教皇レオ十四世、2025年12月10日、一般謁見演説 わたしたちの希望であるイエス・キリストについての連続講話 Ⅳ キリストの復活と現代世界の課題 7.イエス・キリストの復活――わたしたちの死に関する問いへの究極的な答え

 

教皇レオ十四世、2025年12月10日、一般謁見演説
わたしたちの希望であるイエス・キリストについての連続講話


Ⅳ キリストの復活と現代世界の課題
7.イエス・キリストの復活――わたしたちの死に関する問いへの究極的な答え

2025年12月10日(水)午前10時(日本時間同日午後6時)からサンピエトロ広場で行った一般謁見演説(原文イタリア語)。
講話の後、教皇はイタリア語で次の呼びかけを行った。

 タイとカンボジア国境沿いで紛争が再燃したという知らせに深い悲しみを覚えています。民間人にも犠牲者が出ており、数万人の人が自分の家を離れることを余儀なくされています。愛するタイとカンボジアの人々に祈りのうちに寄り添うとともに、紛争当事者に対して即時停戦と対話の再開を求めます。

タイ・カンボジア間で7月24日から起こった武力紛争は、ドナルド・J・トランプ米大統領の仲介で10月26日の国境紛争に関する共同宣言署名により停戦していたが、12月8日(月)、タイ軍はカンボジアとの国境沿いで空爆を開始したと発表した。8日現地時間午前5時(日本時間午前7時)頃に激化した新たな衝突で少なくともタイ軍兵士1人が死亡、8人が負傷した。AFP通信は10日までに両国で50万人以上が避難したと報じた。

 
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。おはようございます。ようこそおいでくださいました。

 死の神秘は、つねに人間に深刻な問いを引き起こしてきました。実際、死はもっとも自然な出来事であると同時に、存在するものの中で最も不自然な出来事であるように思われます。地上で生きるもののすべては死ぬため、死は自然です。しかし、死は不自然なものでもあります。わたしたちが自分自身と愛する者に対して感じるいのちと永遠への望みは、死を断罪と「矛盾」と見るように仕向けるからです。

 古代の多くの人々は、この至高の神秘に向けて旅立った人々に寄り添い、彼らを思い起こすために、死者礼拝に関連する儀礼と習慣を発展させました。これに対して、現代では異なる傾向が見られます。死は一種のタブー(禁忌)、遠ざけるべき出来事であるように思われます。それはわたしたちの感覚と平静を乱すことを避けるために、小声で語られるものに思われます。そのため、わたしたちに先立った人々が復活を望みながら眠る墓地を訪れることもしばしば避けられます。

 それゆえ、死とは何でしょうか。死は本当にわたしたちの人生に関する最後のことばなのでしょうか。人間だけがこの問いを自らに問いかけます。なぜなら、人間だけが自分が死すべき者であることを知っているからです。しかし、この自覚は人を死から救ってはくれません。それどころか、それはある意味で他のすべての生き物に比べて「重荷」となります。たしかに動物も苦しみ、死が迫っていることを感じますが、彼らは死が自分たちの運命の一部であることを知りません。動物がいのちの意味と目的と結末について問うことはありません。

 それゆえ、このような側面を考えるなら、わたしたちは自らを逆説的で不幸な被造物と考えざるをえません。それは、わたしたちが死ぬからだけでなく、この死という出来事が、それがいつどのようにして起こるかは知らないものの、必ず起こると確信しているからです。わたしたちは自分の死を自覚しながら、同時に無力であることを見いだします。おそらくここから、死の問いをしばしば抑圧したり、そこから実存的に逃避することが生じるのだと思われます。

 聖アルフォンソ・マリア・デ・リグオーリ(1696-1787年)は『死の準備』(Apparecchio alla morte)という標題の有名な著作の中で、死の教育的な価値について考察し、死が人生の偉大な教師でもあることを強調します。死の存在を知り、何よりもそれについて黙想することは、わたしたちが人生において本当になすべきことを選択することを教えてくれます。天の国のために役立つことを理解するために祈り、わたしたちをはかないものに縛りつける表面的なものを手放すために祈ることは、真の意味で生きるための秘訣です。それは、地上での旅路がわたしたちを永遠に向けて準備させることを自覚させてくれるからです。

 しかし、現代の人間に関するものの見方の多くは、内在的な不死を約束し、テクノロジーによる地上の生の延長を理論化しています。これが、現代の課題の地平に姿を現した、トランスヒューマニズムのシナリオです。死は本当に科学によって克服可能なものなのでしょうか。しかし、はたして同じ科学が、死の存在しない人生が幸福な人生でもあることを保証しうるのでしょうか。

 キリストの復活の出来事は、死が生と対立するものではなく、永遠のいのちへの道として、その一部を構成するものであることをわたしたちに示します。イエスの復活は、この今なお苦しみと試練に満ちた時代においても、死後に起こることの完全性を〈前もって〉味わわせてくれるのです。

 福音書記者ルカは、この暗闇の中の光の予感を把握しているように思われます。闇がカルワリオ(ゴルゴタ)を包んだ午後の終わりに、こう記しているからです。「その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた」(ルカ23・54)。復活の朝を先取るこの光は、まだ閉ざされ、沈黙しているように思われる空の暗闇の中ですでに輝き始めます。安息日の光は、初めて、また唯一そのときにのみ、〈安息日の翌日〉の夜明けを前もって告げます。すなわち、復活の新しい光です。この出来事だけが、死の神秘を根底から照らすことができます。この光の中で、そしてこの光の中でのみ、わたしたちの心が望み、希望することが真実となります。すなわち、死は終わりではなく、完全な光への、永遠の幸福への道だということです。

 復活したかたは、死の大きな試練の中をわたしたちに先立って進み、神の愛の力によって、勝利のうちにそこから出て来られます。こうしてこのかたは、永遠の安息の地、わたしたちが待ち望む家をわたしたちのために準備してくださいました。そして、もはや影も矛盾もない完全ないのちをわたしたちに与えてくださいました。

 愛のゆえに死んで復活したかたのおかげで、わたしたちは聖フランシスコとともに死を「姉妹」と呼ぶことができます。復活への確かな希望をもって死を待ち望むことは、永遠に消え去ることへの恐怖からわたしたちを守り、終わりのないいのちの喜びへと備えさせてくれるのです。

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