
教皇レオ十四世、2025年10月8日、一般謁見演説
わたしたちの希望であるイエス・キリストについての連続講話
Ⅲ イエスの過越
10.心を燃やす。
「わたしたちの心は燃えていたではないか」(ルカ24・32)
この謁見には、「2025年聖年『希望の巡礼者』司教団公式巡礼」ならびに菊地功枢機卿ローマ小教区着座式参加のため日本からローマに巡礼に訪れた巡礼者100名余と、巡礼団を率いる前田万葉枢機卿(大阪高松大司教区)、菊地功枢機卿(東京大司教区)、中村倫明大司教(長崎大司教区)が参加した。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。おはようございます。
今日はキリストの復活の驚くべき側面について考察するように皆様を招きたいと思います。すなわち、キリストの謙遜です。福音書の物語を思い返すなら、復活した主は、弟子たちの信仰を促すために、人目に付くことを何もしなかったことに気づきます。主は、天使の群れに囲まれた姿を示すことも、騒々しい行動をすることも、宇宙の秘密を現すための荘厳な話をすることもありません。その反対に、主は、ある旅人として、わずかなパンを分け与えてくれるように願う飢えた人として、ひっそりと近づきます(ルカ24・15、41参照)。
マグダラのマリアはキリストを庭師と見間違えます(ヨハ20・15参照)。エマオの弟子たちはキリストを外国人だと思います(ルカ24・18参照)。ペトロと他の漁師たちは、キリストを、ある通りすがりの人だと考えます(ヨハ21・4参照)。わたしたちは特別な効果や、力あるしるしや、有無を言わさぬ証拠を期待するかもしれません。しかし、主はそのようなものを求めません。主は、身近なもの、通常のもの、共同の食卓によることば遣いを好みます。
兄弟姉妹の皆様。ここに貴重なメッセージがあります。復活は劇的な出来事ではなく、静かな変容です。この変容が、人間のあらゆる行為を意味で満たします。復活したイエスは弟子たちの前で魚を一切れ食べます。これは、ささいなことがらではありません。それは、わたしたちのからだ、歴史、人間関係が脱ぎ捨てるべき殻ではないことの確証です。それらは完全ないのちに至るように定められているのです。復活とは、消えゆく霊となることではありません。むしろそれは、愛によって変容した人間性によって、神と兄弟とのより深い交わりへと歩み入ることなのです。
キリストの復活において、すべてのものが恵みとなります。食べること、働くこと、待つこと、家事をすること、友人を支えることといった、ごく普通のことでさえも。復活は人生から時間や努力を奪いません。むしろその意味と「味わい」を変えるのです。感謝と交わりの中でなされるあらゆる行為は、神の国の先取りなのです。
しかし、このような日常におけるキリストの現存の認識をしばしば妨げる障害があります。それは、喜びは傷から自由でなければならないという思い込みです。エマオの弟子たちは悲しみのうちに歩んでいます。なぜなら、彼らは別の結末を、すなわち、十字架を知らないメシアを待望していたからです。彼らは、墓が空だという話を聞いたにもかかわらず、ほほえむことができません。しかし、イエスは彼らのそばに来て、苦しみは約束の否定ではなく、神がご自身の愛の計り知れなさを明らかにするための道であることを理解できるように、忍耐強く彼らを助けます(ルカ24・13-27参照)。
ついに弟子たちがイエスとともに食卓に着き、パンを裂いたとき、彼らの目は開かれます。そして、たとえそのことを自覚していなくても、自分たちの心がすでに燃えていたことに気づきます(ルカ24・28-32参照)。幻滅と疲労の灰の下にはつねに生きた火種があり、ただ再び燃え上がるのを待っているのを見いだすこと――これが大いなる驚異です。
兄弟姉妹の皆様。キリストの復活はわたしたちに教えてくれます。どんな幻滅や罪に特徴づけられた歴史にも、必ず希望が訪れるのだと。どんな堕落も決定的なものではありません。どんな夜も永遠のものではありません。どんな傷も永遠に開いたままでいるように定められてはいません。どれほど遠く離れ、道に迷い、ふさわしくないと感じているとしても、神の愛の尽きることのない力を消し去ることができる隔たりはありません。
わたしたちは時として、精神が集中した、霊的に熱心なとき、自分が優れていると感じるとき、自分の人生が秩序に満ちて光輝いていると思われるときにだけ、主が訪れてくださると考えます。しかし、復活したかたは、まさにもっとも暗い場所で近づいてこられます。わたしたちの失敗、壊れた人間関係、わたしたちの肩にのしかかる日々の労苦、わたしたちを落胆させる疑いの中で、近づいてこられます。わたしたちの存在の中のいかなるものも、わたしたちの実存のいかなる部分も、主と無関係なものはありません。
今日、復活した主はわたしたち一人一人のそばにおられます。それも、わたしたちが道を歩む最中に――労働と献身の歩みだけでなく、苦しみと孤独の歩みの中でも――。そして、限りない優しさをもって、わたしたちの心を温めさせてほしいとわたしたちに願います。主は声高に押し付けることも、すぐに認めてもらうことを望むこともありません。主は、わたしたちの目が開き、ご自身の優しい顔に気づく時を忍耐強く待っておられます。主のみ顔は、失望を信頼に満ちた期待に、悲しみを感謝に、諦めを希望に変えることが可能です。
復活したかたは、ご自分がともにいることを示し、わたしたちの道の同伴者となり、わたしたちのうちに、主のいのちがいかなる死よりも強いという確信を燃え立たせることだけを望まれます。ですから、主の謙遜でつつましい現存を認め、試練のない人生を望まず、どんな苦しみも愛が伴うなら交わりの場となりうることを見いだす恵みを願い求めようではありませんか。
それゆえ、わたしたちも、エマオの弟子たちと同じように、喜びに燃える心をもって、自分の家に帰ろうではありませんか。それは、傷を消し去るのではなく、傷を照らす、単純な喜びです。主は生きておられ、わたしたちとともに歩み、どんなときにも再びやり直す可能性を与えてくださるという確信から生まれる喜びです。
