
教皇レオ十四世、2025年8月6日、一般謁見演説
わたしたちの希望であるイエス・キリストについての連続講話
Ⅲ イエスの過越
1.晩餐の準備。
「そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」(マコ14・15)
講話の後、教皇はイタリア語で、広島への原爆投下80年にあたって、世界平和のための次の呼びかけを行った。
今日(8月6日)は日本の都市広島に原爆が投下されて80年にあたります。そして3日後(8月9日)は、長崎への原爆投下の日です。身体的、精神的、社会的に原爆の影響を受けたすべてのかたがたのために祈ることを約束したいと思います。年月がたってもなお、この悲惨な出来事は、戦争、とくに核兵器が引き起こす破壊に対する世界への警告となっています。激しい戦争と流血の紛争によって特徴づけられる現代世界において、相互確証破壊の脅威に基づく安全保障の幻想が、正義と対話の実践と兄弟愛への信頼による手段に取って代わられることを願います。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。
キリストのみ顔を発見するためのわたしたちの聖年の旅を続けたいと思います。キリストのうちにわたしたちの希望は形と実質をなすからです。今日からイエスの受難と死と復活の神秘の考察を始めます。単純に見えますが、キリスト教生活の貴重な秘密を秘めている、一つのことばの黙想から始めます。すなわち、「準備する」です。
マルコによる福音書にはこう語られます。「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、『過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか』と言った」(マコ14・12)。これは具体的な質問ですが、期待も込められています。弟子たちは何か重要なことが起きることに気づいていますが、その詳細は知りません。イエスの答えはほとんど謎のように思われます。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う」(13節)。詳細は象徴的なものとなります。水がめを運んでいる男――それは、当時、普通、女性のしぐさでした――、すでに用意のできた二階の広間、見知らぬ家の主人です。あたかもすべてのことが事前に用意されていたかのようです。実際、まさにそのとおりでした。この箇所で、福音書はわたしたちに、愛は偶然の結果ではなく、意識的な選択の結果であることを示します。愛は単なる反応ではなく、準備を必要とする決断です。イエスはご自分の受難に運命として立ち向かったのではありません。むしろ、自由に注意深く受け入れ、従った道への忠実さをもってそれに立ち向かったのです。このことはわたしたちを慰めます。イエスのいのちのたまものは、突発的な衝動からではなく、深い意図から生まれたものであることをわたしたちは知るからです。
「用意のできた二階の広間」ということばは、わたしたちに、神がつねにわたしたちに先立っておられることを語ります。わたしたちが迎え入れられることを必要とすることに気づくよりも前に、主はすでに、わたしたちが自分を認識し、自分が主の友であることを感じる場所を、わたしたちのために用意していてくださいます。この場所とは、要するに、わたしたちの心です。この「部屋」は空虚なように見えるかもしれませんが、わたしたちがそれを認識し、満たし、守ることをひたすら待っています。弟子たちが準備しなければならない過越は、実際にはイエスの心のうちにすでに用意されています。すべてを考え、すべてを用意し、すべてを決めたのはイエスです。しかし、イエスはご自身の友に自分の役割を果たすことを求めます。このことはわたしたちに、わたしたちの霊的生活にとって本質的なことを教えてくれます。恵みはわたしたちの自由を排除せず、むしろそれを再び目覚めさせるということです。神のたまものはわたしたちの責任を無効にするのではなく、むしろそれを豊かにするのです。
当時と同じように今日でも、準備しなければならない晩餐があります。それは典礼だけではなく、むしろ、わたしたちを超える行為に進んで歩み入ることです。聖体は祭壇の上だけではなく、日常生活の中でも祝われます。日常生活の中で、すべてのことを奉献と感謝として生きることが可能です。このような感謝を祝う準備をするとは、より多くのことをすることではなく、場所を空けることです。それは、妨げになるものを取り除き、うぬぼれを退け、非現実的な期待をやめることです。実際、わたしたちはしばしば準備を幻想と混同しています。幻想はわたしたちの気を散らしますが、準備はわたしたちを方向づけます。幻想は結果を追求しますが、準備は出会いを可能にします。福音がわたしたちに思い起こさせてくれるとおり、真の愛は、報われる前に与えられます。それは前もって与えられるたまものです。それは、何を受けるかではなく、何をささげようと望むかに基づきます。イエスが弟子たちとともになさったことはこれです。弟子たちがまだ理解せず、ある者はイエスを裏切り、ある者はイエスを否むときに、イエスはすべての人のために交わりの晩餐を〈用意〉したのです。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちも主の「過越の準備をする」よう招かれています。それは、典礼の過越だけではなく、わたしたちの生活の過越です。あらゆる進んで用意する行為、あらゆる無償のわざ、あらゆる前もって与えるゆるし、あらゆる忍耐強く受け入れる労苦は、神が住まうことのできる場所を準備する方法です。それゆえ、わたしたちは自らにこう問いかけることができます。主を迎え入れる準備をするために、わたしたちの生活のどこを整える必要があるだろうか。今日、わたしにとって「準備する」とは何を意味するだろうか。それはもしかすると、うぬぼれを捨てることかもしれません。相手が変わるのを期待するのをやめることかもしれません。最初の一歩を踏み出すことかもしれません。それはもしかすると、もっと耳を傾けることかもしれません。活動を控えることかもしれません。あるいは、すでに用意されているものに信頼するのを学ぶことかもしれません。
神との交わり、また、互いの交わりの場を準備するようにという招きを受け入れるなら、わたしたちは、すでに用意のできた広間へとわたしたちを導く、しるし、出会い、ことばに囲まれていることを見いだします。この広間で、わたしたちを支え、つねにわたしたちに先立つ、限りない愛の神秘をわたしたちは祝うのです。主がご自身の現存をへりくだって準備する恵みを与えてくださいますように。そして、この日々進んで用意する態度によって、わたしたちのうちに、自由な心ですべてのことに立ち向かうことを可能にする、落ち着いた信頼が成長しますように。なぜなら、愛が準備されたところで、真の意味でいのちが花開くからです。
