教皇レオ十四世、2025年10月1日、一般謁見演説 わたしたちの希望であるイエス・キリストについての連続講話 Ⅲ イエスの過越 9.復活。 「あなたがたに平和があるように。」(ヨハ20・21)

 


教皇レオ十四世、2025年10月1日、一般謁見演説
わたしたちの希望であるイエス・キリストについての連続講話

Ⅲ イエスの過越
9.復活。
「あなたがたに平和があるように。」(ヨハ20・21)

2025年10月1日(水)午前10時(日本時間同日午後5時)からサンピエトロ広場で行った一般謁見演説(原文イタリア語)。
講話の後、教皇はイタリア語で、マダガスカル情勢をめぐって次のアピールを行った。

 法執行機関と若者のデモ隊の暴力的な衝突に関する、マダガスカルから届いたニュースに悲しみを覚えています。この衝突により、デモ隊の何人かが死亡し、約100人が負傷しました。あらゆる形の暴力がつねに回避され、正義と共通善の推進を通じた社会の調和の絶えざる追求がなされるために、主に祈りたいと思います。

マダガスカルでは、9月25日(木)から続いている、慢性的な停電や断水に対する若者の抗議デモに政府治安部隊が発砲し、国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)は、30日(火)、少なくとも22人が死亡し、100人以上がけがをしたと明らかにしました。アンジ・ニリナ・ラジョリナ大統領は9月29日(月)、国民向けのテレビ演説で、首相を更迭して内閣を解散する考えを表明しました。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。おはようございます。

 わたしたちの信仰と希望の中心は、キリストの復活に堅く根ざしています。福音書を注意深く読むと、この神秘が驚くべきものであることが分かります。それは、一人の人――神の御子――が死者の中から復活したからというだけではなく、このかたが復活するために選んだしかたのゆえでもあります。実際、イエスの復活は、声高な勝利の宣言でも、敵に対する復讐ないし仕返しでもありません。イエスの復活は、愛が不断の歩みを続けるために、大きな敗北の後に再び立ち上がることができることの、驚くべきあかしなのです。

 わたしたちが他者によるトラウマから回復するとき、しばしば、最初の反応は、怒りと、自分が受けたことの償いをさせたいという欲求です。復活したかたは、このようなしかたで反応しません。死の淵から抜け出したイエスは、決して復讐しません。イエスは、力に満ちた態度で戻って来るのではなく、あらゆる傷よりも大きく、あらゆる裏切りよりも強力な、愛の喜びを、柔和なしかたで現します。

 復活したかたは、自分が優越していることを強調したり主張したりする必要を感じません。イエスは、愛する者たち――弟子たち――に現れます。それも、きわめて慎ましいしかたで、弟子たちが自分を受け入れることができる時を強制することなく、現れます。イエスの唯一の望みは、弟子たちとの交わりを回復し、彼らが罪悪感を乗り越えるのを助けることです。わたしたちはこのことを二階の広間ではっきりと見いだします。主はそこで、恐怖で心を閉ざした、愛する者たちに現れます。それは、主が特別な力を示す瞬間です。イエスは、捕らわれた人々を解放するために死の淵に下りた後、恐怖で身動きが取れなくなった人々が扉を閉ざした部屋に入り、だれもあえて希望していなかったたまものをもたらします。すなわち、平和です。

 イエスの挨拶は単純で、いわば日常的なものです。「あなたがたに平和があるように」(ヨハ20・19)。しかし、この挨拶には、不釣り合いなほどすばらしい動作が伴います。イエスは弟子たちに、受難のしるしとともに、手とわき腹をお示しになります。イエスは、あの悲惨な時に、ご自分を否み、見捨てた人々に、なぜ傷をお見せになるのでしょうか。なぜイエスは、苦しみのしるしを隠し、恥ずべき傷跡を再び開くことを避けないのでしょうか。

 しかし、福音書は、弟子たちが主を見て喜んだと述べます(ヨハ20・20参照)。その理由は深いものです。今やイエスは、自分を苦しめたすべてのものと完全に和解しているからです。そこには恨みの影は全くありません。傷跡は、とがめるためのものではなく、むしろ、あらゆる不忠実よりも強い愛を確認するためのものです。傷跡は、わたしたちが失敗する、まさにそのときに、神が決して退かないことを証明します。神は決してわたしたちを見捨てないのです。

 このようにして、主は無防備で、武器をもたずに、ご自身を示します。主は、要求することも、強要することもありません。主の愛は、決して人を辱めません。主の愛は、愛のために苦しみ、今や、ついに、その苦しみには意味があったと言うことができるかたの平和です。

 しかし、わたしたちはしばしば、プライドや、弱さを示すことへの恐れのゆえに、自分の傷を隠します。わたしたちは、「問題ない」、「すべて過去のことだ」といいますが、本当は、自分を傷つけた裏切りに対して心安らかではありません。わたしたちは時として、自分の弱さを人に見せて、再び苦しむ危険を避けるために、ゆるす努力を隠すことを選びます。イエスは、そのようなことをなさいません。イエスは、ゆるしの保証として、ご自分の傷を差し出します。そして、復活は過去を消去することではなく、あわれみに満ちた希望への変容であることを示します。

 それから、主は繰り返していわれます。「あなたがたに平和があるように」。そして、続けてこういわれます。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節)。イエスはこのことばによって、使徒たちに務めを与えます。この務めは、権力ではなく、責任です。それは、世において和解の道具となるという務めです。イエスはあたかもこういわれたかのようです。「失敗とゆるしを経験したあなたがた以外のだれが、御父のあわれみに満ちたみ顔を告げ知らせることができるでしょうか」。

 イエスは弟子たちに息を吹きかけて、聖霊を与えます(22節)。この聖霊は、御父に忠実に従い、十字架に至るまで愛したイエスを支えたのと同じ霊です。この瞬間から、使徒たちは、自分たちが見聞きしたことについてもはや黙っていることができなくなります。すなわち、神がゆるし、再び立ち上がらせ、信頼を回復してくださることを。

 他の人々に対して権力を行使するのではなく、まさに愛されるにふさわしくないにもかかわらず愛された者の喜びを伝えること――これが、教会の宣教の中心です。他の人々にいのちを与えることができるために、いのちを回復することのすばらしさを再発見した人々――これが、キリスト者の共同体を生み出し、成長させる力です。

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちも遣わされています。主はわたしたちにもご自分の傷跡を示して、いわれます。「あなたがたに平和があるように」。あわれみによって癒やされた自分の傷を示すことを恐れてはなりません。恐れや罪悪感によって心を閉ざした人々の隣人になることを恐れてはなりません。聖霊の息吹が、わたしたちをも、この平和と、あらゆる敗北よりも強い愛の証人としてくださいますように。

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