教皇レオ十四世、2026年4月26日、「アレルヤの祈り」でのことば

2026年4月26日(日)正午に教皇公邸書斎の窓から「アレルヤの祈り」を唱える前に述べたことば(原文イタリア語)。 「アレルヤの祈り」の後、教皇はイタリア語で、チョルノービリ原子力発電所事故から40年にあたり次のように述 […]

2026年4月26日(日)正午に教皇公邸書斎の窓から「アレルヤの祈り」を唱える前に述べたことば(原文イタリア語)。

「アレルヤの祈り」の後、教皇はイタリア語で、チョルノービリ原子力発電所事故から40年にあたり次のように述べた。

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日は人類の良心に消えることのないしるしを残したチョルノービリの悲惨な事故から40年です。この事故は、ますます強力になる技術の使用に本質的に含まれるリスクに対する警告であり続けます。犠牲者と、事故の影響で苦しむ人々を神のあわれみにゆだねます。あらゆる意思決定のレベルにおいて、つねに識別と責任が優先され、原子力のあらゆる利用が生命と平和に奉仕することを願います。



 親愛なる兄弟姉妹の皆様。こんにちは。

 復活節の歩みを続けるわたしたちに、今日の福音は、ご自身を羊飼いと羊の囲いの門にたとえるイエスのことばを示します(ヨハ10・1-10参照)。

 イエスは羊飼いと盗人を対比します。実際、イエスはこういわれます。「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である」(1節)。さらにイエスはもっとはっきりとこういわれます。「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊がいのちを受けるため、しかも豊かに受けるためである」(10節)。違いは明らかです。羊飼いは自分の羊との特別なきずなをもっています。羊の囲いの門から入ることができるからです。これに対して、囲いを乗り越えなければならないなら、それは間違いなく羊を盗もうとする盗人です。

 イエスはご自分がわたしたちと友愛の関係で結ばれていると語ります。イエスはわたしたちを知り、わたしたちの名を呼び、導かれます。そして、羊飼いが自分の羊にするのと同じように、わたしたちが道に迷ったときに捜しに来られ、わたしたちが病気のときに傷を包んでくださいます(エゼ34・16参照)。イエスはわたしたちのいのちと自由を奪う盗人としてではなく、正しい道に導くために来られます。わたしたちの良心をかどわかし、欺くためではなく、ご自身の知恵の光でそれを照らすために来られます。わたしたちの地上の喜びを損なうためではなく、それを完全でいつまでも続く幸福へと開くために来られます。イエスに信頼する人は何も恐れません。イエスはわたしたちのいのちを奪うのではなく、いのちを豊かに与えるために来られます(10節参照)。

 兄弟姉妹の皆様。わたしたちは自らの心といのちの囲いについて考察し、何よりも注意するように招かれています。なぜなら、この囲いに入ることができる者は、喜びを増し加えることもできれば、盗人のようにそれを奪うこともできるからです。「盗人」はさまざまな顔をもつことがありえます。彼らは、見かけにかかわらず、わたしたちの自由を抑圧し、わたしたちの尊厳を尊重しない人々です。彼らは、他者と人生に関して落ち着いた物の見方をもつことを妨げる信念や偏見です。彼らは、消極的な選択を行うようにわたしたちを導く、誤った思想です。彼らは、わたしたちの内面を空虚にし、つねに自分の外面で生きるように駆り立てる、表面的で消費主義的な生活様式です。地球の資源を略奪し、流血の戦争を行い、あらゆる形の悪の火をたきつけることによって、わたしたちすべてから平和と安寧の未来の可能性を奪い取るだけの「盗人」も忘れてはなりません。

 わたしたちは自問することができます。わたしたちはだれによって自分の人生を導いてもらいたいでしょうか。どのような「盗人」がわたしたちの囲いに入ろうとしたでしょうか。彼らはわたしたちの囲いに入れたでしょうか、それとも、わたしたちは彼らを拒絶することができたでしょうか。

 今日の福音は、わたしたちが主に信頼するように招きます。主はわたしから何かを奪うために来られたのではありません。それどころか、主は、わたしたちのいのちを増し加え、豊かに与えてくださる、よい牧者です。おとめマリアがわたしたちの歩みにつねに寄り添い、わたしたちと全世界のために執り成してくださいますように。

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