
教皇レオ十四世、2025年9月24日、一般謁見演説
わたしたちの希望であるイエス・キリストについての連続講話
Ⅲ イエスの過越
8.陰府に下る。
「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」(一ペト3・19)
講話の後、教皇はイタリア語で、10月のロザリオの祈りについて次の告知を行った。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。間もなく始まる10月は、教会においてとくに聖なるロザリオにささげられます。それゆえわたしは、来月、毎日、個人として、また家庭と共同体で、平和のためにロザリオを祈ってくださるよう皆様を招きます。
さらに、バチカンで奉仕してくださっている皆様に、毎日19時からサンピエトロ大聖堂でロザリオの祈りを唱えてくださるように招きます。
とくに10月11日(土)18時から、サンピエトロ広場で、マリアの霊性の祝祭の前晩の祈りの中で、また第二バチカン公会議開幕も記念して、ともにロザリオの祈りをささげます。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。おはようございます。
今日も聖土曜日の神秘について考えたいと思います。聖土曜日は、すべてのものが静止し、沈黙しているかのように思われますが、実際には、目に見えない救いのわざが実現される、過越の神秘の日です。キリストは、暗闇と死の影の中にいたすべての人に復活の知らせをもたらすために、冥府に下ります。
典礼と伝統がわたしたちに伝えたこの出来事は、人類に対する神の愛のもっとも深く根源的なわざを表します。実際、イエスがわたしたちのために死んだと語り、信じるだけでは不十分です。キリストの忠実な愛は、わたしたちが自分を見失ったところ、光の力だけが闇の支配を貫くことができるところで、わたしたちを捜そうとしたことを認識しなければなりません。
聖書の思想において、陰府は、場所というよりも、実存的な状態です。それは、生命が衰え、苦しみ、孤独、罪、神と他者からの分離が支配する状態です。キリストは、このような深淵においても、この暗闇の国の門を越えて、わたしたちのところに来られます。キリストは、いわば、死の家そのものに入ります。それは、この家を空にし、一人一人の手を取って、そこに住む者を解放するためです。それは、わたしたちの罪の前で立ち止まらず、人間の究極的な拒絶をも恐れない、神のへりくだりです。
使徒ペトロは、たった今朗読された、その第一の手紙の短い箇所で、わたしたちにこう語ります。聖霊によって生かされたイエスは、「捕らわれていた霊たちのところへ」(一ペト3・19)も救いの知らせをもたらすために赴きます。このきわめて感動的なイメージは、正典福音書ではなく、『ニコデモ福音書』と呼ばれる外典文書の中で詳しく語られます。この伝承によれば、神の子はもっとも深い闇の中に入りました。それは、もっとも小さい兄弟姉妹のところに行き、そこにもご自身の光をもたらすためです。この行為のうちに、過越の知らせの力と優しさのすべてが見いだされます。死は決して勝利を収めることがありません。
愛する皆様。このキリストの陰府下りは、過去にかかわるだけでなく、わたしたち一人一人の人生にも触れます。陰府は、亡くなった人々の状態であるだけでなく、悪と罪によって死を生きる人々の状態でもあります。それは、孤独と、恥辱と、遺棄と、人生の労苦という、日々の陰府でもあります。キリストは、御父の愛をわたしたちにあかしするために、この暗い現実のすべてに歩み入ります。それは、裁くためではなく、解放するためです。断罪するためではなく、救うためです。キリストは、物音を立てずに、爪先立ちでそれを行います。ちょうど、慰めと助けを与えるために病室に入る人と同じように。
教父たちは、きわめてすばらしい著作の頁の中で、この瞬間を出会いとして語りました。すなわち、キリストとアダムの出会いです。この出会いは、神と人の間で起こりうるすべての出会いの象徴です。主は、人が恐れのゆえに隠れた場所に下り、その名を呼び、手を取り、立ち上がらせ、光へと連れ戻します。主は、完全な権威をもって、しかし、限りない優しさをもってそれを行います。もはや愛されていないのでないかと恐れる息子に寄り添う父親のように。
東方の復活のイコンでは、キリストは、陰府の門を打ち破りながら、手を伸ばしてアダムとエバの手首をつかむ姿で描かれます。キリストは、ご自身を救い、一人でよみがえるだけでなく、全人類をご自身にもとに引き寄せます。これが復活したかたの真の栄光です。それが愛の力であり、神の連帯です。神は、わたしたち抜きで救われることを望まず、わたしたちとともに救われることだけを望まれるからです。神は、わたしたちの悲惨を抱きとめ、わたしたちを新しいいのちへと立ち上がらせることなしに復活しないかたです。
それゆえ、聖土曜日は、天が、地のもっとも深いところを訪れる日です。それは、過越の光が人類の歴史のすべての隅々に触れる時です。キリストがそこまで下ることができたのであれば、キリストのあがないから排除されるものは何もありません。わたしたちの夜も、わたしたちのかつての罪も、わたしたちの砕かれた絆さえも。どのような荒廃した過去も、傷ついた歴史も、あわれみが触れることのできないものはありません。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。神にとって、陰府に下ることは、敗北ではなく、ご自身の愛の実現です。それは、失敗ではなく、神の愛にとって、遠すぎる場所も、閉ざされすぎた心も、封印されすぎた墓もないことを示すための道なのです。このことは、わたしたちを慰め、支えてくれます。そして、時としてわたしたちがどん底に落ちたように思われるとき、そのようなところこそが、神がそこから新たな創造を始めることができる場所であることを思い起こそうではありませんか。それは、立ち上がらされた人、ゆるされた心、ぬぐい取られた涙による創造です。聖土曜日は、キリストがすべての被造物を御父に示して、御父の救いの計画に連れ戻すための、沈黙の抱擁なのです。
