教皇レオ十四世、2026年2月8日、「お告げの祈り」でのことば

2026年2月8日(日)年間第5主日の正午に教皇公邸書斎の窓から「お告げの祈り」を唱える前に述べたことば(原文イタリア語)。 「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べた。  親愛なる兄弟姉妹の皆様。  昨日 […]

2026年2月8日(日)年間第5主日の正午に教皇公邸書斎の窓から「お告げの祈り」を唱える前に述べたことば(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べた。

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 昨日(2月7日)、スペインのウエルカル=オベラで、サルバドーレ・バレラ・パッラ司祭(1816-89年)が列福されました。サルバドーレ・バレラ・パッラ司祭は、自分の民に完全に献身し、司牧的な愛において謙遜で深い気配りを行った小教区司祭です。本質的なことがらを中心とした彼の司祭としての模範が、現代の司祭が単純さと厳格さをもって日々の生活を忠実に生きるための刺激となりますように。

 ナイジェリアのさまざまな共同体に対する最近の攻撃が深刻なしかたで人命を失わせたことを悲しみと懸念をもって知りました。暴力とテロによるすべての犠牲者に祈りをもって寄り添うことを表明します。政治当局者がすべての市民の生活の安全と保護を保証するために決然と取り組みを継続してくださるように願います。

 聖ヨゼフィーナ・バキタおとめ(1869-1947年)の記念日である今日、わたしたちは「人身取引に反対する世界祈りと考察の日」を行います。現代の奴隷制の形態に反対し、その廃絶のために努力する修道者とすべての人々に感謝します。これらの人々とともにわたしはいいます。平和は尊厳によって始まります。

 洪水と土砂崩れの被害を受けたポルトガル、モロッコ、スペイン――とくにアンダルシアのグラサレマ――と南イタリア――とくにシチリアのニシェミ――の人々のために祈ることを約束します。おとめマリアの母としてのご保護によって、地域社会が団結と連帯を保つように励まします。

終わりに教皇はイタリア語でこう述べた。

 平和のために祈り続けたいと思います。歴史が教えるとおり、経済力と軍事力の戦略は人類に未来を与えません。未来は人々の間の尊敬と兄弟愛のうちにあります。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。こんにちは。

 イエスは真福八端を宣言した後、真福八端を実践する人々に目を向けていいます。この人々のおかげで地はもはや同じものではなく、世はもはや暗闇の中にないと。「あなたがたは地の塩である。〔……〕あなたがたは世の光である」(マタ5・13-14)。実際、真の喜びは人生に味わいを与え、それまで存在しなかった光をもたらします。この喜びは、わたしたちが望み、選ばなければならないある生き方から、地上で暮らし、ともに生きるしかたから生まれます。それはイエスのうちに輝くいのちです。イエスの行いとことばの新たな味わいです。イエスに出会った後は、イエスの心の貧しさ、心の柔和さと単純さ、義に飢え渇く心から遠ざかることは、味気なく、魅力のないものに思われます。それらのものは変容と和解の力としてあわれみと平和を実現するからです。

 預言者イザヤは、不正を阻止する具体的な行動を列挙します。飢えた人にパンを分け与えること、貧しい人、住む家のない人を家に招き入れること、裸の人に衣を着せかけること、隣人や同胞をないがしろにしないことです(イザ58・7参照)。預言者イザヤは続けていいます。「そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる」(8節)。一方で、隠れることのできない光があります。なぜならそれは毎朝、闇を打ち払う太陽のように大きいからです。他方で傷があります。それはかつて燃え立つようでしたが、今やいやされます。

 実際、味わいを失い、喜びを捨てるのはつらいことです。しかし、この傷を心の中に負うこともありえます。イエスは、ご自分のことばを聞く人々が喜びを失うことのないようにと警告しているように思われます。イエスはいわれます。塩気がなくなった塩は「もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」(マタ5・13)。どれほど多くの人が――おそらくわたしたちも経験したとおり――投げ捨てられ、間違ったと感じることでしょうか。それはあたかも自分たちの光が隠されたかのようです。しかし、イエスは、わたしたちを決して捨て去ることのない神、わたしたちの名と独自性を守られる御父をわたしたちに告げ知らせます。あらゆる傷は、どれほど深い傷であっても、真福八端のことばを受け入れ、福音の道に立ち帰ることによって、いやされます。

 実際、他者に開かれた態度と気配りは、喜びの火を再び燃え上がらせます。しかしそれは、その単純さのゆえに、わたしたちを時流に逆らわせることにもなります。イエスご自身も荒れ野で別の道を歩む誘惑を受けました。すなわち、自分のアイデンティティを主張し、みせびらかし、世界を足元に従わせる道です。しかしイエスは、ご自分の真の味を、すなわち、わたしたちが毎日曜日にパンが裂かれるときにあらためて見いだす味を失わせる道を拒絶しました。イエスの真の味とは、わたしたちに与えられるいのちです。静かな愛です。

 兄弟姉妹の皆様。イエスとの交わりによって養われ、照らしていただこうではありあせんか。そうすれば、わたしたちは何を見せびらかすこともなしに、山の上にある町のようになります。この町は、たんに目に見えるだけでなく、人々を招き、受け入れる町です。すなわち、究極的にすべての人がそこに住み、平和を見いだすことを望む、神の国です。今、天の門であるマリアに目を向けて祈ります。わたしたちが御子の弟子となり、またそうあり続けることができるように、マリアが助けてくださいますように。

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