
教皇レオ十四世、2025年9月3日、一般謁見演説
わたしたちの希望であるイエス・キリストについての連続講話
Ⅲ イエスの過越
5.十字架につけられる。
「渇く」(ヨハ19・28)
講話の終わりに、教皇はイタリア語で、スーダンのダルフール地方で多数の死者を出した壊滅的な地滑りと、同国で引き続く紛争による人道的な破局を阻止するために、「政治指導者と国際社会に対する、人道回廊を保証し、対応の調整を行うように」、次のように呼びかけた。
スーダンのとくにダルフールから悲惨な知らせが届いています。エル・ファシルで多くの民間人が飢餓と暴力の犠牲となり、市内に取り残されています。タラシンでは壊滅的な地滑りが多くの死者を出し、苦しみと絶望を与えています。さらに、コレラの蔓延が、すでに疲弊している数十万人の人々を脅かしています。わたしは、スーダンの人々、とくに家族と子どもと避難民のかたがたにこれまでにまして寄り添います。すべての犠牲者のために祈ります。政治指導者と国際社会に心から呼びかけます。人道回廊を保証し、この人道的な破局を阻止するために、対応を調整してください。今は、紛争を終わらせ、スーダン国民に希望と尊厳と平和を回復するために、当事者間で、真剣で、誠実で、包括的な対話を始める時です。
アフリカ・スーダン西部のダルフール地方では、8月31日(日)、大規模な地滑りが発生し、地域を支配する反政府勢力による1日夜の発表によれば、1000人以上が死亡し、生存者は1人のみだったという。スーダンでは2019年、約30年続いたオマル・バシール大統領による独裁政権が崩壊、21年に国軍(SAF)がクーデターで実権を掌握したが、準軍事組織である「即応支援部隊(RSF)」との間で23年4月以降、断続的に衝突が続いている。国連児童基金(ユニセフ)は飢饉の拡大に伴い、同国が「世界最大の人道危機」にあると伝え、支援を呼びかけている。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。
ヨハネによる福音書は、受難物語の中心の、イエスの生涯におけるもっとも輝かしいと同時に、もっとも暗闇の時に、計り知れない神秘を秘めた二つのことばをわたしたちに示します。「渇く」(19・28)と、そのすぐ後の「成し遂げられた」(19・30)です。これらはイエスの最後のことばですが、それはイエスの生涯全体によって満たされ、神の子の存在全体の意味を明らかにします。イエスは十字架上で、勝利の英雄としてではなく、愛を乞う者として姿を現します。イエスは宣言することも、非難することも、自分を弁護することもしません。イエスは、自分だけでは決して自分に与えることができないものを謙虚に願い求めます。
十字架にかけられたかたの渇きは、苦しめられた肉体のたんなる生理的な欲求ではありません。それは、何よりもまず、深い望みの表現でもあります。すなわち、愛と関係と交わりへの望みです。それは、わたしたちの人間的条件をすべて共有することを望むことにより、この渇きをも自らに味わわせる神の、静かな叫び声です。神は、一口の飲み物を乞い求めることを恥としません。なぜなら、神は、この行為のうちに、愛が本物となるためには、与えるだけではなく願い求めることも学ばなければならないことをわたしたちに語るからです。
イエスは「渇く」といわれます。こうしてイエスは、ご自身の人間性を示すとともに、わたしたちの人間性をも示します。わたしたちはだれも自分自身で満たされることがありません。だれも自分で自分を救うことはできません。人生が「満たされる」のは、わたしたちが強いときではなく、わたしたちが受け入れることを学ぶときです。まさにこの時、イエスは、酸いぶどう酒をいっぱい含ませた海綿を見知らぬ人の手から受け取った後、こう宣言します。「成し遂げられた」。愛は困窮する者となりました。そしてまさにそれゆえに愛はそのわざを成し遂げたのです。
神は、何かを行うことによってはなく、何かをしてもらうことによって救います。これがキリスト教のパラドックス(逆説)です。神は、力によってではなく、愛の弱さを極みまで受け入れることによって、悪に打ち勝ちます。イエスは十字架上でわたしたちに教えます。人間は、権力によってではなく、たとえそれが敵対する敵であっても、他者へと開かれた信頼によって自分を実現するのだということを。救いとは、自立のうちにではなく、謙虚に自分の必要を認識し、それを自由に表現できることのうちにあります。
神の計画における私たちの人間性の完成は、力による行為ではなく、信頼のわざです。イエスは、劇的な出来事によってではなく、自分だけでは自分に与えられないものを願い求めることによって、救います。ここに真の希望への扉が開かれます。神の子さえも、自分自身によって満たされることを選びませんでした。そうであれば、わたしたちの愛と意味と正義への渇きも、失敗のしるしではなく、真理のしるしです。
この真理は、一見すると単純に見えますが、受け入れるのは困難です。わたしたちは自足と効率と能力を重んじる時代に生きています。しかし、福音がわたしたちに示すのは、わたしたちの人間性の度合いは、わたしたちが達成できることによって決まるのではなく、自分が愛してもらい、必要なときには、助けてもらう力によって決まるということです。
イエスは、求めることは恥ずべきことではなく、むしろ自分を自由にすることだということをわたしたちに教えることによって、わたしたちを救います。それが、交わりの空間に再び入るために、隠れた罪から抜け出すための道です。罪は初めから恥を生み出しました。しかし、真のゆるしは、わたしたちが自分の必要に向き合い、もはや拒絶されることを恐れないことが可能になるときに、生まれます。
それゆえ、十字架上のイエスの渇きは、わたしたちの渇きでもあります。それは、今なお生きた水を求める、傷ついた人類の叫びです。この渇きは、わたしたちを神から遠ざけるのではなく、むしろ、わたしたちを神と一つに結びつけます。そのことを認める勇気をもつなら、わたしたちは、自分の脆弱ささえも天国への架け橋であることを見いだすことができます。所有することではなく、求めることによって、自由への道は開かれます。なぜなら、そのときわたしたちは、自分で自分を満たせると思い上がることをやめるからです。
友愛と、単純な生活と、恥じることなく求め、計算することなしに与える技術のうちに、世が与えることがない喜びが隠れています。この喜びは、わたしたちを自分の存在の本来の真理へと立ち戻らせます。わたしたちは、愛を与え、また受け取るために造られた被造物なのです。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちはキリストの渇きのうちに、自分たちの渇きのすべてを認めることができます。ですから、「わたしは必要としています」と言うことができる以上に、人間的で、神的なことはないことを学んでください。とくに自分がそうするのにふさわしくないと思われるときにこそ、求めることを恐れないでください。手を差し出すことを恥じてはなりません。まさにこのような謙虚な行為の中にこそ、救いが隠れているのです。
