世界代表司教会議第16回通常総会 第1会期「まとめ」報告書の関連課題に関する研究部会 シノドス流の教会:交わり、参加、宣教 アフリカ・マダガスカル司教協議会連盟シンポジウム(SECAM): 一夫多妻婚(ポリガミー)の司牧 […]

世界代表司教会議第16回通常総会
第1会期「まとめ」報告書の関連課題に関する研究部会
シノドス流の教会:交わり、参加、宣教
アフリカ・マダガスカル司教協議会連盟シンポジウム(SECAM):
一夫多妻婚(ポリガミー)の司牧的課題
報告概要
(原文:英語)

1.はじめに
アフリカの家庭は、契約の上に築かれています。つまりそれは、人間集団同士の契約、祖先との契約、神との契約です。この家庭の中心において、子どもはかけがえのない宝であり、神からの祝福です。子どもは家名を継承すると同時に、現在の生活をより強固なものにする助けとなります。多くの子孫をもつことは、神のたまものです。
複婚(一夫多妻婚=ポリガミー)制度は、こうした文脈の中で理解されなければなりません。これは、一人の個人が同時に複数の配偶者と結ばれる結婚制度を指します。複数の夫をもつ女性の場合は「一妻多夫婚(ポリアンドリー)」、複数の妻をもつ男性の場合は「一夫多妻婚(ポリジニー)」と呼ばれます。後者が、間違いなくもっとも頻繁に見られるケースです。「ポリガミー」という用語は、男性が複数の妻と暮らす慣習を表す一般的なことばとなっています。というのも、一妻多夫婚(ポリアンドリー)はほぼ完全に消滅してしまっているからです。しかし、この現実はアフリカに限ったことではなく、普遍的なものです。だからこそ、教会全体の司牧的配慮にとって課題となっているのです。しかしながら、一夫多妻婚の実践はアフリカ大陸でもっとも頻繁に目にするものであり、キリスト者がもっとも深い懸念を覚えているのも、まさにそこなのです。
2.アフリカにおける一夫多妻婚――過去から現在まで
一夫多妻婚の理由は多岐にわたります。農耕社会や遊牧社会において、大家族を築こうとする動きは、生存と拡大の要請によって促進されました。結婚には、共同体的側面や宗教的側面が強く、そこには親族が関与し、その結びつきは神聖な秩序の中に刻まれていました。離婚は極めて稀なものでした。しかし、人類学的研究によれば、一夫多妻婚社会においても、象徴的な理想は多くの場合、一夫一妻婚のままであったことが示されています。つまり、第一夫人は独自の地位を占め、他の妻たちは従属的な立場に置かれていたのです。その後、イスラム教やキリスト教との接触により、こうした構造は変化し、結婚の実践はときに強化され、ときに変容していきました。
3.聖書の体験に耳を傾ける
司牧上の識別を行うにあたっては、この文化的現実を、聖書における結婚理解と比較検討する必要があります。旧約聖書においては、一夫多妻婚の裏付けがあり、法的に容認されていました。アブラハムやヤコブといった父祖たちや、ダビデやソロモンといった王たちも、子孫を残したい欲求や権力を主張するため、一夫多妻の関係を生きていました。モーセの律法は、こうした状況を理想としてあがめるのではなく、規律を設けています。
しかしながら、一つの神学的潮流が、聖書を通じて流れています。創造物語は、男女の結びつきを原初の規範として示しています。契約の神学を展開した預言者たちは、神とその民との関係を、排他的な愛の関係として描いています。知恵文学は「若いときの妻」への忠実さをたたえ、トビト書は一夫一婦婚の理想を全面的に擁護する証言を提示しています。このように、神の教育法が浮かび上がります。つまり、歴史を通じて容認されてきたことが、そうだからといって、確固たる規範として提示されているわけではない、ということです。
新約聖書は、極めて重要な洞察を与えてくれます。イエスは創造主の計画に言及し、結婚の本来的結びつき、つまり「二人は一体となる」ということを思い起こさせます。マタイによる福音書の対句法の精神の中、イエスは創造主が意図した一夫一婦婚、つまり一人の男と一人の女による結婚を再確認します(マタイ19・4−5参照)。使徒パウロはこの要請を教会生活に取り入れ、指導者たちに対して「一人の妻の夫」であるよう求めています。このように、イエス・キリストにおける啓示は、夫婦の結びつきと単一性が、神が望まれる結婚の深遠な真理に属することを示しています(一コリント7・2、一テモテ3・2, 12参照)。
4.キリスト教の結婚:一人の男と一人の女
結婚の形態は、結婚に関するキリスト教神学に根ざしており、その神学自体は、神のことばから着想を得ているものです。「創世記」のテキストは、次のことをわたしたちに思い出させてくれます。「神はご自分にかたどって人(訳注:単数)を創造された。神にかたどって創造された。(彼らを)男と女に創造された」(1・27)。この単数形から複数形への移行は、神の前における男女の等しい尊厳を明示しています。2番目の、より古い創造物語(「創世記」2・21−23参照)は、この点についてより明示的です。男自らが女を、同じ本性の伴侶として認めています。「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから」(2・23)。これこそ、男女という、カップルにおける唯一無二の絆が確認される場の一つではないでしょうか。実際、イエスが一夫一婦婚の比類なき価値を説くために依拠しているのは、まさに「創世記」のこれらの箇所なのです。
聖書の中で、人間の夫婦は、いのち、さらには神ご自身のいのちをも伝達し、そうすることで、神のみわざを継承するよう定められています。しかし、一夫多妻婚が生じる原因の一つは、女性の不妊です。母であることの問いは極めて重要ですが、「母」ということばは、単に子どもを産んだ人だけを指すわけではありません。したがって、聖書的な意味において、「母」ということばは、生物学的な母親以上のより広い概念であり、いのちを授け育てる他の仕方も包含しています。これは、すべての女性にとって根本的なことなのです。
今後ずっと、信者の視線はもはや、生物学的な豊穣さに固執することはありません。徳によって生み出されるわざは、子孫よりもさらにずっと、死を超えたのものをもたらします。次第に不妊は受け入れられ、変容していきます。こうして、霊的な豊穣さが告げ知らされるのです。それは、無償の神の救いと、計り知れない神の愛をあかしするものです。したがって、一夫多妻婚は、生物学的な不妊状況に対する、一時しのぎの手段として提示されることはありません。
5.司牧的経験
宣教師たちが導入した司牧活動では、主に一夫多妻婚の是正に重点が置かれていました。そのため、一夫一婦婚は、キリスト者であること、あるいはキリスト者になるための必須条件とされました。宣教師たちにとって、一夫多妻婚は女性を奴隷化する行為であり、それゆえに極めて道徳に反するものでした。SECAM教父たちにとっては、いかなる曖昧さも許されませんでした。教会の公式の教義との妥協の余地は、絶対にありませんでした。「一夫多妻婚を実践する人々に対する司牧的対応は、……いかなる形でも、教会が一夫多妻婚を容認したと受け取られうるようなことを避けなければなりません」(1)。SECAMの教父たちは、結婚の単一性と不解消性に関する聖書の教えを受け入れることにより、結婚がもつ、一夫一婦制の次元を推進するよう奨励しています。
現代アフリカの文脈において、一夫多妻婚の状況に対処するため、いくつかの司牧実践が採られています。その中には、秘跡を受けたいと願う一夫多妻婚をしている男性に対し、一人の妻のみを選ぶと同時に、他の妻たちやその子どもたちへの公正な扱いと支援を保証するよう要求するものもあります。また、秘跡を受けることなしにその個人を共同体に受け入れる、「終身洗礼志願者」を制定するものもあります。ときには、第一夫人が、自らの意思に反して一夫多妻関係に置かれた被害者と考えられる場合、その夫人が洗礼を受けることもあります。最後に、非公式な複婚である「隠れた一夫多妻婚」に対しては、多くの場合、女性や子どもたちに焦点を当てた、特別な支援が必要となります。
6.さまざまな実践の神学的評価
洗礼は、それによって人間を教会における「人」――すなわち、権利および義務を有する者(『カトリック新教会法典』第96条)――とするものであり、わたしたちをキリストの似姿へと変容させる信仰の秘跡です。洗礼の秘跡と密接に結びついている結婚の秘跡における一致への信仰の名において、また洗礼は「刻印の秘跡」であることを踏まえると、洗礼を希望する、一夫多妻婚の洗礼志願者たちに対し、洗礼を勧めることは避けるべきでしょう。そうすることで解決する問題よりも、より多くの問題を引き起こすでしょう。とくに、洗礼から生じる権利、とりわけ他の秘跡を受ける権利を考慮すればなおさらです。
したがって、洗礼の恵みを通じてキリストと一つになりたいと願う一夫多妻婚の人びとは、十分な準備を整え、特定の文化的制約から自らを解き放ち、福音のメッセージを受け入れ、キリスト教の理想に則り、洗礼を受ける前に一夫一婦婚の実践を約束することが勧められます。このように、教会は、誓約に基づいて一夫多妻婚をしている人や、この秘跡を受けたあとも一夫多妻婚を続ける人に対しては、洗礼を授けません。結局のところ、一夫多妻婚をしている人に対して洗礼の秘跡を先に授ける必要はなく、むしろ、インカルチュレーションに基づく司牧方法の枠組みの中で、同伴する必要があるのです。それこそが、一夫多妻婚に対する司牧方法に向けて道を開くことになります。
7.一夫多妻婚に対する一つの司牧的対応
洗礼を受ける前に一夫一婦婚を固く誓うことを目指した、忍耐を要する厳しい準備を最優先すべきです。これは、排除したり烙印を押したりすることではなく、一人ひとりが真の回心と、秘跡による完全な結びつきへ向かうよう同伴することなのです。
こうした司牧的配慮は、親密になり、耳を傾け、人びとを受け入れ、各個人の歩みを尊重するといった特徴をもつべきです。こうして身近に寄り添う司牧的配慮はまた、女性の尊厳を守ることをも目指すべきです。イエスの母、マリアのように、教会は、インカルチュレーションした、結婚と家庭に対する司牧方法の最前線に立っています。福音の真理を告げ知らせる上で、いつくしみを切り離すことはできません。教会は、こうした望みを支え、結婚の準備を強化し、その純粋に生物学的な側面を超えて、子どもを授かることへの理解を広げるよう求められています。
最後に、この課題は倫理的、人類学的、そして教会論的でもあります。もし夫婦の結びつきが「相手への自己譲渡」を表すものであるならば、一人の男性や女性が、同時に複数の妻や夫に自らを明け渡すことによって、いかにしてこの「自己譲渡」を生きることができるのか、と問うことができるでしょう。同様に、初めから、創造主は彼らを男と女として造り、そして神は言いました。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」。つまり、「二人はもはや別々ではなく、一体である」(マタイ19・5−6)のです。いったいどのようにすれば、一夫多妻婚の関係にある男女が、幾人かの妻や夫と「一体となる」ことが可能でしょうか。結婚についてのキリスト教神学は、その単一性と不解消性が神の創造の計画に由来するものであると確証しています。このように、一夫一婦婚を推奨することは、男女の尊厳と平等を実質的に承認することに寄与します。一夫多妻婚という課題は、単なる家族構成にかかわるだけではありません。それは、神との契約の真理にかかわり、さらに、目に見えるしるしとして、キリストと教会との真実の一致を表す、一体となる愛の召命にかかわる問題なのです。
8.結び
アフリカにおける教会の司牧活動は、教会への受け入れを求める一夫多妻婚の夫婦に寄り添い、結婚やキリスト者の家庭に関する教会の理解に忠実であり続けようとする試みのように思われます。個人や家族を受け入れ、彼らに寄り添う必要はますます顕著になっており、そうすることで、彼らは、教会と社会における家庭の召命と使命に関する、啓示された福音の真理による呼びかけに、より明確に応えることができるのです。
親密になり、よく配慮するという、こうした司牧方法は、これら一夫多妻婚の夫婦と司牧者(司祭、司教)との間に、敬意と兄弟愛に満ちた対話をはぐくむことでしょう。司牧者は、「失われた羊」を探し求め、徴税人や罪びとたちと同じ食卓に着くことを厭わない、いつくしみ深いキリストの代理者です。こうして、霊的、また「実存的」な周縁で苦しんでいる神の子らに対して、教会の扉が開かれることになるでしょう。このことは、こうした人びとが、キリスト・イエスに表された神の無限の愛を見出す助けとなることを目指しています。イエスは、「世を裁くためではなく、御子によって世が救われるため」(ヨハネ3・17)に来たのです。
【参考】SECAM委員会「最終報告書」(英語)――目次
1.はじめに
2.アフリカにおける一夫多妻婚――過去から現在まで
2.1 伝統的なアフリカ社会の経験
2.2 アフリカにおける一夫多妻婚の現状
2.3 一夫多妻婚に関するアフリカの法制度
2.4 一妻多夫婚
3.聖書の体験に耳を傾ける
3.1 旧約聖書における一夫多妻婚
3.2 一夫一婦婚の称揚
3.3 生きつ戻りつ
3.4 神の教育法
4.キリスト教の結婚:一人の男と一人の女
4.1 男と女に創造された
4.2 生物学的な豊穣さから霊的な豊穣さへ
4.3 倫理上の問い
5.司牧的経験
5.1 一夫多妻婚:初期宣教師にとっての難題
5.2 SECAMと一夫多妻婚
5.3 四つの司牧実践
5.3.1 第一夫人あるいは愛妻の選定
5.3.2 「終身洗礼志願者」という身分の提案
5.3.3 一夫多妻関係における第一夫人への洗礼
5.3.4 「隠れた一夫多妻婚」
6.さまざまな実践の神学的評価
7.一夫多妻婚に対する一つの司牧的対応のために
7.1 司牧活動は教会の使命を構成する
7.2 寄り添い、耳を傾け、支える司牧的配慮
7.3 洗礼を受けた夫婦の中の一夫多妻婚
7.4 女性を尊重する司牧的配慮
7.5 信仰体験と秘跡の受領
8.結び:インカルチュレーションした一つの司牧的配慮
