされた特別な会を組織することによって、彼らに寄り添い続ける」12ことを切に願っています。これらの前提に基づき、カトリック校と他の学校との間にも推進され、普遍的で人間共同体全体の益のために求められる健全な協力が教区、国内、国際レベルで必要とされています13

16. カトリック学校について、公会議は転換点を示しています。なぜなら、『教会憲章』14で示された教会論に沿う形で、カトリック校は単なる団体、施設である以上に共同体として捉えられているからです。カトリック学校の特徴は、「若者の教養と人間形成」という目的に加えて、「自由と愛という福音の精神に満たされた雰囲気を学校共同体の中に創り出すこと」にあります。カトリック学校は、青少年が「自らの人格の発展と同時に、洗礼によって生まれた新たな被造物として成長するよう援助すること」、「人類の文化全体を最終的に救いの知らせに秩序づけ、生徒たちが徐々に修得していく世界、人生、人間に関する知識が信仰によって照らされるようにすること」を目指しています15。このようにして、カトリック学校は、生徒が責任をもって自由を行使し、寛容で連帯感のある姿勢を形成できるように導くのです。

さらなる発展

17. 公会議の『キリスト教的教育に関する宣言』は、「とくに学校におけるキリスト教的教育について、若干の基本的原理」のみを提示し、それをさらに発展させる任務を「公会議後の特別委員会」16にゆだねました。これは教育省内の学校事務局の責務の一つで、教育の重要な側面を深めるための多くの文書を手がけてきました17。とくに、変化する世界におけるカトリックのアイデンティティの永続的な輪郭について、信徒と奉献生活者の教師や学校指導者のあかしの責任について、多文化・多宗教世界での対話的アプローチについてです。さらに、カトリック学校にとって、生徒が「成長するにつれて、積極的で賢明な性教育を与えられる」ことが大切です18

カトリック学校のアイデンティティの輪郭のダイナミックさ

18. カトリック学校は、人類の歴史の流れの中でその営みを続けています。ですから、今の時代にふさわしい教育サービスを提供するために、その流れに沿うことが絶えず求められています。カトリック教育機関は、自らのアイデンティティ(idem esse)に忠実でありながら、社会文化的状況の多様性に対する優れた対応力と新しい教育方法を採用する準備があることをあかししています。アイデンティティとは、キリスト教的な世界観との関連を意味します19。『キリスト教的教育に関する宣言』とそれに続く文書は、「学校」と「カトリック」という二つのことばを通して、教育機関のダイナミックな輪郭を描いています。

19. 「学校」であるということにおいて、本質的にあらゆる学校機関の特徴を共有し、組織化・体系化された教育活動を通じて個人の全人的な教育を目的とする文化を提供します20。実際、学校は「知的能力を高めるようにたえず配慮し、正しい判断力を養わせ、過去の世代から得た文化遺産を受け継がせ、価値観の向上を図り、職業生活を準備させる。また、素質も条件も異なる生徒間に交友関係を作り出し、相互理解の心構えを育成する」21。したがって、学校として定義されるためには、教育機関は、個人の自由と個別の召命を尊重しながら全人的な発展を達成するために行われる個人の教育という基本的な目的に、すでに得られている文化的・科学的遺産の伝達を統合させる術を知らなければなりません。学校は、家庭に次いで最初に社会と向き合う場となる必要があります。その環境において、個人は実用的な社会的・友愛的関係を体験します。そしてこの体験が、個人と諸民族の平和な生活に欠くことのできない正義と連帯に基づく社会を構築できる人間になるための前提条件を整えるのです。これは、学問と対人関係の両方に役立つ道具として、理性と良心の自由を与えられたすべての人間が真理を探究することによって可能になります。

20. カトリック学校は、小教区、団体、修道会などの他の教会機関とは異なる上記の特徴に加えて、「イエス・キリストを中心とした、純粋にキリスト教的な世界観との関連」22という特定のアイデンティティも備えています。キリストとの親しい交わりは、信者が抜本的に新しい方法で現実全体を見ることを可能にし、教会につねに新しいアイデンティティを与えます。そして、学校共同体において、すべての男女にとっての基本的な問題に対して、適切な応答をはぐくむことも視野に入れています。したがって、学校共同体のすべての構成員にとって、「福音のいろいろな根本的な考えが、その学校の教育の規律、行動の内的動機、そして究極目的となる」23のです。つまり、カトリック学校では、他の学校に共通するツールに加えて、理性が信仰と対話し、単なる経験的・合理的科学データを超えた真理にアクセスし、内在的現実だけではない人間の魂の深い問いにこたえるために、真理全体へと開かれるといえるでしょう。理性と信仰の対話は矛盾を生み出すことはありません。なぜなら、科学研究におけるカトリック機関の務めは、「あまりにもしばしば、あたかも背反するかのごとく対置されがちな二つのもの―真理の探究と、真理の源をすでに知っているという確信と―を知的な努力によって実存的に統合すること」24だからです。

21. 学校のカトリック的アイデンティティは、その制度的な特殊性のゆえに、教会生活との統合を正当化するものです。さらに、カトリック学校が教会の使命の一部であるという事実は、「正当かつ特別な役割であり、教育活動のあらゆる瞬間に浸透、かつ充満する独自の特色であり、そのカトリック性の基礎となるものであり、その使命の中心である」25。その結果、カトリック学校は「キリスト教共同体の有機的な司牧活動の中に位置づけられる」26

22. カトリック学校の教会的性質の特徴は、すべての人、とくに弱い人のための学校であるということです。このことは、「ほとんどのカトリックの教育機関が社会的にも経済的にも恵まれない者たちのニーズにこたえて開設された」ということからも証明されています。「あらためて言うまでもないことだが、本来カトリック学校は勉学の道を断たれ、自分たちで何とかする以外、方法がなかった青少年の教育のために始められている。今日でも、世界の各地で大勢の青少年は物質的貧困のために正規の学校教育を受けることができず、十分な人間的、キリスト教的人格形成を受けられないでいる。他の地域では、カトリック学校は別の新しいタイプの貧困に直面している。過去においてそうであったようにカトリック学校は現在でも、無知、不信、物質的資源の欠乏という状況に置かれることもある」27。このような配慮は、手先の器用さを指標とした技術訓練の要でもある職業学校の設立や、障がい者の技能に合わせたカリキュラムをもつ教育機関の準備を通じても表明されてきました。

 信徒や奉献生活者の教師によるあかし

23. もう一つの重要な側面は、信徒や奉献生活者の教師によるあかしであり、生徒の全人的な育成を達成するためにますます重要になってきています。実際、「カトリック学校の教育プロジェクトの中では学習の時間と人間形成の時間は異なったものではなく、また、概念を修得することはそのまま思慮深くなってゆくことなのである。いろいろな科目は、知識を獲得するためにのみあるのではなく、価値を身につけ、真理を発見するためにあるのだ。これらすべては真理の探究の雰囲気を必要とする。そこにおいては、確信をもち首尾一貫した教育者、学問と人生の教師は、不完全ながらも、唯一の師であるキリストの姿を生き生きと映し出しているのである」28

24. 学校、とくにカトリック学校におけるカトリック信徒の教育者の働きは、「疑いもなく専門職の一面をもつ。しかしそれは、単なる専門家としての意識にのみ帰することはできない。専門家としての意識が、超自然的なキリスト教の召命によって刻印づけられ、しかもそこまで高められるのである。カトリックの教師の生活は、ただその専門職に従事するのみではなく、教会内での自分の召命を果たすことによって特徴づけられていなければならない」29

25. 奉献生活者の場合、「カトリック学校においても、他の種類の学校においても、(奉献生活者の)教育への献身は、召命と人生の選び、聖性への道、正義からの要請であり、とくにさまざまな形の逸脱と危険に脅かされているもっとも貧しい若者に対する連帯である。奉献生活者は、学校における教育的使命に身を捧げることによって、もっとも必要としている人に文化の糧を届けることに貢献する」30。「司教たちとの交わりの中で、(奉献生活者は)教育しながらも福音を伝えるという極めて大切な教会の使命を果たす」31

26. 信徒と奉献生活者の特異性は、カトリック学校の中にのみ閉じ込められるものではなく、教会の共通の教育的使命を共有することによって高められ、「小教区、教区、教会運動、普遍教会とのより広範な交わりにおいて、豊かな交流に開かれうるし、開かれなければならない」32。ともに教育するためには、共通の養成の道も必要であり、「現代の教育的課題を把握し、それらに対応するためのもっとも効果的なツールを提供することができる、初期および生涯養成のプロジェクトが必要である。このことは、教育者が知識を学び、発展させ、方法論の刷新と更新に開かれた態度をもつことが必要であることを意味するが、同時に、霊的・宗教的な養成と共有にも開かれていなければならない」33

 対話のための教育

27. 今日の社会は、多様な文化や宗教によって構成されているという特徴があります。このような状況において、「教育は未来に向けた中心的な課題を含んでいます。さまざまな文化的表現が共存できるようにし、平和な社会をはぐくむために対話を促進するという課題です」。カトリック学校の歴史は、異なる文化的背景や宗教をもつ生徒を受け入れることを特徴としています。この状況において「求められているのは、自らが有する教育学的ビジョンに対する勇気ある革新的な忠誠」34であり、それは多様性をあかしし、多様性を知り、多様性と対話する力によって表されます。

28. カトリック学校は、あかしをするという大きな責任を担っています。「キリスト者の存在は、示され、明らかにされなければなりません。すなわち、目に見え、感知され、意識されなければなりません。今日、世俗化が進む中で、カトリック学校は、キリスト教の伝統が古くからある国においてさえ、宣教国のような状況に置かれています」35。福音によって明らかに呼び起こされた教育プロジェクトを通して、あかしすることにコミットするよう求められています。「学校は、たとえカトリック校であっても、その信仰に固執することを要求するものではありませんが、そのための準備をすることは可能です。教育計画を通して、人が探究する才能を伸ばし、自分の存在と自らを取り巻く現実の神秘を発見するように導かれ、信仰の入り口にたどり着くまでの状況を作り出すことが可能です。そして、この入り口からより先に進もうと決めた人には、信仰の経験を深め続けるための必要な手段が提供されます」36

29. あかしをするということに加えて、学校のもう一つの教育的要素は「知識」です。学校は、人々が豊かな文化的、科学的遺産に触れられるようにし、職業人となるよう準備し、相互理解をはぐくむという重要な任務を担っています。そして、絶え間ない技術革新とデジタル文化の普及に直面し、専門的知識は、「教育の使命の要である信仰、文化、生活の総合的なまとまりを失う」37ことなく、時代のニーズに対応するためのつねに新しいスキルを備える必要があります。知識はしっかりとした生涯養成によって支えられなければなりません。そうすることで、教師や学校の管理職にある人は、「豊富な機会を提供する学習環境を創造し、考案し、管理する能力」および「生徒の『知性』の多様性を尊重し、有意義で深みのある学習へと導く能力」38をもつことができるようになります。生徒が自分自身のこと、自分の適性、自分のうちに宿している力を知り、意識して人生を選択できるように寄り添うことも、ないがしろにされてはなりません。

30. カトリック学校は教会的な存在です。そのため、カトリック学校は「教会の福音宣教の使命に参与し、キリスト教的な教育を実践する特権をもった場」39なのです。加えて、教会は、三位一体の対話のダイナミックさに、神と人間の対話に、人と人との間の対話に根ざしているがゆえに、対話を構成的な次元とみなしています。カトリック学校は、その教会的性格から、この要素を自らのアイデンティティの構成要素として共有しています。ですから、「技術的な便宜としてではなく、他者との深いかかわり方として、『対話の文法』を実践しなければならない」40のです。対話は、自己のアイデンティティへの関心と、他者への理解、多様性の尊重を結びつけるものです。このようにして、カトリック学校は「人が対話を通して他者と建設的なしかたでかかわり、寛容を実践し、 自分とは異なる見方を理解し、真の和の精神の中で信頼を作り上げることによって、自己を表現し人間として成長する場となるのです。このような学校は、「真の教育共同体、多様なものが調和の中に共生する場です」41。教皇フランシスコは対話を助けるための3つの基本的な指標、「自分自身と他者のアイデンティティを尊重する義務、違いを受け入れる勇気、そして意図の誠実さ」を示しました。「なぜなら真の対話は、あいまいさや、相手を喜ばせるための善の犠牲の上には成り立たないからです。違いを受け入れる勇気が必要なのは、文化的・宗教的に異なる人々を敵として見たり扱ったりするのではなく、それぞれの善がすべての善の中にあるという真の確信をもって、同じ旅人として歓迎されるべきだからです。意図の誠実さが大切なのは、人間性の真の表現である対話は、特定の目標を達成するための戦略ではなく、むしろ、競争を協力に変えるために忍耐強く取り組まれるべき、真理への道だからです」42

出向いて行く教育

31. 現代の課題にあって、教皇フランシスコは、第二バチカン公会議に共鳴する形で、教育の中心的価値を認識しています。それは、「出向いて行く教会」のための広範な司牧プロジェクトの一部であり、「人々の歩みのあらゆる段階に寄り添い」、「批判的に考えることを教える教育、価値観の成熟へと導く教育」43においてその存在を実感させるものです。教育的な情熱をもって、教皇はいくつかの基本的な要素に注意を促します。

 「活動」としての教育

32. 教育は、活動のポリフォニーで成り立っています。まず第一に、それはチーム活動から始まります。だれもが、個人の才能と責任に応じて協力し、若い世代の養成と共通善の構築に貢献します。同時に、教育はエコロジー活動を引き出します。なぜなら教育は、自分自身の内的なバランス、他者との連帯、すべての生物との自然なバランス、神との霊的なバランスなど、さまざまなレベルのバランス回復に寄与するからです。さらに教育は、重要なインクルーシブ活動を生み出します。インクルージョンは「キリスト教の救いのメッセージの不可欠な部分」44であり、排除された人や弱い立場にある人々を引き寄せるという特性だけではなく、教育の方法そのものです。それを通して、教育は、調和と平和を生み出す平和構築の活動をはぐくみます45

 教育に関するグローバル・コンパクト

33. これらの活動は結束して、広範な教育的緊急事態に立ち向かいます46。それらの緊急事態は主に、教育機関、家族、個人の間の「教育の協定」の崩壊に起因しています。これらの緊張はまた、世代間の関係やコミュニケーションの危機、無関心の支配によって明らかになった社会の分断も反映しています。この急激な変化の中で、教皇フランシスコは、昨今の「新しい言語を生み出し、伝統的なパラダイムを分別なく捨てる、文化的かつ人類学的な変容」47に対応できる教育に関するグローバル・コンパクト(世界規模の協定)を提案しています。

34. 教育に関するグローバル・コンパクトの道筋は、人間相互間の現実的で、生きた、友愛に満ちた関係を大切にしていくことです。このようにして、長期的なプロジェクトが開始され、地域社会の教育サービスに身を投じる人々が形成されるのです。あかし、知識、対話に基づく具体的な教育法は、個人、社会、環境の変化の出発点です。このため、「専門の知識だけでなく、正義に基づいた人間的、霊的な知恵と、実践に移すことのできる高潔な行動を伝えることのできる、幅広い教育協定が必要です」48

35. 教育に関するグローバル・コンパクトの具体的な性質は、共同参画の調和を通じても示されます。それは、「だれもがそれぞれの特異性と責任から、この教育の課題に積極的にかかわることを可能にするプラットフォーム」49という形をとる深い関与の感性に由来します。時代を超えて多くの教育・訓練機関にいのちを与えてきた教育的カリスマをもつ修道家族にとって、この招きは大きな価値をもつものです。召命に影響している困難な状況は、ともに働き、経験を分かち合い、心を開き相互に認識する機会へと変えることができます。このようにして、共通の目的を見失うことなく、前向きなエネルギーを無駄にすることなく、「それぞれの時代と場所のニーズと課題に適応する」50ことが可能になるのです。

 ケアの文化のための教育

36. この適応能力は、ケアの文化の中にその存在意義を見いだすことができます。ケアの教育は「家庭で始まります。家庭は、社会の自然かつ基礎的な集団単位であり、かかわりの中で互いに尊重し合うことを学ぶ場です」51。家族関係は教育機関にも及び、教育機関は「個々人、言語、民族、宗教上の各共同体、各国民の尊厳、さらには、それらに由来する基本的な権利に対する尊厳に基づいた価値体系を伝えるよう求められています。教育はより公平で固く結ばれた社会の柱の一つなのです」52。ケアの文化は、地域レベルでも国際レベルでも、患者の声に耳を傾けることや、建設的な対話、相互理解に献身する人々を形成するための羅針盤となります53。このようにして、「兄弟愛のことばを話すことができる人類のための、“関係”という織物」54が作られるのです。


第2章
カトリックのアイデンティティの普及と
検証の責任主体



37. 「教育的使命は、教育共同体を形成するさまざまな当事者、すなわち、生徒、保護者、教師、教師以外の職員、学校管理者の間の協力の精神によって遂行されます」55。これらの人々と、その他の責任ある当事者56は、各人の仕事を通して、教育に関する教会の教えに触発された教育プロジェクトを普及させ検証し、さまざまなレベル―学校自体のレベル、神の民のカリスマ的な取り組みのレベル、聖職位階のレベル―でそれぞれに行動しているのです。

学校共同体

学校共同体のメンバー

38. 学校共同体全体は、教会性を表すものとして、また、教会の共同体の一部として、学校のカトリック教育プロジェクトを実施する責任があります。「ある学校が『カトリック』学校といえるのは、たとえその程度に差はあるにしても、その学校共同体のすべての成員が、キリスト教的人生観を心に抱きながら生きている場合である。それによって福音のいろいろな根本的な教えが、その学校の教育の規律、行動の内的動機、そして究極目的となるからである」57

39. すべての人が、教育プロジェクトに正式に示されている学校のカトリックとしてのアイデンティティを認識し、尊重し、あかしする義務があります。このことは、教師、教師以外の職員、生徒、保護者にも適用されます。入学時に、カトリック学校の教育プロジェクトについて、保護者と生徒の両者が認識できるようにしなければなりません58

40. 学校共同体は、生徒やその他の構成員の生命、尊厳、自由を確保する責任があり、そのために、未成年者やもっとも弱い立場の人々の地位を高め、保護するために必要なあらゆる手続きを整えなければなりません。それゆえ、教会法と民法の規範を厳格に適用し、違反や犯罪を一貫して罰し、生徒とその他の構成員を保護するための原則と価値を構築して行くことは、カトリック校のアイデンティティに不可欠な要素です59

 生徒と保護者

41. 生徒は、教育課程における積極的な主体です。成長するにつれて、彼らはますます自分達の教育の主人公となります。したがって、科学的な裏付けをもって定められた教育プログラムに従う責任を負わせるだけでなく、人間的現実という限られた地平線の向こうを見るように導かなければなりません60。事実、すべてのカトリック学校は「生徒が、信仰と文化とを統合するよう援助する」61のです。

42. 教育に関する最初の責任者は親であり、親は自分の子どもを教育する当然の権利と義務を有しています。親は、子どものカトリック教育を行うための手段や機関を選択する権利を有します(教会法第793条第1項、東方教会法第627条第2項参照)。また、カトリック信者の親は、子どもにカトリック教育を提供する義務があります。

43. この点で、学校は、教育機能を果たす上で、親にとって主要な助けとなります(教会法第796条第1項、東方教会法第631条第1項参照)。親が自分の子どもの教育をどの学校にゆだねるかは自由ですが(教会法第797条、東方教会法第627条第3項参照)、教会はすべての信者に、カトリック学校の発展を助け、その設立と維持に、それぞれの可能な範囲で援助することを推奨しています(教会法第800条第2項、東方教会法第631条第1項参照)。

44. 保護者は教師と緊密に協力し、学校共同体と自分の子どもに関する意思決定プロセスに関与し、学校の会合や会・団体に参加することが必要です(教会法第796条第2項、東方教会法第631条第1項参照)。このように、保護者は本来の教育的召命を果たすだけでなく、とくにカトリック校の場合、個人の信仰をもって教育プロジェクトに貢献することができるのです。

 教員と事務職員

45. 学校共同体のすべての構成員の中でも、教師は、とりわけ教育に対する特別な責任を負っています。教師らは、その教授法と教育学的スキルによって、また生活のあかしを通して、カトリック学校がその養成的なプロジェクトを実現することを可能にします。実際、カトリック学校における教師としての務めは、任務であり、教会職です(教会法第145条、東方教会法第936条第1項・第2項参照)。

46. したがって、教会の教義にのっとり、学校が教員の採用のために必要な基準を判断し、定めることが必要です。この基準は、事務職員も含め、すべての採用に適用されます。このため、関係当局は、採用しようとする者に、学校のカトリック的アイデンティティとその意味、およびそのアイデンティティを普及する責任について知らせることが求められます。採用された者が、カトリック学校の条件と教会共同体への帰属を遵守しない場合、学校は適切な措置を講じることになります。また、個々のケースのあらゆる状況を考慮し、解雇に踏み切ることもありえます。

47. 若い世代の養成において62、教師は正統な教理および誠実な生活において秀でていなければなりません(教会法第803条第2項、東方教会法第639条参照)。カトリック以外の教会、教会共同体、宗教に属する教員および事務職員、またいかなる宗教的信条も公言していない者は、雇用された時点から学校のカトリック的性格を認識し尊重する義務を負っています。しかし、カトリックの教員が多く存在することで、カトリック校のアイデンティティにのっとって策定された教育計画が確実に実施されることを心得る必要があります。

 学校の運営責任者(理事会)

48. 教師の教育的役割は、学校の理事会の役割と結びついています。「理事会は単なる組織の管理者ではありません。教会の司牧者たちとの関係に根ざした教会的・司牧的使命であるこの責任を率先して担うとき、その人々は真の教育指導者なのです」63

49. カトリック学校に関する教会法の規範に従い、理事会は、学校共同体全体と協力し、教会の司牧者と緊密に対話する責任があります。これは、公式な教育計画とともに、学校の教育使命に関するガイドラインを明らかにするためです。64実際、学校のあらゆる公式活動は、各自の良心の自由を十分に尊重しつつ、カトリックのアイデンティティに沿ったものでなければなりません65。このことは、学校のカリキュラムにも適用されます。カリキュラムは「学校共同体がその目標、目的、教育の内容、およびそれらを効果的に伝えるための手段を明示するもので、カリキュラムにおいて、学校の文化的・教育的アイデンティティが明らかにされます」66

50. 理事会の責任は、さらにカトリック共同体との結びつきを促進し守ることにもおよびます。それは、教会の聖職位階との交わりによって実現されます。すなわち、「カトリック学校の教会的性質は、学校としてのアイデンティティの中心に刻まれており、それが『教会の聖職位階との組織的なつながりを保つ理由であり、それは指導と教育がカトリック信仰の原則に基づき、正統な教理および誠実な生活を送る教師によって与えられることを保証する』(教会法第803条、東方教会法第632条、第639条参照)」67のです。

51. したがって、理事会は、教師や生徒がカトリック学校の普遍法、局地法もしくは固有法が求める基準に従わない場合、つねに適切で必要かつ十分な措置をもって介入する権利と義務を有します。

教会における教育に関するカリスマ

 カリスマの制度的な表れ

52. 教会の歴史を通じて、さまざまな現実がカトリック学校の設立に寄与してきました。とくに、さまざまな奉献生活の会や使徒的生活の会において、創立者に触発される形で、奉献生活者がカトリック学校を設立し、今も教育分野において効果的に存在しています。

53. 最近では、信徒も、その洗礼の召命によって、個人的に、あるいは信徒団体―私的会(教会法第321条-第329条、東方教会法第573条第2項参照)か公的会(教会法第312条-第320条、東方教会法第573条-第583条参照)かにかかわらず―で団結して、カトリック学校を設立したり運営したりするイニシアティブを取ってきています。また、信徒、奉献生活者、聖職者が共同で設立・運営する学校もあります。神の霊は、教会にさまざまな賜物をもたらし、神の民に召命を呼び起こし、若者の教育という使徒職を果たさせることを決して絶やしません。

 「カトリック」学校の定義

54. 学校における信徒、奉献生活者、聖職者の使徒職は、正統な教会的使徒職です。その使徒職は、運営部門から理事会、教師に至るまで、すべてのレベルで学校を「カトリック」と定義するために、教会の一致と交わりを必要とする奉仕です。

55. カトリック教会との一致と交わりは、たとえば奉献生活の会のように、学校が教会法上の公的法人が運営する学校の場合に明白に存在し、その結果、学校は法そのものにより「カトリック学校」とみなされます(教会法第803条第1項参照)。

56. 学校が個人の信者によって、あるいは信者の私的会によって運営されている場合、「カトリック学校」と定義されるためには、教会権威者による承認、すなわち、原則として管轄の教区司教/司教、総大司教、大大司教、自治権を有する管区大司教教会の管区大司教による承認、あるいは聖座による承認を必要とします(教会法第803条第1項、第3項、東方教会法第632条参照)。信徒のあらゆる使徒職は、信仰告白、諸秘跡および教会の統治のきずなによって示される教会との交わりの中で、つねに行使されなければなりません(教会法第205条、東方教会法第8条参照)。したがって、キリスト教における霊感によるあらゆる教育的使徒職は、権限ある教会権威者から具体的な承認を得ることが必要です。このようにして、信者は、自分たちが選んだ学校がカトリック教育を提供する学校であるという保証を得ることができます(教会法第794条第2項、第800条第2項、東方教会法第628条第2項、第631条第1項参照)。この点で、教会法第803条第3項および東方教会法第632条は、実質的にカトリックであっても、権限ある教会権威者の同意がなければ「カトリック学校」の名を冠してはならないと述べています。さらに教会法第216条と東方教会法第19条は、権限ある教会権威者の同意がないかぎり、いかなる活動も「カトリック」の名を冠してはならないと述べています。

57. 教育的使徒職活動において、教会法第803条と東方教会法第632条に規定されている公式な承認手続きを避ける目的でカトリックの称号をもたないために正式にカトリックと認められていない場合は、実際はカトリック学校であると表明することはできないと理解されなければなりません。承認されていないかぎり、客観的な基準が実際に満たされているかどうかを検証することは不可能です。したがって、教区司教は、そのような学校をフォローし、事実上カトリック機関の場合には、教会との目に見える交わりの表現として、そのような機関としての承認を申請するように勧める義務があるのです。

58. 「カトリック」という用語が違法に使用されている場合、あるいは、学校が教会との交わりの中にあるという印象を与えようとする場合、管轄の教区司教は、学校の運営者と理事会の意見を聞き、個々のケースを検討した後、この学校が教会によって認められ推奨されるカトリック学校ではないことを、文書で、また適切と判断した場合には、信者に知らせる目的で、公に宣言しなければなりません。

教会権威者の奉仕

 教区司教

59. 教区司教は、学校の「カトリック的」アイデンティティを識別する上で、中心的な役割を果たします。ヨハネ・パウロ二世によると、「司教は、部分教会全体の父であり牧者です。個々のカリスマを識別し、尊重し、カリスマを駆り立てて調整することは、司教の努めです」68。部分教会におけるさまざまなカリスマを整えるこの権能は、とりわけ、特定の具体的な行動において示されるものです。

a) 信徒によって設立された教育機関について、必要な識別と承認を行うのは、教区司教に任される(教会法第803条第1項、第3項、東方教会法第632条参照)。

b) (カトリックおよび東方正教会の)教区の権利である公的会の設立行為に関して、教育的使徒職活動のカリスマを識別し、教会的に承認するのは教区司教の任務である(教会法第312条第1項、第3項、第313条、第579条、第634条第1項、東方教会法第575条第1項1、第573条第1項、第423条、第435条、第506条、第556条、第566条参照)。それによって、その運営する学校は法的に「カトリック学校」であるとされる(教会法第803条第1項参照)。

c) 奉献生活の会または使徒的生活の会が、(カトリックおよび東方正教会の)教区の管轄内にカトリック学校を設立する場合、教区、教皇庁、総大司教の権利のいずれであっても、教区司教による書面による明確な同意が必要である(教会法第801条、および東方教会法第437条第2項、第509条第2項、第556条、第566条参照)。この同意書は、カトリック学校の設立を希望する他の公的法人にも必要である。

d) カトリック学校に関する普遍法および局地法の規範が適用されるようにすることは、教区司教の権利であり義務である。

e) 教区内のカトリック学校の一般的な組織に関する規定を与えるのは、教区司教の権利であり義務である。教導権と教会の規律に由来するこれらの規定は、学校経営の内部自治を尊重しなければならず、公的会、とくに修道者によって運営される学校、あるいは信徒によって運営される場合にも有効である(教会法第806条第1項、東方教会法第638条第1項参照)。これらの規定において、教区司教は、関係する民法を考慮しつつ、カトリック学校の規約やカリキュラムが教区司教の承認を必要とすると定めることができる69。教区司教は、教会の教義や規律に関する違反を見つけた場合、学校を運営するもの、たとえば、学校を運営する奉献生活の会の総長や理事会に、その是正を求めなければならない。修道会の総長への働きかけが無駄に終わった場合、教区司教は自らの権限で適切な措置をとることができる(教会法第683条第2項、東方教会法第415条第4項参照)。

f) 教区司教は、教区内のすべてのカトリック学校(教区の権利であるか、総大司教または教皇庁の権利であるかを問わず、奉献生活の会、使徒的生活の会、その他の公的会、私的会によって設立あるいは指導されている学校を含む)を訪問する権利と義務を有する(教会法第806条1項、東方教会法第638条第1項参照)。司教は少なくとも5年ごとに、個人的に、あるいは適法な障害がある場合には、司教総代理、協働司教、補佐司教、総代理、司教代理、または他の司祭を介して訪問しなければならない(教会法第396条第1項、東方教会法第205条第1項参照)。訪問者は、カトリック教育のさまざまな側面に真に精通している聖職者と信徒の両方を同行者として連れて行くことが望ましい。訪問は以下のようないくつかの分野にかかわる:「その学校で施される教育が、学問的見地からして、地域内の他の諸校で施されている教育と少なくとも同一程度のものである」(教会法第806条第2項)ためのカリキュラムの質、部分教会と普遍教会との交わりにおいて示される学校の教会性、学校の司牧活動と小教区との関係、学校の教育計画と教会の教義および規律との適合性、学校財産の管理(教会法第305条、第323条、第325条、第1276条第1項、東方教会法第577条、第1022条第1項参照)。訪問は次の3つの段階に分けられる。学校の現状について報告書を作成するよう求める準備段階、訪問中に発見した状況を報告書に記載し、権威ある方法で指示や勧告を行う訪問、訪問者の報告書に基づいて学校が指示・勧告を実行に移す第3段階である。

g) 教区司教は、教区内のすべてのカトリック学校(教区の権利であるか、総大司教または教皇庁の権利であるかを問わず、奉献生活の会、使徒的生活の会、その他の公的会、私的会によって設立あるいは指導されている学校を含む)を監督する権利と義務を有する(教会法第806条1項、東方教会法第638条第1項参照)。教区司教が監督の権利を行使する特権的な場は、公式訪問の時であるが、教区司教は適切と考える時にはいつでも介入することができ、教区内にある学校のカトリック的アイデンティティが深刻な影響を受けている時には必ず介入しなければならない。学校が教皇庁/総大司教の権限による公的会に拠る場合、教区司教は、教区内の司牧生活に責任を負っているので、教義、道徳、教会規範に反する事実が学校で起こっていることを知った場合、総長に対策を講じるよう警告しなければならない70。該当の権威者が対策を講じなかった場合、教区司教は教育省に訴えることができるが、もっとも深刻で緊急な場合には、司教自身が直接対策を講じる必要がある。

h) 教区司教、地区裁治権者は、教区内の宗教の教師を任命または承認する権利を有し、同様に、宗教上または道徳上の理由がある場合、教師を解任するか、解任するよう要請する権限を有する(教会法第805条、東方教会法第636条第2項参照)。

i) すべての教師は教会の使命に参加しているので、教区が運営するカトリック学校の場合は、教区司教が教師を解任することができる。その他の場合、教師が任命された条件が満たされなくなった場合、解任を要請することができる。司教は解任を正当なものとする理由と決定的な証拠を明示しなければならない(教会法第50条、第51条、東方教会法第1517条第1項、第1519条第2項参照)。また、つねに教師の抗弁の権利を尊重し、教会法に詳しい弁護士の助けを得て、書面で弁明する機会も与える(教会法第1483条、東方教会法第1141条参照)。また、教区司教は、その決定において、その教師が学校の教会的使命に沿って職務を継続することを可能にする、他の適切かつ必要で相応の手段がないことを示さなければならない。

 小教区と小教区の司祭

60. 部分教会のレベルでは、カトリック学校は直接に教区の管理下にあるか、または、小教区司祭によって代表される公的会としての小教区の管理下にあることがよくあります。この場合、教会の聖職位階は、カトリック学校に対する監督の義務を果たすだけでなく、その設立と指導に直接関与することができます。

 司教、奉献生活者、信徒の間の対話

61. 純粋な教会法的な側面に加えて、教区司教は、部分教会の司牧者として、カトリック学校の教育的使命に協力するすべての人々と対話する必要があります。この目的のために、第二バチカン公会議は「司教と修道会上長とは定期的に、また適当と思われるたびごとに会合をもち、その地域における使徒職全般に関する諸問題を協議するよう心掛けるべきである」71と推奨しています。「奉献生活の会や使徒的生活の会の上長と司教の継続的な対話は、相互理解を促進するためにもっとも重要です。このような相互理解は、とりわけ司牧の問題をめぐる効果的な協力のために必要な前提条件です。両者がこのように定期的に連絡を取ることによって、上長たちは、教区の中で計画している使徒的な仕事について司教に知らせることができ、こうして必要な実際の手順について合意が得られます」72

62. 相互の交流と信頼に基づく会話の中で、多くの問題は司教が正式に介入しなくても解決することができます。教区司教が責任をもたなければならないこの定期的な交流は、たとえば公的会の責任者や自らの使徒職としてカトリック学校を運営する信徒など、部分教会のカトリック学校に責任をもつ他のすべての人々とも行われるべきです。同様に、司教は、学校そのもの、とくに学校の管理者、教師、生徒との継続的な対話を維持する義務があります。

 司教協議会、世界代表司教会議、または聖職位階によって構成される評議会

63. 司教協議会、世界代表司教会議シノドス、または聖職位階によって構成される評議会は、カトリック学校に関して、また一般的に、すべての種類の学校における教育、とくに宗教教育に関して、権限をもっています。とくに、これらに関する一般規定を出すのは、司教協議会、世界代表司教会議、または聖職位階によって構成される評議会です(教会法第804条第1項参照)。司教協議会はとくに、本指針に一般論として示されているカトリック学校のアイデンティティの促進と検証の原則を、一般教令73によって地域の状況に適用することが推奨されます。さらに、それぞれの国の法制度に照らし合わせて、教会の規範を実施することが必要です。

64. カトリック学校を管轄する司教協議会、世界代表司教会議、または聖職位階によって構成される評議会は、学校の維持と発展のために、その地域でのそれぞれの計画も考慮しなければなりません。さらに、司教協議会、世界代表司教会議、または聖職位階によって構成される評議会は、カトリック学校の維持と発展のために、財政的余裕のある教区から必要な人々への支援を促進するように努めます。また、司教協議会、世界代表司教会議、または聖職位階によって構成される評議会は、共通の基金を設立することも可能です。この目的のために、司教協議会、世界代表司教会議、または聖職位階によって構成される評議会は、専門委員会の支援を受けながら、学校と教育に関する委員会を設立することが推奨されます。

 使徒座

65. 聖座は、カトリック学校に対して補完的な責任を負っています。一般的には、ローマ教皇は教育省に「教会の教導権によって示されたカトリック教育の基本原則が、神の民によってより深く研究され、支持され、知られるようにするためのあらゆる努力」74を尽くす任務を託しています。教育省は、カトリック学校がその使命を果たすための指針として、数多くの文書を発表しています75

66. さらに、教育省は「カトリック学校が統治されるための規範を定めます。カトリック学校が可能な場所において設立され、最大の注意を払って支援されるために、また、すべての学校において、適切な取り組みを通じて、要理教育的指導と司牧を提供できるように、教区司教はこれらを用いることができます」76。ローマ教皇の名において行使される学校に対する最上級の調整も、補完的な意味で、カトリック学校に関するこの法的権限に含まれます。このことは、教育省が検討する請願や要望が使徒座に提出されるとき、具体的な形で起こることです77。また、教育省は権利と正当な利益を主張するために法の規範に従って提出される申立ても審査します(教会法第1732条-第1739条、東方教会法第996条-第1006条参照)。この権限は、教育省が学校に対して直接権力を行使する場合にも認められ、とくに学校が教皇庁による公的会の管理下にある場合に起こりうることです。


第3章
いくつかの重要な点



67. 教育省は、提出される文書において、しばしば、教育機関のカトリック的アイデンティティについて異なる認識があることに気づきます。これは「カトリック」という用語の解釈が必ずしも正しくないことや、権限や法規が明確でないことが原因となっています。

「カトリック」という用語の解釈の相違

68. 基本的な問題は、「カトリック」という用語の具体的な適用方法にあります。この複雑な用語は、単に法的、形式的、教義的な基準によって容易に言い表せるものではありません。一方では限定的あるいは純粋に形式的な解釈があり、他方ではカトリックのアイデンティティをあいまいに、または狭い/閉鎖的な理解で捉えていることに、この問題のおもな原因があります。

 限定的な見方

69. カトリックのアイデンティティを生きている特定のカリスマは、カトリック信仰の本質的な原則、側面、要件を明示的あるいは事実上排除するようなカトリックの限定的な解釈を正当化するものではありません。さらに、カトリックらしさは特定の領域や特定の人物―たとえば、典礼的、霊的、社会的な場面や、学校のチャプレン、宗教科の教師、学校長の役割など―にのみ帰属させることはできません。これは、学校共同体全体およびその構成員一人ひとりの責任と矛盾することになります78。さらに、この責任を強調することによって、わたしたちは「完璧な平等主義社会」や判断に迷うような道徳や規律の完璧主義を導入しようとしているわけではありません。

 形式的な見方、カリスマ的な見方

70. 形式的な解釈によれば、カトリックのアイデンティティは、権限ある教会権威者の「教令」によって表明されます。この教令は、教会法上の身分を与え、教会法の規範に従いその財産と統治を認め、さらにその機関が設立された国での民事法的地位の可能性を認めるものです。このアイデンティティは、権限ある教会権威者による管理および承認によって保証され、問題が生じた場合には、聖座に訴えることができます。

71. 法的な定義に加え、「カトリック精神」、「キリスト教の感性」、「カリスマの発揮」を何よりも重要視する定義もあります。いずれの表現も定義があいまいで具体的とは言えず、現実的に検証することができません。これらの解釈によれば、教会法の適用も、正統な位階的権威の承認も必要ないとされます。仮に承認を受けたとしても、それは「象徴的」な価値しかもたず、あまり効果的ではないでしょう。修道会、奉献生活者の会、使徒的生活の会、カリスマ的グループが設立・運営する教育機関では、カリスマ性と教会への帰属の間に不均衡が生じていることがあります。状況によっては、「カトリック」という用語への言及が避けられ、別の法的用語が選択されることもあります。

 「狭い/閉鎖的な」見方

72. 解釈の相違が生じるもう一つの理由は、カトリック学校の「閉鎖的な様式」です。このような学校では、「完全な」カトリック教徒でない人たちが入る余地がありません。このような方針は、すべての人との対話を通して「出向いて行く教会」79の模範を教育領域にも適用しようとする「開かれた」カトリック学校のビジョンと矛盾しています。島に閉じこもって宣教の原動力を失ってはならず、同時に自らのキリスト者としてのアイデンティティに対する健全な自覚を培いながら、普遍的なカトリックの「文化」をあかしする勇気をもたなければなりません。

権限と法規の明確化

73. カトリックのアイデンティティをめぐる困難な状況は、時として、権限や法規が明確でないことから生じることがあります。このような場合、まず補完性の原則に従って、権限の公正なバランスを維持することが必要です。補完性の原則は、神の前での各個人の責任に基づくもので、権限の多様性と補完性を区別します。また、各人の責任は、自己評価とそれに続く「外部の専門家」との交流を通じて、各人が教育計画の主体となるための適切な手段によって支えられています。これらの手段はまた、カトリック教育分野での共同体を形成することができる地域・国・国際レベルでのさまざまな形態の団体や組織と同様に、教会的な一致を確立し、生き、促進するのに役立ちます。さらに、教育的使命のためのより平和で穏やかな協力を築くために、さまざまな指導者間の相互信頼が欠けてはなりません。対話する力、交わりの力は、確かにこの目的に寄与します。

74. 規約(訳註=日本では「寄附行為」にあたる)は、必要な明確性を確保するために重要な役割を果たします。規約が最新のものでなかったり、権限や新しい手続きを明確に定めていなかったり、一般的な状況を規制するあまりに硬直的で識別の余地がなかったり、現場レベルでしか見いだせない解決策のための柔軟性がなかったりすることがあります。

75. カトリックの教育機関が抱える法的および権限に関する問題は、教会と国家・民間という二重の規制枠組みがあるゆえに生じるものでもあります。関連する法律の目的が異なるため、公共の領域で活動するカトリックの教育機関に対し、教会の教義や規則の信頼性に疑問を投げかけるような不適切な振る舞いを国が課すということが起こりえます。また、世論が、カトリックの倫理原則に沿った対応を困難にしてしまうこともあります。

76. 国レベルでの規則(司教協議会、世界代表司教会議、または聖職位階によって構成される評議会)と、教会法と民法の観点から作成された施行法規によって、二つの法制度の解釈と適用における矛盾を克服するために必要なすべての要素が提供されることが望まれます。教会法は、その役割として、魂の救いという基本原則(教会法第1752条)に基づき、教育的使命にかかわる当事者間の交わりを保証するさまざまな方策を提供し、教会内部の一致の亀裂に関するスキャンダル、メンバー間の対話の欠如、国家法廷やマスメディアにおける争いの露呈に対する歯止めとして機能します。

77. 加えて、明確にするために、カトリック学校は、ミッション・ステートメントか行動規範のいずれかを備えなければなりません。これらは、組織的かつ専門的な質の保証の手段です。したがって、関係する両者にとって明確な法的効力をもつ雇用契約やその他の契約の形で、法的に補完されなければなりません。多くの国で、民法が宗教、性的指向、その他私生活の側面を理由とする「差別」を禁じていることは承知しています。同時に、教育機関には、価値基準のプロファイルや行動規範があることも認識されています。これらの価値観や行動が関係者によって尊重されない場合、関連する契約や機関のガイドラインに定められた条項に従わないという職業上の誠実さの欠如を理由に、その関係者は制裁を受けることがあります。

78. さらに、純粋な法規則だけでなく、その機関のアイデンティティに対する各個人の責任を促進するためにより適した他の手段も、しばしば効果を発揮します。たとえば、組織内での個人的、集団的な自己評価プロセス、望ましい資質レベルに関するガイドライン、生涯養成コース、専門的スキルの促進と強化、インセンティブと報酬、優れた実践例の収集・記録・研究などです。教会で責任を果たす者の立場からは、キリスト者の徳の表れとして、教育界のすべてのメンバーに対して慈愛と信頼を体現する風土を築き、実践することが、他のどんな態度や手段よりもはるかに効果的でしょう。

いくつかのデリケートな問題点と領域

79. 教育の営みの中では、起こりうる緊張や対立を解決するために、細心の注意と配慮を必要とする状況があります。まず、教師、職員、管理職の人選があります。さまざまな状況と可能性を考慮して、候補者の職業的資質、教会の教義への忠実さ、キリスト教的生活における一貫性に関して、識別のための明確な基準を設けることが必要です。

80. また、規則と教義の対立も起こりえます。このような状況は、カトリック教育機関の信用を失墜させ、共同体の中にスキャンダルをもたらす可能性があります。したがって、対立の性質と学校内外の反響の両面において、このような状況を軽視することはできません。取るべき措置の段階的かつ比例的な原則を念頭に置きながら、その地域の教会の現状に鑑みながら識別を始める必要があります。解雇は最後の選択肢とされるべきで、解決のための他のすべての措置が機能しなかった場合にのみ合法的に行われるべきものです。

81. また、国の法律が、信教の自由や学校のカトリック的アイデンティティと反するようなことを課す場合もあります。管轄権が別である点を尊重しつつも、公的機関との対話を通じて、あるいは管轄する裁判所に頼るなどして、カトリック信者とカトリック校の権利を合理的に守ることが必要です。

82. 地方教会においては、共同体のメンバー(司教、小教区の司祭、奉献生活者、保護者、学校の指導者、団体など)が、学校の存続の可能性、経済的持続性、新しい教育課題について異なる意見をもつときに、問題が生じることがあります。繰り返しますが、これらの問題を解決する主要な方法は対話しともに歩むことで、それは教会の位階的性格を念頭に置き、異なる権限を尊重しながら行われます。

83. 経営難によるカトリック学校の閉鎖や法人格の変更は、つねに相反する反応を引き起こします。この問題の解決のために、第一に、建物や不動産の売却を視野に入れて経済的価値を検討するべきではなく、経済的利益の原資を作るためにカトリック教育の原則からかけ離れた団体に経営をゆだねるべきではありません。実際、教会の財産は、使徒的活動および愛徳の活動、とりわけ貧しい者に対する活動のためという本来の目的の追求のためにあります(教会法第1254条第2項、東方教会法第1007条参照)。したがって、教区もしくは小教区の学校の場合、司教は、教育奉仕を継続させるためのあらゆる解決策を見極めるために、関係者全員に相談する責任があります。修道者や信徒が運営する教育機関の場合、閉鎖や譲渡を行う前に、司教に相談し、教育分野の共同体とともに、その尊い使命を継続するための実行可能な方法を見つけることが非常に大切です。

カトリックのアイデンティティを強化するための出会いと集結

84. カトリックのアイデンティティは出会いの場であり、考え方や行動を集結させるためのツールであるべきです。このように、異なる視点こそが、起こりうる重要な問題を解決し、分かち合うことのできる解決策を見いだすのに適した方法論を開発するための情報資源となり、基本的な原理となるのです。

85. このような姿勢については、ヨハネ二十三世の最初の回勅にすでに書かれており、「カトリック教会は多くの問題について、……議論の余地を残している」80と述べています。このような観点から、ある事例が教会権威者の側からの直接的な介入を必要とするかどうかは、慎重に検討されなければなりません。なぜなら、「『本質的なことでは一致を、疑わしきことには自由を、すべてのことには慈愛を』という、よく知られ、さまざまな形で表現され、さまざまな著者のことばとされるこの美しい格言を決して忘れてはならない」81からです。

 一致の建設者であること

86. この観点から、教皇フランシスコは、今日の教会のために、社会教説のいくつかの原則を再び提示し、起こりうる対立の状況の中で、より良い結果を得ようとする思いが勝るように、教育分野において実行可能な方法を見いだすようわたしたちを招いています82。対立の解決につながらないある種の態度がある中で、教皇は対立を超える一致という最善の道を提案します。「対立を前にして、ただそれを眺めるだけで、何事もないかのように先へと進んでしまう人がいます。自らの生活を維持するために、そこから手を引いてしまうのです。また、対立に、それにとらわれたままの状態で加わり、地平を見失い、自分の混乱と不満を制度にぶつけて、一致を不可能なことにしてしまう人もいます。しかし、第三の道があります。対立を前にしての最善の道です。対立に耐えてそれを解決し、新しい道のりの連なりへと、それを変貌させるのです。『平和を実現する人々は幸いである』(マタイ5・9)」83

87. もっとも深刻な対立であっても、福音に基づく生きた信仰の一致が状況を導く羅針盤であり続けます。この流れの中で、包括的かつ永続的なコミュニケーションを通じ、真の対話の文化への扉が開かれるのです。部分教会と普遍教会の教育共同体における対話とコミュニケーションの実践は、対立が生じる前から確立され、促進され、実践されなければなりません。また、対立の最中でも守られ、培われ、必要であれば再確立されなければならないのです。内部の直接的なコミュニケーションの役割は、外部の人物や機関、マスメディア、世論によって取って代わられることはありません。対立が起きたときに、他の、しばしば不慣れで知識のない人々がコミュニケーションや行動の方針を決めてしまうリスクを回避するために、コミュニケーションと一致のための戦略が必要です。

 発展のプロセスを生み出すものであること

88. 「時は空間に勝る」というもう一つの原則に沿って、教皇は地位や権力の及ぶ空間を守ることよりも「プロセスを始動する」ことを提案しています84。事実、完璧な解決策を求め、その達成のために情熱的に戦う人々の行いは、その歩みがしばしば非現実的で、その試みによってその対立の解決をさらに損ねる危険性をもっています。

89. ある問題を解決しようとするとき、提案され、検討された解決策が、主に自分の立場を守るためのものなのか、それともさらなる発展のプロセスを生み出す前向きなダイナミズムを生み出すことができるものなのかを自らに問う必要があります。この点で、教会法は、魂の救いの原則をつねに守りながら、事前の警告、制裁の的確性、個々における客観的な限界に対応する一定の斬新性など、懲戒および処罰の段階的な適用を目指す道筋を提供しています。

90. さらに、実りあるプロセスを開始するためには、人間的、霊的、法律的、主観的、実用的な側面を結集した深い識別が必要です。司教の「自己の領域内に設置されているカトリック校について、修道会の会員によって設立され運営されている学校であっても、それを監督し、視察する」という義務および権利を損なってはならないとはいえ、カトリックのアイデンティティに関する問題について性急に表明することは問題の解決には役立ちません。教育機関におけるカトリック的アイデンティティからの逸脱の疑いに関する措置は、正当であり必要なことであっても、教会全体とその使命に対する大きな客観的損害を回避する他の可能性が全くない場合の最後の手段であり続けるべきです。

91. ますますグローバル化する世界では、地域の事情に関連した特定の決定でさえ、普遍的な教会に影響を及ぼすことを過小評価してはなりません。権限ある教会権威者が実質的な解決策を見いだせない場合、すべての関係者の協議、教会法および民法上のすべての側面、ある決定と一致または対立する可能性のある第三者の権利、さらにその決定が教育分野における他の教会の取り組みや世論に与える影響を考慮し、正規のプロセスを開始しなければなりません。

 現実的かつ持続的な解決策の構築者であること

92. 対立の中では、時としてある特定の問題の側面が、原理や理念に関する議論の対象になってしまうことがあります。このような誤りに陥らないためには、「現実は理念に勝る」85という原則が役立ちます。この意味で、解決策は、その地域の現実に直接根ざし、そのすべての要素に通じている人々を巻き込み、可能なかぎりもっとも身近なレベルで練られるべきです。したがって、教会内部の対立を他の法制度にゆだねることは、法律で明確に要求されている場合を除き、避けるのが良いでしょう。現地での解決がより即効性があり持続可能であるため、上位の教会権威者に即座に頼ることも避けるべきです。とはいえ、教会のすべての信徒は、使徒座に訴える権利を保持しています86

93. 最後に、「全体は部分に勝る」87という原則に従って、教会内の自然な緊張関係を解決するために働く人々は、一つの対立であっても、教会の他の地域やレベルに影響を及ぼしうることを考慮しなければなりません。したがって、慎重に振る舞うことがもっとも重要であり、信頼を得られるのです。決定され、適用されるいかなる解決策も、人々と組織の間の協力の実りと信頼のある可能性を損なわないように、長期的な視野で検討されなければなりません。関係する人々は、教会がこの世界に教育的奉仕を提供できるように、ともに歩むよう召されているのです。


結び



94. 教育機関のカトリック的アイデンティティに関するこの指針を発表するにあたり、教育省は、奉仕の精神に基づき、教会の宣教的変容を共有するための考察といくつかのガイドラインに貢献することを願っています。なぜなら、「現代の教会が、あらゆる人に、あらゆる場所で、あらゆる機会に、ためらうことなく、嫌がることなく、恐れることなく、福音を告げるために出向いて行くことは重要」88だからです。

95. 教皇フランシスコは、信仰と理性と科学の出会いというテーマを取り上げる中で、「たえず福音の明白な告知と教育を結びつける努力をしているカトリック校は、文化の福音化に貴重な貢献をなしています。それは、わたしたちがふさわしい方法を探すために創造性を発揮しなければならないような、困難な状況にある国や都市においても同じです」89と強調しています。

96. これらの使徒的勧告に照らして、この指針は、学校のカトリック的アイデンティティという本質的な基準から出発し、わたしたちが生きている時代の変革期において、世界が母であり教師である教会に投げかけてくる新しい課題に対応するために、カトリック学校の刷新に同伴したいと願っています。教皇フランシスコは、教皇ヨハネ・パウロ二世の印象的な文章を引用して、次のように回想しています。「もし、人間が自らの完全な自己認識を獲得するために従うべき超越的真理というものが存在しないなら、人々の間に公正な関係を保障する確かな原則も存在しません。個々の階級、集団、民族の自己利益は、互いに対立するものとなることは避けられないでしょう。もし、人が超越的真理を認めないなら、そのとき、権力がこれに取って代わり、個々の人は他者の権利も顧みず、可能なあらゆる手段を利用して自分の利益、自分の意思を通そうとするでしょう。……このように、近代の全体主義の根は、人間―それは見えない神の見える似姿であり、それゆえ本性的に、いかなる個人、集団、階級、民族、国家も侵すことのできない権利の主体であります―の超越的尊厳の否定に見いだされるのです。社会の多数派であっても、少数派に対して、彼らを孤立させ、弾圧し、搾取し、あるいは絶滅させようと企てることによって、これらの権利を侵害することは許されません」90

97. 教育省は、教育機関にかかわっておられる皆様の心遣いと努力に深い感謝の意を表し、教育プロジェクトのカトリック的アイデンティティが、「若い世代のために、また若い世代とともに献身し、忍耐強い傾聴、建設的対話、より良い相互理解を含む、よりオープンで包括的な教育への情熱を新たにする」91教育に関するグローバル・コンパクトの実現に寄与することを期待しています。

 バチカン、2022年1月25日、聖パウロの回心の祝日

教皇庁教育省長官
ジュゼッペ・ベルサルディ枢機卿

同省次官
アンジェロ・ビンチェンツォ・ツァーニ大司教