教皇レオ十四世、2025年7月27日、「お告げの祈り」でのことば

2025年7月27日(日)、年間第十七主日の正午(日本時間同日午後7時)に、教皇公邸書斎の窓から行った「お告げの祈り」の前後に述べたことば(原文イタリア語)。 「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次の呼びかけを行った […]

2025年7月27日(日)、年間第十七主日の正午(日本時間同日午後7時)に、教皇公邸書斎の窓から行った「お告げの祈り」の前後に述べたことば(原文イタリア語)。
「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次の呼びかけを行った。

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日は第5回「祖父母と高齢者のための世界祈願日」を記念します(日本では敬老の日の前の日曜日の9月14日に記念)。今年のテーマは「希望を失うことのない人は、幸いだ」です。祖父母と高齢者を、新しい世代の道を照らすことのできる、希望の証人として仰ぎ見てください。彼らを独りきりにせず、愛と祈りの契約を彼らと結んでください。

 わたしの心は世界で紛争と暴力のために苦しむすべての人々に寄り添います。とくにわたしはタイとカンボジア国境での衝突に巻き込まれた人々、とくに子どもと家族の避難民の方々のために祈ります。平和の原則がすべての人に対話と和解の追求を促しますように。

 シリア南部の暴力の犠牲者のために祈ります。

 ガザにおける深刻な人道状況を深い懸念をもって見守っています。そこでは市民が飢餓に押しつぶされ、暴力と死にさらされ続けています。停戦と、人質の解放と、人道法の完全な尊重を、改めて悲痛な思いを込めて呼びかけます。

 すべての人間の人格は、神ご自身から与えられた本質的な尊厳をもっています。わたしはすべての紛争当事者に対して、この尊厳を認め、この尊厳に反するすべての行為をやめるように勧告します。すべての人々のための平和な未来のために交渉を行い、この平和を危険にさらしうるすべてのことを拒絶するように勧告します。

 平和の元后であるマリアに、紛争による罪のない犠牲者と、紛争を終わらせる力をもつ政府をゆだねます。

タイとカンボジア国境地帯では24日(木)から武力衝突が続き、両政府によると、これまでに双方の住民や兵士合わせて30人以上が死亡した。両国首脳は28日(月)にマレーシアを訪問し、停戦に向けた協議を行う見通し。
シリア南部では13日(日)から遊牧民と少数派ドゥルーズ派が衝突し、イスラエルが少数派の保護を名目に空爆を行った。シリア人権監視団(英国)は20日(日)、民間人を含む死者が1000人を超えたことを明らかにした。
27日(日)、イスラエル軍は、パレスチナ自治区ガザで続けるイスラム組織ハマスの掃討作戦に関し、国連などが使う支援物資の輸送路の安全を確保するため、ガザの3地域で時間を区切って作戦を一時停止した。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。こんにちは。

 今日の福音は、イエスが弟子たちに主の祈りを教える姿を示します(ルカ11・1-13参照)。主の祈りはすべてのキリスト者を一致させる祈りです。この祈りの中で、主はわたしたちに、子どものように「アッバ」、「父よ」と呼びかけながら、「単純さ〔……〕、子としての信頼〔……〕、大胆さ、愛されているという確信」(『カトリック教会のカテキズム』2778)をもって神に向かうように招きます。

 『カトリック教会のカテキズム』はこのことをきわめてすばらしい表現で述べます。「主の祈りを通して、御父がわたしたちに示されると同時に、わたしたち自身が何者であるかも明らかにされるのです」(同2783)。このことは真実です。信頼をもって天におられる父に祈れば祈るほど、わたしたちは自分が愛されている子であることをいっそう深く見いだし、御父の愛の偉大さをいっそうよく知るのです(ロマ8・14-17参照)。

 さらに今日の福音は、いくつかの示唆に富むたとえを通じて神の父性の特徴について述べます。すなわち、真夜中に起きて、予期せぬ訪問者を迎え入れる友人を助けるたとえと、子どもに良い物を与えようと気遣う父親のたとえです。

 これらのたとえは、わたしたちに次のことを思い起こさせます。すなわち、わたしたちが神に向かうとき、神は決してわたしたちに背を向けないということです。たとえわたしたちが過ちを犯したり、機会を逃したり、失敗したりして、神の戸をたたくために着くのが遅れたとしても。また、たとえわたしたちを迎え入れるために、神は、家の中で寝ていた子どもたちを「目覚めさせ」なければならないとしても(ルカ11・7参照)。実際、御父は、教会という大家族の中で、ためらうことなく、わたしたち皆をご自身の愛のわざにあずからせます。わたしたちが主に祈るとき、主はいつもわたしたちに耳を傾けてくださいます。たとえ主が時として理解しがたい時期に、理解しがたいしかたでわたしたちにこたえられるとしても、それは、わたしたちの理解を超えた、偉大な知恵と摂理をもって神がわざを行われるからです。だから、そのような時にも、祈ることをやめずに、信頼をもって祈ろうではありませんか。わたしたちは主においてつねに光と力をみいだすからです。

 しかし、主の祈りを唱えるとき、わたしたちは、神の子とされる恵みを祝うだけでなく、キリストにおける兄弟として互いに愛し合うことによって、このたまものにこたえる決意をも表明します。教父の一人は、このことを考察して、次のように述べます。「神を『われわれの父』と呼ぶ場合、『神の子』として振舞わなければならないということをも承知し、心に銘記しておいてもらいたい」(カルタゴの聖キュプリアヌス『主の祈りについて』[De dominica oratione 11〔吉田聖訳、『中世思想原典集成4 初期ラテン教父』平凡社、1999年、154頁〕])。別の教父は付け加えていいます。「あなたが残忍で非人間的な心をもち続けているなら、すべてにおいていつくしみ深い神をあなたがたの父を呼ぶことはできません。実際、そのようなとき、あなたがたは自分のうちに天におられる父のいつくしみのしるしをもたないからです」(聖ヨアンネス・クリュソストモス『狭い門について、また、主の祈りについて』[De angusta porta et in Orationem dominicam 3])。「父」である神に祈りながら、他者に対して厳しく冷淡であることはできません。むしろ大切なのは、神のいつくしみと忍耐と憐れみによってわたしたちが造り変えられ、神のみ顔をわたしたちの顔の中に鏡のように映し出すことです。

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。今日の典礼はわたしたちを招きます。祈りと愛のわざによって、自分が愛されていることを感じ、神がわたしたちを愛するように愛するようにと――惜しみない心と、識別と、互いへの思いやりをもって、一切の計算なしに。この呼びかけにこたえて、わたしたちが御父のみ顔の優しさを示すことができるように、マリアに祈り願いたいと思います。

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