教皇ベネディクト十六世の99回目の一般謁見演説 アレキサンドリアのアタナシオ

6月20日(水)午前10時30分から、サンピエトロ大聖堂とパウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の99回目の一般謁見が行われました。教皇はまずサンピエトロ大聖堂で、パウロ六世ホールに入れなかった信者との謁見を行いまし […]

6月20日(水)午前10時30分から、サンピエトロ大聖堂とパウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の99回目の一般謁見が行われました。教皇はまずサンピエトロ大聖堂で、パウロ六世ホールに入れなかった信者との謁見を行いました。その後、教皇はパウロ六世ホールに移動し、そこで、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の43回目として、「アレキサンドリアのアタナシオ」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、ヨハネによる福音書1章1、14節が朗読されました。

演説の後、最後にイタリア語で行われたイタリアの巡礼者への祝福の中で、教皇はまず、当日行われる「世界難民の日」にあたり、次の呼びかけを行いました。
「今日わたしたちは『世界難民の日』を行います。『世界難民の日』は、生命の真の危険を恐れて故国から逃れることを余儀なくされた人びとへの関心を高めるために、国際連合によって開催されるものです。難民を受け入れ、手厚くもてなすことは、すべての人が人間としてなすべき連帯の行為です。それは、難民が不寛容や無関心によって疎外感を感じることがないようにするためです。キリスト信者にとって、難民を受け入れることは、福音的な愛を表すための具体的な方法です。わたしは、大きな苦しみという試練に遭うこのわたしたちの兄弟姉妹が、難民としての身分を保障され、その権利が認められることを心から願います。そして、諸国の指導者がきわめて困難な状況に置かれたこの人びとに保護を提供してくださるようお願いします」。
「世界難民の日」は2000年12月に国連総会で開催が決議され、2001年から始まりました。今年の第7回「世界難民の日」のテーマは「共生」です。6月19日(火)、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は「世界の難民状況2006年」(2006 Global Trends)を発表しました。それによると、UNHCRが援助対象とする難民は2006年に前年比14パーセント増加し、約1000万人に達しました。難民数の増加はおもにイラク情勢の悪化が原因です。2006年末時点でイラク難民約150万人が他国で庇護を求めており、その多くがシリアとヨルダンです。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  古代教会の偉大な教師たちについての考察を続けます。今日わたしたちはアレキサンドリアのアタナシオ(295頃-373年)に目を向けます。この、真の意味でのキリスト教の伝統の代表者は、その死からわずか数年後に、偉大な神学者にしてコンスタンチノープル司教のナジアンズのグレゴリオ(325/330-390年頃)によって、「教会の柱」とたたえられています(ナジアンズのグレゴリオ『講話集』:Orationes 21, 26)。アタナシオはまた、東方教会でも西方教会でも、常に正統教義の模範と考えられてきました。それゆえ、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(1596-1680年)が、4名の教会の聖なる博士の像のうちに――アンブロジオ(339頃-397年)、ヨハネ・クリゾストモ(340/350-407年)、そしてアウグスチヌス(354-430年)とともに――アタナシオを置いたのは偶然ではありません。この像は、サンピエトロ大聖堂のすばらしい後陣で、ペトロの座を囲んでいます。
  アタナシオが古代教会のもっとも重要で、尊敬される教父であることは、間違いありません。しかし、何よりもまずこの偉大な聖人は、「ロゴス」、すなわち神のみことばの受肉を熱心に考察した神学者です。神のみことばは、第四福音書の序文が述べるように、「肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1・14)からです。そのためアタナシオは、アレイオス(250頃-336年)派の異端のもっとも重要かつ最強の反対者でもあります。アレイオス派の異端は、当時キリストへの信仰を脅かしていました。キリストは神と人間の「中間」にある被造物におとしめられたからです。このことは、歴史の中に繰り返し現れる思潮に従って行われました。わたしたちは今もこの思潮をさまざまな形式のうちに目にすることができます。アタナシオは、おそらくエジプトのアレキサンドリアで300年頃生まれました。そして十分な教育を受けてから、エジプトの首座司教のアレクサンドロスの助祭また秘書となりました。この若き聖職者は、自分の司教の緊密な協力者として、司教とともにニケア公会議に参加しました。ニケア公会議は最初の普遍公会議で、教会の一致を確かなものとするために、325年5月に皇帝コンスタンティヌス(280頃-337年、ローマ皇帝在位306-没年)によって招集されました。ニケア公会議の教父はさまざまな問題を扱いましたが、その中心は、アレキサンドリアの司祭アレイオスの説教によって生じた深刻な問題でした。
  アレイオスの思想はキリストに対する真正な信仰を脅かすものでした。アレイオスはこう主張したからです。「ロゴス」は真の神ではなく、創造された神である。それは神と人間の「中間」である。だから真の神は、永遠にわたしたちが近づくことのできないままにとどまる。ニケアに集まった司教たちはこれにこたえて、「信条」を強調し、定めました。この「信条」は後に第一コンスタンチノープル公会議で完成されました。それはさまざまなキリスト教の教派の伝統と典礼の中に「ニケア・コンスタンチノープル信条」として残っています。この基本的なテキストの中で――このテキストは、分かちえない教会の信仰を表明するものです。わたしたちは今日でも、主日にそれを感謝の祭儀の中で唱えます――、ギリシア語の「ホモウーシオス」、ラテン語で「同一本質(consubstantialis)」ということばが使われます。このことばは、「ロゴス(みことば)」である御子が御父と「同一本質」であり、神よりの神であり、ご自身の本質であることを表します。こうして、アレイオス派によって否定された、御子の完全な神性が明らかにされたのです。
  司教アレクサンドロスの死後、アタナシオは328年にその後継者としてアレキサンドリアの司教となります。アタナシオはすぐに、ニケア公会議によって断罪されたアレイオス派の思想に関するあらゆる妥協を拒否すべく決意したことを表明します。たとえそれが必要であったとはいえ、アタナシオは、自分の司教任命への反対者と、何よりもニケア信条に反論する人びとに対して、粘り強く、しばしば頑固ともいえる、妥協を知らない態度で臨みました。そのため彼は、アレイオス派とその同調者から激しい敵意を買いました。ニケア公会議は御子が御父と同一本質であることをはっきり確認しました。公会議のこの明確な結果にもかかわらず、すぐに誤った思想が復活して優位を占めるようになり――こうした状況の中でアレイオスが復権するに至ります――、コンスタンティヌス帝自身と、後にその息子のコンスタンティウス二世(ローマ皇帝在位337-361年)の政治的動機に基づいて支持されました。もっとも、コンスタンティウス二世の関心は、神学的な真理というよりも、帝国の統一と帝国の政治的な問題にありました。皇帝は信仰を政治化し、皇帝の考えによれば、帝国の臣民全員にわかりやすいものとしたのです。
  アレイオスの危機は、ニケアで解決されたものと思われましたが、こうして数十年間続きました。それは教会内で、さまざまな困難と痛ましい分裂を生みました。アタナシオは336年から366年の間の30年間に5回、アレキサンドリアの町から追放されます。そして、17年間追放先で暮らし、信仰のために苦しみました。しかし、アレキサンドリアから追放されている間、司教アタナシオは、西方において、最初はトリーアで、次いでローマで、ニケア公会議の信仰と、修道制の理念を守り、広めることができました。アタナシオは修道制の理念をエジプトで偉大な隠修士アントニオス(251頃-356年)から学びました。アタナシオはアントニオスの生き方に常に従いました。霊的な力に満ちた聖アントニオスは、聖アタナシオの信仰を支えたもっとも重要な人物といえます。最終的にアレキサンドリアの司教座に復帰した後、アタナシオは、キリスト教共同体の宗教的な和解と組織の再建に努めることができました。アタナシオは373年5月2日に亡くなります。この日をわたしたちは典礼でアタナシオの記念日として祝っています。
  アレキサンドリアの聖なる司教アタナシオのもっとも有名な著作は『言(ロゴス)の受肉』に関する論考です。すなわち、みことばである「ロゴス」は、わたしたちの救いのために、わたしたちと同じように肉となったということです。この著作の中で、アタナシオはいいます。このことばは、当然のこととして有名になりました。神のみことばが「人となられたのは、われわれを神とするためである。また、このかた(言〔ロゴス〕)が肉体を通してご自分を現されたのは、見えない父の認識をわれわれが得るためである。また、このかた(言〔ロゴス〕)が人びとの侮辱を耐え忍ばれたのは、われわれが不滅を受け継ぐためである」(『言(ロゴス)の受肉』:De incarnatione Verbi 54, 3〔小高毅訳、上智大学中世思想研究所編訳・監修『中世思想原典集成2 盛期ギリシア教父』平凡社、1992年、134頁〕)。実際、主は復活によって、「火から藁(わら)を遠ざけるように」(同:ibid. 8, 4〔前掲小高毅訳、79頁〕)死を取り去りました。聖アタナシオの神学的な戦い全体における根本的な思想は、神はわたしたちが近づくことのできるかただというものです。その神は二次的な神ではなく、真の神です。そしてわたしたちは、キリストとの交わりを通して、本当の意味で神と一致できます。本当に神は「わたしたちとともにいる神」となられたからです。
  この教会の偉大な教父のそれ以外の著作の中で――これらの著作は大部分がアレイオスの危機による出来事と関連するものですが――、わたしたちはトゥムイスの司教セラピオン(362年以降没)にあてた4通の手紙を思い起こします。これらの手紙は聖霊の神性に関するもので、そこでは聖霊の神性がはっきりと主張されます。また、30通以上の『復活祭書簡』があります。『復活祭書簡』は、毎年の年初に、エジプトの諸教会と諸修道院に向けて書かれました。それは、復活祭の日を示し、何よりも信者の間のつながりを深めるためでした。そのためにアタナシオは、信仰を強め、信者を偉大な復活祭に向けて準備したのです。
  最後にアタナシオは、詩編についての黙想の書も書きました。この書物はたいへん流布しました。何よりもアタナシオは、古代キリスト教文学の「ベストセラー」となった、『アントニオス伝』を書きました。『アントニオス伝』は修道院長アントニオスの伝記です。これは聖アントニオスの死後まもなく、ちょうどアレキサンドリアの司教アタナシオが追放され、エジプトの砂漠の修道士たちと暮らしていたときに書かれました。アタナシオはこの偉大な隠修士の友人でした。そこでアタナシオは、アントニオスが残した2枚の毛皮の1枚を、アレキサンドリアの司教アタナシオ自身がアントニオスに与えた敷布とともに、遺品としてもらっています。このキリスト教の伝統の中でもっとも愛された人物についての伝記の傑作は、大いに有名になり、ラテン語に2回、さらに中近東のさまざまな言語に訳されました。そして、東方教会と西方教会における修道制の普及に大きく貢献しました。『アントニオス伝』の文字が、トリーアにおける皇帝の二人の官吏の回心についての感動的な物語の中心に置かれているのは偶然ではありません。この話をアウグスチヌスは『告白』(Confessiones VIII, 6, 15〔山田晶訳、中央公論社、1968年、270-272頁〕)で、自身の回心の前置きとして述べています。
  アタナシオ自身も、アントニオスの模範的な姿がキリスト信者の民に与えうる影響をはっきりと自覚していたことがわかります。実際、アタナシオは『アントニオス伝』の結びでこう述べています。「それにしても、いたるところで(アントニオスが)誉め讃えられ、敬愛され、彼に会ったこともない人びとにまで思慕されたのは、その神聖な徳行のなさしめたものであり、その魂を神が愛されたからだった。著作のため、世俗的な知恵のため、あるいは他の技巧のために、これほどアントニオスの名が口にされるのではない。彼の神への信心のみがそれをもたらしたのである。これが神のたまものであることを誰も否定できないのだ。山中に隠れ住んでいたこの人の名が、スペインでも、ガリアでも、ローマでも、またアフリカでも聞かれるのは、どうしたことだろう。神がいたるところのご自分のものである人びとに知らされたからであり、初めから約束された名声をアントニオスに与えられたからではなかろうか。だから、隠れてなされたこと、隠そうと努めたことを、神がともしびのようにすべての人に明らかにされ、それを聞いた人びとが(神の)戒めがどれほどの力をもちうるものかを知らせ、神聖な徳行の道に対する熱望を抱かせるようにされたのだ」(『アントニオス伝』:Vita Antonii 93, 5-6〔小高毅訳、上智大学中世思想研究所編訳・監修『中世思想原典集成1 初期ギリシア教父』平凡社、1995年、842-843頁参照〕)。
  兄弟姉妹の皆様。そうです。わたしたちは多くの理由から聖アタナシオに感謝しなければなりません。アタナシオの生涯は、アントニオスや他の数えきれない聖人の生涯と同じように、「神のもとに行った人は、人びとから離れてしまうのではなく、むしろ、真の意味で人びとの近くにいるようになるのだということ」(教皇ベネディクト十六世回勅『神は愛』42)をわたしたちに示しているのです。

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