
教皇レオ十四世、2025年11月5日、一般謁見演説
わたしたちの希望であるイエス・キリストについての連続講話
Ⅳ キリストの復活と現代世界の課題
3.日々の生活に希望を与える復活
講話の後、教皇はイタリア語で次の呼びかけを行った。
兄弟姉妹の皆様。世界のさまざまな地域で武力紛争によって苦しむ人々のためにわたしとともに祈ってくださるようにお願いします。わたしはとくにミャンマーに思いを致しながら、国際社会がビルマの人々を忘れず、必要な人道支援を提供してくださるように勧告します。
ミャンマー連邦共和国では、2021年2月1日、ミャンマー国軍が、ウィン・ミン大統領、アウン・サン・スー・チー国家最高顧問らを含む政権幹部らを拘束、非常事態宣言を発出、全権を掌握し、2月2日に国軍司令官を議長とする国家統治評議会(SAC)を設置した。その後、5月5日に国民防衛隊(PDF)が発足して国軍に実質的に宣戦布告し、内戦が激化している。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。おはようございます。皆様、ようこそおいでくださいました。
イエスの復活は、遠い過去に属する出来事ではなく、人類の歴史の他の多くの出来事と同じように、今や伝統の中に深く根ざしています。教会は毎年、復活の主日と毎日の感謝の祭儀の中で、復活を現実のものとして思い起こすように教えます。感謝の祭儀の中で、復活した主の約束がもっとも完全なしかたで実現されます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」(マタ28・20)。
そのため、復活の神秘はキリスト信者の生活の中心であり、他のすべての出来事はその周りを回ります。それゆえ、わたしたちは、いかなる平和主義あるいは感傷もなしに、毎日が復活祭だと言うことができます。それはどのようにしてでしょうか。
わたしたちは時々刻々、多くのさまざまな経験をします。痛み、苦しみ、悲しみが、喜び、驚き、落ち着きとないまざりながら。しかし、すべての状況を通して、人間の心は、完全性、すなわち深い幸福にあこがれます。人間の神秘を深く掘り下げた、20世紀の偉大な哲学者、十字架の聖テレジア・ベネディクタ、俗名エディット・シュタインは、この充足をたえまなく探求するダイナミズムをわたしたちに思い起こさせてくれます。彼女はこう述べています。「人間はつねに存在のたまものが新たに与えられることを切望している。それは、瞬間が彼に与え、同時に彼から取り去るものから水をくみ取ることができるためである」(『有限の存在と永遠の存在――存在の意味への上昇のために』[Essere finito ed Essere eterno. Per una elevazione al senso dell’essere, Roma 1998, 387])。
復活の告知は、歴史を通じて響き渡る、もっともすばらしく、喜ばしく、驚くべき知らせです。それは、愛が罪に、いのちが死に勝利したことを証明する、優れた意味での「福音」です。それゆえ、それは、わたしたちの思いと心を落ち着かせることのない、意味への問いに答えることのできる唯一のものです。人間は、内的な動きに促され、たえず自らを引きつける、彼方へと手を伸ばします。いかなる偶然的な現実も人間を満足させることはありません。わたしたちは無限なるもの、永遠なるものに向かいます。これは、苦しみと喪失と失敗によって先取りされる死の経験とは対照的です。聖フランシスコは歌います。「生きとし生ける者はだれひとりとして」死「から逃れることはできません」(『兄弟なる太陽の賛歌』[Cantico di frate sole〔フランシスコ会日本管区訳・監修『アシジの聖フランシスコ・聖クララ著作集』教文館、2021年、59頁〕]参照)。
あの朝、主の亡骸に油を塗るために墓に行った女たちが、墓が空であるのを見いだしたことによって、すべてが変わりました。「ユダヤ人の王としてお生まれになったかたは、どこにおられますか」(マタ2・1-2)。東方からエルサレムにやって来た占星術の学者たちが発したこの問いは、復活祭の朝、女たちに語りかけた白い衣を着た不思議な若者のことばのうちに決定的な答えを見いだします。「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あのかたは復活なさって、ここにはおられない」(マコ16・6)。
あの朝から今日まで、毎日、イエスは、黙示録の中でご自身を表した、「生きている者」という称号をもつことになります。「わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて〔……〕いる」(黙1・17-18)。わたしたちはイエスのうちにつねに北極星を見いだすことができると確信しています。わたしたちはこの北極星に向けて、しばしば混乱し、受け入れがたく、理解しがたいように思われる事実――すなわち、悪とそのさまざまな側面、苦しみ、死、すべての人とわたしたち一人ひとりにかかわる出来事――によって特徴づけられた、一見すると混沌とした自分たちの人生を歩みます。わたしたちは復活の神秘を思いめぐらすことによって、自分たちの意味への渇きへの答えを見いだします。
わたしたちの脆弱な人間性を前にして、復活の告知は、個人的レベルにおいても世界的レベルにおいても、人生が日々、わたしたちに突きつける、さまざまな恐るべき課題に対する気遣いといやしとなり、希望を育みます。復活の観点から、〈十字架の道〉(Via Crucis)は〈光の道〉(Via Lucis)に変わります。わたしたちは、苦しみの後の喜びを味わい、黙想し、復活に先立つすべての段階を新たな光の下でたどり直す必要があります。
復活は十字架を取り除くのではなく、人類の歴史を変えた驚くべき戦いによって、十字架に打ち勝ちます。多くの十字架によって特徴づけられたわたしたちの時代も、復活の希望の夜明けを願い求めています。キリストの復活は、たんなる観念でも、理論でもなく、信仰の基盤となる出来事です。復活したキリストは、聖霊を通して、このことを思い起こさせ続けます。それは、わたしたちが、人類の歴史が地平線の光を見いだすことができないところでも、キリストの証人となることができるためです。復活の希望は欺きません。日々の歩みを通して復活を真に信じるとは、わたしたちの生活が変革し、キリスト者の希望の柔和で勇気に満ちた力によって世界を変えるために、わたしたちが造り変えられることなのです。
