
2025年11月2日(日)死者の日の正午に教皇公邸書斎の窓から「お告げの祈り」を唱える前に述べたことば(原文イタリア語)。 「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べた。 親愛なる兄弟姉妹の皆様。 スーダ […]
「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べた。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。
スーダン、とくに苦しむ北ダルフール地方のエル・ファーシル市から届く悲惨なニュースを深い悲しみをもって受け止めています。女性と子どもへの無差別の暴力、無防備の民間人への攻撃、人道支援活動の深刻な妨害は、数か月にわたる紛争により疲弊した人々に受け入れがたい苦しみをもたらしています。主が亡くなったかたがたを受け入れ、苦しむ人々を支え、責任ある人々の心に触れてくださるように祈ります。当事者に対して、停戦と、人道回廊の緊急の開設を改めて心から呼びかけます。最後に、国際社会に対し、支援を行い、救援活動に尽力する人々を支えるために、断固として惜しみなく介入することを求めます。
最近の選挙後、衝突が生じ、多くの犠牲者を出したタンザニアのためにも祈ります。あらゆる形の暴力を回避し、対話の道を歩むように、すべての人に求めます。
スーダンでは10月26日(日)に、国軍と対立する準軍事組織の即応支援部隊(RSF)が西部ダルフール地方の主要都市エル・ファーシルと南部の都市カドグリを包囲し、物資搬入が滞ったため、複数の国連機関や人道支援団体などの連合体IPCは11月3日(月)、両都市で飢饉が発生したと発表した。
タンザニアでは、10月29日(水)に行われた大統領選等に関して、ダルエスサラームを中心に各地で抗議活動が発生し、同活動参加者と治安機関との間での衝突で死傷者が出た。主要野党は29日から3日間で数百人が殺害されたとしている。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。こんにちは。
十字架につけられたイエスの死者の中からの復活は、この11月の最初の数日間に、わたしたち一人ひとりの運命を照らします。イエスご自身がこういわれます。「わたしをお遣わしになったかたのみ心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」(ヨハ6・39)。ですから、神が心にかけることの中心は明らかです。それは、だれも永遠に失われず、一人ひとりの人が自分の場所をもち、その独自性をもって輝くことです。
いわば、神のいのちを、それにあずかることを望むすべての子らへと広げる、違いを伴う交わり――これが、昨日わたしたちが諸聖人の祭日に記念した神秘です。これが、認識と関心と喜びを願い求めるすべての人の心に刻まれた望みです。教皇ベネディクト十六世が述べたとおり、「永遠のいのち」ということばは、この抑えることができない期待を名づけようとしたものです。それは、終わりのない連続ではなく、無限の愛の海に飛び込むことです。そこには時間も、過去も未来も、もはや存在しません。それはいのちと喜びの充満です。これが、キリストとともにいることによってわたしたちが希望し、待ち望むことです(教皇ベネディクト十六世回勅『希望による救い』12[Spe salvi]参照)。
こうして、死者の日はこの神秘をわたしたちにとっていっそう身近なものとします。実際、死が声と顔と世界全体を永遠に失わせるかのように思われるたびに、わたしたちは心の中で、だれ一人失わないようにしたいという神の気遣いに気づきます。実際、すべての人は世界全体です。それゆえ、今日は、きわめて大切で壊れやすい、人間の記憶に挑戦する日です。イエスの――その生涯と死と復活の――記憶がなければ、すべてのいのちの計り知れない宝は忘却にさらされます。しかし、イエスの生きた記憶のうちに、だれも思い起こすことのない人、歴史が消し去ったかのように思われる人さえも、無限の尊厳のうちに現れます。家を建てる者が捨てた石であるイエスは、今や隅の親石となります(使4・11参照)。これが復活の告知です。そのため、キリスト信者は感謝の祭儀をささげるたびにつねに死者を思い起こします。そして、今日に至るまで、奉献文の中で愛する人々の名に言及することを求めているのです。この告知から、だれも失われることがないという希望が生まれます。
それゆえ、沈黙が活動の熱狂を中断する、墓所の訪問が、わたしたち皆にとって記念と期待への招きとなりますように。わたしたちは信条の中で、「死者の復活と来世のいのちを待ち望みます」と唱えます。それゆえ、未来を記念しようではありませんか。わたしたちは過去と追憶の涙に心を閉ざしてはなりません。墓のように現在の中に封じ込められてはなりません。わたしたちのよく知っているイエスの声がわたしたちに、すべての人に届きますように。なぜなら、イエスの声だけが未来からやって来るからです。イエスがわたしたちの名を呼び、わたしたちのために場所を用意し、わたしたちを無力感から解放してくださいますように。無力感は人生をあきらめさせるおそれがあるからです。聖土曜日の女性であるマリアが、再び希望することをわたしたちに教えてくださいますように。
