教皇レオ十四世、2026年8月5日、一般謁見演説 連続講話「第二バチカン公会議の諸文書」 Ⅲ.『典礼憲章』(Sacrosanctum Concilium) 5.教会の祈り(聖書朗読箇所:エフェ6・18-19)

 

教皇レオ十四世、2026年8月5日、一般謁見演説
連続講話「第二バチカン公会議の諸文書」

Ⅲ.『典礼憲章』(Sacrosanctum Concilium
5.教会の祈り(聖書朗読箇所:エフェ6・18-19)

2026年8月5日(水)午前10時(日本時間同日午後5時)からサンピエトロ大聖堂で行った一般謁見演説(原文イタリア語)。

 
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。おはようございます。ようこそおいでくださいました。

 今日のカテケージスでは、第二バチカン公会議『典礼憲章』Sacrosanctum Concilium)に関する考察を再開します。今日は典礼の祈りの教会的側面に目を向けます。

 使徒パウロが示唆するとおり、わたしたちに祈ることを教えてくださるのは聖霊です。聖霊降臨の日から、霊は教会のうちに住み、そのすべての活動、とくに祈りに霊感を与えます。イエスの過越の後、エルサレムで生まれた最初のキリスト教共同体の生活は、復活した主が与えてくださる霊における生活です。公会議は述べます。「それ以来、教会は過越の神秘を祝うために一つに集まることを決して欠かすことはなかった。すなわち、「聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを」(ルカ24・27)読み、「主の死の勝利と凱旋を現す感謝の祭儀をささげ、同時に、キリスト・イエスにおいて、「ことばでは言い尽くせない贈り物について神に」(二コリ9・15)感謝し、聖霊の力によって「神の栄光をたたえる」(エフェ1・12)のである」(『典礼憲章』6)。

 効率と消費を重んじる精神に支配された現代の状況の中で、祈りは無益で取るに足りないもののようにみなされがちです。科学技術があらゆる答えを与えると主張する世界において、祈りは逃避の一形態のように思われる可能性があります。さらに、多くのキリスト者の家庭においてさえも祈りの伝達が行われず、多くの人は祈りを個人の幸福を目的とした心理的な性格のテクニックの一つと混同するおそれがあります。しかし、わたしたちの人間性の根本的な側面である祈りは、その真の姿を再発見される価値があります。

 第二バチカン公会議『典礼憲章』はこの必要性を真剣に受け止めました。このことを深く喜んだ教皇聖パウロ六世は、第二バチカン公会議が認可したこの最初の文書を公布するにあたってこう述べます。「神に最高の場所が割り当てられるべきであるということ。わたしたちに第一の務めとしてゆだねられているのは、神に祈りをささげるべきであるということ。聖なる典礼が、あの神聖な交換の第一の源泉であり、その交換によって、神の生そのものがわたしたちに分け与えられるということ。典礼が、わたしたちの魂の第一の学校であるということ」(教皇聖パウロ六世「第二会期閉会の演説(1963年12月4日、サンピエトロ大聖堂)」)。

 実際、『典礼憲章』において「祈り」という語は典礼全体を指します。この観点は決定的に重要です。なぜなら、それは信者の行動的な参加を基軸とすることによって、典礼改革を方向づけたからです。典礼は、何よりもまず、出会いの場、すなわち、「聖霊によって塗油されたみことば」(『典礼憲章』5)である御子のうちに人類に近づいてくださった神が働きかけてくださる場として示されます。わたしたちは、いわば「自らのからだとともに御父にささげられるキリストの祈り」(『典礼憲章』84)のおかげで、「キリストによってキリストとともにキリストのうちに、 聖霊の交わりの中で」この神に応答するのです。

 そのため教皇聖パウロ六世は、感謝の祭儀と切り離すことができない、教会の毎日の公的な祈りである時課の典礼が、キリスト者の祈り全体に深く浸透し、それを活気づけ、導き、表現し、神の民の霊的生活を効果的に養うことを熱望しました(教皇聖パウロ六世使徒憲章『ラウディス・カンティクム――第二バチカン公会議の指示によって改訂された聖務日課の公布(1970年11月1日)』[Laudis canticum]参照)。

 この望みを実現するために、時課の典礼が、洗礼を受けた人と共同体の日々の生活の中にますます受け入れられ、実践されなければなりません。時課の典礼は、祈りを学びたいと望む多くの人、とくに入信志願者に、キリスト教の祈りの道また学びやを提供できます。

 週ごとの、また毎日の感謝の祭儀と時課の典礼は、教会生活の呼吸であり、聖霊を教会のからだ全体に行き渡らせます。この祈りの中で、キリストは「人類共同体をご自分に結びつけ、この神への賛美の歌をご自分とともに歌うようにしてくださった」(『典礼憲章』83)のです。こうしてわたしたちは日々、過越の神秘にますます結ばれ、キリストに似た者に造り変えられていきます。

 聖アウグスティヌスはこう述べます。「それはまた、一方で、わたしたちが神へと懇願しながら語りかけるときに、その神から子なる神を分離することのないようにするためであるとともに、他方で、子なる神の身体が祈願するときに、自己自身からその頭を分離することのないようにするためでもある。なおかつ、それはまた、その身体のただ一人の救い主自身がわたしたちの主であるため、そしてまた神の子であるイエス・キリストであるためのことでもある。そのかたはわたしたちのために祈るとともに、わたしたちにおいても祈るのであり、また同時に、わたしたちによっても祈られるのである。キリストは、わたしたちのために、司祭として祈る。キリストは、また、わたしたちにおいて、わたしたちの頭として祈る。そしてキリストは、わたしたちによって、わたしたちの神として祈られる。それゆえ、わたしたちは、キリストにおいてわたしたちの声を、そしてわたしたちにおいてキリストの声を、しっかりと見極めようではないか」(聖アウグスティヌス『詩編注解』[Enarratio in psalmum LXXXV: PL 37, 1081(出村和彦訳、『アウグスティヌス著作集19/Ⅱ 詩編注解(4)』教文館、2020年、264頁)])。

 感謝の祭儀と結ばれ、その光を引き延ばす時課の典礼は、わたしたちの日々の生活の時間を聖化します。わたしたちは朝、信仰と感謝をもって一日を始めます。昼、労苦の中で神に従う力を願います。労働を終えた夕べ、晩の祈りが日没の時に伴います。夜、神の平和に身をゆだねながら床に就きます。すべての時課は希望のわざです。わたしたちは地上を旅する間、全教会とともに、目覚めて主の栄光の再臨を待ち望むのです。 

略号
PL Patrologia Latina

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