教皇レオ十四世、2025年6月18日、一般謁見演説 わたしたちの希望であるイエス・キリストについての連続講話 Ⅱ イエスの生涯――癒やし 10.体の麻痺した人の癒やし。 「イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた。」(ヨハ5・2-9)

 

教皇レオ十四世、2025年6月18日の一般謁見演説
わたしたちの希望であるイエス・キリストについての連続講話

Ⅱ イエスの生涯――癒やし
10.体の麻痺した人の癒やし。
「イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた。」(ヨハ5・2-9)

2025年6月18日(水)午前10時(日本時間同日午後5時)からサンピエトロ広場で行った一般謁見演説(原文イタリア語)。

講話の後に、教皇はイタリア語で、「ウクライナ、イラン、イスラエル、ガザから上がる叫び声」を前にして、平和を求める次の呼びかけを行った。

親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 教会の心は、戦争の地、とくにウクライナ、イラン、イスラエル、ガザから上がる叫び声に切り裂かれています。わたしたちは戦争に慣れてはなりません。むしろ、強力で洗練された武器を用いる誘惑を拒絶する必要があります。実際、現代の戦争においては「あらゆる種類の科学兵器が用いられ、戦争はますます激烈なものとなり、戦闘員を過去の時代をはるかに越える残虐さに導くおそれがある」(第二バチカン公会議『現代世界憲章』79[Gaudium et spes])のです。それゆえ、人間の尊厳と国際法の名において、わたしは教皇フランシスコがしばしば述べたことを、責任のある人々に繰り返して述べます。「戦争は常に敗北です」。そして、ピオ十二世とともにいいます。「平和によって失われるものは何もありません。すべてのものが戦争によって失われます」。

なお、教皇公邸管理部は6月17日(火)、教皇の夏季の予定について発表した。
教皇は7月6日(日)午後からカステル・ガンドルフォの教皇別荘で休暇をとる。
7月13日(火)午前10時から、カステル・ガンドルフォのビリャヌエバの聖トマス小教区でミサをささげ、正午に教皇公邸前のリベルタ広場で「お告げの祈り」を行う。7月20日(日)午前9時30分からアルバノ司教座聖堂でミサをささげ、正午に教皇公邸前のリベルタ広場で「お告げの祈り」を行う。午後、バチカンに戻る。
7月中、すべての個別謁見と、2日、9日、16日、23日の水曜一般謁見は行われない。一般謁見は7月30日(水)に再開される。
8月15日(金)午前10時からカステル・ガンドルフォ小教区でミサをささげ、正午にリベルタ広場で「お告げの祈り」を行う。
8月17日(日)正午にカステル・ガンドルフォのリベルタ広場で「お告げの祈り」を行い、午後、バチカンに戻る。



 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 人を癒やすイエスの観想を続けます。とくにわたしは、わたしたちが「身動きがとれず」、袋小路に陥ったように感じる状況について考えるように皆様を招きます。実際、時として、希望し続けることが無駄に思われることがあります。わたしたちは諦め、もはや戦う意欲を失います。このような状況が福音書の中では体の麻痺した人のたとえで述べられます。そのためわたしは今日、聖ヨハネによる福音書の5章で語られた、体の麻痺した人の癒やしに目を留めたいと思います。

 イエスはユダヤ人の祭りのためにエルサレムに上ります。イエスはすぐに神殿に行きません。その代わりに、一つの門の前に立ち止まります。それはおそらく、犠牲にささげられる前に羊が洗われる場所だったと思われます。この門のそばには多くの病人が横たわっていました。彼らは、羊と異なり、神殿から締め出されていました。なぜなら、汚れていると考えられたからです。そこで、イエスご自身が彼らの苦しみに近づきました。これらの人々は、自分たちの運命を変える奇跡を期待していました。実際、門の傍らには一つの池があり、その水は奇跡を起こす、すなわち病気を癒やすことができると考えられていました。当時の信仰によれば、水が動いた瞬間に、最初に水に浸かった人が癒やされると考えられていました。

 こうして一種の「貧しい人の争い」が起こりました。わたしたちはこの病人たちの悲しむべき光景を想像することができます。彼らは水に入るために苦労して体を引きずりました。この池は「ベトザタ」と呼ばれていました。これは「憐れみの家」という意味です。それは教会のイメージとなりえます。そこには、病気の人や貧しい人が集まり、主が癒やしと希望を与えるために来てくださいます。

 イエスは、とくに38年間、体の麻痺していた人に呼びかけます。彼はもはや諦めていました。なぜなら、水が動くとき、池に入ることができなかったからです(7節参照)。実際、多くの場合、わたしたちの体を麻痺させるものは、失望です。わたしたちは、落胆すると、無気力に陥るおそれがあります。

 イエスはこの体の麻痺した人に問いかけます。この問いは無意味なように思われるかもしれません。「良くなりたいか」(6節)。しかし、この問いは必要なものです。なぜなら、何年もの間、身動きが取れずにいると、癒やされたいという意志さえも失ってしまうことがあるからです。わたしたちは時として病気の状態にとどまることを選びます。他の人に自分の世話をさせるためです。時としてそれは、自分の人生をどうするか決断しないための言い訳となります。しかし、イエスは、この人を自分の真の深い望みへと立ち戻らせます。

 実際、この人はイエスの問いにはっきりと答えます。彼は自分の真の人生観を明らかにします。彼はまず、自分を池に入れてくれる人がいないといいます。それゆえ、それは彼の責任ではなく、彼の世話をしてくれない他人の責任です。このような態度は、本来の責任をとるのを避ける言い訳になります。しかし、彼を助けてくれる人がいなかったというのは本当でしょうか。ここに、聖アウグスティヌスの洞察に満ちた答えがあります。「確かに、癒やされるために、一人の人が絶対に必要であった。しかし、必要としたのは、神でもある人であった。〔……〕それゆえ、必要な人が到来した。なぜ癒やしを遅らせることがあるだろうか」(1)。

 体の麻痺した人は、さらに付け加えていいます。池に入ろうとすると、いつも自分より先に着いた人がいますと。この人は運命論的な人生観を表明しています。わたしたちも、このようなことが起こったのは、ついていなかったからだ、運が向かなかったからだと考えます。この人は落胆していました。自分は人生の戦いに敗れたと感じていました。

 しかし、イエスは、彼の人生が彼の手の中にあることを見いだせるように、その人を助けます。イエスはその人を招きます。起き上がりなさい。慢性的な状況から立ち上がりなさい。床を担ぎなさいと(8節参照)。床は、放置されることも、投げ捨てられることもありません。床は、その人の病気の過去を、その人の歴史を表します。そのときまで、過去はその人を身動きがとれずにしていました。死人のように横たわるのを余儀なくしていました。今や彼は、この床を担ぎ、望むところにそれを運ぶことができます。彼は自分の人生で何をするかを決めることができるのです。それは、歩くことです。どの道を行くかを決める責任をとることです。それはイエスのおかげでできたことです。

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。自分たちの人生がどこで身動きがとれなくなっているかを悟るたまものを、主に願おうではありませんか。癒やしていただきたいという望みを声に出そうではありませんか。体の麻痺した人、出口を見失ったすべての人のために祈ろうではありませんか。まことの憐れみの家である、キリストのみ心に立ち帰って住む恵みを、願おうではありませんか。


(1)『説教』(Sermo 17, 7)