
教皇レオ十四世、2025年6月11日の一般謁見演説
わたしたちの希望であるイエス・キリストについての連続講話
Ⅱ イエスの生涯――癒やし
9.バルティマイ。
「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」(マコ10・49)
講話の後に、教皇は、10日(火)にオーストリア南部の町グラーツのドライアーシュッツェンガッセ高校で発生した銃撃事件により10名の生徒が死亡したことを受けて、イタリア語で次の呼びかけを行った。
「グラーツで起こった悲劇の犠牲者のために祈ることを約束します。わたしは亡くなった方のご家族、教師、級友の皆様に寄り添います。主がご自身の平和のうちにこれらの子どもたちを受け入れてくださいますように。」
親愛なる兄弟姉妹の皆様。
この講話で、イエスの生涯のもう一つの本質的な側面に目を向けたいと思います。すなわち、イエスのいやしです。そのため、わたしは皆様に、ご自身のもっとも苦しく、もろい部分を、すなわち、皆様が人生で行き詰まりを感じた場所を、イエスのみ心の前に示すことをお願いします。わたしたちの叫びを聞き、わたしたちをいやしてくださるように、信頼をもって主に願いたいと思います。
今日の考察の中でわたしたちに同伴する人物は、たとえ自分が迷子になったと感じるときも、決して希望を捨てる必要がないことを理解するための助けとなってくれます。それは、バルティマイという、イエスがエリコで出会った、盲人の物乞いです(マコ10・46-52参照)。この場所は重要です。イエスはエルサレムに向かっていましたが、その旅路を、エリコという、いわば「下方」から始めます。エリコは海抜以下にある町だったからです。実際、イエスは、その死によって、アダムを取り戻しに行きました。アダムは地底に落ち、わたしたち皆を代表するからです。
バルティマイは「ティマイの子」を意味します。この人は人との関係によって記されますが、悲惨なほど孤独でした。しかし、この名は、彼が置かれていた状況とは反対に、「ほまれの子」あるいは「驚異の子」をも意味することがありました(1)。名はユダヤ教文化の中できわめて重要なので、これは、バルティマイがあるべき姿を生きることができないでいることを表そうとしています。
さらに、イエスの後を歩む群衆の激しい動きとは異なり、バルティマイはじっとしています。福音書記者は、彼が道端に座っていたと述べます。それゆえ、彼は、誰かに足を治してもらい、再び歩めるように助けてもらうことを必要としていました。
出口がないように思われる状況に置かれたとき、わたしたちはどうすることができるでしょうか。バルティマイは、自分たちの中にあり、自分たちの一部である源泉に呼びかけることを、わたしたちに教えます。彼は物乞いであり、願うことを知っています。それどころか、彼は叫ぶことができます。もしあなたが本当に何かを欲するなら、他の人があなたをとがめ、さげすみ、放っておくように言ったとしても、そのものを得るために何でもします。本当にそれを望むなら、叫び続けるべきなのです。
マルコ福音書記者が伝える、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(47節)というバルティマイの叫びは、東方の伝統の中できわめて有名な祈りになりました。わたしたちもそれを用いることができます。「主イエス・キリスト、神の子、罪人であるわたしを憐れんでください」。
バルティマイは盲人でしたが、逆説的にも、他の人よりも良く見ることができ、誰がイエスであるかを認めることができました。彼の叫びを前にして、イエスは立ち止まり、彼を呼ばせました(49節参照)。なぜなら、たとえわたしたちが神に呼びかけていることを自覚しないときでさえも、神に聞かれない叫びはないからです。(出2・23参照)。盲人を前にして、イエスがすぐに彼のもとに行かなかったことは不思議に思われます。しかし、考えてみるなら、それこそがバルティマイの人生を復活させるための方法なのです。イエスは、彼が再び立ち上がるように促します。イエスは、彼が歩む可能性を信じるのです。この男は、再び自分の足で立ち上がり、死の状況から復活することができました。しかし、そのために、この男は、きわめて意味深い行動をとらなければなりません。彼は上着を脱ぎ棄てなければならないのです(60節参照)。
物乞いにとって、上着はすべてでした。それは安全であり、家であり、彼を守るものでした。律法も、物乞いの上着を擁護し、質にとった場合は、夜までに返さなければならないと命じていました(出22・25参照)。にもかかわらず、多くの場合、わたしたちを妨げるものが、わたしたちの安全のように見えます。自分を守るために身に着けたものが、反対に、わたしたちの歩みを妨げます。イエスのもとに生き、いやしていただくために、バルティマイは自分の弱さをすべてさらさなければなりませんでした。これが、あらゆるいやしの道にとって、根本的な第一歩なのです。
イエスが行った問いかけも不思議に思われます。「何をしてほしいのか」(51節)。しかし、実際には、自分の病気が治るのを望むことは、当然のことではありません。時として、責任をとらずにすむために、そのままでいることを望むことがあります。バルティマイの答えは意味深いものです。彼はアナブレペインという動詞を用います。それは、「再び見る」ことを意味しますが、「目を上げる」とも翻訳できます。実際、バルティマイは視力を回復することだけを望みませんでした。彼は自分の尊厳を取り戻すことを望むのです。わたしたちは、高いところを見るために、頭を上げなければなりません。時として、人は、人生が辱められ、自分の価値を再発見することだけを望むがゆえに、歩めなくなるのです。
バルティマイと、わたしたち一人一人を救うのは、信仰です。イエスは、わたしたちが自由になるために、わたしたちをいやされます。イエスはバルティマイに、自分について来るように招きませんでした。むしろイエスは、行って、再び歩むようにと命じます(52節参照)。しかし、マルコは、バルティマイがイエスに従ったと述べて、物語を結びます。彼は、道であるかたに従うことを自由に選んだのです。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。信頼をもって、自分たちの病と、自分たちの愛する者の病を、イエスのみ前に示そうではありませんか。道に迷い、出口が見つからないと感じる人々の苦しみを担おうではありませんか。彼らのためにも叫ぼうではありませんか。そして、主がわたしたちの声を聞き、立ち止まってくださることを確信しようではありませんか。
注
(1)これはアウグスティヌス『福音書記者の調和』(De consensus evangelistarum 2, 65, 125: PL 34, 1138)によって示された解釈でもある。
略号
PL Patrologia Latina