
教皇レオ十四世、2025年5月28日の一般謁見演説
わたしたちの希望であるイエス・キリストについての連続講話
Ⅱ イエスの生涯――たとえ話
7.善いサマリア人。
「その人を見て憐れに思い」(ルカ10・33b)
「この数日間、わたしの思いはしばしば、市民と基幹施設が深刻な攻撃を受けている、ウクライナの人々に向かっています。わたしは、すべての犠牲者、とくに子どもと家族に寄り添い、祈ることを約束します。戦争をやめ、あらゆる対話と平和の取り組みを支えるように、改めて強く呼びかけを行います。すべての人にお願いします。ウクライナと、戦争によって苦しむすべての地の平和のために心を一つにして祈ってください。
ガザ地区では、子どもの遺体を抱きしめ、絶えずわずかな食料と爆撃からの安全な避難場所を求めることを強いられる母親と父親の叫び声がますます強く天に上げられています。政治指導者たちに改めて呼びかけます。停戦を行い、すべての捕虜を解放し、人道的法律を完全に尊重してください。」
親愛なる兄弟姉妹の皆様。
福音のいくつかのたとえ話に関する考察を続けます。それらは、ものの見方を変え、希望に心を開かせてくれるからです。時として、希望の喪失は、ある種の固定した狭い物の見方に固執することに由来します。たとえ話は、わたしたちが別の観点から物事を見るための助けとなります。
今日は、一人の有能な専門家である律法学者について皆様にお話しします。しかし、彼はものの見方を変える必要があります。なぜなら、自分のことばかり考えて、他の人に気づかないからです(ルカ10・25-37参照)。実際、彼はイエスに、永遠のいのちを「受け継ぐ」方法について尋ねます。その際、彼は、明確な権利を意味する表現を用います。しかし、この問いの背後には、注意を必要とすることが隠れているように思われます。彼がイエスに説明を求めた唯一のことばは、「隣人」です。「隣人」とは、そばにいる人のことです。
そのためにイエスは、一つのたとえ話を語ります。このたとえ話は、質問を変えて、「誰がわたしを愛そうとしてくれるか」から「誰が愛そうとしたか」へと移行するための道です。前者は未熟な問いであり、後者は、自分の人生の意味を理解した大人の問いです。前者の問いは、隅に座って待つ人の発する問いであり、後者の問いは、わたしたちに道を歩み始めるように促す問いです。
実際、イエスが語ったたとえ話は、まさに道を舞台としています。それは、人生と同じように、困難で近づきがたい道です。それは、山の上にあるエルサレムから、海抜より低いエリコへと下って行く人が通る道でした。それは、これから起こることをすでに前もって示すたとえです。実際、この人は、襲われ、殴られ、奪われ、半殺しにされます。それは、状況や、時としてわたしたちが信頼していた人までもが、わたしたちからすべてを奪い、道の真ん中に置き去りにするという経験です。
しかし、人生は出会いによって作られます。そして、この出会いの中で、わたしたちの真の姿が現れます。わたしたちは他者の前に立ち、他者のもろさや弱さを目にします。そして、なすべきことを決断することができます。すなわち、その人の世話をするか、何事もなかったかのようなふりをするかです。祭司とレビ人は、同じ道を下りました。彼らは、エルサレムの神殿で奉仕し、聖なる場所に住む人々です。にもかかわらず、礼拝の実践が、自動的に憐れみをもたらすことはありません。実際、憐れみは、宗教の問題である以前に、人間性の問題です。わたしたちは、信仰者である以前に、人間であることを求められているのです。
わたしたちは次のように想像することができます。あの祭司とレビ人は、エルサレムに長くとどまった後、急いで家路に着いていました。実際、わたしたちの人生で見られるとおり、まさに急ぐことが、わたしたちが憐れみを示すことをしばしば妨げます。自分の旅を優先しなければならないと考える人は、他人のために立ち止まろうとしません。
しかし、ここに実際に立ち止まることができる人が登場します。それはサマリア人です。彼はさげすまれた民に属する人でした(王下17章参照)。この人について、テキストは、どこに向かっていたのかをはっきり書かず、たんに旅をしていたと述べます。ここでは宗教は関係がありません。このサマリア人は、たんに助けを必要とする他の人を前にしたがゆえに、立ち止まるのです。
憐れみは具体的な行動によって示されます。福音書記者ルカは、サマリア人がしたことを詳しく述べます。わたしたちは彼を「善いサマリア人」と呼びますが、テキストの中で、このサマリア人は一人の人にすぎません。サマリア人は、近づきます。なぜなら、誰かを助けたいと思うなら、距離を保とうとは考えません。あなたは関わり、汚れ、もしかすると汚れまみれにならなければならないかもしれません。サマリア人は傷口を油とぶどう酒できれいにしてから包帯をしました。その人を自分のろばに乗せました。すなわち、重荷を負いました。なぜなら、真に人を助けたいなら、人の苦しみの重みを進んで感じなければならないからです。サマリア人はその人を宿に連れて行き、「デナリオン銀貨二枚」の金を払います。それは二日分の賃金に相当しました。サマリア人は、戻って来て、必要ならさらに支払うことを約束しました。なぜなら、他者は、配達すべき荷物ではなく、ケアすべき人だからです。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちも、旅を中断して、憐れみを示すことができるのは、どんなときでしょうか。それは、路上にいる傷ついた人とは、わたしたち一人一人のことだと気づくときです。そして、イエスが立ち止まってわたしたちの世話をしてくださったすべての時を思い起こすなら、わたしたちはいっそう憐れみ深くなることができるのです。
それゆえ、祈りたいと思います。わたしたちが人間性において成長し、それによって、わたしたちの人間関係がいっそう真実なもの、憐れみに満ちたものとなることができますように。イエスのみ心に、わたしたちがますますイエスと同じ思いを抱く恵みを願いたいと思います。