2025年12月25日、新教皇レオ十四世、降誕祭メッセージ(ローマと全世界へ)

2025年12月25日、新教皇レオ十四世、降誕祭メッセージ(ローマと全世界へ) 2025年12月25日(木)正午(日本時間同日午後8時)に、サンピエトロ大聖堂バルコニーから、サンピエトロ広場に集まった信者とラジオ・テレビ […]

2025年12月25日、新教皇レオ十四世、降誕祭メッセージ(ローマと全世界へ)

2025年12月25日(木)正午(日本時間同日午後8時)に、サンピエトロ大聖堂バルコニーから、サンピエトロ広場に集まった信者とラジオ・テレビ・インターネットを視聴する世界の人々に向けて行った、教皇として最初の降誕祭メッセージ(ローマと全世界へ)。メッセージの後、イタリア語、フランス語、英語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語、ポーランド語、アラビア語、中国語、ラテン語の10か国語で次の降誕祭の祝福を述べた。「ご降誕おめでとうございます。キリストの平和が皆様の心と皆様のご家族を支配しますように」。

 
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 「主において喜ぼう。わたしたちの救い主が世に生まれた。今日、まことの平和がわたしたちの上に天から降った」(「主の降誕夜半のミサ入祭唱」)。主の降誕夜半のミサの典礼はこのように賛美します。そして、ベツレヘムの知らせが教会の中であらためて響き渡ります。おとめマリアから生まれた幼子こそ、わたしたちを罪と死から救うために父から遣わされた主キリストです。キリストはわたしたちの平和です。神のあわれみ深い愛によって憎しみと敵意に打ち勝ったかたです。だから、「主の誕生は平和の誕生である」(教皇大聖レオ『説教26』[Sermo 26〔熊谷賢二訳、『キリストの神秘-説教全集-』創文社、1965年、370-371頁〕])。

 イエスは馬小屋で生まれました。宿屋にはイエスが泊まる場所がなかったからです。イエスが生まれるやいなや、母マリアはイエスを「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」(ルカ2・7参照)。万物がこのかたによって造られた神の子は、歓迎されず、その揺り籠は動物のための粗末な飼い葉桶でした。

 天が収めることのできない父の永遠のことばは、このようなしかたで世に来ることを選びました。このかたは愛ゆえに女から生まれることを選び、わたしたちの人間性を共有しました。このかたは愛ゆえに貧しさと拒絶を受け入れ、見捨てられ排除された人々と同じ者となりました。

 イエスの降誕のうちに、十字架上での死に至るまで神の子の全生涯を導くことになる根本的な選択がすでに垣間見られます。それは、罪の重荷をわたしたちに負わせるのではなく、わたしたちのためにご自身でそれを担い、引き受けるという選択です。イエスだけがそうすることができました。しかし、同時にイエスは、わたしたちにしかできないことも示しました。すなわち、わたしたち一人ひとりが自分の責任をとることです。なぜなら、わたしたちなしでわたしたちを創造した神は、わたしたちなしで――すなわち、わたしたちの自由な愛する意志なしに――わたしたちを救うことができないからです(聖アウグスティヌス『説教169』[Sermo 169, 11. 13]参照)。愛さない者は救われず、滅びます。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません(一ヨハ4・20参照)。

 兄弟姉妹の皆様。責任こそが平和への道です。わたしたち一人ひとりが――あらゆるレベルで――、他者を裁くのではなく、何よりもまず自分の欠点を認め、神にゆるしを願い、同時に苦しむ人々の立場に身を置き、もっとも弱く抑圧された人々と連帯するなら、そのとき世界は変わります。

 イエス・キリストはわたしたちの平和です。なぜなら、第一に、キリストはわたしたちを罪から解放するからです。そして、紛争を――それも、個人間の紛争も国際的な紛争も含めたあらゆる紛争を――乗り越えるために歩むべき道をわたしたちに示してくださるからです。罪から解放された心がなければ、ゆるされた心がなければ、平和の人、平和を実現する人になることはできません。だからイエスは、わたしたちを罪から解放するために、ベツレヘムで生まれ、十字架上で死んだのです。イエスは救い主です。わたしたちはおのおの、イエスの恵みによって、憎しみと暴力と対立を拒絶し、対話と平和と和解を実践するために、自分の役割を果たすことができ、また、果たさなければなりません。

 この祝いの日に、すべてのキリスト信者の皆様に、とくにわたしが最近、最初の使徒的訪問によってお目にかかることを望んだ、中東で暮らすキリスト信者の皆様に、心から父としてのごあいさつを申し上げたいと思います。わたしはこのかたがたの不安に耳を傾け、彼らを凌駕する権力の力学に対する無力感を十分に理解します。今日ベツレヘムで生まれた幼子は、次のようにいわれるイエスご自身でもあります。「あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハ16・33)。

 神のことばに信頼しながら、レバノン、パレスチナ、イスラエル、シリアのために正義と平和と安定を神に願いたいと思います。「正義が造り出すものは平和。正義が生み出すものはとこしえに至る静けさと信頼である」(イザ32・17〔聖書協会共同訳〕)。

 わたしたちは平和の君にヨーロッパ大陸全体をゆだねます。そして、ヨーロッパ大陸全体が、キリスト教的な起源と歴史に忠実に従い、困窮する人々に連帯し、彼らを迎え入れながら、共同的で協力的な精神を鼓舞し続けてくださるよう、このかたに願います。とくにウクライナの苦難の民のために祈ります。武器の音がやみ、戦争当事者が、国際社会の努力に支えられながら、真摯で直接的で敬意に満ちたしかたで対話する勇気を見いだすことができますように。

 ベツレヘムの幼子に平和と慰めを祈り求めます。世界で行われているすべての戦争、とくに忘れられた戦争の犠牲者のために。不正、政治的不安定、宗教的迫害、テロによって苦しむ人々のために。とくにスーダン、南スーダン、マリ、ブルキナファソ、コンゴ民主共和国の兄弟姉妹を心に留めます。

 希望の聖年の最後の日々にあたり、愛するハイチの人々のために人となられた神に祈ります。ハイチ国内であらゆる形の暴力がやみ、人々が平和と和解の道を進むことができますように。

 幼子イエスがラテンアメリカで政治的責任を担う人々の心を導いてくださいますように。多くの課題に直面する中で、彼らがイデオロギー的・党派的な偏見ではなく、共通善のための対話に場を与えますように。

 平和の君に願います。ミャンマーを和解の未来の光で照らしてください。若い世代に希望を回復し、国民全体が平和の道を歩めるように導き、住む家と安全と明日への信頼なしに暮らす人々に寄り添ってくださいますように。

 平和の君に願います。タイとカンボジア間の古くからの友好関係が回復し、当事者が和解と平和のために努力し続けてくださいますように。

 最近、全国民に深刻な損害を与えた壊滅的な自然災害によって苦しむ、南アジアとオセアニアの人々をも平和の君にゆだねます。このような試練を前にして、苦しむ人々を助けるための共通の取り組みを確信をもって新たにしてくださるように、すべての人に呼びかけます。

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 夜の闇の中で、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハ1・9)。しかし、「民は受け入れなかった」(ヨハ1・11)。苦しむ人々への無関心に打ち負かされてはなりません。なぜなら、神はわたしたちの苦しみに無関心でいることはないからです。

 イエスは人となることによって、わたしたちの脆弱さをご自身に引き受け、わたしたち一人ひとりと同じ者になられました。ガザの住民のように、何ももたず、すべてを失った人々と同じ者になられました。イエメンの人々のように、飢餓と貧困に襲われた人々と同じ者になられました。地中海を渡ったり、アメリカ大陸を横断する多くの難民や移住者のように、よその場所に未来を探して自分の土地を逃れる人々と同じ者になられました。苦労して雇用を見いだそうとする多くの若者のように、失業し、職探しをする人々と同じ者になられました。多くの低賃金労働者のように、搾取された人々と同じ者になられました。刑務所にいて、しばしば非人道的な状態で過ごす人々と同じ者になられました。

 すべての地から上る平和への願いは、神の心に届きます。ある詩人が次のように書いているとおりです。

 「停戦の平和ではなく、
 狼と小羊の幻でもない
 むしろ
 興奮が過ぎ去った後の心のように
 深い疲労としかいいようがない。〔……〕
 野の花のように
 それが突然訪れてくれるように
 なぜなら、野は
 それを必要としているから。野生の平和を」(1)

 この聖なる日に、わたしたちの心を、困窮と苦しみのうちにある兄弟姉妹に開こうではありませんか。そうすれば、わたしたちは幼子イエスに心を開くことになります。幼子イエスは、両腕を広げてわたしたちを迎え入れ、わたしたちにご自身の神性を示してくださいます。「ことばは、自分を受け入れた人〔……〕には、神の子となる権能を与えた」(ヨハ1・12〔聖書協会共同訳〕)。

 数日後に聖年は終わります。聖なる扉は閉まりますが、わたしたちの希望であるキリストはいつもわたしたちとともにとどまってくださいます。イエスは、わたしたちを神のいのちへと導く、いつも開かれた扉です。イエスこそ、今日の喜びの知らせです。すなわち、生まれた幼子は、人となられた神です。このかたは、わたしたちを裁くためではなく、救うために来られました。このかたは、つかの間、姿を現されたのではなく、いつまでもとどまってご自身を与えるために来られました。このかたによって、すべての傷はいやされ、すべての心はこのかたのうちに安らぎと平和を見いだします。「主の誕生は平和の誕生である」。

 皆様に心から平安に満ちた聖なるご降誕の喜びを申し上げます。

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