教皇レオ十四世、2025年8月13日、一般謁見演説 わたしたちの希望であるイエス・キリストについての連続講話 Ⅲ イエスの過越 2.裏切り。 「まさかわたしのことでは」(マコ14・19)

 

教皇レオ十四世、2025年8月13日、一般謁見演説
わたしたちの希望であるイエス・キリストについての連続講話

Ⅲ イエスの過越
2.裏切り。
「まさかわたしのことでは」(マコ14・19)

2025年8月13日(水)午前10時(日本時間同日午後5時)からパウロ六世ホールで行った一般謁見演説(原文イタリア語)。謁見は高温のため会場をパウロ六世ホールに変更することが8月11日(月)に教皇公邸管理部から発表された。教皇はパウロ六世ホールで講話を行った後、ホールに入れず、中庭やサンピエトロ大聖堂でモニターを通して謁見に参加した巡礼者たちのもとにも赴いて挨拶した。
この日午後、教皇は2回目の夏季休暇のために車でカステル・ガンドルフォに移動した。
19日(火)夜、バチカンに帰還した。



 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 生涯の最後の日々におけるイエスの歩みをたどりながら、福音の学びやの旅を続けます。今日、わたしたちは、親密で劇的でありながら、深く真実な場面を考察します。最後の晩餐の中で、イエスが、十二人の一人がご自身を裏切ろうとしていることを明らかにする瞬間です。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」(マコ14・18)。

 これは強いことばです。イエスがこういわれたのは、非難するためではなく、愛は、真実なものであれば、真実なしにありえないことを示すためでした。少し前まではすべてのことが念入りに準備されていた二階の広間が、突然、疑問と疑惑と弱さから成る、苦しい沈黙に満たされます。それは、わたしたちもよく知っている、親しい関係に裏切りの暗闇が忍び込むときの苦しみです。

 しかし、これから起ころうとすることについてのイエスの語り方は驚くべきものです。イエスは、声を荒げることも、指差すことも、ユダの名を口にすることもありません。イエスは、一人一人の人が自分に問いかけることができるようなしかたで語ります。それは、まさにその後起きたことです。聖マルコはわたしたちにいいます。「弟子たちは心を痛めて、『まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた」(マコ14・19)。

 親愛なる友人の皆様。「まさかわたしのことでは」という、この問いは、おそらくわたしたちが自分自身に問いかけることのできるもっとも正直な問いです。それは、罪のない者の問いではなく、自分の弱さを見いだした弟子の問いです。罪人の叫びではなく、愛することを望みながら、傷つけることもあることを知る者のつぶやきです。救いの道は、この自覚から始まります。

 イエスは侮辱するために非難するのではありません。救うことを望むがゆえに真理を語るのです。そして、救われるためには、感じることが必要です。すなわち、自分が関与していること、どんなことがあっても自分が愛されていること、悪は実在するけれども、決して最後に勝利するものではないことを感じることが必要です。深い愛の真実を知った者だけが、裏切りの傷を受け入れることができるのです。

 弟子たちの反応は、怒りではなく、悲しみです。彼らは、憤慨するのではなく、悲嘆に暮れます。それは、自分たちが実際に関与する可能性から生じる苦しみです。この悲しみが、もしそれを心から受け入れるなら、回心の場となります。福音がわたしたちに教えるのは、悪を否定することではなく、生まれ変わるための痛みに満ちた機会としてそれを認識することです。

 イエスはさらに、わたしたちを不安にさせるとともに、考えさせることばを付け加えていいます。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」(マコ14・21)。これはいうまでもなく厳しいことばですが、よくその意味を理解しなければなりません。それは呪いではなく、むしろ苦しみの叫びです。ギリシア語の「不幸だ」は、「なんということだ」という嘆き、心からの深い憐れみの叫びのような意味をもっています。

 わたしたちは裁くことに慣れています。しかし、神は苦しむことを受け入れます。神は、悪を見るとき、復讐するのではなく、深く悲しみます。この「生まれなかった方がよかった」ということばは、アプリオリに下された断罪ではなく、わたしたち皆が認めることのできる真理です。もし、わたしたちを生み出した愛を否むなら、もし、裏切ることによって自分自身に不誠実な者となるなら、わたしたちは本当に、自分がこの世に存在する意味を失い、救いから自らを排除することになるのです。

 しかし、この深い暗闇の中でも、光が消えることはありません。むしろ、光は輝き始めます。なぜなら、もしわたしたちが自分の限界を認め、キリストの苦しみに触れていただくなら、そのときわたしたちはついに新しく生まれることができるからです。信仰はわたしたちが罪を犯す可能性を見逃すことはありませんが、罪から脱出する道も与えてくれます。すなわち、憐れみの道です。

 イエスは、わたしたちの弱さを前にしても、つまずくことがありません。イエスは、いかなる友情も裏切りのおそれを免れないことをよく知っておられます。しかし、イエスは信頼し続けます。ご自分に属する人々と食卓に着き続けます。ご自身を裏切る者のためにもパンを裂くことをやめません。これが神の沈黙の力です。たとえご自身が独りきりにされることを分かっておられても、神は愛の食卓から離れることがありません。

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちも今日、心から自らに問いかけることができます。「まさかわたしのことでは」。それは、自分がとがめられていると感じるためではなく、自分の心の中で真理への空間を開くためです。救いはここから始まります。わたしたちは神への信頼を破壊することもありえますが、それを受け入れ、守り、新たにすることも可能です。このことを自覚することから、救いは始まるのです。

 要するに、希望とはこれです。たとえわたしたちは失敗するかもしれなくても、神は決して欺くことがありません。このことを知ることが希望です。たとえわたしたちが裏切るかもしれなくても、神はわたしたちを愛することをやめません。そして、もしわたしたちが――謙遜で、傷つきやすく、しかしつねに忠実な――この愛に触れていただくなら、そのときわたしたちは本当の意味で新たに生まれ変わることができるのです。そのときわたしたちは、もはや裏切り者としてではなく、つねに愛された子として生きることを始めるのです。

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