
2025年12月21日(日)の待降節第4主日の正午に、教皇公邸書斎の窓から「お告げの祈り」を唱える前に述べたことば(原文イタリア語)。 「お告げの祈り」の後、教皇は終わりに次のようにイタリア語で述べて、馬小屋に飾る幼子イ […]
「お告げの祈り」の後、教皇は終わりに次のようにイタリア語で述べて、馬小屋に飾る幼子イエスの像を祝福した。
今日はローマの子どもと若者に特別にごあいさつ申し上げます。愛する友人の皆様。皆様はご家族やカテキスタのかたがたとともに、皆様の家庭、学校、礼拝堂に置かれる幼子イエスの像の祝福のためにおいでくださいました。この行事を企画したローマ・オラトリオ・センターに感謝するとともに、すべての幼子イエス像を祝福します。愛する若者の皆様。馬小屋の前で、教皇の意向のためにもイエスに祈ってください。とくに、世界のすべての子どもが平和のうちに暮らせるように、ともに祈りたいと思います。心から皆様に感謝します。
幼子イエスの像と、幼子イエスへのあらゆる信仰の表現とともに、父と子と聖霊がつねに皆様を祝福してくださいますように。
よい日曜日と、聖なる平和な降誕祭をお過ごしください。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。こんにちは。
今日の待降節第4主日の典礼は、聖ヨセフの姿を黙想するようにわたしたちを招きます。とくに典礼は、神が夢の中でヨセフにその使命を示したときのヨセフの姿を示します(マタ1・18-24参照)。こうして救いの歴史のきわめてすばらしいページがわたしたちに示されます。その主人公は、わたしたちと同じように弱く、脆弱でありながら、同時に、信仰において勇気と力に満ちた人物です。
福音書記者マタイはヨセフを「正しい人」(マタ1・19)と呼びます。このことばは、ヨセフが、律法を守り、会堂に欠かさずに通う、敬虔なイスラエル人であることを示します。しかし、それ以上に、ナザレのヨセフはきわめて繊細で人間的な人物としての姿もわたしたちに現します。
わたしたちはこのことを、天使がヨセフにマリアのうちに起ころうとしている神秘を示す前に、理解し、受け入れるのが困難な状況を前にして、ヨセフが、将来の花嫁に関して、つまずきと公の非難の道ではなく、ひそかな離縁という慎重で慈悲深い道を選択したことのうちに見いだします(マタ1・19参照)。こうしてヨセフは、自らの宗教的戒律のもっとも深い意味である、あわれみを理解していたことを示します。
しかし、ヨセフの心の清さと高潔さは、主が夢の中でご自身の救いの計画をヨセフに示したときにさらに明らかとなります。主はヨセフに、メシアの母であるおとめの夫となるという、予期せぬ役割を受け入れなければならないことを示します。実際、そのときヨセフは、深い信仰をもって、自らの安定の最後の岸辺を後にして、すでに完全に神のみ手のうちにある未来へと漕ぎ出します。聖アウグスティヌスはヨセフの同意について次のように述べます。「主はヨセフの敬虔と愛によって、同時に神の子でもある子は処女マリアから生まれられた」(『説教51』[Sermo 51, 20. 30〔茂泉昭男訳、『アウグスティヌス著作集21 共観福音書説教(1)』教文館、48頁〕])。
敬虔と愛、あわれみと自己放棄。これが、聖なる降誕祭へと向かう待降節の最後の日々にわたしたちに同伴させようとして今日の典礼がわたしたちに示す、ナザレの一人の男性に備わっていた徳です。それは、キリストと兄弟と出会うためにわたしたちの心を教育し、また、わたしたちが互いに受け入れ合う馬小屋、もてなしの家、神の現存のしるしとなるために助けとなりうる、大切な態度です。わたしたちがともに暮らす人々、出会う人々を、ゆるし、励まし、彼らに少しでも希望を与えること。この恵みの季節に、これらの徳を実践する機会を逃してはなりません。そして、祈りの中で、信頼をもってすべてを主にゆだねながら、主とその摂理に改めて子として自分をささげようではありませんか。
信仰と大きな愛をもって世の救い主であるイエスを初めて受け入れたおとめマリアと聖ヨセフが、そのためにわたしたちを助けてくださいますように。
