教皇ベネディクト十六世の24回目の一般謁見演説 詩編112

11月2日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の24回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第4主日の晩の祈りで用いられる詩編112(朗読箇所は詩編112・1- […]

11月2日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の24回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第4主日の晩の祈りで用いられる詩編112(朗読箇所は詩編112・1-6)の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
謁見には30,000人の信者が参加しました。
死者の日にあたるこの日、一般謁見を終えた後、教皇は、夕方6時にサンピエトロ聖堂地下墓地にある教皇ヨハネ・パウロ二世の墓を訪れ、個人的に祈りをささげました。


1 昨日(11月1日)、天の諸聖人の祝日を祝ったわたしたちは、今日、すべての亡くなった信者を記念します。ミサの祈りは、わたしたちが、世を去ったすべての愛する人々のために祈り、死の神秘に思いを馳せるように促しています。死は、すべての人が共通に受け継ぐものだからです。
 信仰の光に照らされて、わたしたちは、死という人間のなぞに、落ち着いた心で、希望をもって目を向けます。聖書によれば、死は終わりではなく、新しい誕生です。わたしたちはこの道を通っていかなければなりません。この道を通して、神のことばの命令に従って地上の生活を送った人は、満ち満ちたいのちに達することができます。
 詩編112は、知恵のことばとして書かれたものです。この詩編は、正しい人の姿を述べています。正しい人は、主を畏れ、主がすべてのものを超えたかたであることを認めます。そして、死後、主にまみえることを待ち望みながら、信頼と愛をもってそのみ旨に従います。
 このように忠実な人に、「幸い」が約束されます。「いかに幸いなことか、主を畏れる人は」(1節)。詩編作者はすぐに、この畏れがどのようなことであるかを詳しく述べます。主への畏れは、神の戒めに従うことによって示されます。詩編作者は、神の戒めを「深く愛し」、そこに喜びと平和を見いだす人は幸いだと告げます。

2 それゆえ、神への忠実さは、希望と、内的また外的な調和の源です。道徳的なおきてを守ることは、良心の深い平和を生み出します。実際、「報い」に関する聖書の考え方によれば、正しい人は神の祝福でおおわれます。この祝福は、正しい人が行うわざと、その子孫とに、安定と成功を保証します。「彼の子孫はこの地で勇士となり、祝福されたまっすぐな人々の世代となる。彼の家には多くの富がある」(2-3節。9節参照)。
 しかしながら、こうした楽観的な見方に対立するのが、正しい人ヨブの厳しい考察です。苦しみの神秘を経験したヨブは、自分が不正な罰を与えられ、無意味な試みに遭わせられていると感じました。ヨブは、この世で大きな苦しみを受けた、正しい人々の代表者です。それゆえ、わたしたちはこの詩編を、人間の生活のすべての側面を含めた、啓示の全体を視野に入れて読む必要があります。
 とはいえ、信頼することには、依然として意味があります。詩編作者がいおうとしたのも、そのことです。不正で道徳に反する行為によって偽りの成功を得ようとするいかなる道も選ばず、道徳的にとがなく振舞う道を選んだ人は、そのことを経験したのです。

3 神のことばに忠実に従う、このような態度の中核を占めるのが、貧しい人と困っている人をいつくしむという、根本的な選択です。「憐れみ深く、貸し与える人は良い人。・・・・貧しい人々にはふるまい与える」(5、9節)。それゆえ、神に忠実な人は、寛大な人です。聖書に定められたおきてに従って、彼は、生活に困っている兄弟がいれば、利子をつけずに貸し与えます(申命記15・7-11参照)。彼は、貧しい人の生活を見殺しにするような、高利貸しの汚名を受けることがありません。
 正しい人は、預言者が常に述べてきた勧めを守って、見捨てられた人々に手を差し伸べ、豊かな援助を行って彼らを支えます。9節は「貧しい人々にはふるまい与える」と述べています。このことばは、見返りを期待することのない、徹底した寛大さを表しています。

4 詩編112は、おきてに忠実で正しい人、すなわち「憐れみ深く、良い人、正しい人」の姿について述べるだけでなく、最後に、ただ1つの節で(10節参照)、神に逆らう人の姿を示します。この神に逆らう人は、正しい人の成功を見て、怒りとねたみに歯ぎしりします。これは、悪しき良心をもった者の味わう苦しみです。その反対に、寛大な人の心は「堅固で」「恐れない」(7-8節)のです。
 わたしたちは、「貧しい人々にはふるまい与える」正しい人の落ち着いた顔に目をとめます。そして、この考察の終わりに、アレキサンドリアのクレメンスのことばに耳を傾けたいと思います。クレメンスは3世紀の教父です。クレメンスは「不正にまみれた富で友達を作りなさい」という、理解しづらいイエスの招きを注解しています(ルカ16・9参照)。不正な管理人についてのこのたとえ話は、わたしたちが「不正にまみれた富」で善いことをしなければならないと述べています。そこから疑問が生まれます。お金や富はそれ自体で不正なものなのでしょうか。そうでないとすれば、主は何をいおうとしたのでしょうか。
 『救われる富者は誰か』という著作の中で、クレメンスはこのたとえ話について優れた説明を行っています。イエスはこのことばによって「次のようなことを明確にしているのである。――つまり財というものはすべて本性的に、もし人が窮した人々のために共用に供せず、自分自身のものとして自らのために獲得するならば不正なものである。しかしそのような不正からでさえ、義(ただ)しき者や救いを獲得することができる。そして、父の許(もと)に永遠の幕屋を獲得した人々を休らわせることができる、と(マタイ10・42、18・10参照)」(『救われる富者は誰か』31・6:Collana di Testi Patristici, CXLVIII, Roma, 1999, pp. 56-57〔邦訳、秋山学訳、上智大学中世思想研究所編訳・監修『中世思想原典集成1 初期ギリシア教父』平凡社、1995年、451-452頁〕)。
 そこで、クレメンスは読者に向かってこう警告します。「まず第一に、次のことに留意したまえ。すなわち主があなたに対して、要求されたり煩わされたりするまでじっとしているように命じているわけではないということである。むしろあなた自身のほうから、援助を必要とする人は誰か、また救い主の弟子としてふさわしい人は誰かを探せ」(同31・7:ibid., p. 57)。
 それから、別の聖書の箇所を引用しながら、クレメンスはこう忠告します。「実に、使徒も次のように美しく語っている。『喜んで与える人を神は愛してくださる』(二コリント9・7)。すなわち与えることにおいて喜び、惜しむことなく蒔(ま)く人を神は愛するのである。これは刈り取りがわずかとなるようなことのないためである。また呟(つぶや)きや分け隔て、嘆きなしに分かち合う人を神は愛する。これは清らかな善行だからである」(同31・8:ibid.)。
 集会の初めに述べた通り、今日、わたしたちは死者を記念します。この日にあたって、わたしたちは皆、死のなぞに直面するよう招かれています。わたしたちは、どうすれば善く生きることができるか、どうすれば幸せになることができるかを考えるよう招かれているのです。この問いに対して、詩編は、何よりもまず、こう答えます。与える人は幸いである。自分の人生を自分だけのために使わず、それをささげる人は幸いである。憐れみ深く、いつくしみに満ち、正しい人は幸いである。神と隣人への愛に生きる人は幸いであると。こうすれば、わたしたちは善く生きることができ、死を恐れる必要がなくなります。なぜなら、わたしたちは、神がもたらす、終わることのない幸いのうちに生きることができるからです。

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