
2025年8月31日(日)、年間第22主日の正午(日本時間同日午後7時)に教皇公邸書斎の窓から行った「お告げの祈り」の前に述べたことば(原文イタリア語)。 「お告げの祈り」の後、教皇は次のようにイタリア語と英語で述べた。 […]
「お告げの祈り」の後、教皇は次のようにイタリア語と英語で述べた。
残念ながら、ウクライナにおける戦争は死と破壊の種をまき続けています。最近の数日においても、爆撃が首都キーウを含むさまざまな都市を襲い、多くの犠牲者をもたらしました。わたしは改めてウクライナ国民とすべての傷ついた家族の皆様に寄り添います。すべての人にお願いします。無関心に屈服せず、祈りと具体的な愛のわざによって隣人となってください。わたしは、即時停戦と真摯な対話の取り組みのための緊急の呼びかけを強く繰り返します。今こそ、政治指導者が武器の論理を放棄し、国際社会の支援によって、交渉と平和の道を歩み始める時です。武器の音がやみ、兄弟愛と正義が声を上げなければなりません。(以上イタリア語、以下英語。)
アメリカ・ミネソタ州の学校でのミサの間に起きた悲惨な銃撃の犠牲者と、世界中で日々、殺害され、けがを負っている数え切れない子どもたちのために祈ります。現代世界に蔓延している、規模の大小を問わない武器の感染拡大を止めてくださるように神に願おうではありませんか。平和の元后である母マリアが、イザヤの預言を実現できるようにわたしたちを助けてくださいますように。「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」(イザ2・4)。(以下イタリア語。)
モーリタニアの大西洋岸沖で転覆した、カナリア諸島に向けて1100キロメートルの旅をしようと試みた移民を乗せた船の難破により死亡した50人以上の人と、今も行方不明の100人以上の人によっても、わたしたちの心は傷ついています。このようなきわめて悲惨な出来事が、日々、世界中で繰り返されています。主がわたしたちに、個人としても社会としても、ご自身の次のことばを実践することを教えてくださいますように。「お前たちは、わたしが〔……〕旅をしていたときに宿を貸し〔てくれた〕」(マタ25・35)。(以下英語とイタリア語。)
あらゆるところでけがをした人、行方不明の人、死亡した人のすべてを主の愛のみ手にゆだねます。(以下イタリア語。)
明日の9月1日(日本では、9月の第1主日に記念するため、2025年は9月7日)は「被造物を大切にする世界祈願日」です。10年前、教皇フランシスコは、世界総主教ヴァルソロメオス一世の賛同を得て、カトリック教会のためにこの日を制定しました。被造物を大切にする世界祈願日は今までにまして重要で緊急性を帯びています。今年のテーマは「平和と希望の種」です。わたしたちはすべてのキリスト者と心を合わせてこの日を記念するとともに、アッシジの聖フランシスコの記念日である10月4日まで、「被造物の季節」の中でこの記念日を延長します。800年前に聖フランシスコが作った「太陽の賛歌」の精神をもって神を賛美し、神のたまものを破壊せず、むしろわたしたちがともに暮らす家を大切にする取り組みを新たにしようではありませんか。
8月27日(水)に米国ミネソタ州ミネアポリスにあるカトリック系の学校で起きた銃乱射事件により、8歳と10歳の児童2人が死亡した。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。こんにちは。
あらゆる文化において、とくに休日や祭日に、食卓をともに囲むことは、平和と交わりのしるしです。今日の主日の福音の中で(ルカ14・1、7-14)、イエスはファリサイ派の指導者の一人から食事に招かれます。客を迎えることは、心の空間を広げます。そして、客となることは、他者の世界に歩み入る謙遜を必要とします。出会いの文化は、人々を近づける、このような行為によって育まれます。
出会うことはつねに容易ではありません。福音書記者は、食事をともにしていた人々が「イエスの様子をうかがっていた」と記します。概して、イエスは、伝統をきわめて厳格に解釈する人々からある種の疑いの目をもって見られていました。にもかかわらず、出会いは起こります。なぜなら、イエスは、状況の外にとどまるのではなく、実際に近くに来られるからです。イエスは、敬意と誠実さをもって、真の客となります。イエスは、互いが巻き込まれることを避けるための形式的な礼儀作法を放棄します。こうしてイエスは、ご自身の独自のやり方で、たとえによって、自分が見たものを説明し、イエスの様子をうかがっていた人々に考えるように促します。実際、イエスは、人々が上席をとろうと競争していることに気づきました。このようなことは今日でも起こります。それは、家庭の中でではなく、「注目されること」が大事な場面においてです。すると、ともにいることが、競争に変わってしまいます。
姉妹兄弟の皆様。主の日に、感謝の食卓にともに座ることは、わたしたちにとって、イエスにことばをゆだねることでもあります。イエスは喜んでわたしたちの客となり、ご自身がご覧になるとおりにわたしたちについて語ることができます。イエスのまなざしをもって自分を見ることはとても大切です。次のことを見直す必要があります。わたしたちはどれほどしばしば人生を競争にしてしまっていることでしょうか。どれほど、ある種の承認を得ようと取り乱していることでしょうか。どれほど無益なしかたで自分を他人と比較していることでしょうか。立ち止まって反省し、みことばによって心を揺さぶっていただく必要があります。みことばは、わたしたちの心を占めている優先順位に問いかけるからです。これが自由の経験です。イエスはわたしたちを自由へと招きます。
福音の中で、イエスは、自由の完全な形を説明するために「へりくだり」ということばを用います(ルカ14・11参照)。実際、へりくだりは、自分自身から自由になることです。へりくだりは、神の国と神の義が真にわたしたちの関心事となり、わたしたちがはるか先を――自分の足元ではなく、はるか先を見ることができるようになったときに、生まれます。一般に、自分を高める人は、自分以上に関心のあることを何も見いだしません。そして、その人は、結局のところ、自分に自信がないように思われます。しかし、神の目から見て自分が価値があることを理解している人、自分が神の子であることを深く感じている人は、自分が誇る以上のものをもち、自分自身から輝く尊厳をもっています。状況を利用するのでなく、仕えることを学ぶとき、この尊厳は、努力や戦略を必要とすることなしに、前に出て、第一の位置を占めるのです。
愛する皆様。今日わたしたちは、教会がすべての人にとってへりくだりを学ぶ場となることを祈り求めたいと思います。それは、わたしたちがつねに歓迎される家であり、だれも競争せず、イエスが再び語りかけ、わたしたちをご自身のへりくだりと自由へと教育してくださることができる場です。マリアはまことにこの家の母です。今、わたしたちはこのマリアに祈ります。
