
2025年10月26日(日)正午に教皇公邸書斎の窓から「お告げの祈り」を唱える前に述べたことば(原文イタリア語)。 「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べた。 親愛なる兄弟姉妹の皆様。 最近、洪水の被 […]
「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べた。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。
最近、洪水の被害に遭ったメキシコ東部の人々に心から寄り添います。ご家族と、この災害によって苦しむすべての人のために祈ります。そして、亡くなったかたの魂を聖なるおとめマリアの執り成しを通じて主にゆだねます。
わたしたちは、とくに日々の共同のロザリオの祈りを通じて、平和のための祈りを絶えずささげています。わたしたちは、おとめマリアとともにキリストの神秘を観想しながら、戦争の犠牲となった子ども、母親、父親、高齢者の苦しみと希望を自分のものとします。そして、この心からの執り成しから、福音的な愛と、具体的な寄り添いと、連帯の多くの好意が生まれます。日々、信頼に満ちた忍耐によって、この取り組みを続けておられる皆様に繰り返して申し上げます。「平和を実現する人々は、幸いである」。
メキシコでは10月6日(月)から9日(木)(現地時間)にかけて発生した洪水により、死傷者を含む多数の被災民と物的被害が生じています。メキシコ合衆国政府によると、被害は死者72人(10月18日現在)、被災家屋10万戸以上(10月14日現在)に上っています。(外務省の10月20日発表による。)
親愛なる兄弟姉妹の皆様。こんにちは。
今日の福音(ルカ18・9-14参照)は、神殿で祈るファリサイ派の人と徴税人という、二人の人物をわたしたちに示します。
前者は数々の功績を誇ります。彼が行った善業は多く、そのため彼は自分が他の人よりも優れていると感じ、他の人々をさげすんで裁きます。彼はまっすぐに立ち、頭を高く上げます。この態度は明らかにうぬぼれています。彼は自分が律法を正確に守ったと述べますが、その態度は愛に欠け、「与えること」と「所有すること」、負債と信用から成り立っており、あわれみをもちません。
徴税人も立って祈りますが、その祈り方は異なります。彼には多くのゆるしを必要とすることがあります。彼はローマ帝国の金を集める者であり、同胞を犠牲にして得た収益で投資することを認める請負契約によって働いています。しかし、たとえ話の終わりに、イエスはいいます。二人のうちで、「義とされて」家に帰ったのは、すなわち、神との出会いによってゆるされ、新たにされたのは、この徴税人のほうだと。なぜでしょうか。
何よりもまず、徴税人は、神の前に自分を示す勇気と謙虚さをもっています。彼は自分の世界に閉じこもることも、自分が悪事を犯したことであきらめることもありません。彼は、自分が他の人に対して振るった権力によって安全に守られた、人々から恐れられる場所を離れます。彼は、厳しい視線と辛辣な審判に直面することを承知で、護衛もなしに、一人で神殿にやって来ます。そして、主の前に来ると、遠くから、頭を垂れて、短いことばを唱えます。「神様、罪人のわたしをあわれんでください」(13節)。
このようにしてイエスはわたしたちに力強いメッセージを示します。わたしたちを救うのは、自分の功績をひけらかすことでも、自分の過ちを隠すことでもありません。むしろ、わたしたちを救うのは、神と自分と他の人々の前に、自分のありのままの姿を正直に示し、ゆるしを願い、主の恵みに身をゆだねることなのです。
聖アウグスティヌスは、このエピソードを注解する際、ファリサイ派の人を、恥と傲慢のゆえに自分の傷を医者に隠す病人にたとえ、また、徴税人を、謙遜と知恵をもって、それがどれほど見苦しく見えても、自分の傷を医師にありのままに示し、助けを求めるもう一人の病人にたとえます。そして、結論としてこう述べます。「自分の病気を示すことを恥じなかったこの徴税人がいやされて戻って来ても、わたしたちは驚かない」(『説教』[Sermones 351, 1])。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちも同じようにしようではありませんか。自分の過ちを認め、それをありのままに示し、責任を負い、神のあわれみに身をゆだねることを恐れてはなりません。そうすれば、わたしたちのうちに、わたしたちの周りで、神の国が成長します。神の国は、高慢な者ではなく、へりくだる者のものであり、祈りと生活の中で、誠実さとゆるしと感謝を通して育つからです。
聖性の模範であるマリアに、このような徳が成長するようにわたしたちを助けてくださることを祈り求めます。
