教皇レオ十四世、2025年7月30日、一般謁見演説 わたしたちの希望であるイエス・キリストについての連続講話 Ⅱ イエスの生涯 12.舌の回らない人のいやし。 「そして、すっかり驚いて言った。『この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。』」(マコ7・32-37)

 

教皇レオ十四世、2025年7月30日、一般謁見演説
わたしたちの希望であるイエス・キリストについての連続講話

Ⅱ イエスの生涯
12.舌の回らない人のいやし。
「そして、すっかり驚いて言った。『この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。』」(マコ7・32-37)

2025年7月30日(水)午前10時(日本時間同日午後5時)からサンピエトロ広場で行った一般謁見演説(原文イタリア語)。

講話の後、教皇はイタリア語で、7月26日(土)から27日(日)にかけての夜、コンゴ民主共和国で起きた教会襲撃事件と、8月1日(金)の「ヘルシンキ宣言」署名50周年に言及して、イタリア語で次の呼びかけを行った。

7月26日から27日にかけての夜、コンゴ民主共和国東部のコマンダで起きた残虐なテロ攻撃に対して深い悲しみを新たにします。そこでは40名以上のキリスト信者が、教会での聖年の前晩の祈りの最中に、また自宅で殺害されました。犠牲者のかたがたを神の愛に満ちた憐れみにゆだねるとともに、けがをした方々と、世界中で暴力と迫害に苦しみ続ける人々のために祈ります。そして、地域と世界レベルで責任を担う人々に対して、協力して同じような悲劇を防ぐことを勧告します。

8月1日に「ヘルシンキ宣言最終合意文書」署名50周年が記念されます。冷戦の状況における安全保障の確保への望みに促されて、35か国が新たな地政学的な時代を切り開き、東西間の和解を促進しまた。この出来事は、とくに当時生まれつつあった「バンクーバーからウラジオストクへ」の協力体制の基盤の一つと考えられた信教の自由への注目により、人権への新たな関心を象徴しました。聖座のヘルシンキ会議(全欧安全保障協力会議)への積極的な参加は――それはアゴスチーノ・カサローリ大司教を代表とするものでした――、平和のための政治的・道徳的な取り組みの促進に貢献しました。今日、これまでにないほど、ヘルシンキの精神を守ることが不可欠となっています。すなわち、粘り強く対話し、協力を強化し、紛争の予防と解決のために外交を優先的な道とすることです。



 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 この講話をもって、人々との出会い、たとえ話、いやしから成るイエスの公生活に関するわたしたちの旅路を終えます。

 わたしたちが生きている現代も、いやしを必要としています。現代世界は、人間の尊厳をおとしめる暴力と憎しみの雰囲気に覆われています。わたしたちは「ソーシャルメディア」とのつながりの「過食症」によって病んだ世界に生きています。わたしたちは過剰につながり、時として偽りで、ゆがめられた画像を浴びせかけられ続けています。わたしたちは、自分たちのうちに矛盾した感情の嵐を巻き起こす多くのメッセージに圧倒されています。

 このような状況の中で、わたしたちのうちに、すべてを消し去りたいという望みが生まれる可能性があります。わたしたちはもはや何も感じないことを選ぶに至るかもしれません。わたしたちのことばさえ誤解されるおそれがあります。そのためわたしたちは、沈黙のうちに、コミュニケーションの欠如のうちに閉じこもる誘惑に駆られるかもしれません。そこでは、どんなに親しい人とも、もっとも単純で深いことがらを語り合うことができません。

 そのため、わたしは今日、耳が聞こえず舌の回らない人をわたしたちに示す、マルコによる福音書のテキストについて考えてみたいと思います(マコ7・31-37参照)。現代のわたしたちに起こるのとちょうど同じように、もしかするとこの人も、自分が理解されていないと感じたためにもはや話すのをやめ、自分が聞いたことによって失望し、傷ついたために声を発することを一切やめることにしたのかもしれません。実際、いやしてもらうためにイエスのところに来たのはこの人ではなく、この人は他の人に連れて来られたのでした。師であるかたのところにこの人を連れて行った人々は、彼が独りきりになることを心配したと考えることもできるかもしれません。しかし、キリスト教共同体はこの人々のうちに教会の姿も見いだしました。教会は、イエスのことばを聞くことができるように、一人一人の人に同伴してイエスのもとに導きます。この出来事は異邦人の地域で起きています。それゆえ、わたしたちは他の声が神の声をかき消しがちな状況に置かれています。

 イエスがとった行動は、一見すると不思議に見えるかもしれません。なぜなら、イエスはこの人を自分のもとに引き寄せて、群衆の中から連れ出したからです(33a節参照)。これはこの人の孤独を強調するように思われますが、よく見るならば、この人の沈黙と閉じこもった態度のうしろに隠れていることを理解することができます。イエスは、この人が親しい関係と寄り添いを必要としていることを知っておられたかのように思われます。

 イエスは何よりもまず、深い出会いを物語るしぐさを通して、この人に沈黙のうちに親しさを示します。イエスは、この人の両耳と舌に触れるのです(33b節参照)。イエスは多くのことばを用いずに、この時に必要な一つのことだけを述べます。「開け」(34節)。マルコは、あたかも音と息遣いを「ライブで」感じさせようとするかのように、「エッファタ」というアラム語でこのことばを伝えます。この単純で美しいことばは、聞くことも話すこともやめたこの人にイエスが向けた招きを含んでいます。「あなたをこわがらせるこの世に心を開きなさい。あなたを失望させた人間関係に心を開きなさい。あなたが立ち向かうことをあきらめた人生に心を開きなさい」。実際、閉じこもることは解決にはなりません。

 イエスと出会った後、この人は再び話すようになっただけでなく、「はっきり」(35節)話しました。福音書記者が挿入したこの副詞は、この人の沈黙の理由について、さらに多くのことをわたしたちに語ろうとしているように思われます。おそらくこの人は、自分が間違ったしかたで話していると思ったがゆえに、自分がふさわしくないと感じたがゆえに、話すのをやめたのかもしれません。わたしたちは皆、誤解されたり、理解されていないと感じる経験をします。わたしたちは皆、主によってコミュニケーションの方法をいやしていただくことを必要としています。それは、より効果的にコミュニケーションを行うためだけでなく、ことばで他者を傷つけるのを避けるためです。

 はっきり話すようになったことは、旅の始まりであって、まだ到達点ではありません。実際、イエスはその人に、自分に起きたことを語るのを禁じました(36節参照)。イエスを真に知るためには、旅を歩み通さなければなりません。イエスとともにとどまり、その受難をも通らなければなりません。イエスがはずかしめられ、苦しむのを見、イエスの十字架の救いの力を体験したとき、初めてわたしたちはイエスを真の意味で知ったということができるのです。イエスの弟子になるために近道はありません。

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。誠実かつ賢明にコミュニケーションを行うことを学べるように、主に願おうではありませんか。他者のことばによって傷ついたすべての人のために祈りたいと思います。教会のために祈りたいと思います。教会が、人々をイエスのもとに導く使命を怠ることがありませんように。そして、人々が、イエスのことばに耳を傾け、いやされ、自らも救いのしらせをもたらす者となることができますように。