教皇レオ十四世、2025年11月26日、一般謁見演説 わたしたちの希望であるイエス・キリストについての連続講話 Ⅳ キリストの復活と現代世界の課題 6.いのちを生み出すために人生に希望する

 


教皇レオ十四世、2025年11月26日、一般謁見演説
わたしたちの希望であるイエス・キリストについての連続講話


Ⅳ キリストの復活と現代世界の課題
6.いのちを生み出すために人生に希望する

2025年11月26日(水)午前10時(日本時間同日午後6時)からサンピエトロ広場で行った一般謁見演説(原文イタリア語)。
講話の後、教皇はイタリア語で次のように述べた。

 明日から、歴史と霊性に富む、愛するトルコとレバノンの民を訪問するために、トルコ、そしてレバノンに赴きます。これは、ニケアで開催された第一回公会議の1700周年を記念し、カトリック共同体、キリスト者と他の宗教の兄弟と会う機会でもあります。皆様が祈りをもってわたしに同伴してくださるようにお願いします。

教皇レオ十四世の最初のイタリア国外司牧訪問となるトルコ・レバノン訪問は11月27日(木)から12月2日(火)まで行われる。11月27日から30日(日)までトルコ(ニケア公会議1700周年を機会としたイズニク訪問を含む)、続いて30日から12月2日までレバノンを訪問する。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。おはようございます。ようこそおいでくださいました。

 キリストの復活は、人生の神秘を照らし、わたしたちが希望をもって人生に目を向けることを可能にします。これはつねに容易で自明なことではありません。世界のあらゆる地域で、多くのいのちが、困難と苦しみを伴い、乗り越えるべき問題と障害に満ちているように思われます。にもかかわらず、人間はいのちをたまものとして受け取ります。人間はいのちを求めるのでも選ぶのでもなく、生まれた最初の日から最後の日まで、神秘のうちにいのちを体験します。いのちは並外れた特別な性格をもっています。いのちはわたしたちに与えられるものであって、わたしたちは自分でいのちを与えることはできません。むしろわたしたちは絶えずいのちを養わなければなりません。いのちは、それを維持し、活力を与え、守り、再び生かす、ケアを必要とします。

 人生に関する問いは、人間の心の奥深くから発せられる問題の一つだといえます。わたしたちは自分では何も決めずに人生へと歩み入りました。この明らかな事実から、あらゆる時代に見られる問いがあふれる流れのようにほとばしり出ます。わたしたちは何者なのか。わたしたちはどこから来たのか。わたしたちはどこへ向かうのか。この旅路全体の究極的な意味は何か。

 実際、生きることは、意味と方向づけと希望を求めます。そして、希望は、わたしたちが困難のうちにあっても歩み、旅路の苦労に屈服しないことを可能にし、人生の旅路がわたしたちを故郷へと導くことを確信させる、深い原動力として働きます。希望がなければ、人生は、二つの永遠の夜の間の幕間(まくあい)、地上の旅路の前後の間の束の間の休止のように思われるおそれがあります。しかし、人生に希望するとは、目的を先取りし、まだ見ることも触れることもないものを確信し、御父の愛を信頼して、この愛に身をゆだねることです。御父は、愛をもってわたしたちを望み、わたしたちが幸福になることを望むがゆえに、わたしたちを造られたからです。

 愛する皆様。世界には一つの病が広まっています。それは、人生への信頼の欠如です。わたしたちは、否定的な運命論と断念に身をゆだねているかのように思われます。人生は、もはやたまものとして受け取られる可能性ではなく、不可知のもの、すなわち、失望しないようにそこから身を守らなければならない、いわば脅威となるおそれがあります。そのため、生きる勇気、いのちを生み出す勇気、知恵の書が述べるとおり(知11・26)、神が優れた意味で「いのちを愛される」かたであることをあかしする勇気が、今日、これまでにまして緊急に必要とされています。

 福音書の中で、イエスは、病気の人をいやし、傷ついた人の身体と霊魂を回復させ、死者に再びいのちを与えようとする気遣いをつねに示します。罪人に尊厳を取り戻し、罪のゆるしを与え、すべての人、とくに絶望した人、疎外された人、遠く離れた人に救いを約束すること――このようなわざによって、受肉した御子は御父を現します。

 御父から生まれたキリストは、いのちです。そして、ご自分のいのちを与えるほど惜しみなくいのちを生み出し、わたしたちも自分のいのちを与えるように招きます。いのちを生み出すとは、ほかのだれかをいのちへともたらすことです。この法則によって、生ける者の世界は拡大します。この世界は、被造物のシンフォニーの中で、男と女のデュエットにおいて頂点に達する、驚くべき「クレッシェンド」を見いだします。神は男と女をご自分の似姿として創造しました。そして、ご自分の似姿として、すなわち愛のために、愛のうちに、いのちを生み出す使命を彼らにゆだねました。

 聖書は初めから、いのちが、まさにその最高の形である人間のいのちにおいて、自由のたまものを与えられて、悲劇的なものとなったことを示します。こうして、人間関係は、兄弟殺しに至るまでの矛盾によって特徴づけられました。カインは弟のアベルを競争相手、また脅威とみなします。そして、不満のゆえに、弟を愛し、尊ぶことができません。そこから、嫉妬と妬みと流血が生じました(創4・1-16)。しかし、神の論理はまったくそれとは異なります。神はご自分の愛といのちの計画に永遠に忠実であり続けます。たとえ人類がカインの後に倣い、戦争と差別と人種差別とさまざまな形の奴隷制による暴力への無分別な本能に従うとしても、神はうむことなく人類を支えます。

 それゆえ、いのちを生み出すとは、いのちの神を信頼し、あらゆる表現によって人間性を推進することです。それは何よりも母性と父性の驚くべき冒険によって行われます。また、家庭が、しばしば彼らの計画と夢を阻まれながら日々の重荷を担う、社会的状況の中で行われます。同じ論理の中で、いのちを生み出すことは、連帯に基づく経済のために努力し、すべての人が公平に享受できる共通善を追求し、被造物を尊重し守り、傾聴と同伴と具体的で私心のない支援をもって慰めを与えることです。

 兄弟姉妹の皆様。イエス・キリストの復活は、たとえ悪の暗闇が心と思いを暗くしたとしても、これらの挑戦の中でわたしたちを支える力です。いのちが消え、阻まれたかのように思われるときも、復活した主は、世の終わりまでともにいて、わたしたちとともに、わたしたちのために歩まれます。主こそわたしたちの希望です。

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