教皇レオ十四世、2025年8月27日、一般謁見演説 わたしたちの希望であるイエス・キリストについての連続講話 Ⅲ イエスの過越 4.引き渡される。 「だれを捜しているのか」(ヨハ18・4)

 

教皇レオ十四世、2025年8月27日、一般謁見演説
わたしたちの希望であるイエス・キリストについての連続講話

Ⅲ イエスの過越
4.引き渡される。
「だれを捜しているのか」(ヨハ18・4)

2025年8月27日(水)午前10時(日本時間同日午後5時)からパウロ六世ホールで行った一般謁見演説(原文イタリア語)。教皇は8月13日、20日と同様に、パウロ六世ホールで講話を行った後、ホールに入れず、中庭やサンピエトロ大聖堂でモニターを通して謁見に参加した巡礼者たちのもとにも赴いて挨拶した。
講話の終わりに、教皇はイタリア語で次の呼びかけを行った。

 先週の金曜日(8月22日)、わたしたちは祈りと断食によって、戦争によって苦しむわたしたちの兄弟姉妹に寄り添いました。今日、わたしは、改めて、多くの恐怖と破壊と死をもたらしてきた、聖地における紛争を終結させるように、当事者と国際社会に強く呼びかけます。

 すべての人質が解放され、恒久的な停戦が実現し、人道支援物資の安全な搬入が可能になり、人道法、とくに市民を保護する義務と、集団的処罰、武力の無差別な使用、住民の強制移住の禁止が完全に尊重されることを切に願います。わたしは、昨日(8月26日)、この暴力の連鎖を終わらせ、戦争を終わらせ、人々の共通善が優先されることを求めた、エルサレムのギリシア正教会総主教とラテン典礼教会総大司教の共同声明に賛同します。

 平和の元后であり、慰めと希望の泉であるマリアに祈り求めたいと思います。マリアの執り成しによって、すべての人が心から愛する聖地に和解と平和がもたらされますように。

8月18日(月)、イスラエルとの戦闘を続けるパレスチナ自治区ガザのイスラム組織ハマスは、仲介国であるエジプトなどが示した最新の停戦案を受け入れると表明した。一方、イスラエル軍は20日(水)、パレスチナ自治区ガザ北部の最大都市ガザ市の制圧に向けた軍事作戦を開始したと発表した。22日(金)、国連のアントニオ・グテーレス事務総長は、ガザ市とその周辺地域で起きている飢饉は「人類の失敗」と述べた。これは、国連が支援する総合的安全保障レベル分類(IPC)が最新の報告書で、同地域の食料不安定状況をもっとも深刻なレベルの「フェーズ5(壊滅的飢餓または飢饉)」に引き上げたことを受けた発言。IPCによると、ガザ全域で50万人以上が「飢餓、困窮、死」によって特徴づけられる「壊滅的」な状況に直面している。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日は、イエスの受難の始まりを告げる一つの情景について考えてみたいと思います。オリーブ畑での逮捕の瞬間です。ヨハネによる福音書は、そのいつもの深遠さをもって、イエスが、怯えて逃げ、または隠れる姿を示しません。その反対に、ヨハネによる福音書は、自由な人間であるイエスを示します。イエスは、前に進み出て、語り、もっとも偉大な愛の光が示される時に公然と立ち向かいます。

 「イエスはご自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、『だれを捜しているのか』と言われた」(ヨハ18・4)。イエスは、何もかも知っておられます。しかし、イエスは、引き下がらないことを決断します。イエスは引き渡されます。それは、弱さのゆえではなく、愛のためです。それは、拒絶されることを恐れない、完全で成熟した愛です。イエスは捕らえられるのではありません。捕らえられるがままにされるのです。イエスは逮捕の犠牲者ではなく、むしろ、自ら与えます。この行為のうちに、わたしたち人類のための救いの希望が受肉します。イエスは、最大の暗闇の時にも、極みまで自由に愛することができるのです。

 イエスが「わたしである」といわれると、兵士たちは地に倒れます。これは神秘に満ちた箇所です。なぜなら、この表現は、聖書の啓示において、「わたしはある」という、神の名そのものを思い起こさせるからです。イエスは、まさに人類が不正と恐怖と孤独を体験するところで、神がご自身の現存を現されることを示します。まさにそのようなところでこそ、まことの光は、迫り来る闇に圧倒されるのを恐れることなく、輝き出そうとするのです。

 すべてのものが崩壊するかのように思われる、夜のただ中で、イエスは、キリスト者の希望とは、逃避ではなく、決断であることを示します。このような態度は、深い祈りから生み出されたものです。この祈りの中で、イエスは、苦しみを免れることではなく、愛のうちに耐え忍ぶ力をもつことを神に願います。イエスは、愛のゆえに自由にささげたいのちは、だれも取り去ることができないことを自覚しておられます。

 「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい」(ヨハ18・8)。イエスは、ご自分が逮捕されたとき、自分を救うことを気にかけません。イエスは、ご自分の友が自由になれることだけを望まれます。これは、イエスの犠牲が、まことの愛のわざであることを示します。イエスが下役たちによって捕らえられ、牢に入れられたのは、ご自分の弟子たちを自由にするためです。

 イエスは、ご自分のすべての日々を、この劇的で最高の時の準備として生きました。だから、イエスは、その時が到来したとき、逃げ道を捜さない力をもっていました。イエスの心はよく知っておられます。愛のゆえにいのちを失うことは、失敗ではなく、不思議な豊かさをもつことを。それは、一粒の麦が地に落ちることによって、一粒のままとどまることなく、死んで多くの実を結ぶのと同じです。

 イエスも、死と終わりへと導くだけのように思われる道を前にして、心を騒がせます。しかし、イエスは同時に、愛のゆえに失われたいのちが、最後には再び見いだされることを確信しておられます。苦しみを避けることを求めるのではなく、もっとも不当な苦しみのさなかにあってさえ、新しいいのちの種が隠れていると信じること――ここに真の希望があります。

 わたしたちはどうでしょうか。どれほどわたしたちは、自分の人生、計画、安全を守っていることでしょうか。そうすることによって、独りきりのままにとどまることに気づかずに。福音の論理はこれとは異なります。自分を与えた者だけが栄え、すべてが失われたかのように思われるときにも、無償の愛だけが信頼を勝ち取ることができるのです。

 マルコによる福音書は、イエスが逮捕されたときに裸で逃げ去る一人の若者について語ります(マコ14・51)。これは謎めいてはいますが、深い印象を与えるイメージです。わたしたちも、イエスに従おうとするときに、不意を突かれ、確信を奪われるような時を経験します。それはもっとも困難な時です。愛が不可能な歩みのように思われるため、福音の道を捨てる誘惑に駆られるからです。しかし、福音書の終わりに、もはや裸ではなく、白い衣をまとった一人の若者が、女性たちに復活を告げ知らせます。

 わたしたちの罪やためらいは、神がわたしたちをゆるし、再び神に従う望みを回復し、他者のためにいのちを与えることができるようにしてくださることを妨げるものではありません。これが、わたしたちの信仰の希望です。

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちも、御父のいつくしみ深いみ旨に身をゆだね、自分の人生を、与えられた善いものヘの答えとしていただけることを学ぼうではありませんか。人生において、すべてをコントロールする必要はありません。日々、自由をもって愛することを選択するだけで十分です。試練の暗闇の中でも、神の愛がわたしたちを支え、永遠のいのちの実をわたしたちのうちで育ててくださっていることを知ること――これこそがまことの希望です。

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