教皇レオ十四世、2025年12月7日、「お告げの祈り」でのことば

2025年12月7日(日)、待降節第二主日の正午から、教皇公邸書斎の窓から「お告げの祈り」を唱える前に述べたことば(原文イタリア語)。 「お告げの祈り」の後、教皇は次のようにイタリア語で述べた。  親愛なる兄弟姉妹の皆様 […]

2025年12月7日(日)、待降節第二主日の正午から、教皇公邸書斎の窓から「お告げの祈り」を唱える前に述べたことば(原文イタリア語)。
「お告げの祈り」の後、教皇は次のようにイタリア語で述べた。

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 数日前にトルコとレバノンへのわたしの最初の使徒的訪問(11月27日―12月2日)から戻りました。愛する兄弟であるヴァルソロメオス・コンスタンチノープル世界総主教と、他のキリスト教諸教派の代表者とともに、わたしたちは、1700年前に最初の公会議が開催された古代のニカイア(ニケア)であるイズニクでともに祈るために集まりました(11月28日)。今日は、相互破門を終わらせた、教皇パウロ六世とアテナゴラス総主教の共同声明から60周年を記念します。神に感謝するとともに、すべてのキリスト者の完全な目に見える一致に向けた歩みへの努力を新たにしたいと思います。トルコではカトリック教会の共同体と出会う喜びを与えられました。彼らは、忍耐強い対話と苦しむ人々への奉仕を通して、愛の福音と、小ささの中で現される神の論理をあかししています。

 レバノンは共生のモザイクであり続けており、このことに関する多くのあかしを聞いて、わたしは慰められました。わたしは、避難民を受け入れ、受刑者を訪問し、困窮のうちにある人々とパンを分け合うことを通して福音をのべ伝える人々と出会いました。街頭で多くの人が歓迎してくださるのを見て慰められるとともに、ベイルート港での爆発の犠牲者との面会で心を動かされました(12月2日)。レバノンの人々は慰めのことばと存在を待ち望んでいますが、彼らはその信仰と熱意によってわたしを慰めました。祈りをもってわたしに同伴してくださったすべてのかたがたに感謝します。親愛なる兄弟姉妹の皆様。この数日間にトルコとレバノンで起きたことは、次のことをわたしたちに教えます。平和は可能であり、キリスト者は、他の信仰と文化をもつ人々との対話によって、平和の構築に貢献することが可能です。平和は可能です。このことを忘れてはなりません。

 最近の自然災害によって大きな苦しみのうちにある南アジアと東南アジアの人々に寄り添います。犠牲者と、愛する人を失ったご家族と、支援を行う人々のために祈ります。国際社会とすべての善意の人々が、連帯のわざをもって、これらの地域の兄弟姉妹を支えてくださるように励まします。

11月下旬以降、3つの熱帯性サイクロンと北東モンスーンが重なった結果、南アジアと東南アジア各地(インドネシア、スリランカ、タイ)で洪水が発生し、1300人以上が死亡している。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。こんにちは。

 待降節第二主日の福音は、わたしたちに神の国の到来を告知します(マタ3・1-12参照)。イエス以前に、その先駆者である洗礼者ヨハネが登場します。洗礼者ヨハネは、ガリラヤの荒れ野でこういって説教しました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタ3・1)。

 わたしたちは「主の祈り」の中で、毎日こう願い求めます。「み国が来ますように」。イエスご自身がこの祈りを教えてくださいました。わたしたちはこの祈願によって、神がわたしたちのために約束してくださる新しいことへと心を向けます。歴史の成り行きは、この世の権力者によってすでに書かれたものではないことを認めるからです。わたしたちは、わたしたちを支配するためではなく、わたしたちを解放するために来られる神に仕えるために、思いと力をささげます。これが「福音」です。わたしたちを動かし、かかわらせる、真のよい知らせです。

 当然のことながら、洗礼者ヨハネのことばは厳しいものですが、人々は彼に耳を傾けます。なぜなら、人々は洗礼者ヨハネのことばのうちに、生活を軽んじず、外見ではなく、行いと心の思いに基づいて裁かれるかたとの出会いに備えるために今の時を生かすようにという、神の呼びかけを聞くからです。

 同じ洗礼者ヨハネも、イエス・キリストの柔和とあわれみのうちに神の国が示されるさまに驚かされることになります。預言者イザヤはそれを若枝にたとえます。若枝は、権力と破壊の象徴ではなく、誕生と新しさの象徴です。一見すると死んだ株から萌えいでた若枝の上に、聖霊はそのたまものをもって息吹を与えます(イザ11・1-10参照)。わたしたちは皆、人生で起きた同じような驚くべきわざを思い起こすことができるはずです。

 それはちょうど60年前に閉会した第二バチカン公会議によって教会が経験したことでもあります。わたしたち皆が神の国を受け入れ、それに仕えようと努めながら、それを目指してともに歩むとき、この経験は新たにされます。そのとき、弱く、周縁的に見えたものが萌えいでるだけでなく、人間の目からは不可能に思われることが実現します。預言者はそれをこうたとえます。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子どもがそれらを導く」(イザ11・6)。

 兄弟姉妹の皆様。世はどれほどこの希望を必要としていることでしょうか。神にできないことは何一つありません(ルカ1・37参照)。神の国のために準備し、そのために場所を空けようではありませんか。「もっとも小さい者」(マタ25・40参照)であるナザレのイエスがわたしたちを導いてくださいます。誕生の夜から十字架の死の闇に至るまでわたしたちの手に身をゆだねられたかたは、昇る太陽としてわたしたちの歴史を照らします。新たな日が始まります。目覚めて、イエスの光の中を歩もうではありませんか(一ヨハ1・7参照)。

 これが、輝かしく、具体的な、待降節の精神です。街路のイルミネーションも次のことを思い起こさせてくれます。新しい世の若枝であるイエスを受け入れるなら、わたしたちは皆、小さな光となることができます。信頼に満ちた期待と希望の女性であり、わたしたちの母であるマリアから、このように行うことを学ぼうではありませんか。

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