
2025年8月15日(金)正午(日本時間同日午後7時)から、カステル・ガンドルフォ教皇宮殿前のリベルタ広場で行った「お告げの祈り」の前に述べたことば(原文イタリア語)。 「お告げの祈り」の後、教皇は次の呼びかけをイタリア […]
「お告げの祈り」の後、教皇は次の呼びかけをイタリア語で行った。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。
今日わたしたちは、平和のための祈りを、天に上げられたおとめマリアの執り成しにゆだねたいと思います。マリアは母として、自分の子ら、とくに小さい者、弱い者を苦しめる悪のために苦しみます。マリアは時代を通じて幾度も、メッセージと出現によってこのことを証明してきました。
第二次世界大戦の悲惨な体験がなお生々しく生き続けるときに被昇天の教義を宣言するにあたり、教皇ピオ十二世はこう述べました。「マリアのはえある模範を黙想するすべての人々が、人間の生命の価値をますます確信することを望みます」。そして、「戦争を引き起こすことによって人間の生命の破壊」が行われることのないことを願いました(使徒憲章『ムニフィチェンティッシムス・デウス(1950年11月1日)』[Munificentissimus Deus])。
このことばはいかに現代的な意味をもっていることでしょうか。残念ながら、今日においても、人類のあらゆる願いに耳を傾けず、無感覚な暴力が世界に広まるのを前にして無力を感じています。しかし、わたしたちは希望を失ってはなりません。神は人間の罪よりも偉大なかたです。紛争と武力の論理が優勢な状況に甘んじてはなりません。主がご自身の憐れみを心に留め、その子らを助け続けてくださることを、マリアとともに信じようではありませんか。この憐れみによってのみ、わたしたちは平和への道を再び見いだすことができるのです。
この日15日、アメリカ合衆国アラスカ州のアンカレジで、ウクライナへのロシアの侵略をめぐり、ドナルド・J・トランプ米合衆国大統領とウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン・ロシア連邦大統領の会談が行われようとしていた。2022年2月にロシアがウクライナを侵略して以来、米ロ首脳が対面で会談するのはこれが初めてであった。会談は停戦合意に達しなかった。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。聖母マリアの被昇天の祭日おめでとうございます。
第二バチカン公会議の教父たちは、おとめマリアについてのすばらしいテキストをわたしたちに残してくれました。今日、マリアが喜びのうちに天に上げられた祭日を祝うにあたり、皆様とともにこのテキストを読み返せることをうれしく思います。教会に関する文書の終わりに、公会議はこう述べます。「イエスの母は、天上において肉体と霊魂ともどもすでに栄光の中にある者として、来世において完成されるべき教会の姿であり始まりである。同じように、地上においては、主の日が来るまで(二ペト3・10参照)、旅する神の民にとって確かな希望と慰めのしるしとして輝いている」(『教会憲章』68[Lumen gentium])。
復活したキリストが、肉体と霊魂ともども栄光の中にある者としてご自身とともに伴われたマリアは、歴史の中で旅するキリストの子らにとって〈希望のしるし〉として輝いています。
『天国篇』の最終歌のダンテのことばを思い起こさずにいられるでしょうか。「処女であり母、あなたの息子の娘」(Paradiso XXXIII, 1〔原基晶訳、『神曲 天国篇』講談社、2014年、492頁〕)で始まる、ベルナルドゥスの口に語らせた祈りの中で、詩人はマリアをたたえます。なぜなら、わたしたち死すべき者のただ中で、マリアは「生ける希望の泉」(ibid., 12)、すなわち、希望がほとばしり出る、生ける泉だからです。
姉妹兄弟の皆様。このわたしたちの信仰の真理は、「希望の巡礼者」という、わたしたちが過ごしている聖年のテーマと完全に一致します。巡礼者は、自分の旅を方向づける目的を必要とします。自分の歩みを導き、疲れたときに力づけ、心の中につねに望みと希望をかき立ててくれる、すばらしく魅力的な目的を必要とします。人生の旅の中で、この目的は、限りなく永遠の愛であり、いのちと平和と喜びとすべての善で満ちた、神です。人間の心は、この美しさに引き寄せられ、それを見いだすまで幸福になることができません。実際、悪と罪の「暗い森」の中で道に迷うなら、この目的を見いだせないおそれがあります。
しかし、わたしたちには恵みが与えられています。神はわたしたちと会うために来られ、土で造られたわたしたちの肉を取り、ご自身とともに、わたしたちが象徴的に「天」と呼ぶところへと、すなわち神のうちへと、それを上げられました。これが、わたしたちの救いのために受肉し、死んで、復活した、イエス・キリストの神秘です。そしてそれは、キリストと切り離すことができないしかたで、その方によって神の子が肉を取った女性である、マリアの神秘でもあり、キリストの神秘体である教会の神秘でもあります。それは愛の、それゆえ自由の、唯一の神秘です。イエスが「然り」といわれたのと同じように、マリアも「然り」といって、主のことばを信じました。マリアの全生涯は、神の子であり、自らの子であるかたとの希望の巡礼でした。それは、十字架と復活を通して、祖国へと至り、神に抱かれる巡礼でした。
ですから、個人として、家族として、共同体として歩むとき、とくに暗闇が迫り、道が不確かで困難になったとき、目を上げ、わたしたちの母であるかたに目を向け、わたしたちを欺くことがない希望を再び見いだそうではありませんか(ロマ5・5参照)。
