
教皇レオ十四世、2025年10月29日、一般謁見演説
第二バチカン公会議『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』(Nostra aetate)公布60周年を記念して
講話の後、教皇はイタリア語で次の呼びかけを行った。
最近、強力なハリケーン「メリッサ」がジャマイカを襲い、大洪水を引き起こし、今も破壊的な力をもってキューバを横断しています。数千人の人が避難し、住宅、インフラ、複数の病院が被害を受けました。すべてのかたがたに寄り添うことを約束するとともに、亡くなったかたがた、避難しているかたがた、嵐が過ぎるのを待ちながら不安と心配のうちに過ごしているかたがたのために祈ります。行政当局ができるかぎりのことをしてくださるよう励ますとともに、キリスト教共同体とボランティア組織の支援に感謝します。
勢力の強い「カテゴリー5」のハリケーン「メリッサ」は、28日(火)、カリブ海のジャマイカに上陸し、29日(水)までに少なくとも5人の死亡が確認された。ハリケーンはハイチでも洪水を起こし、20人以上の死者を出した。
親愛なる兄弟姉妹の皆様、信仰における巡礼者の皆様、さまざまな宗教的伝統の代表者の皆様。おはようございます。ようこそおいでくださいました。
今日の諸宗教対話にささげられた一般謁見の考察の中心に、サマリアの女に対する主イエスのことばを置きたいと思います。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4・24)。福音書の中で、この出会いは真の宗教対話の本質を表しています。それは、人が誠実に、注意深く耳を傾け、相互に豊かにし合いながら他者に心を開くときに生じる交換です。この対話は渇きから生まれました。それは、人間の心への神の渇き、人間の神への渇きです。シカルの井戸で、イエスは、文化と性別と宗教の壁を乗り越えます。イエスはサマリアの女を、礼拝に関する新しい理解へと招きます。この礼拝は、特定の場所に限定されず――「この山でもエルサレムでもない所で」――、〈霊〉と真理をもって実現します。この瞬間は、諸宗教対話の核心を捉えています。それは、あらゆる境界を超えた神の存在の発見と、ともに畏敬の念をもって謙遜に神を求めるようにという招きです。
60年前の1965年10月28日、第二バチカン公会議は『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』(Nostra aetate [NA])の公布によって、出会いと敬意と霊的なもてなしの新たな地平を開きました。この輝かしい文書は、わたしたちに教えます。他の宗教の信者と、よそ者としてではなく、真理の道を歩む同伴者として出会うように。わたしたちの共通の人間性を認めながら、違いを尊重するように。あらゆる真実な宗教的探求のうちに、すべての被造物を包む唯一の神の神秘の映しを見分けるようにと。
とくに忘れてならないことがあります。それは、『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』の当初の対象はユダヤ教世界だったことです。教皇聖ヨハネ二十三世は、ユダヤ教世界との根源的な関係を再建することを意図していました。こうして、教会史上初めて、キリスト教のユダヤ教的起源に関する教理的論考が形を取りました。それは、聖書的、神学的レベルで後戻りできない点となりました。「この聖なる教会会議は、教会の神秘を探究しつつ、新約の民とアブラハムの子孫を霊的に結びつけているきずなに心を留める。というのは、キリストの教会は、自らの信仰と選びの始まりが神の救いの神秘に基づいてすでに族長たちとモーセと預言者たちのもとに見いだされることを認めるからである」(NA 4)。こうして教会は、「ユダヤ人に向けられる憎悪や迫害や反ユダヤ主義的表現についても、いつ、だれによってなされるものであれ、これを糾弾するものである。それは、ユダヤ人との共通の遺産を心に留めてのことであり、また、政治的な理由からでなく、宗教的・福音的な愛に駆り立てられてのことである」(同)。それ以来、わたしの前任者たちは皆、はっきりとしたことばで反ユダヤ主義を非難してきました。わたしも、福音そのものに基づいて、反ユダヤ主義を容認せず、これと戦うことを確認します。
今日、わたしたちは感謝の念をもって、この60年間にユダヤ教とカトリック教会の対話において実現されたすべてのことに目を向けます。これは、人間の努力だけではなく、わたしたちの神の助けによるものです。神は、キリスト教の確信するところによれば、ご自身そのものが対話だからです。この期間に誤解や困難や争いがあったことを否定はできませんが、これらのことは決して対話の継続の障害とはなりませんでした。今日においても、政治状況や一部の人々の不正がわたしたちを友愛から引き離すことを認めてはなりません。それは、とくに、わたしたちが多くのことを実現してきたからです。
『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』の精神は、教会の歩みを照らし続けます。教会は、すべての宗教が「すべての人を照らすあの真理そのものの光」(NA 2)を反映することができ、人間存在の偉大な神秘への答えを追求していることを認めます。だから、対話は知的なものだけでなく、深く霊的なものでなければならないのです。『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』は、すべてのカトリック信者――司教、聖職者、奉献生活者と信徒――に対して、他の宗教的伝統におけるすべての善なるもの、真実にして神聖なものを認め、高めながら、対話と他の宗教の信者との協力に真摯に取り組むように招きます(同)。このことは、とくに世界のすべての都市において実際に必要とされています。そこでは、人間の移動によって、わたしたちの精神的・教派的多様性が出会い、兄弟愛のうちに共存することが求められているからです。『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』は、次のことをわたしたちに思い起こさせます。真の対話は、平和と正義と和解の唯一の基盤である愛に根ざすということを。そして、真の対話は、すべての人の平等な尊厳を確認することによって、あらゆる種類の差別と迫害を断固として拒否するということを(NA 5参照)。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。それゆえ、『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』公布60年にあたって、わたしたちは次のように自問することができます。わたしたちはともに何ができるだろうか。答えは単純です。ともに行動しましょう。現代世界は、これまでにまして、わたしたちの一致と友愛と協力を必要としています。それぞれの宗教は、人々の苦しみを和らげ、わたしたちがともに暮らす家である地球を大切にするために貢献することができます。それぞれの伝統は、真理とあわれみと和解と正義と平和を教えます。わたしたちはいつも、人類への奉仕を再確認しなければなりません。神の名と宗教と対話そのものの濫用、宗教的原理主義と過激主義が示す危険に、ともに警戒しなければなりません。人工知能の責任ある開発にも取り組まなければなりません。なぜなら、人工知能が人間の代替となると考えられるならば、それは無限の尊厳を深刻に侵害し、根本的な責任性を無力化しかねないからです。わたしたちの伝統は、技術を人間化し、それゆえ、技術の規制を促し、基本的人権を守るために計り知れない貢献を行うのです。
ご承知のとおり、わたしたちの諸宗教は、平和は人間の心から始まると教えます。この意味で、宗教は根本的な役割を果たすことができます。わたしたちは、個人の生活、家庭、地域、学校、村、国、そして世界に希望を取り戻さなければなりません。この希望は、わたしたちの宗教的確信に、すなわち、新しい世界は可能だという確信に基づきます。
60年前、『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』は、第二次大戦後の世界に希望をもたらしました。今日、わたしたちは、戦争で荒廃した世界と、汚染された自然環境の中で、この希望を再建するよう求められています。ともに力を合わせようではありませんか。わたしたちが一致すれば、すべては可能だからです。わたしたちを分かつものは何もないことを確信しようではありませんか。このような思いをもって、皆様がここに来てくださったことと、皆様の友情に改めて感謝申し上げたいと思います。この友愛と協力の精神を未来の世代にも伝えていこうではありませんか。これこそが対話の真の支柱だからです。
今、少しの間、沈黙のうちに祈りたいと思います。祈りには、わたしたちの態度と思いとことばと行動を変える力があるのです。
