
2026年2月15日(日)正午に教皇公邸書斎の窓から「お告げの祈り」を唱える前に述べたことば(原文イタリア語)。 「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べた。 親愛なる兄弟姉妹の皆様。 短期間のうちに2 […]
2026年2月15日(日)正午に教皇公邸書斎の窓から「お告げの祈り」を唱える前に述べたことば(原文イタリア語)。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。
短期間のうちに2つのサイクロンが直撃し、洪水と土砂崩れの被害を受けたマダガスカルの人々に寄り添います。犠牲者とそのご家族、深刻な被害を受けたすべてのかたがたのために祈ります。
間もなく東アジアと世界の他の地域の数十億の人々が春節を祝います。この喜びに満ちた祝祭が、人々が家族や友人関係を深めることを励まし、家庭と社会に安らぎをもたらしますように。それが、ともに未来を見つめながら、すべての人にとっての平和と繁栄を築くための機会となりますように。新年のお祝いを申し上げ、すべての人に対するわたしの愛情を表しながら、一人ひとりに主の祝福を願い求めます。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。こんにちは。
今日も福音から「山上の説教」の一部が朗読されます(マタ5・17-37参照)。イエスは真福八端を宣言した後、わたしたちが神の国の新しさに歩み入るように招きます。そして、わたしたちをこの歩みへと導くために、モーセの律法のおきての真の意味を明らかにします。おきては、神のみ前にいることを感じるという外的な宗教的な必要を満たすためのものではなく、神と兄弟との間の関係に歩み入らせてくれるものです。だからイエスは、自分が来たのは律法を廃止するためではなく、「完成するためである」(17節)と述べます。
律法の完成とは、まさに愛です。愛は律法の深い意味と究極目的を実現するからです。それは律法学者やファリサイ派の人々の義に「まさる義」(20節参照)、すなわち、命令を守るだけでなく、わたしたちを愛へと開き、愛へと促す義を得ることです。実際、イエスは生活の具体的な場面にかかわる律法のいくつかのおきてを考察し、形式的な宗教的義と神の国の義の違いを明らかにするために、二律背反という定式を用います。一方で「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は〔……〕と命じられている」。他方でイエスはいいます。「しかし、わたしはいっておく」(21-37節参照)。
このいい方はきわめて重要です。それは、律法がモーセと預言者に与えられたのは、神と、わたしたちと歴史に対するそのご計画を知るようにさせるための手段として、あるいは、聖パウロの表現を用いるなら、わたしたちを神へと導く養育係として(ガラ3・23-25参照)であったと述べます。しかし、今やイエスの人格において神ご自身がわたしたちのただ中に来られ、律法を完成してくださいました。そのために神は、わたしたちを御父の子とし、子として、また互いに兄弟として、神との関係に入る恵みを与えてくださいました。
兄弟姉妹の皆様。イエスは、真の義とは愛であり、わたしたちは律法のあらゆるおきての中で愛の必要性を理解しなければならないと、わたしたちに教えます。実際、肉体的な意味で人を殺さなくても、ことばで人を殺したり、人の尊厳を尊重しなければ、それだけでは不十分です(21-22節参照)。同様に、妻や夫に形式的な意味で忠実を守り、姦淫を犯さなくても、夫婦関係の中に互いへの優しさ、傾聴、尊敬、思いやり、共通の計画に向けた共同の歩みがなければ、それだけでは不十分です(27-28、31-32節参照)。わたしたちは、イエスご自身が示されたこれらの例に別の例を加えることができます。福音は次の貴重な教えをわたしたちに示します。すなわち、必要なのは、最低限の義ではなく、大きな愛であり、この大きな愛は神の力によって可能となるということです。
キリストを世に与え、律法と救いの計画を完成させたかたであるおとめマリアにともに願い求めたいと思います。マリアがわたしたちのために執り成し、わたしたちが神の国の論理に歩み入り、神の義を生きることができるように助けてくださいますように。
