教皇レオ十四世、2025年8月24日、「お告げの祈り」でのことば

2025年8月24日(日)、年間第21主日の正午(日本時間同日午後7時)に教皇公邸書斎の窓から行った「お告げの祈り」の前に述べたことば(原文イタリア語)。 「お告げの祈り」の後、教皇は次のようにイタリア語で述べた。  親 […]

2025年8月24日(日)、年間第21主日の正午(日本時間同日午後7時)に教皇公邸書斎の窓から行った「お告げの祈り」の前に述べたことば(原文イタリア語)。
「お告げの祈り」の後、教皇は次のようにイタリア語で述べた。

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 
 モザンビークのカボ・デルガド州の人々に寄り添うことを表明します。これらの人々は、死者と避難民を生み出し続ける不安定と暴力の状況の犠牲となっています。これらの兄弟姉妹を忘れることのないように呼びかけるとともに、彼らのために祈ってくださるようにお願いします。そして、同国の指導者の努力によって、この地域の安全と平和が回復されることを希望します。

 8月22日の金曜日に、わたしたちは祈りと断食によって、戦争によって苦しむ兄弟姉妹に同伴しました。今日わたしたちは、「ウクライナのための世界の祈り」という取り組みによって母国に平和のたまものを与えてくださるよう主に祈る、ウクライナの兄弟と心を一つにします。

なお、24日のウクライナの独立記念日にあたり、ヴォロディミル・ゼレンスキー大統領は自らのXに以下のように投稿した(原文英文)。

破壊的な戦争のさなかにあるウクライナ国民に対する教皇聖下の思慮深いことばと祈りと関心に心から感謝申し上げます。わたしたちの希望と努力のすべては、わたしたちの国が長年待ち望んでいる平和を実現することです。善と真理と正義が勝利を得ることです。わたしたちは教皇聖下(@pontifex)の道徳的指導力と使徒的な支援に感謝申し上げます。

ゼレンスキー大統領がリツイートした教皇のメッセージ(原文英語)は以下のとおり。

 ウクライナ大統領ヴォロディミル・ゼレンスキー様
 貴国を荒廃させる暴力に深く傷けられた心をもって、貴国の独立記念日にあたりお便りを差し上げます。
 戦争によって苦しむウクライナ国民のため、とくに身体を傷つけられたすべてのかたがた、愛する者を亡くしたご遺族のかたがた、家を失ったかたがたのために祈ることを約束します。
 神ご自身がこれらのかたがたを慰めてくださいますように。神が、けがをした人々を強め、亡くなったかたがたに永遠の安息を与えてくださいますように。
 主に祈り求めます。武器の叫び声がやんで、対話へと道を譲り、すべての人の善のための平和へと道を開くために、善意の人々の心を動かしてくださいますように。
 貴国を平和の元后である聖なるおとめマリアにゆだねます。

 教皇レオ十四世


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。こんにちは。

 今日の福音(ルカ13・22-30)の中心にあるのは、「狭い戸口」というたとえです。イエスは、救われる者は少ないのでしょうかと尋ねた人に答えるためにこのたとえを用いました。イエスはいいます。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」(24節)。

 一見すると、このたとえは、わたしたちのうちにある疑問を生じさせます。神が愛とあわれみの父であり、つねに両手を広げてわたしたちを受け入れ続けてくださるのなら、なぜイエスは、救いの戸口は狭いといわれるのだろうか。

 当然のことながら、主はわたしたちをがっかりさせることを望んでおられるのではありません。むしろ、主のことばは、何よりも、自分がすでに救われていると考え、宗教を実践し、それゆえ、自分はもう安心だと感じている人々の思い上がりを揺るがすことを目的としています。実際、このような人々は、心を変えなければ、宗教的実践を行うだけでは不十分であることを理解していません。主は、生活と切り離された礼拝を望まれません。また、兄弟への愛を生き、正義を実践するようにわたしたちを導かない犠牲と祈りを喜びません。そのため、このような人々が主の前に来て、主とともに食べたり飲んだりし、主の教えを聞いたことを誇るときに、主は彼らに答えてこういわれます。「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」(27節)。

 兄弟姉妹の皆様。今日の福音がわたしたちに与える挑戦はすばらしいものです。わたしたちは時として信仰から離れた人を裁きますが、イエスは「信じる者の安心」を揺るがします。実際、イエスは、ことばで信仰を告白したり、感謝の祭儀を祝うことによって主とともに食べたり飲んだりしたり、あるいは、キリスト教の教えをよく知ったりするだけでは不十分だといわれます。わたしたちの信仰が真実なものとなるのは、信仰がわたしたちの生活全体を包み、わたしたちの選択の基準となり、わたしたちを、イエスがなさったのと同じように善を行い、愛のゆえに危険を冒す者とするときです。イエスは、成功や権力の安易な道を選ばず、むしろ、わたしたちを救うために、十字架という「狭い戸口」を通るに至るまでわたしたちを愛してくださいました。イエスはわたしたちの信仰の基準であり、わたしたちが救われるために通らなければならない門なのです(ヨハ10・9参照)。そのためにわたしたちは、イエスご自身の愛を生き、自分たちの生活によって、正義と平和の働き手とならなければなりません。

 時として、このことは、困難で不人気な選択を行うことを意味します。すなわち、自分の利己主義と戦い、他者のために身をささげ、悪の論理が優勢だと思われるところで善のために耐え忍ぶなどです。しかし、このような戸口を越えることによって、わたしたちは、人生が目の前で新たな形で開かれるのを見いだします。そして、その時から、わたしたちは、神の広い心へと、すなわち、神がわたしたちのために用意してくださった永遠の宴の喜びへと歩み入るのです。

 おとめマリアに祈り求めようではありませんか。わたしたちが勇気をもって福音の「狭い戸口」を通ることができるように、マリアが助けてくださいますように。こうして、わたしたちが、喜びをもって、父である神の愛の広さに心を開くことができますように。

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