教皇レオ十四世、2025年12月17日、一般謁見演説 わたしたちの希望であるイエス・キリストについての連続講話 Ⅳ キリストの復活と現代世界の課題 8.安らぎを得ない心の目的としての復活

 

教皇レオ十四世、2025年12月17日、一般謁見演説
わたしたちの希望であるイエス・キリストについての連続講話


Ⅳ キリストの復活と現代世界の課題
8.安らぎを得ない心の目的としての復活

2025年12月17日(水)午前10時(日本時間同日午後6時)からサンピエトロ広場で行った一般謁見演説(原文イタリア語)。
サンピエトロ広場での一般謁見の前に、教皇はパウロ六世ホールに集まった病者の人々にイタリア語と英語で次のようにあいさつした。

 ようこそおいでくださいました。(以下、英語。)おはようございます。ようこそ。(以下イタリア語。)

 皆様一人ひとりに短いあいさつと祝福をさせていただきます。

 今日は皆様をいくつかの要素、とくに寒さから守りたいと思いました。雨は降っていませんが、これで少しでも快適になれば幸いです。この後、皆様はスクリーンで謁見をご覧いただくことができます。あるいは、もしお望みなら外に出ていただくこともできます。しかし、このささやかな個人的な集いを用いて、皆様にごあいさつし、主の祝福とお祝いを申し上げます。降誕祭が近づいています。今年の降誕節の喜びが皆様と、皆様のご家族と、愛する人々ともにあることを主に願いたいと思います。そして、神のみがわたしたちに与えることのできる信頼と愛をもって、皆様がつねに主のみ手のうちにありますように。

 皆様を祝福し、その後、お別れのごあいさつをします。
 (祝福を行う。)


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。おはようございます。ようこそおいでくださいました。

 人間の人生は、わたしたちが何かをなし、行動するように駆り立てる絶え間ない動きによって特徴づけられます。今日、あらゆる場所において、さまざまな分野における最善の結果を得るために、スピードが要求されます。イエスの復活は、このようなわたしたちの経験の特徴をどのように照らすのでしょうか。わたしたちは、死に対するイエスの勝利にあずかるとき、安らぎを得るでしょうか。信仰はわたしたちにこう語ります。そうです。わたしたちは安らぎを得ます。そのとき、わたしたちは無為となるのではなく、神の安息に、すなわち平和と喜びのうちに入ります。それでは、わたしたちはただ待たなければならないのでしょうか。それとも、このことは今からわたしたちを変えることができるのでしょうか。

 わたしたちは、つねに自分を満足させてくれるとは限らない多くの活動によって心をいっぱいにしています。わたしたちの行動の多くは実際的・具体的なことがらにかかわります。わたしたちは多くの仕事に責任を負い、もろもろの問題を解決し、困難に立ち向かわなければなりません。イエスも人々と人生にかかわり、最後まで自らをささげました。しかし、わたしたちはしばしば次のことに気づきます。多くのことをすることが、自分に満足を与えるどころか、目を回らせ、落ち着きを奪い、人生にとって真に大切なことを十分に体験することを妨げる渦となっています。そのためわたしたちは疲れと不満を感じます。人生の究極的な意味を解き明かすことができない無数の実際的なことがらのために時間は浪費されているように思われます。時としてわたしたちは、活動に満ちた日々の終わりに空しさを感じます。なぜでしょうか。それは、わたしたちが機械ではないからです。わたしたちには「心」があり、それどころか、わたしたちは心〈である〉とさえいえるからです。

 心はわたしたちの人間性の象徴であり、思考と感情と欲求の総体であり、人格の目に見えない中心です。福音書記者マタイは、イエスのすばらしいことばを引用しながら、わたしたちに心の大切さを考察するように招きます。「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」(マタ6・21)。

 それゆえ、真の宝が保存されている場所は、心です。地上の金庫や、巨額の金融投資の中ではありません。この金融投資は、今日、これまでにまして熱狂的に追求され、不正なしかたで集中しています。そして、何百万人もの人命を犠牲にし、神の被造界を破壊しながら偶像化されています。

 このような側面を考察することは重要です。なぜなら、わたしたちが多くの仕事に直面し続ける中で、一見すると成功した人々においても、気分の分散と、時として絶望と、意味の喪失の危険がますます見られるからです。しかし、復活のしるしの下に人生を解釈し、復活したイエスとともに人生を見つめることは、人間の人格の本質、すなわちわたしたちの心に近づく入り口を見いだすこと意味します。それが「安らぎを得ない心」(cor inquietum)です。聖アウグスティヌスはこの「安らぎを得ない」という形容詞によって、完全な実現を目指す人間存在の躍動をわたしたちに理解させてくれます。このことばの全文は『告白』の冒頭に見いだされます。アウグスティヌスはそこで次のように述べます。「〔主よ、〕あなたは私たちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですから私たちの心はあなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」(『告白』[Confessiones I, 1, 1〔山田晶訳、『世界の名著14 アウグスティヌス』中央公論社、1968年、59頁〕])。

 安らぎを得ない状態は、わたしたちの心が偶然に、無秩序なしかたで、何の目的や目標もなしに動くのではなく、むしろ、自らの究極目的、すなわち「故郷への帰還」へと方向づけられていることのしるしです。それゆえ、心の真の目的は、この世の富を所有することではなく、心を完全に満たしてくれるもののうちにあります。すなわち、神の愛です。あるいは、より適切なしかたでいうなら、愛である神です。しかし、この宝は、わたしたちが歩む道の中で出会う隣人を愛することによって初めて見いだされます。この隣人とは、肉と骨をもった兄弟姉妹です。彼らの存在は、わたしたちの心を促し、問いかけます。そして、自分の心を開き、自らを与えるようにと求めます。隣人はあなたに、歩みを緩め、隣人に目を留めることを求めます。隣人は時として計画を変更し、方向までも変えることを求めます。

 愛する友人の皆様。これが人間の心の動きの秘密です。それは、存在の源泉に立ち帰り、失われることも欺くこともない喜びを味わうことです。だれも、偶然的で過ぎ去るものを超えた意味なしに生きることはできません。人間の心は、希望することなしに生きることはできません。欠乏するためにではなく、満たされるために自らが造られたことを知ることなしに生きることができないのです。

 イエス・キリストは、受肉と受難と死と復活によって、この希望の堅固な基盤を与えてくださいました。安らぎを得ない心は、自らがそのために造られた愛のダイナミズムに歩み入るならば、決して失望することがありません。目的は揺るぐことがありません。いのちは勝利を収めます。そして、キリストにおいて、日々、あらゆる死に打ち勝ち続けます。これがキリスト者の希望です。この希望を与えてくださった主に、つねに賛美と感謝をささげようではありませんか。

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