
教皇レオ十四世、2025年8月20日、一般謁見演説
わたしたちの希望であるイエス・キリストについての連続講話
Ⅲ イエスの過越
3.ゆるし。
「最後まで愛し抜かれた」(ヨハ13・1 〔聖書協会共同訳〕)
講話の終わりに、教皇はイタリア語で、8月22日(金)を平和のための断食と祈りの日とすることに関する次の呼びかけを行った。
今週の金曜日の8月22日に、わたしたちは天の元后聖母マリアの記念日を祝います。マリアは地上での信者の母であるとともに、平和の元后としても祈り求められます。わたしたちの地上は、聖地、ウクライナ、また世界の他の多くの地域で、戦争によって傷つけられ続けています。そこでわたしは、8月22日を断食と祈りの日として過ごし、主がわたしたちに平和と正義を与え、引き続く武力紛争によって苦しむ人々の涙をぬぐい取ってくださるように祈るよう、すべての信者を招きます。
平和の元后であるマリアよ、人々が平和への道を見いだすことができるように執り成してください。
教皇は8月13日(水)からの二回目のカステル・ガンドルフォでの夏季休暇を終えて、前日19日(火)夜、バチカンに帰還した。19日午前には、ローマの東、カプラニカ・プレネスティーナにあるメントレッラの恵みの聖母巡礼聖堂を訪れた。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。
今日は福音の中でもっとも印象的で輝かしい行為の一つについて考えてみたいと思います。イエスが、最後の晩餐の中で、イエスを裏切ろうとする者にパン切れを与える瞬間です。それはたんなる分かち合いの行為ではなく、それ以上のものです。それは、諦めることのない愛の最後の試みなのです。
聖ヨハネは、深い霊的な感性をもって、この瞬間についてわたしたちに次のように物語ります。「イエスは〔……〕ご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた。夕食のときであった。すでに悪魔は、シモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた」(ヨハ13・1-2 〔聖書協会共同訳〕)。最後まで愛し抜くこと。ここにキリストの心を理解するための鍵があります。それは、拒絶、失望、あるいは忘恩を前にしても諦めない愛です。
イエスはその時を知っておられますが、その時を耐え忍ぶのではなく、むしろそれを選びます。イエスは、ご自分の愛が、もっとも苦痛に満ちた傷を、すなわち裏切りの傷を通らなければならないことを、よく分かっておられます。そして、イエスは、撤退することも、避難することも、身を守ることもせずに、愛し続けます。イエスは足を洗い、パンを浸して、与えます。
「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」(ヨハ13・26)。この単純で慎ましい行為によって、イエスはご自分の愛を極みまで示します。それは、今起こっていることを無視するからではなく、まさにそれをはっきりとご覧になるからです。イエスは、たとえ悪のうちに道に迷った人でも、他者の自由に優しい行為の光が届きうることを理解します。なぜなら、イエスは、真のゆるしが、悔い改めを待つことなく、すでに受け入れられる前に、無償のたまものとして先に差し出されることを知っておられるからです。
残念ながら、ユダはそのことを理解しません。福音書はいいます。パン切れを与えた後に、「サタンが彼の中に入った」(27節)。この箇所は衝撃的です。あたかも、そのときまで隠れていた悪が、愛がもっとも無防備な姿を示した後に、姿を現します。兄弟姉妹の皆様。だからこそ、あのパン切れはわたしたちの救いなのです。なぜならそれは、神が、わたしたちが神を拒否するときでさえも、わたしたちのところに来るために、あらゆることを――本当にあらゆることを――なさると語るからです。
ここに、ゆるしはその力のすべてを現します。そして、希望の具体的な顔を示します。ゆるしは、忘れることでも、弱さでもありません。ゆるしは、最後まで愛し抜くことによって、他者を自由にする力です。イエスの愛は、苦しみに関する真理を否定しませんが、悪が最後に勝利を収めることを許しません。これが、イエスがわたしたちのために成し遂げられる神秘です。そして、わたしたちも時としてこの神秘にあずかるように招かれます。
どれほど多くの人間関係が壊れ、どれだけ多くの人生が複雑なものとなり、どれほど多くのことばが語られないままになっていることでしょうか。しかし、福音は、すべてが取り返しがつかないほどに傷つけられているように思われるときにも、愛し続けることがつねに可能であることをわたしたちに示します。ゆるすとは、悪を否定することではありません。むしろそれは、悪が再び生じることを防ぐことです。ゆるすとは、何もなかったと言うことではありません。むしろそれは、恨みが未来を決めることがないように、できるかぎりのことをすべて行うことです。
ユダが部屋を出て行ったときは、「夜であった」(30節)。しかし、その後すぐにイエスはいわれます。「人の子は栄光を受けた」(31節)。夜はまだそこにありますが、光はすでに輝き始めたのです。そして、光が輝くのは、キリストが最後まで忠実であり続けたからです。そして、キリストの愛が憎しみよりも強いからです。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちも、辛く、困難な夜を経験します。霊魂の夜、失望の夜、誰かに傷つけられ、あるいは裏切られた夜です。このようなとき、わたしたちは、心を閉ざし、自分を守り、仕返しする誘惑に駆られます。しかし、主は、別の道がつねに存在する希望をわたしたちに示します。主はわたしたちに教えてくださいます。わたしたちに背を向ける人にもパン切れを与えることができることを。信頼の沈黙をもってこたえることができることを。愛を諦めずに、尊厳をもって前に進んでいくことができることを。
今日わたしたちは、たとえ理解されないと感じるときにも、見捨てられたと感じるときにも、ゆるすことのできる恵みを祈り求めたいと思います。なぜなら、まさにこのような時にこそ、愛はその極みに達するからです。イエスがわたしたちに教えてくださるとおり、愛するとは、他者を自由にすることです――たとえそれが裏切ることであっても――。そして、このような、傷つき、道に迷った自由でさえも、闇の策略から引き離され、善の光へと戻ることができることを信じ続けることなのです。
ゆるしの光が心のもっとも深い谷底にまで届くとき、わたしたちは、それが無益ではないことを知ります。たとえ他者がゆるしを受け入れず、無駄に思われるときでさえも、ゆるしはそれを与える人を自由にします。ゆるしは、恨みを解消し、平和を回復し、わたしたちに自分を取り戻させてくれるのです。
イエスは、パンを与えるという単純な行為によって、あらゆる裏切りも、それをより偉大な愛のための場として選ぶならば、救いの機会となりうることを示します。それは、悪に屈するのではなく、むしろ善をもって悪に打ち勝つこと、わたしたちの中にあるもっとも真実なもの、すなわち愛する力を消し去ることを防ぐことなのです。
