
教皇レオ十四世、2025年9月17日、一般謁見演説
わたしたちの希望であるイエス・キリストについての連続講話
Ⅲ イエスの過越
7.ご死去(二)。
「そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。」(ヨハ19・40-41)
講話の後、教皇はイタリア語で、ガザ地区のパレスチナの人々に深く寄り添い、停戦を呼びかける、次のアピールを述べた。
わたしは、ガザ地区のパレスチナの人々に深く寄り添うことを表明します。彼らは今なお恐怖の中で過ごし、受け入れがたい状況を生き延び、再び自分の土地から強制的に移動することを強いられています。「殺してはならない」(出20・13)と命じられた全能の神のみ前で、そして、人類史全体の前で、すべての人は、尊重され、守られるべき不可侵の尊厳をつねに有します。わたしは改めて、停戦、人質の解放、外交的交渉による解決、国際人道法の完全な尊重を呼びかけます。すべての人にお願いします。平和と正義の夜明けが一刻も早く訪れるために、わたしの心からの祈りに加わってください。
9月15日(月)、イスラエル軍はパレスチナ自治区ガザ市への地上侵攻を開始した。10月で発生から2年となるガザ衝突は、この地上侵攻でさらに激化している。ガザ市からは数十万人が退避したが、なお多くの人が取り残されていると見られる。国連人権理事会の調査委員会(COI)は16日(火)、イスラエルがパレスチナ自治区ガザで「ジェノサイド(大量虐殺)」の罪を犯したと結論づける報告書を提出した。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。
わたしたちの希望であるイエスに関するカテケージスの旅路を歩むわたしたちは、今日、聖土曜日の神秘を観想します。神の子は墓に横たわります。しかし、彼の「不在」は、空虚ではありません。それは期待であり、抑制された充満であり、暗闇の中で守られた約束です。それは大いなる沈黙の日です。その日、天は沈黙し、地は静止したかのように思われます。しかし、まさにそこで、キリスト教信仰のもっとも深い神秘が実現します。それは、深い意味をもった沈黙です。それは、まだ生まれていないけれども、すでに生きている子どもを守る、母の胎のようです。
十字架から降ろされたイエスの遺体は、人が貴重なものに対して行うように、注意深く布で包まれます。福音書記者ヨハネは、イエスが、園の「だれもまだ葬られたことのない新しい墓」(ヨハ19・41)に葬られたと、わたしたちに語ります。偶然に任されるものは何もありません。この園は、失われたエデンを思い起こさせます。エデンは、神と人とが一つに結ばれた場所です。そして、まだ使われたことのない墓は、これから起こらなければならない何かについて語ります。それは終わりではなく、始まりです。創造の初めに、神は園を造りました。今、新しい創造も園で始まります。間もなく開かれる、閉じた墓によって。
聖土曜日は安息日でもあります。ユダヤ人の律法によれば、人は七日目に働いてはなりません。実際、神は創造の六日の後、安息されました(創2・2参照)。今や御子も、その救いのわざを成し遂げた後、安息します。それは、疲れたからではなく、そのわざを終えたからです。屈服したからではなく、最後まで愛し抜いたからです。これ以上付け加えるべきものは何もありません。この安息は、成し遂げられたみわざの証印であり、なすべきことが本当に終わったことの確証です。それは主の隠れた現存に満たされた安息です。
わたしたちは、立ち止まって休むために苦労します。わたしたちは、人生が決して十分ではないかのように生きています。わたしたちは、生産し、証明し、敗北しないように走ります。しかし、福音はわたしたちに教えます。止まることを知ることは、わたしたちがそうすることを学ばなければならない、信頼の行為であると。聖土曜日はわたしたちを招きます。人生は必ずしも自分がすることにかかっているのではなく、自分がすることが可能だったことから離れられることにかかっていることを、見いだすようにと。
生ける神のことばであるイエスは、墓の中で沈黙します。しかし、まさにこの沈黙の中で、新しいいのちがふくらみ始めます。大地の中の種のように。夜明けの前の闇のように。神は時が過ぎ去ることを恐れません。なぜなら、神は期待の主でもあるからです。それゆえ、わたしたちの「無駄な」時間や、休止と空虚と不毛な時でさえも、復活の母胎となりえます。わたしたちが受け入れる沈黙はすべて、新しいみことばのプロローグとなりえます。それを神にささげるなら、中断したすべての時間は、恵みの時となりえます。
大地に埋葬されたイエスは、神の柔和なみ顔です。神はすべての空間を占領することがないからです。神は、物事をなされるがままに任せ、期待し、わたしたちの自由にゆだねるために自らは退くかたです。神は、すべてが終わったかのように思われるときにも、信頼するかたです。わたしたちも、この宙づりにされた土曜日に、急いで立ち上がるべきではないことを学びます。わたしたちは、まず立ち止まり、沈黙を受け入れ、限界に身をゆだねなければなりません。わたしたちは時として、迅速な答えと、速やかな解決を求めます。しかし、神は、心の深いところで、信頼に満ちたゆるやかな時間の中で、働かれます。こうして、イエスが埋葬された土曜日は、復活という、だれも打ち勝つことのできない光の力がそこから流れ出る、母胎となるのです。
親愛なる友人の皆様。キリスト者の希望は、騒音の中で生まれるのではなく、愛に満ちた沈黙の中で生まれます。それは、幸福感からではなく、信頼に満ちた自己放棄から生まれます。おとめマリアがこのことを教えてくださいます。マリアは、この期待と信頼と希望を体現したかたです。すべてが膠着し、人生が行き詰まったかのように思われるとき、聖土曜日を思い起こそうではありませんか。神は、墓の中でも、もっとも偉大な驚くべきことを準備しておられました。わたしたちは、もし出来事を感謝をもって受け入れることができるなら、神がまさに小さなことの中で、沈黙の中で、現実を変容し、ご自身の愛に忠実に従ってすべてのことを新しくすることを好まれるかたであることを見いだします。真の喜びは、深い期待、忍耐強い信仰、愛のうちに生きたことは永遠のいのちへとよみがえるという希望から生まれるのです。
