教皇レオ十四世、2026年9月7日、ジェナッツァーノのよい勧めの聖母巡礼所での聖母マリアの誕生の祝日ミサ説教

2026年9月7日(月)午後6時(日本時間9月8日午前1時)からジェナッツァーノのよい勧めの聖母巡礼所でささげた聖母マリアの誕生の祝日ミサ説教(原文イタリア語)。ジェナッツァーノはイタリア・ラツィオ州ローマ県にある標高3 […]

2026年9月7日(月)午後6時(日本時間9月8日午前1時)からジェナッツァーノのよい勧めの聖母巡礼所でささげた聖母マリアの誕生の祝日ミサ説教(原文イタリア語)。ジェナッツァーノはイタリア・ラツィオ州ローマ県にある標高375メートルの町。同地に建てられ、1356年に聖アウグスチノ修道会にゆだねられた、よい勧めの聖母教会には、縦45センチ、横40センチの「よい勧めの聖母」のイコンが安置されている。

 

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 ご記憶のとおり、すでに「教皇職の最初から、わたしはジェナッツァーノのよい勧めの聖母の巡礼所に近づく義務と深い望みを感じました。聖母マリアはわたしの全生涯を通じてその母としての存在と、知恵と、つねにわたしの信仰の中心である御子への愛の模範によってわたしに同伴してくださいました」(教皇レオ十四世「巡礼所署名簿での献辞(2025年5月10日)」)。再びここに来て、皆様ととともに聖母マリアの誕生の祝日の前晩を祝い、貧しく偉大な人類の中で生まれたばかりのすべてのもの――それは、新芽のように弱々しいながら、神への忠実のしるしです――を幼いマリアにゆだねることができることをうれしく思います。まことにマリアは、これまでとは異なる日の、ついに悪から解放されたわたしたちの世界の、夜明けです。そしてわたしたちはこの地にいて、マリアのみもとで、救いをもたらし、御子の子らであるわたしたちを造り変える祭壇を囲みます。マリアによい勧めを願い求めましょう。神のことばを受け入れ、わたしたちのうちでそれを守り、勇気と知恵に満ちた、真の回心に基づく決断を通してそれを告げ知らせるために。

 愛する友人の皆様。この古くから聖アウグスチノ修道会会員が住んでいた地で、ビリャヌエバの聖トマス(1488-1555年)の助けを借りながら、たった今朗読されたばかりの聖書のことばに戻りたいと思います。聖アウグスチノ修道会会員の司教だったビリャヌエバの聖トマスは、自分の生涯を貧しい人々への奉仕にささげ、信仰の真理を深く洞察しました。聖トマスは、小ささの逆説を、すなわち、こういってよければ、救いの営みの中心に置かれたマリアの周縁性の逆説を見いだすことができました。わたしたちは自問します。ヨアキムとアンナの時代に、この幼子マリアの誕生はどのようなものだったのでしょうか。聖トマスはそれを深く掘り下げていいます。「わたしは何度も考察し、自問した。洗礼者ヨハネと使徒たちについてあれほど詳しく語った福音書記者は、その生涯と才能においてすべての人を凌駕するおとめマリアの物語をなぜかくも簡潔に語ったのだろうか。わたしは自問した。マリアの受胎、誕生、学び、習慣、マリアを飾った徳、御子ともった人間的な関係、御子との関わり方、主の昇天後の使徒たちとの生活についてなぜ述べられていないのだろうか。これらすべてのことは重要であり、信者は特別な信心をもってそれを読み、民はそれを喜んだことであろう。ああ、福音書記者たちよ。あなたがたに問いたい。なぜあなたがたは沈黙によってかくも大きな喜びをわたしたちから奪ったのか。なぜこれほど喜ばしく、期待され、心地よい詳細を省略したのか」(Opere complete VII, 266, 8)。

 わたしたちはこのことばのうちにわたしたちの信仰にとって重要な示唆を見いだします。それは、聖書とその作者に問いかけ、テキストと議論し、友と対話するように啓示の証人と対話することです。実際、わたしたちは「聖なる民に属する者、神の家族」(エフェ2・19)です。そしてマリアご自身から、神と会話し、神に問いかけ(ルカ1・34参照)、さまざまな出来事を心の中に収め、結び合わせながら解釈する(ルカ2・19、51参照)知解を学びます。にもかかわらず、マタイによる福音書はその沈黙をもってビリャヌエバの聖トマスの主張を裏づけているように思われます。わたしたちはそれを耳にしました。福音書が伝えるのはマリアが存在したことだけで、マリアのことばではありません。しかし、マリアが――そして、マリアのうちで御子が――存在することだけで、歴史全体が動かされます。ヨセフとその家族全員の歴史が動かされます。マリアの存在は、系図の飛躍のように、予期せぬ新しいもののように何かを引き起こします。それは、人々の期待だけでなく、人間の予測可能な行動までも変容させることができる力をもちます。実際、ヨセフが聞いたこと、その決断と行動は、神と、マリアの存在と、ありとある言説や物語を超えたマリアの絶対的な差異への応答です。神はわたしたちとともにおられるという救いは、マリアのうちに宿ります。

 ビリャヌエバの聖トマスはこうも述べます。「ところで、なぜパウロの言行についてなされたように、おとめマリアの言行に関する書が書かれていないのかということに関する、先に述べたわたしの考察に関して〔……〕、わたしが思うことはただこれだけである。それは聖霊の思いにかなっていたからであり、福音書記者はマリアについて沈黙するように促されたのである。その単純な理由はこれである。詩編に書かれているとおり、おとめマリアの栄光はすべてそのうちにあり(詩44・14[ブルガタ訳])、それは記されるよりも想像されるのにふさわしく、その生涯の要約としては、称号によって言い表されていることだけで十分だからある。つまり、このかたからイエスがお生まれになったということである。あなたは他の何を知ろうと望むのか。おとめのうちに他の何を求めるのか。マリアが神の母であると知るだけで十分である」(ibid.)。

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちはこの神秘を前にしてめまいを感じます。このことに慣れることなど不可能です。わたしたちは、造り主の母、わたしたちを救う神の母となるように招かれた幼子マリアの誕生を祝っています。にもかかわらず、マリアはわたしたちが腕に抱く娘や孫と同じような、単なる幼子としてお生まれになります。今日、わたしたちはマリアに女王、元后といった高貴で崇高な称号を与えています。しかし、神の道は、今もこれからも、力強さと変革をもたらす力に欠けることはないにもかかわらず、きわめて単純で静かなものであり続けます。それが「多くの兄弟の中で長子」(ロマ8・29)であられたイエスご自身の歩まれる道です。それゆえわたしたちもマリアと同じように、「御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました」(同)。いうまでもなくそれは恵みによりますが、それは、他の道ではなく、イエスの道と選択と歩みを望み、愛することによって行われます。神はイエス・キリストにおいて、み国の独自性を示すために、もっともへりくだった歴史的条件と被造物のあり方を選びました。このみ国において、傲慢さは場をもたず、全能は創造であり、奉仕であり、いのちを大切にすることです。

 ビリャヌエバの聖トマスは付け加えていいます。「想像力を働かせなさい。理解の限界を広げなさい。もっとも清く、もっとも思慮深く、もっとも美しく、もっとも敬虔で、もっとも謙遜で、もっとも柔和で、あらゆる恵みに満ち、あらゆる聖性に富み、あらゆる徳とたまもので飾られ、絶対的に神に喜ばれるおとめを、霊魂の奥底で想い描きなさい。力のかぎり霊魂を広げ、可能なかぎり想像しなさい」(ibid.)。聖トマスはこのような驚くべき想像力の行使をわたしたちに求めます。そしてこういいます。「聖霊はマリアを文字で描くのではなく、あなたがマリアを内面で描くことを期待したのである」(ibid., VII, 266, 9)。親愛なる兄弟姉妹の皆様。まさにそのとおりです。観想的な祈りの中で、世が語らなくてもすでに存在するものが、まだ目に見えなくてもそれ自体において新たな力をもつものが、形をとります。それは空想ではなく、預言です。破壊と不確実性の時代にあって、神のわざを見いだしそれに仕えるために、わたしたちはこのことを必要としています。

 小さな町ベツレヘムで、預言者ミカは平和の王が生まれることを直感しました。この王によって地はついに安定を見いだします(ミカ5・1-4参照)。わたしたちは今日の集会祈願の中でこう祈りました。「聖母マリアの誕生を祝うわたしたちに平和をお与えください」。愛する友人の皆様。たしかにわたしたちは平和を想像したいと望みます。理解の限界を広げ、霊魂の中で平和を思い描きたいと望みます。それは、平和がすでに存在していることを認め、その平和を受け入れ、それに奉仕するためです。平和は神のたまものであり、復活した主の息吹であり、聖霊のわざです。わたしたちのうちで平和を成長させようではありませんか。そうすれば、平和は世に芽吹くことでしょう。よい勧めの聖母がこの使命を果たそうとするわたしたちとともにいてくださいますように。

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