
2025年7月20日(日)正午(日本時間同日午後7時)から、夏季休暇を過ごしているカステル・ガンドルフォ教皇宮殿前のリベルタ広場で行った「お告げの祈り」の前に述べたことば(原文イタリア語)。 「お告げの祈り」の後、教皇は […]
「お告げの祈り」の後、教皇は次の呼びかけを行った。
ここ数日の間も、中東、とくにガザから悲惨な知らせが届き続けています。
ガザ市のカトリック聖家族小教区に対してイスラエルが行った攻撃に対して深い悲しみを表明します。ご承知のように、先週の木曜日(17日)に、3名のキリスト信者が亡くなり、他の人々が重症を負いました。犠牲者のサアド・イッサ・コスタンディ・サラーマ、フォミア・イッサ・ラティフ・アイヤード、ナイワ・イブラヒム・ラティフ・アブ・ダーウードのために祈るとともに、とくにそのご家族と小教区のすべての人々に寄り添います。残念ながら、この行為は、ガザの市民と礼拝場に対する継続的な攻撃に付け加えられたものです。
野蛮な戦争をただちにやめ、紛争の平和的な解決に到達することを改めて求めます。
国際社会に対して呼びかけます。人道法を順守し、市民を保護する義務、また、集団的な処罰、武力の無差別の使用、市民の強制移住の禁止を尊重してください。
愛する中東のキリスト信者の皆様に申し上げます。この悲惨な状況を前にしてわずかなことしかできない皆様のお気持ちに寄り添います。教皇と全教会は皆様を心の内に抱きます。皆様の信仰のあかしに感謝します。あけぼのの聖母、歴史の中に上った新しい夜明けの太陽であるおとめマリアが皆様をつねに守り、平和の夜明けを目指す世界に同伴してくださいますように。
最後に教皇は次のように挨拶した。
数日後、わたしはカステル・ガンドルフォでの二週間の滞在の後に、バチカンに戻ります。わたしを歓迎してくださったすべての皆様に感謝します。よい日曜日をお過ごしください。
7月17日(木)午前、パレスチナのガザ地区のカトリック教会の聖家族教会がイスラエル軍の爆撃を受け、3名が死亡した。主任司祭のガブリエル・ロマネッリ神父も片足に軽傷を負った。教皇は同日、ピエトロ・パロリン国務省長官を通して同小教区に弔意を表す電報を送るとともに、即時停戦を呼びかけた。また、教皇は18日(金)にイスラエルのビンヤミン・ネタニヤフ首相と、21日(月)にパレスチナのマフムード・アッバース大統領と電話会談を行った。
教皇は22日(火)夜、夏季休暇を過ごしたカステル・ガンドルフォからバチカンに帰還した。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。こんにちは。
今日の典礼は、アブラハムとその妻サラ、そして、イエスの友人であった姉妹マルタとマリアのもてなしにわたしたちの注意を向けさせます(創18・1-10、ルカ10・38-42参照)。わたしたちが主の晩餐に招かれ、聖体の食卓にあずかるたびに、「給仕してくれる」(ルカ12・37参照)のは神ご自身です。しかし、わたしたちの神は、まずご自身が客となることを知っておられます。そして、今日もわたしたちの戸口に立って、たたきます(黙3・20参照)。イタリア語でもてなし(ospite)が、もてなす人ともてなされる人の両方を表すことは意義深いことです。それゆえ、今日の夏の主日に、わたしたちは互いに受け入れ合うことについて観想することができます。互いに受け入れ合わなければ、わたしたちの人生は貧しいものとなるからです。
もてなすときにも、もてなされるときにも、謙遜が必要です。もてなしには、細やかな気遣いと注意と心の開きも必要です。福音の中で、マルタはこの交換の喜びに入れない危険にさられます。マルタは、イエスを歓迎するためにしなければならないことに心を奪われたために、忘れてはならない出会いの時を台なしにする危険にさられます。マルタは寛大な女性でしたが、神は寛大さよりもすばらしい何かを彼女に求めます。神はマルタが自分から出ることを求めるのです。
親愛なる姉妹兄弟の皆様。自分自身から気をそらすと同時に、わたしたちを満たすものに心を開くこと――このことだけが、わたしたちの人生を豊かにします。姉妹が自分だけにもてなしをさせていると不平を述べたとき(40節)、マリアはイエスのことばに心を奪われ、あたかも時間の感覚を失いました。マリアは姉妹のマルタに劣らず実践的で、寛大でした。しかしマリアは機会を逃しませんでした。そのためにイエスはマルタをとがめます。それは、マルタが、彼女にも大きな喜びをもたらしたはずの、イエスとの親しい関係から遠ざかったままだったからです(41-42節参照)。
夏の季節は、わたしたちが「ペースを落とし」、マルタよりもマリアに近い者となるための助けとなります。わたしたちは時として良い方を選びません。わたしたちは、もてなしのすべをより多く学びたいという望みを抱きながらも、少し休息をとる必要があります。旅行会社はあらゆる種類の体験を売ろうとしますが、わたしたちが追求するのはそのようなものではないかもしれません。実際、体験は無償のものであり、あらゆる真の出会いは金で買えるものではありません。神との出会いであれ、他者との出会いであれ、自然との出会いであれ。わたしたちはただ、もてなされる者とならなければなりません。空間を作ると同時に、空間を求めなければなりません。受け入れると同時に、受け入れられなければなりません。わたしたちは、与えるだけでなく、多くのものを受け取らなければなりません。アブラハムとサラは年をとっていましたが、三人の旅人のうちに主ご自身を落ち着いて迎え入れたことにより、男の子の親となりました。わたしたちも、これから受け入れるべき多くの人生があるのです。
もてなしの母である至聖なるマリアに祈ろうではありませんか。マリアは主をご自身の胎内に迎え入れるとともに、ヨセフとともに主に家を与えました。マリアのうちに、わたしたちの召命が、教会の召命が、光輝きますように。そして、教会が、すべての人に開かれた家であり続け、主をもてなし続けることができますように。主は、わたしたちに、家に入る許可を求めておられるからです。