教皇レオ十四世、2026年復活祭メッセージ(ローマと全世界へ)(2026.4.5)

2026年4月5日(日)正午(日本時間午後7時)にサンピエトロ大聖堂バルコニーから発表した復活祭メッセージ(原文イタリア語)。メッセージの中で、4月11日(土)にサンピエトロ大聖堂で行う平和のための夕の祈りへの参加を呼び […]

2026年4月5日(日)正午(日本時間午後7時)にサンピエトロ大聖堂バルコニーから発表した復活祭メッセージ(原文イタリア語)。メッセージの中で、4月11日(土)にサンピエトロ大聖堂で行う平和のための夕の祈りへの参加を呼びかけた。メッセージ発表後、10か国語(伊・仏・英・独・西・葡・ポーランド・アラビア・中国・羅語)で次の復活祭のあいさつを行った。「復活祭おめでとうございます。復活して、わたしたちのただ中におられるイエスの喜びをすべての人に伝えてください」。


 兄弟姉妹の皆様。
 キリストは復活されました。復活祭おめでとうございます。

 教会は数世紀にわたって、その信仰の起源であり基盤である出来事を喜びのうちに歌ってきました。「死を身に受けたいのちの主は/今や生きて治められる。/ともにたたえ告げ知らせよう。/主キリストは復活された。/勝利の王キリストよ/いつくしみをわたしたちに」(「復活の続唱」)。

 復活は勝利です。死に対するいのちの、闇に対する光の、憎しみに対する愛の勝利です。それは大きな犠牲を払った上での勝利です。生ける神の子(マタ16・16参照)であるキリストは、死ななければなりませんでした。ただちに不正な判決を受け、嘲られ、鞭打たれ、ご自分の血をすべて流して、十字架上で死ななければなりませんでした。キリストはまことのいけにえの小羊として世の罪を身に負うことによって(ヨハ1・29、一ペト1・18-19参照)、わたしたち皆を、そしてわたしたちとともに造られたすべてのものを、悪の支配から解放してくださいました。

 しかし、イエスは〈どのようにして〉勝利されたのでしょうか。いかなる力をもって、この世の支配者(ヨハ12・31参照)であるいにしえからの敵を、一度限り永遠に打ち負かされたのでしょうか。キリストはいかなる権能をもって、死者の中から復活し、元のいのちに戻らずに、永遠のいのちに入り、ご自分のからだのうちにこの世から御父へと向かう道を開かれたのでしょうか。

 この力、この権能が、神ご自身です。神は、創造し、生み出す愛、最後まで忠実な愛、ゆるし、あがなう愛であるかただからです。

 わたしたちの「勝利の王」であるキリストは、信頼しつつ御父のみ旨とその救いの計画に身をゆだねることによって(マタ26・42参照)、ご自身の戦いに臨み、それに勝利されました。こうしてキリストは、ことばによってではなく、行いによって、対話の道を最後まで歩まれました。キリストは、失われたわたしたちを見いだすために肉となり、わたしたちを奴隷状態から解放するために奴隷となり、死すべきわたしたちにいのちを与えるために十字架上で死に渡されました。

 キリストを復活させた力は、完全に非暴力的な力です。この力は一粒の麦の力に似ています。一粒の麦は、土の中で朽ちて、成長し、土を突き破り、芽生え、金色の穂になります。それはまた人間の心の力にも似ています。人間は、侮辱によって傷つけられても、復讐したいという気持ちを拒み、あわれみに満ちた心で、自分を侮辱した人のために祈るからです。

 兄弟姉妹の皆様。これが人類に平和をもたらすまことの力です。なぜならそれは、個人、家庭、社会集団、国家といったあらゆるレベルで、相手を尊重する関係を生み出すからです。それは特定の利害ではなく、共通善を追求します。自分の計画を押しつけるのではなく、他者とともに計画を立て、それを実現しようとします。

 まことに、キリストの復活は新たな人類の始まりです。真の約束の地への入り口です。それは、正義と自由と平和が支配する地であり、すべての人が互いを兄弟姉妹、愛といのちと光である同じ御父の子として認め合うところです。

 兄弟姉妹の皆様。主はご自身の復活によって、わたしたちを自由の劇的な現実に力強く直面させます。わたしたちは空の墓の前で、弟子たちと同じように、希望と驚きで満たされるかもしれません。あるいは、番兵やファリサイ派の人々と同じように、恐れを抱き、罪に定められたかたが本当に復活したことを認めずに、噓やごまかしに頼らざるをえないかもしれません(マタ28・11-15参照)。

 復活の光の中で、キリストによって驚きに満たされようではありませんか。キリストのわたしたちに対するはかりしれない愛によって心を造り変えていただこうではありませんか。武器を手にしている人は、それを手放してください。戦争を駆り立てる権力をもつ人は、平和を選択してください。力によってではなく、対話によって平和を追求してください。他者を支配する意志によってではなく、対話する意志によって平和を追求してください。

 わたしたちは暴力に慣れ、暴力を甘受し、無関心になっています。何千人もの人の死に無関心になっています。紛争が生み出す憎悪と分裂の繰り返しに無関心になっています。わたしたち皆がそれを知っていながら、紛争がもたらす経済的・社会的結果に無関心になっています。教皇フランシスコがよく用いた表現を借りるなら、「無関心のグローバル化」がますます広まっています。教皇フランシスコは一年前にこのバルコニーから世界に向けて述べた最後のことばの中で、次のことを思い起こさせました。「わたしたちは日々、世界のさまざまな地域で行われる多くの紛争の中に、どれほど死への望みを見いだすことでしょうか」(教皇フランシスコ「復活祭メッセージ(ローマと全世界へ)(2025年4月20日)」)。

 キリストの十字架は、死を取り巻く苦しみと痛み、死がもたらす苦悶をつねに思い起こさせてくれます。わたしたちは皆、死を恐れ、恐れのゆえに死から目を背け、死を見つめることを望みません。しかし、わたしたちは無関心でい続けることはできません。悪に屈することはできません。聖アウグスティヌスはこう教えています。「死を恐れるなら、復活を愛しなさい」(『説教124』[Sermo 124, 4])。わたしたちも復活を愛そうではありませんか。復活はわたしたちに、悪が最後に勝利を収めるのではないことを思い起こさせてくれます。なぜなら、悪は復活した主によって打ち負かされたからです。

 キリストはわたしたちにいのちと平和を与えるために死を通られました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」(ヨハ14・27)。イエスがわたしたちに与える平和は、武器を黙らせるだけの平和ではありません。それは、わたしたち一人ひとりの心に触れ、それを造り変える平和です。キリストの平和に向けて回心してください。心からわき上がる平和への叫び声を聞いてください。そのためわたしは、4月11日の土曜日にこのサンピエトロ大聖堂で行う平和のための夕の祈りに、わたしとともに参加してくださるように皆様を招きます。

 この祭日にあたり、争いと支配と権力へのあらゆる意志を放棄しようではありませんか。そして主に祈り求めようではありませんか。戦争によって荒廃し、憎しみと、悪に対する無力感をわたしたちに覚えさせる無関心によって特徴づけられた世界に、あなたの平和のたまものを与えてください。苦しみのうちにあり、主だけが与えることのできるまことの平和を待ち望むすべての人の心を主にゆだねます。主に信頼し、心を開いてください。主だけが万物を新しくしてくださいます(黙21・5参照)。

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