教皇ベネディクト十六世の59回目の一般謁見演説 イエスの友としての使徒

8月2日(水)午前10時から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の59回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講 […]

8月2日(水)午前10時から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の59回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の15回目として、「イエスの友としての使徒」について解説しました。以下はその全訳です(原文はドイツ語)。
この日の謁見には、ヨーロッパ全土の侍者42,000人(うちドイツから35,000人)を含む55,000人の信者が参加しました。
演説の後、各国語で行われた祝福の終わりに、教皇はイタリア語で、中東における停戦をあらためて次のように呼びかけました。
「最後に、わたしは皆様が、苦しみのうちにある愛すべき中東地域のために祈り続けてくださるようにお願いします。わたしたちの目は、多くの人びと、特に子どもたちの傷ついたからだの戦慄(せんりつ)すべき映像で満たされています。わたしは特にレバノンのカナに思いを致しています。
 わたしは、いずれの側から行われるものであれ、罪のない人びとの血を流すことを、何も正当化できないということを、繰り返していいたいと思います。わたしは苦悩に満ちた心で、いま一度、あらゆる戦闘行為とあらゆる暴力行為の即時停止が行われるよう、緊急の呼びかけをあらためて行います。わたしはまた、国際社会と、この惨事に直接関わる当事者が、できるだけ速やかに、この危機的状況を決定的なしかたで政治的に解決するための条件を見いだすことを促します。この条件は、将来の世代に、より平和で安全な未来を手渡すことのできるものでなければなりません。」
イスラエルは8月2日未明、48時間の空爆停止期間が終わると、再びレバノンへの空爆を開始しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 皆様の歓迎に感謝します。大きな愛情を込めて皆様にごあいさつ申し上げます。ヴァッレ・ダオスタでの滞在のために中断していましたが、今日から一般謁見を再開します。わたしは今、ほんとうに特別な謁見を行います。ヨーロッパの侍者の巡礼者の皆様を喜びのうちに迎えているからです。少年、少女、そして青年の皆様。ようこそおいでくださいました。このサンピエトロ広場に集まってくださった侍者の大多数はドイツ語を話すかたがたですので、わたしはこのかたがたにまず、わたしの母国語でお話ししたいと思います。(以上イタリア語。以下ドイツ語)

 親愛なる侍者の皆様。
 アルプスでの休暇後、最初の謁見を侍者の皆様と行うことができて、うれしく思います。心から皆様の一人ひとりにごあいさつ申し上げます。おことばをくださった、バーゼルのマルティン・ゲヒター補佐司教に感謝致します。司教様は「国際侍者会」(Coetus Internationalis Ministrantium)の会長として、この謁見を始めてくださいました。また、スカーフも有難うございます。このスカーフのおかげで、わたしはもう一度侍者になることができました。70年以上前の1935年から、わたしは侍者を始めました。以来、わたしは長い旅路を歩んできました。
 次にわたしは、昨日、侍者の皆様のためにミサをささげてくださった、クリストフ・シェーンボルン枢機卿に心からごあいさつ申し上げます。また、ドイツ、オーストリア、スイス、ハンガリーからおいでくださった司教と司祭の皆様にもごあいさつ申し上げます。
 親愛なる侍者の皆様。今日はとても暑いですので、皆様の人生と教会での奉仕のための導きとなることができるような、短い話をさせていただきます。
 そこでわたしは、この数か月の水曜一般謁見講話の中で取り上げてきたテーマを再開したいと思います。皆様のなかにはご存知のかたもいるかもしれませんが、この水曜一般謁見の中で、わたしは何人かの使徒たちの姿について述べています。まず、主がペトロと名づけたシモンから始めました。次にシモンの兄弟アンデレ。それから、もう一組の兄弟、すなわち、「大ヤコブ」と呼ばれ、使徒たちのなかで最初に殉教した聖ヤコブと、神学者であり福音書記者であるヨハネ。それから、「小ヤコブ」と呼ばれるヤコブです。
 わたしは来週の一般謁見から、一人ひとりの使徒について順に話し続けていくつもりです。わたしたちは、この使徒たちのうちに、教会がいわば人格として形をとったのを目にするからです。
 さて、今日わたしたちはもう一度、一般的なテーマを考察します。すなわち、使徒たちとは、そもそもどのような人びとだったのでしょうか。
 簡単にいえば、使徒たちはイエスの「友」だったということができるでしょう。イエス自身が使徒たちを友と呼んだからです。イエスは最後の晩餐のとき、使徒たちにこういわれました。「もはや、わたしはあなたがたをしもべとは呼ばない。わたしはあなたがたを友を呼ぶ」(ヨハネ15・15参照)。
 使徒たちは使徒、すなわち、イエス・キリストに遣わされた者、使者であり、イエス・キリストをあかしする者でした。なぜなら、彼らはイエスの友であり、友としてイエスを知っており、イエスのそば近くにいたからです。使徒たちとイエスは愛のきずなで結ばれていました。この愛のきずなは、聖霊のいのちで満たされていました。
 このスカーフに描かれている炎が、使徒たちのうちにほんとうに燃えていました。そこで、このような観点から、わたしは皆様の巡礼のテーマである、「霊は生かします」(Spiritus vivificat)ということばを理解することができます。いのちをもたらすのは霊であり、聖霊です。皆様のキリストとの関係を生き生きとしたものにするのも、聖霊です。「キリストがともにおられること、キリストが秘跡のうちにおられることをわたしたちは知っています」。しかし、こうしてキリストとの関係は、このようなただ外的なものでなくなります。むしろ、キリストとの関係は、深く、内的な、真の意味での人格的な友情関係となるのです。そして、このような関係が、皆様の一人ひとりの人生に意味を与えることができるのです。また、キリストを知り、さらに友情のうちにキリストを知ることによって、皆様はキリストをあかしし、他の人にキリストを伝えることができるようになります。
 今日、ここで、ペトロの座から皆様を前にしながら、わたしは使徒たちに思いを致します。そしてわたしは、イエスが皆様に次のように語りかける声を、心の中であらためて聞いています。「もはや、わたしはあなたがたをしもべとは呼ばない。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。わたしの愛にとどまりなさい。こうしてあなたがたの人生は実を結び、豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15・9、16参照)。
 皆様にお願いします。どうかこの声に耳を傾けてください。イエスは2000年前にこのことばを語っただけではありません。イエスは生きておられます。そしてイエスは今、皆様にこのことばを語りかけています。大きく心を開いて、この声に耳を傾けてください。イエスは一人ひとりの人に何かを語りかけています。もしかすると、あなたがたのうちの幾人かの人に、イエスはこう語りかけているかもしれません。「あなたが司祭として特別なしかたでわたしに仕えてくれることを、わたしは切に望んでいます。どうか司祭となって、わたしのあかしとなり、わたしの友となり、ほかの人をわたしの友となるように導いてください」。
 すべての人が、いつも、心からの信頼をもって、イエスの声に耳を傾けてくださいますように。人にはそれぞれ違った召命があります。けれども、キリストはすべての人の友となることを望んでおられます。ペトロと名づけたシモンの友となられたように。アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、またそれ以外の使徒の友となられたように。
 キリストは皆様に語りかけました。そして今も語りかけ続けています。それは、皆様が真理を知り、人間が真にいかなるものであるかを知ることができるようになるためです。そして、人はどうすれば正しく生きることができ、人生が真実なものとなるために、どう人生を生きるべきかを知るためです。このようにして、皆様はそれぞれのしかたで、キリストの弟子となり、また使徒となることができるのです。
 親愛なる侍者の皆様。侍者である皆様は、すでにイエスの使徒となっています。聖なる典礼に参加し、祭壇の奉仕を行うときに、皆様はすべての人に対するあかしを行っているからです。皆様の落ち着いた態度。皆様の内から流れ出て、振る舞いと、歌と、応唱をもって示される敬虔な心。こうしたことを正しく、気を散らさずに、心を込めて行うなら、皆様のあかしは人びとを感動させます。
 イエスとの友情のきずなの源泉と頂点は、聖体です。聖体のうちに、聖なるミサの祭儀において、皆様はイエスにもっとも近づきます。聖体は、イエスがわたしたち一人ひとりの友であることを表す、もっとも重要なしるしです。どうかこのことを忘れないでください。
 それで、皆様にお願いしたいと思います。どうか感謝の祭儀に慣れることがないようにしてください。慣れによって、感謝の祭儀はあたかも当たり前のことで、どうすればよいかわかっており、何も考えずにできるものになってしまうからです。むしろ、偉大なことが行われていることに、日々新たに気づくようにしてください。生ける神がわたしたちのただ中におられるのです。そして、皆様はこの神に近づくことができます。皆様は神の神秘が祝われ、人びとに伝えられるための手助けをしているのです。
 惰性に陥ることなく、心から奉仕を行うなら、皆様はイエスの使徒となり、人生のあらゆる次元で――すなわち、家庭の中で、学校で、また余暇において、いつくしみと奉仕の実を結びます。
 典礼の中で皆様が受けた愛を、すべての人に伝えてください――特に、愛が足りず、善意を与えられず、人びとが苦しみ、孤独の内にあると思われるところに。
 聖霊の力によって、社会から除け者にされた人、正当な扱いを受けていない人、悩みを抱えている人に、イエスをもたらしてください。皆様が聖霊の力によってイエスをもたらさなければならないのは、まさにそのような人びとだからです。
 こうして、皆様の仕える祭壇の上で裂かれたパンが、さらに分け与えられ、増えていきます。そして皆様は、十二使徒がしたように、今日も、さまざまな人生を歩む現代の人びとにイエスがいのちのパンを配るのを手伝います。現代の人びともこのいのちのパンを必要としているからです。
 親愛なる侍者の皆様。終わりにこのことばを申し上げたいと思います。いつもイエス・キリストの友となり、また使徒となってください。

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