教皇レオ十四世、2025年6月25日、一般謁見演説 わたしたちの希望であるイエス・キリストについての連続講話 Ⅱ イエスの生涯――癒やし 11.出血の止まらない女とヤイロの娘。 「恐れることはない。ただ信じなさい」(マコ5・36)

 

教皇レオ十四世、2025年6月25日の一般謁見演説
わたしたちの希望であるイエス・キリストについての連続講話

Ⅱ イエスの生涯――癒やし
11.出血の止まらない女とヤイロの娘。
「恐れることはない。ただ信じなさい」(マコ5・36)

2025年6月25日(水)午前9時30分(日本時間同日午後4時30分)からサンピエトロ広場で行った一般謁見演説(原文イタリア語)。

講話の後に、教皇はイタリア語で、22日(日)に起きた、シリア・ダマスカスのマール・エリアス教会のギリシア正教会共同体に対するテロの犠牲者への祈りを約束し、国際社会にシリアから目をそらさないように呼びかけた。最後に、イラン、イスラエル、パレスチナの紛争に関して新たな平和の呼びかけを行った。

先の日曜日に、ダマスカスのマール・エリアス教会のギリシア正教会共同体に対して卑劣なテロ攻撃が行われました。犠牲者の方々を神の憐れみにゆだね、けがをした方とご家族のために祈ります。中東のキリスト者の皆様に申し上げます。わたしは皆様に寄り添います。全教会は皆様に寄り添います。

この悲惨な出来事は、長年の紛争と不安定さの後に、今なおシリアに残る深い脆弱さを思い起こさせます。それゆえ、根本的なことは、国際社会がこの国から目をそらさず、連帯の姿勢と、平和と和解のための新たな取り組みを通して、シリアへの支援を継続することです。

注意と希望をもって、イラン、イスラエル、パレスチナの状況の進展を追い続けています。預言者イザヤのことばが、かつてないほどの緊急性をもって鳴り響きます。「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(イザ2・4)。いと高き方から来るこの声に人々が耳を傾けますように。最近の日々の流血の行為によって生じた傷が癒やされますように。傲慢と復讐の論理を拒絶し、対話と外交と平和の道を決然と選ぼうではありませんか。

シリア国営通信は、22日にダマスカスのマール・エリアス教会で起きた自爆テロで、25人が死亡したと伝えた。内務省は過激派組織IS(イスラミックステート)による自爆テロだと明らかにしている。
23日(月)ワシントン現地時間午後6時過ぎ(日本時間24日午前7時過ぎ)、米国トランプ大統領はSNSに「イスラエルとイランが完全かつ全面的に停戦することで合意した」と投稿し、停戦は約6時間後(日本時間24日午後1時頃)から段階的に始まると述べた。トランプ大統領は25日(水)、現地(オランダ・ハーグ)時間午後4時(日本時間同日午後11時)からNATO(北大西洋条約機構)の首脳会議が開かれたオランダのハーグで記者会見を行い。イスラエルとイランの停戦合意をめぐり、「『12日間戦争』は終わったと考えている。彼らが再び応酬しあうことはないだろう」、「来週にイランと核協議を行う」と述べた。



 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日も、希望のしるしとしてのイエスの癒やしについて考察します。イエスのうちには力があります。わたしたちも、イエスという方との関係に入るときに、それを体験することが可能です。

 現代世界に広がる病は、生きることへの疲れです。現実はあまりに複雑で、重く、立ち向かうのが困難に思われます。そこでわたしたちは明かりを消し、眠り、目覚めたら事態は変わっているのでないかという幻想を抱きます。しかし、わたしたちは現実に直面しなければなりません。そして、わたしたちはイエスとともに、なんとかすることができます。時としてわたしたちは、他者にレッテルを貼ろうとする人々の意見によって身動きがとれないと感じることもあります。

 このような状況は、マルコによる福音書の箇所の中に答えを見いだすことができるのではないかと思います。この箇所では二つの物語がより合わされています。病床に就いて死にかけている十二歳の少女の物語と、やはり十二年間、出血が止まらず、癒やしてもらうためにイエスを探す女の物語です(マコ5・21-43参照)。

 福音書記者は、この二人の女性の姿の間に、少女の父を置きます。彼は家にとどまって娘の病気を嘆くのではなく、外に出て助けを求めます。彼は会堂長でしたが、自分の社会的地位を理由に要求を行うことはしませんでした。彼は、待たなければならないときは、忍耐を失うことなしに、待ちます。そして人々が来て、娘が死に、師である方を煩わしてもしかたがないと告げたときも、彼は信仰と希望をもち続けます。

 この父親とイエスの会話は、出血の止まらない女によって中断されます。女は、イエスに近づいて、その服に触れます(27節)。この女は勇気を振り絞って、自分の人生を変える決断を行いました。すべての人が彼女に、離れた場所にとどまり、姿を見せないようにといい続けました。彼らは女に、隠れて一人のままでいるようにと宣告していました。時としてわたしたちも、他者の判断の犠牲になることがあります。人々は、わたしたちに、わたしたちに合わない服を着せようとするからです。するとわたしたちは、気分が悪くなり、外に出ることができなくなります。

 この女は、イエスが自分を癒やすことができるという信仰が自分の中に芽生えたときに、救いへの道を歩み始めます。その時彼女は、外に出て、イエスを探しに行く力を見いだします。彼女は、せめてイエスの服に触れたいと願います。

 イエスの周りには大勢の群衆がおり、それゆえ、多くの人がイエスに触れましたが、彼らには何も起こりません。これに対して、この女がイエスに触れると、女は癒やされます。どこに違いがあるのでしょうか。このテキストのこの点を注解して、聖アウグスティヌスは――イエスの名で――いいます。「群衆はわたしに押し寄せるが、信仰がわたしに触れるのである」(『説教』[Sermo 243, 2, 2])。これはこういうことです。わたしたちは、イエスに対して信仰のわざを示すたびに、イエスとの関係が生じ、ただちにイエスからその恵みが流れ出ます。時としてわたしたちはそれに気づきませんが、ひそかに、しかし現実に、恵みはわたしたちに届き、ゆっくりと内側から人生を造り変えます。

 もしかすると今日でも、多くの人が、イエスの力を本当に信じることなしに、表面的なしかたでイエスに近づいているかもしれません。わたしたちは、自分の教会の表面を踏みはしても、心は別のところにあるかもしれません。この物言わぬ、名もなき女は、自分の恐れに打ち勝ち、病気のゆえに不浄と見なされた手で、イエスの心に触れます。すると女はすぐに自分が癒やされたのを感じます。イエスは彼女にいいます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(マコ5・34)。

 そうこうするうちに、父親のもとに娘が死んだという知らせがもたらされます。イエスは彼にいいます。「恐れることはない。ただ信じなさい」(36節)。その後、イエスは、父親の家に行き、すべての人が泣きわめいているのをご覧になると、こういいます。「子供は死んだのではない。眠っているのだ」(39節)。それからイエスは、子どもが横たわっている部屋に入り、その手を取って、彼女にいいます。「タリタ、クム」。「少女よ、起きなさい」。少女は起き上がり、歩きだします(41-42節参照)。このイエスのわざは、わたしたちに次のことを示します。すなわち、イエスは、あらゆる病を癒やすだけでなく、死からも目覚めさせるのです。永遠のいのちである神にとって、肉体の死は眠りのようなものです。真の死は、魂の死です。わたしたちはこれを恐れなければなりません。

 最後にもう一つ考察したいことがあります。イエスは、子どもを生き返らせた後、両親に、彼女に食べ物を与えるようにといいます(43節)。ここに、イエスがわたしたちの人間性に寄り添っていることをきわめて具体的に示す、もう一つのしるしが認められます。しかし、わたしたちはこれをより深い意味で理解して、自らにこう問いかけることができます。わたしたちは、自分の子どもが危険な状態にあり、霊的な糧を必要としているときに、それを子どもに与えるすべを知っているでしょうか。もしわたしたち自身が福音によって養われていなければ、どうしてそれができるでしょうか。

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。人生には、失望するときも落胆するときもあります。死を経験することもあります。あの女と父親から学ぼうではありませんか。イエスのもとに行こうではありませんか。イエスは、わたしたちを癒やし、生まれ変わらせることができる方です。イエスこそ、わたしたちの希望です。