
2026年9月13日(日)、年間第24主日の正午に、教皇公邸書斎の窓から「お告げの祈り」を唱える前に述べたことば(原文イタリア語)。 「お告げの祈り」の後、英語とイタリア語で次のように述べた。 親愛なる兄弟姉妹の皆様。 […]
2026年9月13日(日)、年間第24主日の正午に、教皇公邸書斎の窓から「お告げの祈り」を唱える前に述べたことば(原文イタリア語)。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。(以上イタリア語。以下英語)
2日前はアメリカ合衆国における9月11日のテロ攻撃25年でした。いのちを落としたかたがた、あの悲惨の日の傷を負い続けているかたがたのためにあらためて祈ります。紛争と暴力がわたしたちの多くの兄弟姉妹を苦しめている時代にあって、すべての人にお願いします。主が平和のたまものを世界に与えてくださるように祈ってください。(以下イタリア語)
25年前の悲惨な出来事の記憶は、とくにおとめマリアの執り成しにゆだねる祈りによって、平和への取り組みを新たにするようにわたしたちを促します。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。こんにちは。
今日の福音(マタ18・21-35)は、キリスト教生活の根本的価値である、ゆるしについてわたしたちに語ります。イエスは十字架上に至るまで、ゆるしを教え、またあかししました。イエスは十字架上で、わたしたち皆が知っていることばによってご自分を迫害する者のために御父に祈られたからです。「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23・34)。
今日の箇所で、ペトロはまさにこのテーマについて師であるかたに問いかけます。ペトロは問います。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回ゆるすべきでしょうか。七回までですか」(マタ18・21)。ぺトロのことばは寛大な心を示しています。実際、聖書の中で七という数は完全性を象徴しており、「七回までゆるす」とはきわめて寛大にゆるすことを意味します。しかし、イエスの答えはそれ以上のものでした。イエスはいわれます。「あなたにいっておく。七回どころか七の七十倍までも」――すなわち、あらゆる限界と限度を超えて――「赦しなさい」(22節)。
主は、ご自分の考えをさらに明らかにするために、主人に対して返済できないほどの借金を抱えた家来のたとえ話を語られます。この家来は、純粋なあわれみから借金を帳消しにしてもらいましたが、自分の仲間には同じあわれみを示さなかったため、叱責され、厳しく罰せられました(23-30節)。
イエスはこのことばによって、たまものとゆるしがわたしたちの存在の基盤であることをわたしたちに思い起こさせます。すべてのものは神からその純粋な愛によってわたしたちに与えられます。そして、そのような深いいつくしみに完全にこたえることができるといえる人はだれもいません。ですから、わたしたちの人生の源泉である無償の愛は、わたしたちがともに生きるための最良の規範でもあります。わたしたちはこのことを日々経験します。ゆるしは不可欠であり、ゆるしがなければ、平和のうちに生きることは不可能です。ゆるしがなければ、遅かれ早かれ、人々の間に対立と非難と恨みと復讐が生まれ、それが人間関係を破壊し、家族を分裂させ、戦争を引き起こすのです。
たとえ人間の物質的・精神的な貧困が一時的に見通しを暗くし、歩みを不確かなものとしたとしても、ゆるしだけがわたしたちを自由にし、光を取り戻させます。ゆるしは優しい風のように暗雲をも吹き飛ばし、再び太陽を輝かせます。聖ペトロもそのことを生涯の中で何度も経験しました。受難のときにイエスを否定し、見捨てた後、ペトロは湖のほとりで復活したイエスと出会い、ただ一つの問いと、ただ一つの招きを聞きます。――「シモン、〔……〕わたしを愛しているか」(ヨハ21・15)。「わたしに従いなさい」(19節)。それは、まるで何事も起きていないかのように発せられた、ペトロがイエスと初めて出会ったときの最初のことばでした。すべてを忘れ、いやしをもたらす愛こそが、最初の使徒たちの使命を確かなものとするのです。
今、あわれみの母であるおとめマリアに願い求めます。わたしたちをお助けください。わたしたちが最初の一歩を踏み出すのが困難なときにも、つねにゆるすことができますように。そして、憎しみに打ち勝ち、あらゆる恨みを武装解除する、愛の穏やかでいやしをもたらす光を、勇気と忍耐をもって広めることができますように。
